
1993年(平成5年)8月13日(金曜日)の讀賣新聞、「家庭とくらし」欄の記事
忘れることができず、切抜きをずっと取っておいたのを、無断で転載させていただきます。
私が余計なコメントを書かないほうが良いと思うので、何も書かない。
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時計はずして自分のリズム
いつも時計とにらめっこしながら生活している。待ち合わせ、仕草の締め切り、終電。余暇や遊びも、効率よくやろうと、ついせわしなくなる。時間を忘れてのんびりしたい…。そんな願いをかなえてくれる宿があると聞いて、出掛けた。 (永峰好実)
◎くつろぎの里を訪ねて◎
名古屋から電車で一時間の三重県菰野(こもの)町。温泉街に向かう途中の雑木林に、目指す「湯の山ゆらぎ園」はあった。四百平方bの三階建て。一階は駐車場、二階はロビーと食堂と温泉浴場、三階は客室で約六十人が泊まれる。名古屋市の消化器科医、恒川洋さん(44)が二年前に開いた。ストレスからきている消化器系疾患は多い。そこで、「時間に追われるストレスからの解放」を目指して開園した。
ゆらぎ園に到着したのは夕方五時。
宿を預かる海山裕之さん(三七)は、恒川さん主宰の研究会に所属する調理師。その海山さんが「よろしかっ
たら、腕時計をお預かりしましょう」と言った。宿の中では時計を持たないのが原則。早速、時計をはずした。宿には、テレビも新聞もない。電話は緊急時だけ。「しばらくしたら、夕食ができます」と言われた。「しばらくって、どのくらい」と聞いてしまった。時間は忘れるはずだったのに、早くも失敗。東京からの途中、名古屋で、恒川さんに会い、「人工的な時間ではなく、自分の体内時計のままに過ごしてください」と言われたのを思い出した。
部屋は、平日のためか、十畳を一人で独占した。室内は、とういす二脚と小さなテーブルのほかは何もない。クーラーのタイマーもはずされていた。
ぶらぶらしていると、「夕食です」と声がかかる。空腹を感じていたときだ。無農薬野菜を使った自然食。大豆タンパク入りの玄米ピラフ、カボチャのサラダ、ワカメの酢の物、ジャガイモのスープとネギ焼きが並んだ。
食後、温泉につかった後、ロビーで、環境音楽のCDライブラリーから「月光の森」を選び聴いた。気持ちも休もリラックス。
読書しようと、四百ページ余の分厚い本、旧ユーゴスラビアの詩人ミロラド・パヴィチの奇想小説「ハザール事典」を持参した。部屋に戻り、ふとんに寝転がってページを繰った。だいぶ読み進んだところで、左手首をちらり。いつもの癖だが、勝計はない。
窓を開け星空を見上げた。数年前、アフリカのサハラ砂漠を車で走った夜を思い出した。砂漠で時計をなくした私は、遊牧民の案内人に「夜明けまで何時間?」と尋ねた。「五時間、いや六時間。七時間かもしれない」と答える。「どっちなの」と聞き返すと、「そんな違いはどうだっていい。夜が明けるのは確かなのだから」と言う。遊牧民は「星の時間」を生きていたのかな、とふと思った。
窓から見る隣家の窓は真っ暗。「そうとう遅い」と思いながら、再度の読書中に眠った。
翌朝は、鳥のさえずりで目が覚めた。まだ薄暗い。ひと眠りして起き、宿の周りを散歩した。
ロビーに戻ると、海山さんが「何時だと思いますか?」と聞く。「八時半ごろ」の気がした。実際には十時
近かった。時間がたつのは思ったよりも早い。夕方に東京で人に会う約束をしていた。正午の電車に乗らないと、間に合わない。あわただしくチェックアウト。腕時計が返ってきて、なんだかホッとしている自分が、情けなかった。
多くの客が一泊二日だが、一週間も滞在する人がいる。長期滞在では、四日目あたりの「いらいら」を過ぎると、道の花を眺めたり、散歩の道を探したり、「過ごし方を自分で発見するようになる」そうだ。
ミヒャエル・エンデ作の児童文学「モモ」で、人間に時間を配るマイスター・ホラは、「人間は一人ひとりが自分の時間を持っていて、それは、本当に自分のものである間だけ生きた時間でいられる」という。今回の体験で、時には頭の中から時計をはずし、「本当に自分のものである」時間を取り戻す努力をすることが、私たち現代人には必要だと思った。
暇もて余し怒り出す人も
恒川さんによると、時計をはずすのは、人間が本来持っている「ゆらぎ」を取り戻すため。四年に一度閏(うるう)年があるように、人間をはじめ、あらゆる生命体は、一定のリズムを刻んでいるわけではなく、揺らいでいる。一日の長さは人それぞれ違っているはずなのに、現代人は、時計という人工的な枠組みに無理やり押し込められている。自分のリズムが狂ってひずみが生じる。これがストレスになるという。
「眠たくなったら眠る、食べたくなったら食べる。それが体内時計」。こうした生活に早く適応するのは女性の方。男性は暇をもて余し気味で、会社のことが気になっていらいらしたり、「何をしに来たかわからん」と怒り出す人もいるそうだ。同園は一泊二食八千五百円。