
『帰って来たウェダリ』(1974)
イ・ドゥヨン(李斗[金庸])監督は1974年に本格的テコンドー映画第1弾『龍虎対錬』を手始めに信じられない速さでアクション映画を量産していった。映画はチャーリー・シェルこと韓龍哲や悪役の權永文の他実際のテコンドー有段者数十人を選抜して作られた。1974年だけで『龍虎対錬』を含め『死の脚』『帰って来たウェダリ』『憤怒の左脚』『背信者』『続・帰って来たウェダリ』などの6本の映画を撮った。イ・ドゥヨン監督の作品は主に地方都市で人気を得て『武装解除』(1975)、アメリカでロケした『アメリカ訪問客』(1976/日本発売ビデオ・タイトル『秘録ブル−ス・リ−物語』)などの映画が撮られたが、その後はアクション映画から離脱して他のジャンル作品に移行していった。
●『龍虎対錬』(1974)で始まったテコンド−映画はどんな経緯で作られるようになったのですか?
新しいアクション映画を作りたかったのですが、アメリカや香港とは違うものを作りたかったのです。基本的に当時の韓国映画には洗練されたアクション映画を作れる人がひとりもいませんでした。パク・ノシク(朴魯植)と『晴天の雷』(1971)みたいなアクション映画を作ったりもしましたが、お世辞にも良く出来たとは言えませんでした。クァク・ジョンファン社長と話をしている途中、テコンドーを素材にすれば香港とは違う武術映画を作ることができるのではといった案が出たので全国的にアクション俳優を募集しました。テコンドー道場も見てまわり数百人の大規模オーデションをしました。あの時は黄正利や權永文も来ましたし、オーデションで20〜30人くらいを選びました。

『龍虎対錬』(1974)
●『龍虎対錬』の主人公、韓龍哲はアメリカから来たことで知られていますね。
オーデションをしたものの、主役を演じられそうな人が見つかりませんでした。テクニックでは黄正利が一番でしたが主役向きではありませんでした。そんな時、知り合いの会社社長が韓龍哲を紹介してくれたのです。アメリカ在住の人でしたが1週間だけ韓国に滞在できるとのことでした。年齢は20歳くらいにしか見えず、テコンドーの実力は赤帯でした。会ってすぐに近くの道場へ行って蹴りをさせてみたのですが、足がとても長くてグイグイ伸びるのが印象的でした。年齢をカバーするために3日間くらい髭を剃らせなかったら良い感じになりました。それから最初に作ったのが『龍虎対錬』でした。私が本当にやってみたかったことは蹴りで悪党のほっぺたをパタパタと何度も殴ってみせることでした(笑)。当時は韓龍哲がテコンドーの高段者だと宣伝したので劇場はいっぱいでした。その後も韓龍哲主演で『憤怒の左脚』(1974)『死の脚』(1974)などを相次いで作りました。当時のギャラはスターだった申星一が500万ウォンくらいもらっていましたが、韓龍哲の場合は秘かに2000万ウォンくらいまで貰えるほどでした。他の映画会社が高額のギャラで韓龍哲をスカウトして作品を作りましたがその映画の成績は良くありませんでした。その後は韓龍哲とは一緒に仕事をしませんでしたが、代わりにカン・デヒという俳優を発掘して『武装解除』(1975)という作品を作りました。

『武装解除』(1975)
●70年代にアメリカ・ロケで作った作品は急いで作った感が否めないのですが…。
あの頃作った作品は『ニューヨーク44番街』(1976)と『アメリカ訪問客』(1976)でした。当時の地方劇場では私の作品が上映されると大ヒットでした。最初はアメリカ・ロケでアクション映画を撮って来るように言われ受諾したものの、当時の国の事情で資金をたくさん持って海外に行くことが出来なかったので満足のいく作品は出来ませんでした。手ぶらで帰ろうとしたら製作者に泣きつかれて仕方なく作りました。ロケはアメリカですが一定の規模の資金がありませんから凄く不便でした。まともな映画を作ろうと思えば現地組合のスタッフを使わなければいけませんが、製作コストが高くつく上に1日8時間以上撮影してはダメだという条項が邪魔して撮影は不可能でした。通りでロケする場合でも苦労しました。しかし、学生映画として許可を取れば安く撮影できることを知りました。でも条件はあまり良くなくて盗み撮りをしなければいけない状況でした。

