本日の新潟日報ワイド新潟版「見聞録」に、「過剰な議会重視に疑問符」との記者署名記事が掲載されています。
8月に鳥取県で開かれた自治体改革を考えるシンポジウムで、片山鳥取県知事が、議場での議論を重視し職員の負担を軽減するため、議会への「根回し」の廃止を決定したことを紹介、それに比較して新潟市は議員に対して遠慮し過ぎで、市役所に取材しても「議会前は何も言えない」と口にする職員がいる、と記者は憤慨しています。
また、こうした遠慮が官製談合問題の要因の一つともなったのでは、とも論じています。
確かに、議会と執行部とのあり方には見直さなければならない問題は少なくありません。
例えば、市民の方には聞きなれない言葉でしょうけれど、「事前審査」はダメ、という慣習が議会にはあります。
「事前審査」というのは、やがて本会議に上程されるはずの案件を事前に委員会等で審議するなどの事を指します。そういうことが横行すると、これは市民に開かれた場所である本会議を形骸化させ、水面下や密室で決着をつけてしまう危険性があることから、「事前審査はダメ」というルールとして定着した慣習です。
しかし、これは本会議のみが公開されていた時代の歴史的遺物とも言えるもので、情報公開や市民参加が進む現在では政策形成過程からの公開や市民意見公募(パブリックコメント)もかなり確立しており、新潟市などでは各種審議会そのものも公開されているものがほとんどです。
ですから、本会議が市民に公開されたほとんど唯一の場であった時代とはすでに事情が大きく異なっており、「事前審査がダメ」である根拠は、限りなく小さくなっています。
むしろ、すでにさまざまなレベルで意見交換や意見公募がなされ問題点が浮き彫りにされた案件について、さらに多角的な観点で論じ、より内容を深め高めるべきであり、それを本会議のみの一発勝負で結論を出すことのほうが危険であるとさえ言えると思います。しかし、現在の議会では、依然「事前審査は問題」というルールが何となくそもまま「常識」となってしまっています。
このように、時代の趨勢や進歩に合わせて、議会自身のありかたも変化させていかなければならないことを言うまでもありません。議会や議員に対する職員の「過剰な遠慮や重視」があるのなら、それは変えていかなければなりません。
しかし、記者は、要するに根回しは止めて議場での議論を重視せよ、と主張し、その一方で「事前の取材に答えないのはおかしい」と言っています。これは明らかな論理矛盾・自己矛盾です。
「議場での議論を重視」するなら、議会やマスコミも含めて、事前の個別あるいは恣意的な「情報漏洩」そのものがはらむ問題に自覚的であらねばなりません。
議会への事前の情報提供はダメだがマスコミの取材ならいい、というのは、マスコミの特権意識を振りかざした乱暴な論理です。記者の言うことを実現するためには、「議場で正式に上程」されるまではひたすら議会には内緒にして、その一方で報道機関の「取材」にはベラベラ答えろ、というおよそ非現実的で非合理的な対応を市側に要求することになります。
しかも、取材は、すべての案件をカバーできるわけではありません。記者の個人的な興味・関心や資質に基く報道だけでは不十分であり、逆に「取材」を利用して、情報操作、あるいは行政側から意図的な情報リークの取捨選択さえおこなわれる危険性すらあります。それは、民主主義の危機さえはらみます。また、記者の個別の関心からはずれたものの中にも、大きな問題が潜んでいる場合もあります。
例えば、「官製談合」問題だって公取の調査以前にマスコミが徹底取材していたわけけではありませんが、僕が議員になる以前から議会では談合の疑いが度々問題視されてきました。マスコミはむしろその当時にはあまり関心すら示さなかったこともある、と先輩議員も言っています。
さらに、昨年全国的にも報道され警察の事情聴取にも発展した新潟市の露店市場管理事務所とヤクザ事務所との癒着の問題は、もともと僕が本会議の一般質問で指摘したものでした。しかしその質問を聞いていた同紙記者の方々は全く問題意識を感じず、数ヵ月後全国に報道されるに至り慌てて記事にしたという経緯があります(ことさら非難するつもりはありませんが、自分たちも含めて完璧ではないということを自覚すべきです)。
また、度々指摘するように、官製談合事件においても、マスコミはやたらと「議会は何もしていない」ということを強調しました。しかしマスコミが高く評価する内部調査委員会報告書には、議会の総務常任委員会で指摘された問題点が多々反映されており、マスコミは取材が不十分だったため、この事実を認識していませんでした。
それを複数の記者に指摘したところ、「そうだったんですか」というような顔をして、あとで調査委員会の一人の委員に僕の主張を確認したところ、あっさり「その通りですよ。議会での指摘もかなり反映されています」と答えられたとのこと。
さらにもうひとつ。談合問題調査委員会報告書の中の「指名業者事前公表」に関する「事実誤認」も、マスコミは全く問題を指摘しませんでしたが、僕や有志議員の調査によって、新潟市だけの問題ではなく国の制度改革の遅れにも大きな問題があることが判明、その調査に引き続き行なわれた国への申し入れや国会での近藤正道参院議員の連携行動によって、これは結果的に国交省の制度改革にもつながるという成果も生み出しています。
これは、マスコミでも調査委員会でも問題にしなかったことを議会・議員として問題提起し実現できた一例ですが、同時に、マスコミや調査委員会の問題提起なども受けながら、ある意味で相補的な役割を果たした一例であると言うこともできます。
ですから、僕は議会だけがきちんと仕事をしているなどと言うつもりはないし、未だ不十分だと思ってはいますが、この民主的な社会制度の中で、相互に補完しあいながらそれぞれが役割を果たしているのだという自覚こそが必要であり、自分たちだけが正義の味方や市民の声を代弁しているがごとき主張は、マスコミも議会も市も、控えるべきだと思います。
記者が主張する「議場での議論重視」は、記者自身が引用している片山知事の発言にもあるように「施策決定過程の透明化」と一体のものでなければなりません。
その「透明化」は、マスコミの取材に対する対応についても、必然的に再考が求められることになります。一般市民の参加が許されない行政の記者会見、記者クラブのあり方も再検討が必要でしょう。実際、いくつかの自治体ではそうした見直しがなされています。
施策決定過程のどの段階で、議会やマスコミや市民に、どのような形で情報を公開していくのか、そのあり方こそ透明化させる必要があるのです。
記者が主張する課題の解決を図ろうとすれば、自ずと、「取材」だからと言ってなんでも許されるわけではない、ということが論理的帰結です。マスコミの関心だけで施策の情報の公開の濃淡が生ずるようになっては、まさに「劇場型政治」を一層強めることにつながります。
この記事を書いた記者さんは、自分の指摘や問題提起が、ただちにマスコミと行政機関との関係のあり方にも跳ね返ってくることを、自覚しなければなりません。
その自覚と覚悟があるのなら、僕は記者の主張には大いに賛成ですよ。