2007/3/31  22:16

眼を閉じて  読書

眼を閉じて (文春文庫 カ 12-2)
 「眼を閉じて」 ジャンリーコ・カロフィーリオ著,石橋典子訳(文春文庫)。

 イタリアのマフィア担当検事が書いたサスペンス。本書は,グイード弁護士を主人公とする2作目。ちなみに1作目は未読です。
 本作では,ストーカー事件の被害者が加害者に対し損害賠償請求をする事件の代理人として主人公が事件に関与するという話しです。

 筋としては,別に驚くような展開があるわけでもなく,どちらかというと予想通りの展開で地味な部類の小説になるでしょう。
 しかし,司法制度に関心がある人にとっては,被害者の刑事裁判への参加の見地から法制化の声が上がった附帯私訴(刑事責任を問う裁判で,民事責任である損害賠償の請求も一緒にできる)のイタリア版が取り上げられている点が目玉です。
 つまり,刑事事件の裁判に乗っかる形で被害者からの損害賠償請求も審理される訳です。尋問は,検察官と被害者代理人がそれぞれ行います。そういう意味では,検察官とタッグを組むような感じです。

 主人公は,40代の弁護士のグイード・グエッリエーリ。気持ちは若いけれど,若かった時期は過ぎようとしている。そんな彼の哀愁が漂うあたりが文学の香りも醸し出すという感じでしょうか。未だ独身だけれど,彼女はいる。古い思い出もよぎるけれど,友達も年をとったし,一緒に旧交を温める時間も取れない。
 意外に好感が持てる主人公でした。

 作中,ちょっと古めの音楽(ブルース・スプリングスティーン,ルー・リード,REM,トレイシー・チャップマン)が出てきます。結構アメリカにはまった口の主人公の設定ですね。実務家が書いた小説だけあって,法廷シーンはリアルです。


2007/3/28  0:01

サムエル記 下  読書

 「サムエル記 下」。旧約聖書。

 「サムエル記 上」で戦死したサウルの死をダビデが知ったところから始まり,ダビデが王としてイスラエルを統治した時代を描きます。

 サウルの死を知ったダビデは,自らの衣服を裂いて悲しみを表現します。当時の一般的な悲しみ方なんでしょうね。サウルの死を伝えた従者が,自ら命を絶ったサウルに止めを刺してくれと頼まれたため,そうしたと伝えたのに対し,ダビデは神が油を注がれた方を殺すとは,と激怒して従者を打ち殺してしまいます。
 うーん,そんなことを言わなくても・・と思いますね。日本の場合だと切腹の際に介添えをしますが,それもだめということなんでしょうね。しかし,サウルが苦しむのを見ていろというのもどうかと思いますね。とにかく周囲の者は彼が死のうとするのを止めろということなんでしょうかね。

 サウルの死後は,政情は不安定になり,暗殺が横行し,サウルの子,イシュ・ポシェトも暗殺されます。暗殺者はダビデに報告に来ますが,ダビデはその者らを打ちます。このあたりは,ダビデのサウルに対する接し方からして分かります。
 ダビデは,30歳で王になり,その治世は40年に及びます。

 王となったダビデは,いよいよ神の箱をエルサレムに運び上げます。神の箱を移動している最中には,牛がよろめいたので箱を押さえたウザが,その場で神に打たれたりする事態が生じます。これも,押さえたっていいじゃないか,なんでそのくらいのことで打ってしまうんじゃ,と思ってしまいました。
 だって,そのままだったら,ゴロンゴロンでしょう。あるいは,そもそも牛がよろめくということ自体が怠慢だということでしょうか。

 神の箱が運び込まれたのを見たダビデ王は,喜びのあまり麻のエフォド一丁で跳ね踊ります。妻でもあるサウルの娘ミカルは窓の上からこれを見下ろして,心の内でさげすみます。どんだけ激しい喜び方だったんでしょうね。ダビデ王は意外に人間くさいです。
 ダビデは,後にウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し,ウリヤを戦闘の最前線に連れ出して見殺しにするようにヨアブに対し書状を書きます(結局ウリアは非業の死を遂げます)。そこまでやるかという感じですね。それなりに報いを受けることになりますが,結局バト・シェバを妻にすることに成功し,彼女との間でソロモンが生まれる訳です。

