
『スコーピオン・ファイター』の元振。
香港映画『スコーピオン・ファイター』(1992)で必殺の拳法を駆使する悪役が武術監督でもある元振だ。元振がこの映画で見せた蹴り技は神技に近かった。しかし『スコーピオン・ファイター』はジェット・リーの『スウォーズマン 女神伝説の章』(1992)のように良い興業成績を残せず、元振という名前のせいか封切り当時に彼が韓国人であるという事実はあまり知られてなかった。時間が経つにつれ世界中のアクション映画マニアたちがこの作品の面白さに注目しはじめてからはカルト的な人気作品となった。元振にとってはこの作品が香港映画のデビュー作品だが彼に関するデータが未整理だったため未確認の有らぬ噂が流れはじめてしまった。
海外のファンは韓国映画に接する機会が少ないため、彼が亡くなったとか病気になったとか僧侶になったなどの噂が飛び交った。少数のマニアでも元振の近況は分からなかったのである。元振は現在、韓国で『花嫁はギャングスター』(2001)『清風明月』(2003)『浪漫刺客』(2003)『ソウル攻略』(2005)などの武術監督で元気に活躍中だ。自他とも認める実力派の武術監督チョン・ドゥホンも一目置く存在が先輩の元振である。“当時、忠武路(チュンムロ=映画産業の中心地)スタントマンたちの間でも元振先輩の実力は最高だった。なのに、なぜ今だに元振先輩の実力が評価されないのか不思議でならない。”(チョン・ドゥホン)。
元振は父親からテコンドーを習った。父親は当時“拳の達人”として有名でテレビにも度々出演していた人だった。元振の兄は4段を取得して止めてしまったが、元振は5段を取得したあと新しい分野を開拓しようと努力した。武術映画が好きで映画を観たあとは必ずその動作を真似しひとりで練習した。家は貧しかったので武術の練習だけが現実を忘れる唯一の方法だった。月日が経ち、元振は1970年代末にYMCA体育館の器械体操部に入部し一般会員とは別にマットを敷いて高難度の器械体操を練習した。『最後の精武門』(1977)の巨龍や『少林寺厨房長』(1981)の鄭眞化といった先輩たちも一緒に練習した時代だった。彼らは正統的な体操を練習するのではなく映画のアクションに合った多様な動作を練習した。YMCA体育館は当時アクション・スターを夢見る青少年たちの“夢の城”でもあった。
やがて元振はパク・ウサン監督などが活発に作っていたアクション映画に端役あるいはスタントマンとして出演し本格的な映画俳優を夢見る。自分をアクション映画に導いたのはブルース・リーだったが憧れたのはジャッキー・チェンであった。『蛇鶴八拳』(1978)のジャッキー・チェンのアクションを観た彼は目をキラキラさせ正統派武術アクションとアクロバティックな体技にとても魅力を感じた。特に『プロジェクトA』(1983)『スパルタンX』(1984)などのジャッキー・チェン、サモ・ハン、ユンピョウがトリオを組んだ一連の映画は最高だった。元振が追い求めていた模範としてのあらゆるものがそこにはあったのだ。小柄な体格にハンサムな外貌だった当時の彼は主に女優のダブル(身替わり)の仕事が大半だった。そんな下積生活が続いた10年目のある日、武術映画『龍虎吹』(1988)で遂に主演デビューを飾る。映画は田舎に住む3人の少年(龍、虎、吹)が盗まれた仏像を捜してソウルに上京するという内容だ。元振はこの作品で長兄の龍を演じ、自分の実力を遺憾なく発揮した。しかし当時、この映画の成績ははいまひとつで本格的なアクション映画とてヒットしない悲しい時代であった。時代はパク・カンスやチャン・ソンウ監督を中心に新しい映画の波が押し寄せていた時だった。アクション映画は『スーパー洪吉童』(1987)シリーズなど児童用映画やビデオ用映画として辛うじて持ちこたえていた。
元振の最終目的は香港進出だった。将来を見据え中国語の教室にも通っていた。ところが彼の夢は意外と簡単に実現することとなる。当時の香港映画はノワール映画が一段落し『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明』(1991)が口火を切って再び武術アクション映画の人気が復活したのだった。韓国と香港の間で映画の輸入契約する仕事をしていた友人からゴールデン・ハーベストが正統武術映画の企画をしていると聞いた元振は自分のアクションのデモ・テープをゴールデン・ハーベストに送った。やがてゴールデン・ハーベストのスタッフが元振のもとを訪ね契約は一気に成立した。そして元振は『スコーピオン・ファイター』出演のため遂に憧れの香港の地を踏むこととなった。銭家樂や劉家良監督と一緒に仕事をすることだけでも興奮した。かつて黄仁植、黄正利、王虎、權永文など一時期香港の武術映画で活躍した先輩たちが続々韓国へ帰って来たため断ち切られた韓国と香港のアクション映画の交流が今再び始まったのだ。