『ニューヨーク44番街』(1976)
●後に作った『沈黙の暗殺者』(1989/日本発売ビデオ・タイトル『サイレント・アサシン』)は正式にハリウッドで作った映画ですが、その時の状況はいかがでした?
もちろん大変でした。出演者のひとりであるリンダ・ブレアーとはうまく仕事ができましたが、問題は別のところから生じました。製作者は私を呼んでシナリオのページごとに契約サインしなさいと言いました。私がシナリオ通りに撮らない場合が多いからそんなことになったみたいでした。私はトイレで要を足していて良いアイデアが浮かぶとすぐに撮影に反映させるタイプですが、アメリカでは通用しないと言われました。あの時はインド映画祭の審査員の招請を受けていましたので撮影を中断してインドに行ってしまいました。ところが後に私の意見をすべて受け入れるので撮影を続けて欲しいと要請が来ました。でも、すでに私の熱意は冷めていましたので映画作りに最善を尽すことはできませんでした。基本的に私はハリウッドということで期待に胸膨らませて出向いて行きましたが、製作コストもそんなに豊ではなかく、武術映画ばかりを要求されて不満でした。私は他のジャンルの映画も作りたかったのです。
●70年代中盤にあなたが発掘した黄正利は香港に渡ってスタ−級の悪役俳優で活躍しましたが…。
黄正利の本名はファン・テス(黄泰洙)です。彼は香港でもの凄く歓迎されました。今で言うとペ・ヨンジュンみたいですかね?私がアメリカでアクション映画を撮っている時、黄正利は韓国での仕事にあまり恵まれていませんでした。そんな時に香港の呉思遠監督が彼を呼んで『スネーキー・モンキー 蛇拳』(1978)や『ドランク・モンキー 酔拳』(1978)等を作りました。呉思遠は『武装解除』の黄正利の扇子アクションを観て感動していました。香港には黄正利ほど蹴りの優れた俳優があまり存在しなかったので特別な待遇でした。当時の香港は同じセットの中で違う映画を何本も作るほど武術映画をたくさん作っていました。これは黄正利の奥さんから直接聞いた話ですが…ある時、黄正利が台湾で映画を撮影していると他の映画会社の人間が彼をスカウトしようとして現金を大量にトラックに積んで来たそうです(笑)。当時の香港の武術映画は主人公が変わっても常に悪役は黄正利を使いたがっていました。ある日、香港のペニンシュラ・ホテルのコーヒー・ショップで黄正利と一緒に座っていたら別の席に居た香港のスーパースター、ジミー・ウォングがわざわざ挨拶に来ました。それほど黄正利の人気が高かったのです。ところで黄正利は主役をとても演じたがっていました。私は足の力が尽きるまでアクション俳優で活躍するように言いましたが、彼は主演を諦めきれなかったようです。香港では不可能であることが分かると韓国に帰って来て製作・監督・主演を務めた作品を作りましたが、結果は上手くいきませんでした。これはとても残念なことでした。
●当時テコンドー映画を止めようと思ったきっかけは何ですか?
何より低俗な映画と見られることがたまらなく嫌でした。ある評論家から“どうしてそんなに次から次へと工場生産みたいに映画を作るのか!?”と叱責されたりもしました。正統な評価を得られないと思うとアクション映画への意欲がなくなりました。
●アクション映画に対する韓国映画界の冷遇に対してどう思いますか?
私の映画に出演したアクション俳優たちが他のジャンルの映画に出演してもまともな待遇を受けることはできませんでした。一般の俳優たちが貰うギャラよりもっと少ない金額を受け取ることを知ってとても頭に来ました。アクション映画に対する根本的な態度が変わらなければいけないと思います。普通演技と言えば顔の演技のみを思うでしょうが、広い意味でアクション演技も演技の重要な部分なのです。そういった意味では章子怡や楊紫瓊は俳優として重要な武器と機能がもうひとつあるわけで、結果世界的に活躍できるのだと思います。韓国俳優たちは表情、顔の演技だけが演技だと思っています。アクション演技ができれば本来の演技をもっと引き立てることができると思うのですが。

『黒雪』(1990)
●『黒雪』(1990)は再び試みたアクション映画でしたが、オーデションを通じて女優を発掘しましたね。
そういった考えからもう一度まともに映画が作りたくてオーデションをしました。イジン(李眞)という新人俳優をキャスティングしましたがうまくいきませんでした。現場にうまく適応できなかったしアクションよりも他の部分で力不足でした。今思えば本当に恥ずかしくて切ない映画です。個人的には章子怡みたいな俳優に関心が高いのに国内にはそんな感じの女優がいません。それでもキム・ヘスからそんな姿を見つけることができるかちょっと期待したりもしました。存在だけでも男を圧倒するカリスマ性があってアクションをすれば凄く迫力があるように思えます。とにかく韓国俳優たちが国際的に活動しようとするのならアクション演技も大切です。章子怡が蹴りを放ち対決のポーズをとればどれほど素晴らしいのか、周潤發が拳銃を撃つ姿がどんなに素晴らしいか。黄正利から聞いた話ですが、楊紫瓊は一日中スタントの演技をしても一度も大変な素振りを見せなかったそうです。そんな骨を折るような訓練で鍛えたからこそ国際的に通じる俳優になったのだと思います。香港俳優たちは演技者と言えば正しくアクションもできることを当然視します。だからこそ香港映画界の海外進出が活発になったのだと思います。我々韓国人たちもその点を悟らなければいけません。韓国映画界でそんな俳優をひとりでも排出すれば成果は大きいでしょう。映画1本、俳優1人で国際的な流行を作り出すのです。
(資料翻訳・意訳…龍珠、龍八。他サイトへの転載・引用禁止。)