2018/6/1

このマンガの続きが読みたい・・・『でゾルドル』  マンガ
 

クリックすると元のサイズで表示します

『デゾルデル』より

酔っ払って本屋に行くと、何故かマンガを買ってしまう私。翌朝になって、「こんなマンガ買ったっけ??」って思うのですが、実は「アタリ」が多い。

先日、机の上に転がっていたのは『デゾルドル』という作品。表紙の絵だけ見るの「何故、こんなのかっちゃたんだろう??」って作品ですが・・・「フランス最凶」と言われた傭兵団の団長の娘と、オルレアンの聖女ジャンヌ・ダルクを主人公にした歴史ファンタジー。

実は絵が・・・あまり上手く無い。いわゆる「今風」の絵では無い。話の展開も荒い・・・。ではこの作品がツマラナイのかと言えば・・・面白い。イヤ、チョー面白い。

100年戦争の当時、戦争の主役は傭兵達だった。彼らは戦闘の稼ぐ一方で、村々を襲い略奪と凌辱の限りを尽くす盗賊集団でもあった。”憤怒(ラ・イール)」と呼ばれたフランスで最強の傭兵団の団長には11歳になる娘が居る。彼女は戦闘に追従するも人を殺す事が出来ません。彼女は傭兵としては優し過ぎるのです。

そんな彼女を試す為に父親は一計を案じます。傭兵団が村を襲う前に、誰か一人でも村人の首を持ち帰ったら、その村の襲撃を中止してやろうと持ち掛けます。彼女は村に潜入しますが、そこで出会ったのは・・・後にジャンル・ダルクと呼ばれる様になる少女。

共に男装した少女二人の運命が動き始めます・・・。


というのが1巻の大まかな粗筋ですが、これから大きな歴史の流れが動き出します。

ところがです・・・ネットで「デゾルドル」と検索したら、こんなツイッターの画像がアップsれていました。



クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
岡児志太郎 Twitter より


エェェェーー、単行本第一巻が売れないから「打ち切り」になっちゃうのーーーー!!



これは看過できません。

確かに「今は」絵が上手い訳ではありませんが、もう少し「動き」が描ける様になれば「化ける」可能性を感じる絵柄です。「目力」のある画で魅力も感じます。(力強いタッチだけに、背景を描き過ぎるとゴチャゴチャします。こういう人は背景を省略した方が良いんですよね。)


ストーリテーリング作も突出して上手い訳ではありませんが、物語の筋はしっかりしていますし、何よりも「100年戦争」という世界史の教科書の数行でしか知らなかった出来事をビジュアルで見る事が出来るのは興味深い。特に、当時の戦争の暗部には興味をソソラレます。

私は「完成された作家」など面白くも何ともありません。こういう「作家の卵」が成長する様を見たいのです。



ですから、100年戦争に少しでも興味がある方は・・・買って!!
そして、私に、この物語の続きを読ませて下さい!!



ガンバレ、岡児志太郎!!


頼むよ、講談社のモーニング編集部



ちなみに1話目が公開されています。

第1話】 憤怒の姫君(前編)

2

2017/10/15

マンガって面白いよね・・・『アシガール』  マンガ
 

クリックすると元のサイズで表示します
『アシガール』より

■ 酔った勢いで『アシガール』をゲットした ■

アニメの続きが読みたくて『ボールルームへようこそ』を3巻目から買って家族から大ヒンシュクを受け、仕方なく1、2巻を買う時に、その隣にあった『アシガール』も酔った勢いで買ってしまいました。

目がクリクリした「女子高生」が何故か「足軽」の恰好をしている表紙・・ずっと前から気になっていたんですよね。もう、買え買えオーラがパナイ。

作者は『ごくせん』の森本梢子。2012年の連載開始ですから新しい作品ではありませんが、最近はNHKでドラマ化された様で、本屋の映像化作品のコーナーに展示されて目に触れる機会が多くなったのでしょう。