蹴りで認められた元振は更に独自の蹴り技を研究した。“韓国から来た蹴撃王”と呼ばれるくらい実力は確かだった。香港での2本目の作品は元奎・黎大衞監督の『レディ・ウェポン ZERO』(1993)だった。“香港で活躍している時、僕はスタッフたちにまだまだ実力があることを知ってもらいたかったんだ。僕がここで終わってしまっては韓国の後輩たちが香港で活躍する機会を失ってしまうため必死にがんばったんだ。”(元振)。3本目の作品でも3ヶ月間カナダに滞在し、以後も香港映画界で活躍する5年間を送った彼はある日韓国に帰る決心をする。香港の生活で言語問題は特になかったが、弁当にコチュジャンを無意識に入れてしまうほどとても孤独を感じていた。また、この頃には自分の出発点である韓国映画を立て直したいと思う欲求も生じていた。
いくら香港で人気が出た俳優とはいえ韓国での活動はそう甘くはなかった。当時の香港は武術映画のブームで年間10数本も作られていて仕事に困らなかったが、韓国では1年に数本しかないという状況だった。仕事に困ったスタントマンたちはテレビ放送局の門を叩くほどだった。元振は後輩チョン・ドゥホンが『テロリスト 哀しき男に捧げる挽歌』(1995)という素晴らしいアクション映画で働く姿に発奮し『帰天図』(1996)という作品に挑戦した。当時としては珍しい史劇アクション映画であり『将軍の息子』(1990)に始まった新しいアクション映画の波が本格的に訪れはじめていた。
この時期に記憶する映画で『高手』(1997)という作品がある。日帝時代を背景に指名手配された物乞いの一団が繰り広げる低予算のアクション映画だ。元振を含めて香港に渡ってジャッキー・チェンのスタントマン・チームで活躍したイ・インソプなどの俳優たちが力を合わせて作った映画でもあった。アクション映画の復活を夢見て集まった忠武路の武術 “高手”たちがギャランティなど考えずに作った。例えスター級の俳優が出演していなくても、また製作コストが安くてもスタントマン同志が集まってひとつの目標に向って突き進む姿は胸が一杯になるほど感動的だ。映画は興行的には成功せず色々欠点が目立ったが、アクションのレベルはかなり高く新鮮な試みであった。
以後、元振はかなり長い空白の時期を過ごした。やっと韓国での活動が実を結ぶようになったのは『花嫁はギャングスター』だった。映画は当初コミック・ドラマを予定していたが、元振が演出したアクションがかなり良い反応を得たため次第にアクション部分の比重が増えていった。そして元振は主役女優のシン・ウンギョンのダブルも引き受けた。かつて女優のダブルを経験していた元振にとっては特に問題はなかった。映画は評論家に叩かれたがアクション・シーンは関係者たちの間でかなり良い評価を得た。本格的な史劇武侠映画を目指した『清風明月』はまた違う挑戦だった。武術監督は元振だったが、監督と製作会社側が企画当初から香港映画タッチを狙っていたため香港の武術監督も必要とされていた。“どっちみち香港から武術監督を連れて来るなら僕が直接選出すると言って元彬を招いたんだ。香港の武術チームは月単位で契約していたけど梅雨の時期はあまり仕事にならなかったから収入は少なかったよ。”(元振)。以後も『浪漫刺客』『肩組み』などで武術監督を引き受けたがあらゆる面で完璧な成果を引き出した映画はまだ存在していない。
元振は韓国に帰って来たあとも香港での活動は止めなかった。相変わらず彼を憶えている香港の武術監督たちから絶えることなく誘いが来ていた。唐季禮監督の『SPY_N』(2000)で郭富城と共演したり『無問題2』(2002)にも出演した。マーク・ダカスコスも出演した『SPY_N』で元振は車上で驚くべきアクションを披露し、『無問題2』ではユンピョウと共演した。2作品とも韓国国内ではまともに紹介されなかったが40歳を過ぎた年齢にも関わらず相変わらず衰えることのないアクション演技を披露した。
元振が夢見るアクション映画は相変わらず驚くべき武術映画だ。“1970年から80年代に活躍した往年のスタントマンたちは死ぬ覚悟で技術を練習したんだ。ところが、今はそんなレベルの高いアクション映画が減ってしまった。生活のため仕方なくテレビ・ドラマに出演したけれどスタントの技術は下がる一方だよ。どんなに努力しようが手抜きのアクションをしようが出演料が同じなのは納得できないな。僕が夢見るアクション映画は過去に興奮した映画のアクション技術を今に生かすことなんだ。ワイヤーを使わない息を飲む純粋なアクション映画が一番良い。”(元振)。元振は自身が理想とする“アクション・コリア”の夢を今年か来年あたりに現実化したいと言うが相変わらず困難は付き物だ。現在韓国映画界には沢山の武術監督とアクション・チームが存在するがその仕事は映画の添え物的な仕事が多く充実しているとは言えない。新しい試みをしようとしても製作コストの問題でアクション部分に関する費用が少なく制約が多いのだ。
元振は穏やかで若く見える印象だが、何時のまにか彼も40歳を過ぎていた。トレーニングをする彼の姿を見て昔の先輩たちは“お前まだやってるのか?”と笑う。トレーニングはストレス解消のためでもあるのだ。元振は元奎や元彬、程小東などスタントマン出身の武術監督たちが最終的に監督に登り詰める姿を羨ましく思っている。『マッハ!』(2003)のように最初から最後までアクションのみで話を作っていける“本当”のアクション映画を作りたいと願っている。
(資料翻訳・意訳…龍珠、龍八。他サイトへの転載・引用禁止。)