栗林公園の平庭(16ha)には、
約1,400本の松がある。そのうち、約1,000本の松は手入松である。栗林公園では、ほとんどの松は年1回の手入れを施しており、他の庭園と比較してもその本数は、非常に多く、全国一かもしれない。金沢の兼六園で約600本であり、手入れ松が160本、岡山後楽園は約300本であり、手入れ松は140本程度であることからして、面積ではそれぞれの庭園の1.5倍であるが、松の本数では2.3倍から4.7倍であり、全体として松の庭園という印象が残る。栗林公園の栗林の名の由来は、かつては、備荒林として多くの栗が植えられていたから、栗林の名がついたと解説される。しかしながら、栗林公園の一番古い古図(元禄13年1700年)のものには、北門の付近に栗木原の表現が2箇所見られる程度であり、園内は全域に渡り松の表現となっている。栗木原という表現をするあたり、逆にこの部分だけが、栗林であるということも言える。栗の林であった時代は、庭園となる以前の植生であったことが推測される。
もう1つ松の木でいいたいのは、松は手入れを行い、高さ等を抑えている。日本庭園の特徴としては、「縮景」であるが、樹木の高さを抑えることは、縮景の庭景を残すのに非常に役立っている。そのまま、存置すると樹木は大きくなりすぎて、島や築山とのバランスを崩すこととなる。栗林公園の明治から大正にかけての絵葉書をみると非常に高木となっている松が芙蓉峰周辺などでみられるが、これは、荒れて手入れされていないからそうなったことであり、芙蓉峰を富士の縮景と意識できるものではない。このように、松の高さを抑えることで作庭の意図を後世に伝えやすいものとなっている。
なぜ、このように松が、園内全域に植えられたのであろうか。日本人は、常盤の松、散る桜に日本人の心情と美学の根底を見出すことができるが、「日本書紀」には、まだ松が登場しない。日本書紀には、次のように、すさのおのみことのひげは杉、胸毛は檜、尻毛はマキ、眉毛はクスノキになったなどの表現があるが松は登場していない。その後、万葉集(8世紀末)の時代には梅に次いで松が81首詠まれており、このころ、日本人の中に松に対しての心情が備わったものと思われる。また、その後、武士の時代となり松の常緑の葉は、その品位が儒教思想と結びつき、鎌倉時代から「忠」を尊ぶ武士道を象徴するものとされてきた。そして松は、庭木の中でも年中緑を絶やさず、枝ぶりも王者の風格をもつ樹種であることから、松が園内一面に植えられていったと思われる。そして、松がこの庭園の王者のように思うが、一方で紅葉や桜のシーズンには、松の深い緑が画面の引き締める役割をもつ名脇役を演じているのである。
