2008/3/24
時間の流れ
20・3・24
今朝見せられたビジョンも、私に対するメッセージと言える様なモノではなく、ただ「宇宙の情報が、私の頭脳の中を通過して行った。」と言った方がよいものである。
其れを、何と言葉に表現して良いものかは解からないが、「宇宙の時間の流れが見えた。」と謂った方が、良いのかもしれない。
「森羅万象の流転・しんらばんしょうのるてん」との言葉が有るが、其れが、映像にて見えたと云っても、間違いと言う事には成らないだろう。其れは、日本の古事記や、旧約聖書の物語や、ギリシャ神話などの、童話の様な話より、現実味が有るのではないだろうか。
此処まで科学が進んでも、数千年前の誰かが霊視したビジョンを、恰も其れが真実の様に伝え続けるのは、好い加減に止めるべきトキに至っているのではないだろうか。人間の「頭・あ球」も鴨の雛鳥と同じく、刷り込み情報で、意識を組み込んでいるのである。だから、誰かが善意で行なった事でも、サンタクロースや、桃太郎や、かぐや姫などと同じく、実在しない幻の人格の存在で、純粋な子供達の意識を汚す事を、もう止めなければならないだろう。
其の理・ことは、2600年前に、釈迦牟尼佛や、老子が、既に説明しているのである。其の、釈迦や、老子が、説いたのは、「人間の存在こそが 此の宇宙の時間(森羅万象の流転)の最先端の姿である。だから 全ての事は 自分自身の肉体に 内臓されている。」との理である。何故、其の理が、一般的な情報として広がらないかと言うと、其れが一般常識に成ると、政治や、宗教組織の存在で生活をしている権力者が、権力を失うからである。
イエスキリストが謂う様に、皆が税金を納めるのを止めれば、国と言う会社組織は潰れてしまうし、釈迦牟尼佛が謂う様に、皆が出家してしまえば、現在の経済の仕組みも崩れ去ってしまうだろう。しかし、そう成っても、人間が滅亡する事はなく、協力し合えば生きて行けるのである。寧ろ、国に都合の良い教育制度が無くなれば、人間の意識は自由になり、森羅万象の流転と一体化するので、平和な生活が営まれるであろう。
今朝、私の脳裏を通過して行ったビジョンは、頭に詰め込んでいる偽情報を消去してしまえば、皆の頭にも映る映像であり、其れは、此の世に存在する全生命の潜在意識として流れている情報なのである。
今朝のビジョンを、読者がイメージ出来る様に言葉にすれば、紫色(高周波)の情報が流れている川に、餌(目的)を付けない釣り針を、透明な糸に結んで、長い竹竿に数多く下げて、対岸の岸にまで渡し、其の針に掛かった情報を自分の物として、人生を組み込んで行く事と説明出来るであろうか。其れが、「運命」との言葉の意味ではないだろうか。
其れは、現在の教育制度の様に、過去の誰かが決めた概念を、子供の頃から無理矢理に食べさせられ、消化不良を起したり、便秘に成っている様子とは、異なる情報収集である。
其の点に於いては、私は環境に恵まれていたと言えるだろう。私は、父親に「勉強をしろ。」とか「進学しろ。」とか1度も云われた事も無いし、1回も殴られた事も無い。ただ私が育つ事に、協力してくれただけである。だから、私は、自分で好きな様に、人生を歩いて来たのである。
私は、昨年還暦の歳を過ぎ、今年は61歳目の人生を生きている。還暦とは、12干支x10回の120年(大還暦)の半分であり、60歳は大往生に向けての折り返し地点である。だから、自由に人生を送れば、此の処私が観ているビジョンは、皆が観る事が出来る世界なのではないだろうか。
其れは、神や、仏を、拝む事ではなく、自分の遺伝子情報の過去・現在・未来の世界を自分の脳に映し出す事である。
だから、釈迦牟尼佛は「信じられるモノは 此の自分の肉体だけである。だから精進しなさい。」と謂い、老子は「恍なり惚なり 惚なり恍なり。」と、宇宙のエネルギーの中に、自分を潜ませる理を説いているのである。
彼等が、自分の意識を住まわせて居た世界こそが、紫色の情報が流れている川面であったのだろう。其の、紫色の川の「水源・みなもと」こそ「神・上」と呼ばれている「紫微垣・しびえん」であろう。其の、宇宙時間の流れの源である紫微垣こそ、人間が求めている「帰命・祷り」の対象世界なのであろう。
其れを理解出来るのが、釣りで有名な「太公望・たいこうぼう」の話であり、「人間万事塞翁が馬」の話の「塞翁・さいおう」の心境なのであろう。だから、太公望や塞翁は宗教の元には成らず、日本の落語の様な世界で終っているので、「罪・つみ・積み」が無いのである。其れは、日本の「一休さん」や、「良寛さん」の世界の様なものであろう。彼等の様に生きれば、2000年間も「キリスト様」とか「仏様」とか、365日・24時間休み無く呼び出され、苦労する事も無いのである。
今朝の映像は、「天に仕える。」とは、どう言う事であるのかを悟れるモノである。其れは、「大日如来(紫微垣の源)」の情報が、此の三次元世界にスムーズに流れ出す為に、「スメミマ」として「無償・無欲」で、身体を森羅万象の流れに提供する事である。其の姿を現した物が、女神の観音菩薩の姿であり、其れを地上で受けている姿が、男性の結跏趺坐の大日如来であるのだろう。
だが私は、結跏趺坐の仏や、身動きできない皇帝の姿には興味は無いし、餌や針も付いていない釣竿で魚釣りをする事は退屈である。其れにいまは、子供と鞠つきをする体力も無いだろうから、此のまま毎日を過ごすしかないであろう。
昨日から感じている事は、私への認識を促すメッセージが無くなり、情報が素通りし始めた事である。其れは、「馬耳東風」の様な具合であるので、是からは、私も楽に成るのではないだろうか。
平成20年3月24日
礒 邉 自 適
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