■ 「若君が好き」という一点突破で突っ走る面白さ ■

<ここからネタバレ注意>

無気力だけど足だけは速い16才の女子高生の「速川 唯」は、弟の発明したタイムマシーンで戦国時代に飛ばされてしまいます。彼女は敗走する足軽達のただ中で目が覚めますが、突然現れた女子高生は、足軽の少年と間違えられて、怪しまれもせず集団と行動を共にする事に。暗闇で見ると、ミニスカの制服は足軽の具足にシルエットが似ている・・・。

手際よく具足も手に入れた唯ですが・・・さすがに身元査証がバレそうになり、こっそりと集団から抜けて山中に逃亡。そこで出会ったのが眉目秀麗な黒羽城の城主の嫡男「羽木九八郎忠清」。出会った瞬間に心を奪われてしまいます。

夢見心地でついつい足軽の集団に戻ってしまった唯ですが、身元を詐称した農家の母親が迎えに来たからさあ大変。・・・ところが、この母親、何故か唯を我が子「唯之助」として家に連れ帰ります。必死の形相の唯を放おっておけなかったのです。美人で気丈の母親は、唯を我が子同様に厳しく扱い、家事を教え、城内の事を教えます。

戦国の生活にも少し慣れた一月後の満月の夜、唯は若様や新しい家族に後ろ髪を引かれるも、現代に帰る決心をします。タイムマシーンの発動条件は満月の夜なのです。

現代に戻った唯は、羽木九八郎忠清が討ち死にした史実を知ります。戦国時代の人物ですから死んでいて当然ですが、若様は唯が飛ばされた時間の直後に死んだと知ると、唯はいてもたっても居られません。弟に頼んで再び戦国にタイムトリップします。土産は白いお米と、駄菓子と携帯ゲーム機。

彼女は若様を守る為には、戦場で若様の傍に居る必要があると考え、どうにかして若様付きの足軽になろうと奮戦します。「若様が好き」という気持ちだけで突っ走る唯でしたが、超ポジティブ思考と、足の速さだけで、一歩、一歩目的に近づいて行きます。

■ マンガならではの面白さ ■

マンガの面白さは「何でもアリ」の面白さ。女子高生が戦場の真ん中で恋に落ちてもマンガならOK。いや、むしろツカミはバッチリ。

但し、これが面白い作品になるかどうかは作者の力量に掛かって来ます。どんなに荒唐無稽な話であっても、読者が共感する物な無ければヒット作とはなりません。

私は共感を生むのはある種の「リアリティー」だと思うのですが、「そうそう、こういう人居るよね」とか「そうそう、こういう事あるよね」と読者に思わせる細かな描写をチョコっと描けるかどうかが重要です。

『アシガール』の作者森本梢子は、こういう「ちょこっとしたリアリティー」の付加が上手な作家だと感じます。ポンと出て来て使い捨ての足軽のキャラでも、どっかに居そうなオッサンで、親近感があったり、城の人々は、大河ドラマに出て来そうな人達だったり・・・。

作家によっては丁寧な人物描写の積み重ねでリアリティーを生み出しますが、森本梢子の場合は「テンプレ」を上手にはめ込む事で一瞬でリアリティを生み出す省エネタイプ。

ただ、この作品、リアルを追及するのではなく、本質はあくまでもラブコメ。とにかく唯の思い込みと勘違いと直感と猪突猛進的な行動力がポンポン繰り出しすテンポを楽しむ作品。しかし、その合間合間に妙にリアルな一瞬が挿入されるから、読者は戦場で駆け回る女子高生という非常識な存在を自然に受け入れてしまいます。

「アリエナイけど、あり得るかも」と錯覚させる能力は、マンガというシンプルな絵柄が作り出す最大の武器です。女子高生の制服と、足軽の具足が似ている・・・これを読者に納得させるのに文字を媒体とする小説では難しい。一方、実写では違いの方が際立ってしまいます。漫画ならばシルエットを並べて描くだけで読者は一瞬で納得すると同時に・・・その組み合わせに爆笑する。