 ダビデは,イスラエルを統一し,王座にもつき成功するのですが,必ずしも恵まれた人生を送ったとはいえません。子供たちのトラブルには随分悩まされたでしょう。
 子アムノンは,兄弟アブサロムの妹タマルを見初めて,タマルの意志に反して強引に関係を持ちます。しかも関係を持った後は,もう興味はないとでも言わんかのように,アムノンはタマルに辛くあたります。
 兄のアブサロムは,激怒し,その怒りを静かに温め,アムノンを打ち殺し復讐を果たします(兄弟殺し)。その後,アブサロムはダビデに反逆し,結局ダビデの意志とは無関係に命を失うことになります。

 一見恵まれていたように思えるダビデにしても,こうだというのは,我々の幸せを考える上では一つの教訓になるような気がしますね。

2007/3/26  23:34

間違えられた男  TV,映画

クリックすると元のサイズで表示します 「間違えられた男」 アルフレッド・ヒッチコック監督,ヘンリー・フォンダ,ヴェラ・マイルズ出演(1956,米)。

 名前は知ってましたが,冤罪の映画だとは知りませんでした。その名のとおり,強盗犯人に容貌が似ているために,犯人と間違えられた男とその家族の悲劇を描く,実話に基づく話。

 「目撃証言」を読んだ後に見るには最適の映画でした。
 本作では,まさに目撃証言がキーになっていました。それに加えて,たまたま犯行に使われたノートと同じ綴り(スペル)ミスを犯してしまったことが嫌疑を招きました。
 目撃証言の点についていえば,本件の場合は似ていたということが大きな影響を与えました。よく,他人のそら似という言葉がありますが,実際にも一見そっくりな人っていますものね。でも,見た本人は同じ人物だと思ってしまう。
 こういう全く悪意なしに混同が生じてしまうという点でも目撃証言というのは恐ろしいなーと思います。

 被告人という立場に置かれてしまうと,推定無罪という建前があってもこれを覆すのは容易ではありません。そういう意味では必死にアリバイを探すシーンは,状況証拠で追い込まれた人間の苦闘を見る思いがしました。

 本作の優れているところは,冤罪に巻きこまれた家族の立場をうまく描写しているところです。その圧倒的な迫力は胸に迫ります。
 父は我が子に無念を伝えると共に,子どもたちの存在を誇りに思います。
 しかし,妻は精神的なバランスを崩してしまいます。こういったこと全てが,単なる間違いとして片づけられてしまったのでは,やってられません。

 しかし,冤罪の問題を考えるにつけ,この問題を自分に引きつけて考えるというのはなかなかに難しいことです。それにはやっぱり想像力が必要です。その想像力を補完してくれるという意味では,比較的地味な映画ですがさすがヒッチコックと唸りたくなります。冤罪の重さを見るならば,冤罪を避けるために疑わしいものを逃がしてしまうこともやむを得ないだろうと思います。これはやはりそういう事態に陥った人のことを想像する以外に持ち得ない認識だろうと思います。

 今回はたまたま真犯人が捕まったから良いようなものの,それがなければどうなっていたかを想像するとやっぱり胸が苦しくなります。



2007/3/25  22:39

いじめ問題とどう向き合うか  読書

いじめ問題とどう向き合うか (岩波ブックレット NO. 695)
 「いじめ問題とどう向き合うか」 尾木直樹著(岩波ブックレット)。

 第1章 深刻化する今日のいじめ,第2章 いじめを考える,第3章 いじめをどう克服するか から構成。

 この問題を考える一つの素材。今考えなくてはいけない課題の一つは,愛国心ではなくいじめの問題であるはずだ。しかし,この問題について政府からの柔軟な発想はほとんど見られない。本当に苦しい状況におかれたという被害の声が出てきても,対症療法的な対応がなされて,また事件が起きるまで忘れられる。
 これではいけない。しかも,本質的な原因について分析が不十分なまま,逆方向の介入が今後なされようとしている。

 いじめをどう捉えるかということについての文部省の解釈の変遷を見ると,多くの犠牲のもとで修正されてきたものだというのがよく分かります。
 当初の文部省のいじめの定義はびっくりしますね。学校の確認なんかを要求していたんですね。

 本書では,いじめの原因を,いじめっ子の置かれた環境やストレスの多い学校生活,人権教育の乏しさなどに求めていきます。もちろん,ブックレットサイズなので,本質的な探究は難しいでしょう。でも,いろいろと参考になることが多かったです。

