2008/10/15
殿 下
20・10・15
今日10月15日は、出雲にて「出雲大社(杵築大社)」で搗かれた餅を、「熊野大社本宮」が受け取る「受け餅(保食神・うけもちのかみ)」の儀式が行なわれる日であり、伊勢神宮でも「初穂曳」の祭りが行なわれ、愛媛県大洲市の「少彦名神社」でも大祭が行われる。
「熊野大社・受餅の儀式」http://moon.ap.teacup.com/applet/20051112/200603/archive
昨日は、大山祇神の祠で、旧暦9月16日の祭りが午前11時から行なわれた。そして午後3時からは、大山邦博氏宅で直合が行われ、屋久島料理にて楽しい一時を過ごした。夜は事務所で、「自適の今日」のブログに昨日の写真をアップしたりして、午前1時頃宿舎に帰りシャワーを浴びてから眠った。ベッドに横に成って1時間くらいは寝付けなかったが、何とか眠りの状態に入って行った。http://wave.ap.teacup.com/894019/
そして、告げられて来たメッセージは、最初に「殿下・でんか」との言葉が有った。次にPC画面が現れて、其の画面には、殿下に成る為に必要な条件が、何百と横書きで縦に並んでいるのが映されて来た。其れは、殿下の役割は、国を治め、国民を指導する為にあるので、様々な体験を積む必要が有る事を示していた。
朝、事務所に出て来て、先ずPCで「殿下」を検索すると、次の様に書いて有る。
ウィキペディア辞典より 「殿下(でんか)」は、歴史的には、三后を含む皇族ないし摂政・関白、征夷大将軍、(場合によっては)国王への敬称。ただし、皇室典範制定後は三后の敬称は「陛下」となる。今日では、諸外国の王族・公族にも準用され、一方、国王には「陛下」を用いる。
「殿下の敬称」殿下とは、宮殿の殿堂の階下に語源があり、次第に皇族・王公の敬称となった。古くは、てんがと読み、後にでんかに転化した。日本では主に親王殿下、内親王殿下というように親王、内親王、王、女王などの皇族の敬称であり、江戸時代以前においては、摂政、関白、前関白たる太閤、はじめ征夷大将軍、尚侍にも用いられた(源頼朝に対しては「頼朝殿下」、豊臣秀吉に対しては「関白殿下」「太閤殿下」と敬称した)。
また、広義には、皇帝や国王よりもすぐ下の地位にある者(特にプリンスの称号を有する者。皇族、王族、高位の世俗諸侯(特にドイツ)、その親族、アミールなど)への敬称としても用いられ、この場合は例えば英語のYour/His/Her (Imperial, Royal, Grand Ducal, Ducal Serene, Serene, Illustrious, etc.) Highnessとほぼ互換出来る。
是に拠ると、「殿下」の言葉は、宮殿の殿堂の階下の意味が語源であり、宮殿の王座に座る「王様・皇帝」に代り、「摂政・関白」として「階下(事務所・フロント)」で「政(まつりごと)・政治」をする役割の人間の意味らしい。そうであれば、現在の総理大臣の役割であると言う事に成る。
だとすれば、昨日のメッセージの映像で白象のガネーシャが現れ、背中に乗せ様としていた人物は、「王様・皇帝」ではなく、直接「政(まつりごと)」に関わる「殿下」の役割の人であると言う事だろうか。
考えて見れば、王様や皇帝が直接税金を集めたり、河川の工事に関わったりする事は変である。其れを考えると、王様より実力の有る人物が、「政(まつりごと)」を行わなければ成らないと言う事になる。そうで有れば、王様は余り体験を積む必要は無いが、殿下に成る者は、あらゆる体験を積んでいなければ、役割が果たされないと言う理・ことに成る。
今朝は、其の殿下が「体験・修養」しなければ成らない項目が示された後、私は何処かの学校の施設に、同級生を訪ねて居た。そして、同級生と話して居ると、窓の外に男性が1人立って居る。私が、其の男性の存在に気が付いて見て居ると、同級生が「あの人は 私達の小学校の時の先生で 田畑先生だ。」と教えてくれた。
私は、外に出て其の田畑先生と話し始めると、他の教室に向う事に成り、生徒の居る教室の中に入って行くと、男の生徒が1人側に遣って来た。そして其の田畑先生が、其の生徒に「君が見ているHPは 此の人の物だよ。」と教えると、其の男の子は驚いた様子を見せた。そして、私が其の生徒を見ていると、忽ち中年の男性にまで育ってしまった。
其の映像は、教育の世界を示しており、学問が、教師から生徒に、順送りに伝えられて行く事を意味している。そして新しい教育には、私のHPが何等かの影響を与えて、男の子の魂しいが、急速に成長する事を意味している。
其の後、学校の関係者に案内されて実習園の畑に向かうと、現場は作業が出来る状態なので、私は畑に入り農作業を始めた。其の作業は、雑草を取って畑の外に捨てるのではなく、雑草は有機物として土の中に埋めて行く遣り方である。其の私の様子を見て居た田畑先生に、案内をして来た男性が、「川口由一さんと 赤峰勝人さんの本のネーミングをした人は 此の人ですよ。」と教えると、田畑先生は驚きの様子を現していた。
「赤峰勝人・なずなの会」http://www7.ocn.ne.jp/~akakatu/