この様な「マンガならではの細かな技巧」がギューっとテンポ良く詰まっているのが『アシガール』です。


カラリと面白い作品なので、家内に勧めたら・・・一週間たっても一向に読む気配がありません。先日、私の誕生日に「僕へのプレゼントだと思って読んで感想を聞かせて」と強要したら・・・
数時間後のメールは「今夜は牛タンでゴザル」と来たもんだ。

帰宅した時には8巻全てを読み終えて、なんだか「ゴザル」が会話の語尾に付いていました。そして、翌朝にはネットで続きのネタバレまで読んでいた・・・・。

昨日、フラリとアパートから帰宅した娘も、家内の勧めで読み始めて・・・2巻を一瞬で読み終えて「バイトがあるから私帰るね」とあっさり続きを全部、鴨川に持って行ってしまった・・・。


『アシガール』恐るべし!!


<追記>

気付いたら、ここ数年、女性作家の漫画しか買っていない・・・。

『応天の門』灰原 薬
『レディー アンド ジェントルマン』オノナツメ(つい先日女性だと知りました)
『WOMBS』白石弓子 (日本SF大賞受賞、おめでとう!!)
『不滅のあなたに』『聲の形』大今良時
『ボールルームへようこそ』竹内友
『BEASTARS』板垣巴留
『式の日』〜『僕のジョバンニ』穂 積
『海街diaryシリーズ』吉田秋生
『シュトヘル』伊藤悠
『ちはやふる』末次由紀
『駅から5分』『花に染む』くらもちふさこ
『雑草たちよ大志を抱け』池辺葵
『市川春子 作品集』
『ゴロンドリーナ』『IPPO』えすとえむ  (今、記事を書いていて女性だと知りました)
『水域』漆原友紀        (今、記事を書いていて女性だと知りました)
『ピアノの森』一色 まこと   (先日女性だと知りました)
『この世界の片隅に』こうの史代

うーん、『銀の匙』『あひるの空』『ファイアパンチ』と『波よ聞いてくれ』以外は見事に女性作家なかりだ・・・。

私の買うマンガの女性作家って、性別不明のペンネームの方が多いんですよね。絵柄も性別不明のものが多い。だから意識して女性作家の作品を買っている訳では無いのですが・・・。男性作家の作品って単調なものが多いからかな・・?


4

2016/11/25

珠玉の平安サスペンス・・・『応天の門』  マンガ
 

クリックすると元のサイズで表示します

■ 在原業平が歌に詠んだ「都鳥」とは・・ ■

スカイツリーの近くにある業平橋。「業平」とは平安の貴族、在原業平(ありわら なりひら)の事。彼がこの地を訪れた折、「都鳥」という名の鳥を見て、都を偲んで読んだ歌に由来します。ちなみに「言問橋」もこの歌が由来です。

名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
『古今和歌集』

「都に置いてきた愛しき人は今どうしているのだろう」という恋の歌ですが、ちなみに都鳥(ミヤコドリ)とはユリカモメの事。

実は現在「ミヤコドリ」と呼ばれているのは別の鳥。

クリックすると元のサイズで表示します

チドリの仲間ですが、あまり風雅ではありません。

何故、「都鳥」がユリカモメであると言われるかと言えば、伊勢物語で「都鳥」の事を「「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」と説明しており、その姿はまさにユリカモメ。

クリックすると元のサイズで表示します

実は現在では京都の鴨川でも普通に見られるユリカモメですが、京都に現れる様になったのは1970年代から。昔は東国特有の鳥だった。


■ 「平安きってのプレイボーイ」の業平と、「平安きっての切れ者」の道真がタックを組んだら ■

在原業平は桓武天皇の孫にあたり高貴な身分ながら、薬師の変によって嵯峨天皇の子孫に天皇家の血筋が移ってからは臣籍降下し、在原氏を名乗っています。

平安時代のプレイボーイ物語の『伊勢物語』のモデルとも言われ、様々な浮名を流した様ですが、歌の才能もひとかたならぬものが有りました。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは (『古今集』『小倉百人一首』)

