↑米軍の原爆投下指令書の抜粋(1945年7月25日付。国立国会図書館所蔵資料が原典、新潟市所有の複写資料から転用。本文4行目に「Niigata」の文字が見える。注:無断の複写は御遠慮ください)
6日は広島の日です。そして9日は長崎。
新潟も原爆投下予定地で、45年8月11日には、全国唯一の「原爆疎開」がおこなわれ、新潟市内からほとんどの市民が脱出しました。
この事実は、一般にはあまり知られていません。僕は本会議などで何度もこのエピソードを紹介してきました。それは、緊張の高まる日本海を臨む新潟市にとって、そして有事法制や「国民保護法」を前にしている今日にあって、何度紹介しても、何度強調しても、し過ぎることはない貴重な学ぶべき歴史がそこにあるからです。
今年も、あらためてこのエピソードを紹介します。
■商業港新潟港
新潟港は、戦前も商業港でした。新潟は、軍港を抱える都市などとは異なり、大戦の終わるその年の春まで、幸いにも比較的平穏な市民生活が続いていました。しかし、新潟市がまとめた「戦場としての新潟」(1998年、新潟歴史双書シリーズ2)という書物によれば、終戦の年、新潟港と新潟市の状況は大きく変わることになりました。その歴史の事実に、われわれは多くの学ぶべきものを見出すことができます。
■新潟港の役割の変化
太平洋戦争の戦況の悪化とともに、1942(昭和17)年、危険な太平洋ルートを避けるため、国は新潟港の港湾機能の増強を命じ、新潟港は国内の工業地帯で消費する石炭などの物資の荷揚げ・集積地として位置付けられました。新潟で過酷な状況の中で使役された戦時俘虜は、この増大する荷揚量を処理するためでもありました。
そして45(昭和20)年、米軍は沖縄、硫黄島など重要拠点を次々攻撃・占領し、日本の周辺海域を次第に制圧し、国外からの資源を国内に持ち込むのは狭い日本海ルートしかなくなり、「本土決戦」に備え、中国大陸から大量の軍事・民生物資を集積するために、新潟港の重要性はますます増大することになったのです。
こうした動きに米軍がだまっているはずがありませんでした。
当然にも、新潟港は重要な軍事目標となり、執拗な攻撃に晒されました。新潟市の資料によれば、新潟港には45年5月以降、合計12回、約800個弱の機雷が米軍機から投下され、わかっているだけで計43隻の船が触雷、その多くが大破・沈没しています。
米軍艦載機による銃爆撃が港や船舶、現在の西堀通など市街地に加えられ、例えば8月10日の1日だけで最大47名、これを前後して5月から終戦までのわずか3カ月ほどで計約130名(そのうち民間人は100名を越える)が命を落としています。その中には鉄工所などに勤労動員中、触雷によって亡くなった生徒12名も含まれています。
「軍都」「軍港」ではなかった新潟も、役割の変化によって重要な軍事施設として位置付けられたのです。ましてや今日、米イージス艦など強力な軍事艦船が配備されることがどんな危険をもたらすか、想像に難くはありません。
■原爆投下計画と「原爆疎開」
機雷や銃爆撃が加えられただけではありませんでした。
米軍は、すでに実戦での初めての原爆投下目標の候補地の選定作業に入っていました。原爆投下目標候補地に関する当事の米軍の関連文書には、「新潟は、建設機器、ディーゼル・エンジン等の重要な工業都市であり、また大陸への船舶輸送の中枢港」であると記され、新潟を含む「これら四都市には、破壊された主要都市から避難してきた大勢の重要な日本の実業家や政治家が含まれている」とも分析されています。
本土決戦を叫ぶ日本の息の根を最終的に止めるための準備が開始されたのです。
そしてポツダム宣言が公表される前日の7月25日、ついに下された「原爆投下指令書」には、「1945年8月3日頃以降、広島・小倉・新潟・長崎のひとつに最初の特殊爆弾を投下せよ」とあり、新潟は投下目標地のひとつとして、はっきりと明記されることになりました(上記写真参照)。
この指令書に基づき、8月6日の広島に続いて9日には長崎へ原爆が投下されました。そしてこれら2つの爆弾が「新型爆弾」であることが明らかになり、全国は大混乱に陥りました(なお、これに先立ち、隣の長岡市で原爆模擬爆弾が投下され、やはり幼い命を含む犠牲があったとのことです。あらためて言及しておきたいと思います)。
その中で新潟県は職員を広島に派遣、この職員は現地へは入れなかったものの内務省に出向いて情報収集して帰ってきました。翌10日には県幹部の緊急会議が開催され、派遣された職員からの報告を受け、新潟がこの「新型爆弾」投下の候補地になっていること、内務省が新潟市民の疎開に反対である意向も報告され、深夜に及ぶ激論が闘わされました。
その結果、新潟県は政府の意向には逆らう形で、新潟市民に対して「徹底的かつ緊急の疎開」を決定し、そして新潟市もこの方針に基づき、翌11日、町内会長を集めて緊急会議を開催し、疎開は実行に移されたのです。
この時、自身の安全を優先する県や市の職員などもあり、市内はパニックにも陥りました。しかしその混乱の中でも、県・市の多くの職員達が、国の方針に逆らっても、新潟市民の安全のために、自らの仕事を投げ出さずに責任を全うしようと努力したのです。
(※)注:新潟は原爆投下指令書の最終版で投下候補地のひとつとして残っていたが、実際に疎開を行なった8月11日の時点では、すでに目標からはずされていたらしい。
■今日への教訓
結局幸いにも新潟には原爆は投下されず終戦を迎えることになりましたが、仮に投下された場合、この緊急疎開によって多くの人命が救われたであろう事は疑いありません。
当時の畠田知事の英断とともに、関係職員の奮闘は賞賛に値すると思います。あの戦時下、統制的な政治体制のもとでも、そして戦争末期、政治や経済が大混乱している中にあってもなお、住民に直接の基盤と責任を有する「自治体」には、当事においても「平和力」が発揮されたという事実を、われわれはこのエピソードの中に発見することができるのです。
当時に比べれば、仮にも自治や民主主義諸制度がそれなりに発達している今日にあって、私達はあらためて、民主主義的自由、平和、地方主権、国民主権といった課題を考えていかなくてはならないと思います。
また、この歴史を丁寧に拾い集めて「戦場としての新潟」という書物にまとめられた本市の当時の担当課職員・関係者のご努力も、高く評価したいと思います。
最後に、先の大戦で命を失われた全ての人々、その後も世界各地続く戦乱で命を落とした人々に、心より追悼の意を表し、北東アジアや世界から戦乱の種がなくなるよう、僕も微力ながら努力する決意を新たにしたいと思います。