「川口由一・自然農」http://www.wacca.com/88/09/kawaguchi/kawaguchi.html
其のメッセージの映像は、私の小学校の先生が私より若かったり、子供がいきなり成人にまで育ったりするので、時間的には辻褄が合わない。しかし、教育がどう言う意味を持っているのかは、能く説明が出来ている。特に、私の先生で在ったと言う設定の「田畑先生」は、私の成長と、社会に対する貢献度に驚いて居た。其れは、先生冥利に尽きる事なのではないだろうか。其の喜びこそが、教師と言う職業の存在を、支えているとの理・ことではないだろうか。そして、究極の世界が、自分が育てた人物が「殿下」にまで、成長する事である。
其れに、先生の名前が「田畑先生」と言う設定なのも面白い。其れは、教育の土台に「田」と「畑」を措けとの理・ことではないだろうか。現在の教育環境では、ようやく「食育」との言葉を使い出して、食べ物が大事である事が認識されつつある。
食べ物こそ、人間の身体を創り上げる物であり、食欲こそが人間の1番の本能である。其の1番大事な本能の世界を置き去りにして、身心の正常な発育は無いのである。
特に、昭和30年代より、大量生産・大量消費が始まり、化学肥料や農薬が使用され始め、遠方まで食品を流通しなければ成らないので、防腐剤や着色料や化学調味料等の科学薬品が混入され始めた。其れに因って、3世代目に入った子供達はアトピー症状に悩まされ、女性の不妊や自然流産率は、日本が世界1高く成っているのである。
其れ等の事実を考えると、教育の根幹に食べ物の事を取り上げろとの事は、人間の身体を構成している60〜70兆個の細胞からの、悲鳴なのかもしれない。
世界中に拡がっている日本食ブームの引き金は、マクロビオティックを世界に広めた桜沢如一の業績である。其の、マクロビオティックの根幹は「身土不二・しんどふじ」の考えである。其れは、「自分の身体と環境は 一体の物で在るから、出来るだけ身近で採れる食べ物を 食べる。」との考えである。現在の食品流通は、世界中から食品が集められ、地球の反対側から運ばれて来た物を食べて居るので、身土不二との考えとは全く反しているのである。
「小若順一・食品と暮らしの安全」http://www.tabemono.info/
「日本CI教会」http://www.ci-kyokai.jp/index.html
其の世界の、是正の為に活動して居るのが、奈良の川口由一氏や、大分の赤峰勝人氏や、佐賀の武冨勝彦氏らである。私は、其の御仁等との付き合いは、既に20年に成って来ている。今朝のメッセージの様子からすると、其の御仁等の活動が、教育の根幹に置かれなければ成らないと言う事ではないだろうか。そして、田畑の事が、最重要とされる政治を行うのが、是からの殿下の仕事であると謂う事である。
「武富勝彦の食日記」 http://www.tenoma.net/takedomi.html
其れこそが、物部神社や天皇家に伝わる御饌殿の伝統であり、「食国の政(まつりごと)」の基本である。今日が、熊野大社の「保食神・受け餅の神」の儀式の日であり、伊勢神宮の「初穂曳」の儀式である事が、私へのメッセージに関係が有るのだろう。
私は、大田市の物部神社に呼ばれた日の朝、「子供達に 岩を溶かしたミネラルを 与えろ。」と告げられている。熊本地方では、「岩は万年肥料・こやし」との言い伝えが有り、岩の有る畑の食べ物は良質との考えがある。其れは、中国でも、崖の岩棚に生える植物は滋養が有るとされ、皇帝だけに採取権が有る事に成っていた事と、同じ考えである。「大田に下車しろ」http://star.ap.teacup.com/170606/437.html
是からの時代は、特権階級だけが良い目を見ると言う時代ではない。環境が破壊されて、人類全体の存在が危なく成って来ているのである。そんな時代に、王座に座って何もしなければ社会全体が崩壊し、何も自分で出来ない王様は、1番先に生活に困る事に成る事は受け合いである。そう成らない内に、優秀な殿下を用意する必要が有るのだろう。
今朝は何故か、最後に「ガーベラ」の花が1輪だけ鮮やかに映し出されて来た。どうしてかと想い、ITで「ガーベラ」を検索すると、花言葉が「神秘」であると載っている。
其れは、昨日の「ガネーシャ」が「群集の長・群集の主」の意味であった事と同じで、私にメッセージを送って来る神霊は高いレベルに在り、正に「ガーベラ・神秘」的存在の者である。
其のガーベラの花が、釈迦牟尼佛の「拈華微笑」の1輪の華を意味しているのであれば、達磨禅師の白目や、一休宗純禅師の竹光と同じく、かなり高度なジョークが含まれている事に成る。其れは、霊界全体のレベルが、かなり上って来ている事を意味している。
これ等の私の文章が、コミックにでも成って、ITで発信されれば、小・中学校の生徒が読んで、かなり良い効果を生み出すのかもしれない。其れも、どんな殿下を「白象・ガネーシャ」が担ぎ上げるかに掛かっているだろう。
平成20年10月15日
礒 邉 自 適
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