そう、今を時めく「ちはやふる」は彼の読んだ歌だったのです。

業平の時代、都の政治は藤原氏に牛耳られていました。伊勢物語の「昔男」は藤原氏に抵抗する反体制の貴公子の物語ですが、実際の業平は藤原氏とも姻戚関係にあり、政治の中枢から外れる事無く生涯を送ったようです。(Wikipedia参照)


さてさて、ようやく本日紹介する『応天の門』の話の準備が整いました。

灰原薬さんが「コミック@バンチ」で2013年から連載するこの作品、1巻目の宣伝文句は「平安クライムミステリー」だったと記憶しています。表紙は端正な絵なが、もしや中身は・・・あんなこんなのエログロ作品かと思って買ってみたら、何と良質な歴史ミステリーだった。

平安きってのプレイボーイの在原業平と、平安きっての博識の菅原道真がもし親友だったら・・といった「もう一つの歴史」的な作品ですが、作者の灰原薬さんは元々はBL作家だけに、発案された時は「業平が攻めで、道真が受けで・・・ナリミチなんて・・・ぐふぅふぅ・・・」って感じだったのではと勝手に想像しています。(スミマセン)

年齢的には業平の方がかなり上なので、実際の歴史で二人にあまり接点は無かったと思いますが、共に「藤原氏に抵抗していた」という事が接点となって、この物語が生まれたものと思われます。

内容的には、京都の護衛の任についている業平が、京都で起こる難事件や不思議な事件の解決を道真にお願いするという、ミステリーの定石。ただ、起こる事件が今でこそ不思議で無い事が、科学的知識が無い平安では「妖怪」だの「祟り」だのと解釈された訳で、それを博識の道真が唐由来の科学知識を駆使して解決するというのが、何ともキモチの良い。

■ 平安時代をリアルに感じられる素晴らしい作品 ■

現在の私達は歴史の教科書や古典作品を通して平安時代を知るしかありません。ビジュアル的な平安はTVのドラマや映画の影響を強く受けています。そこには薄っすらと「歴史フィルター」が掛かっていて、リアリティーが欠けています。

しかし、『応天の門』はかなり現代的な表現の内容で、着物や風物、風景や単語などは歴史的な背景をしっかり踏まえていながらも、人々の感情は現代人のそれに近い。政争を繰り広げる藤原氏と抵抗勢力のやり取りも、現代劇の様でリアリティーがあります。

「歴史物」に共通していた「当時の人をそれらしく」という無意識の規制が無い事で、歴史上の人物をこんなにも生き生きと描けるという好例かと。

ただ、現代人の持つ自我と、平安時代を生きた人達が持つ自我が当然同じはずは無く、死生観や世界観も異なっている事は確かで、それを敢えて無視できるのは作者がBL的な嗜好の持ち主だから・・・なんて妄想してしまいます。

■ 女の子キャラが可愛い、業平がイケメン、道真がツンデレ ■

この作品の大きな物語は藤原氏とそれにう抵抗する業平達の勢力争い。藤原氏がいろいろとめぐらす策略を、道真の知識と機転でクリアーしていうというのが醍醐味。(実際の業平は藤原氏と宜しくやっていたらしいのですが)

単行本では各話の後に歴史研究家で東京大学教授の本郷和人氏による分かりやすくて面白い解説まで着くので歴史好きにはたまらない作品。単行本は累計で50万部を超すヒット作となっています。