 いじめを考える場合に,被害者のケアも重要だけれど,いじめる側に対し注目していくことが必要だという正論は意外に看過されやすいところですね。いじめが人権侵害であると捉えるなら,DVを働く男(女)と同じように考えていかなくてはいけないですね。で,その際に,なぜいじめるのか,いじめっ子の心理状態はどうなっているのか,彼(いじめっ子)に対し,どうやって教えていくのか,その社会性をどうやって身につけさせるのかについて,教育的なアプローチをすることが不可欠です。

 立場の流動性にも着目する必要があります。いじめる側がいじめられる側に転化するなどという事例は枚挙に暇がありません。この流動性(立場の互換性)は,いじめの問題を皆で考えるための良い着目ポイントでしょう。
 また,いじめられる側が弱いとは限らないこと(したがって,「弱い者いじめ」なる言葉は大きな間違い)や,親に言いにくい心理(自立を意識する年齢になると,親に相談しないで何とか解決したいという精神状態になる)を理解することも重要です。

 本書では,現政府がこれから行おうとする,規律ある学校というイメージは,逆に多くのストレスを生みだしてしまうことをやんわりと指摘します。本書でも指摘されるように,子ども自身が考えていくという力をつけ,そして実際に子どもたちがこの問題に参画していくことが不可欠だろうと思います。この問題は,規制を強化すれば解決するという問題ではなく,子どもたち自身が押しつけられるのではなく主体的に取り組むという方向でないとやっぱり解決は困難でしょう。

2007/3/24  22:17

目撃証言  読書

目撃証言
 「目撃証言」 エリザベス・ロフタス,キャサリン・ケッチャム著,厳島行雄訳(岩波書店)。

 人の記憶についての研究者として,実際の裁判にも専門家証人として出頭しているエリザベス・ロフタス氏が実際に体験した事件を通して目撃者の証言について述べるノンフィクション。

 目撃証言の危険性に関してはそれなりに知られていますが,目撃の条件がどうだったかという客観的な側面に目がいくことが多いです。
 しかし,認識の獲得過程や記憶の保存,その検索についても検討しなければならないポイントがいくつかあります。そういう部分について,実際の事例を通して考えることができます。

 8件の事件を通してこの問題を考えていきます。サスペンス小説を読むようなリアルな叙述が続くので思った以上に面白く読むことができました。
 テッド・バンディーの事件は有名ですね。この事件でも女史は専門家証人として立ちました。これは見抜けなかったという失敗例になりますが,しかし,目撃証言を考える場合にどの点に留意すべきかはやはり陪審としても知識を持つ必要があるでしょう。

 6件が無罪判決を受けていますので,冤罪事件を考える良い素材でもあります。また,1件は強制収容所への関与があったかどうかが問題となった戦争犯罪事件で,ユダヤ人でもある女史は,自分のルーツとの関係で専門家証人を断っています。
 さらに,自身の個人的な体験(虐待経験)も織り込んでおり,そういう意味では全てをさらけだした叙述となっています。

 本書を読むと,目撃証言のとり方が重要であるのが分かります。つまり,その録取の経緯を客観的に記録することが不可欠です。取調べの経緯がはっきりするように,捜査官が作る調書だけではなく,録音なり録画をすべきという取調べの可視化が議論されていますが,目撃者の供述についても録画,録音は必須という気がしました(特に最初の供述は,後でその認識過程に問題がなかったかなどを検討する唯一の材料でもあります)。
 また,いわゆる面割りの過程についても,客観性を維持することが冤罪を防ぐためにも必要です。暗示がなされていないか,面割りの際の他の候補者の表示の仕方との関係など,単に「認識しました」という情報以外の部分が真実の見極めに重要な意味を持ちます。
 そういう意味では,犯行現場における指紋や現場写真などのように,できるだけ後で検証可能な状態で保存しておくことが必要です。そんなことをすれば,弁護側に叩かれるという不安の声も上がりそうですが,記憶というのはそういうものだという前提で認定していくことの方が重要ではないでしょうか。例えば,当初のあいまいな識別供述であっても,本質部分が信用できるという判断を下せる場合はあるでしょうし,その点の判断のために専門家証人を使うという余地もあるわけです。

 今後の裁判員裁判を踏まえると,こういう分野についても研究が不可欠だろうと思います。また,一般の読者的にも,事件を手に汗握りながら追うことができて,なかなか読ませる本でした。しかし,冤罪の結果は重い。これをしっかり噛みしめるべきです。



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