一方、漫画好きには女性キャラが綺麗でカワイイ、業平がイケメンでダラシナクテ素敵。道真のツンデレがかわいい・・・なんて魅力も。

とにかく「大人の読書」に加えて頂きたい!!
2

2016/9/28

「赦し」を許せない人々・・・『聲の形』  マンガ
 

クリックすると元のサイズで表示します

『聲の形』 大今良時 講談社 より

■ 何かと比較される『君の名は。』と『聲の形』。 ■

時期をほぼ同じくして公開された大人の鑑賞にも耐えうるアニメ映画として、何かと比較される二作品ですが、私は『聲の形』の方が圧倒的に好きな作品です(原作も含め)。

「それは観終わった後に考えさせられる事が多い」と一点に尽きます。

「SFファンタジー」と「社会性を持った作品」を同列に比較する事自体が無理がある事を承知で言うならば、『君の名は。』は観終わった後に「タイムりープの構造」というSF的ギミックにひたすら思考が集中します。

これが『秒速5cm』や『言の葉に庭』であれば、主人公達の心の葛藤や関係性の変化を色々妄想しながら、しばらく楽しむ事が出来たのですが、『君の名は。』は「入れ替わり」というスペシャルなイベントで主人公達の心が強引に結び付けられてしまっているので、彼らの「関係成立の機微」はすっ飛ばされてしまっています。これは新海監督らしく無い。せめて最後に出会えずに終わっていれば「新海風」としての体裁というかポリシーが保てたのかも知れませんが、大衆のアピールする監督となる為にはハッピーエンドの選択しか無かった。これが今の大衆娯楽映画の限界。

一方、『聲の形』は原作からして「ヒット作品の王道」と対局にる作品ですから、当然映画も大ヒットなど意識しては作られていません。原作7巻で積み上げて来た「人間関係」を2時間の枠でどれだけ分かり易く観客に伝えるかという事に専念しています。だから初めてこの作品に触れた観客も、観終わった後に色々と考えさせられる・・・。

■ 硝子の「赦し」は都合が良すぎる?という当然の反応 ■

『聲の形』を初めて観た人も、原作で読んだ人も、最初に大きな疑問に突き当たります。それは「被害者の少女がなぜ加害者の少年を受け入れたのか」という点。これが、読者(視聴者)がこの物語を受け入れるか、否定するかのカギになります。

普通に考えれば、「イジメを受けた側はイジメタ人間を一生赦す事は有りません!!」。ですから、ここで思考停止してしまった人には、この物語は「障害者をネタにしたお涙頂戴物語」として不愉快な作品のリストに入ります。

一方、「赦し」の理由を色々考えると、この物語は様々な思考のネタを読者(視聴者)に与えてくれます。

■ 硝子は「特殊」な性格の持ち主だから成り立つイレギュラーな物語 ■

「硝子は何故将也を許したのか?」、それは彼女が「特殊な性格」の持ち主だったから。そう言ってしまうと身も蓋も有りませんが・・・これに尽きるかと・・。

根本的には硝子は「自己否定の塊」の様な性格です。それを形成したのは硝子の母親の「イジメに負けない子に育って欲しい」という願望。これは「普通の子に育って欲しい」という願望と同義です。母親は硝子を「普通の子」に育てる為に相当スパルタです。髪を男の子の様に短く切ればイジメられないと言い、さらには、8回も補聴器が紛失するまでは硝子が自分でイジメを解決する事を待っています。(普通の親なら1回で校長室に怒鳴り込みます)

母親の願望とは裏腹に、聴覚障害者が健常者と同じ様に社会が学校で生活する事は根本的に不可能で、彼女が友人の輪に普通の子供として入って行く事は始めから無理があります。

硝子は芯の強い性格らしく、何度失敗しても「友人」になろうと周囲にアプローチし、そして当然の事ながら挫折します。

こんな事を繰り返す内に硝子の心は「自己否定」と「渇望」に引き裂かれていきます。「友達にならなければいけない」という義務感と、「どうせ私には出来ない」という諦めに支配され、表面的なアプローチと裏腹に心は固く閉じてコミュニケーションが取れません。

■ 唯一、硝子が真剣に心をぶつける事が出来たのが将也だった ■

硝子の心が閉じている事を、子供達は敏感にそれを感じ取り、イジメや無視という形で彼女を拒絶しますが、将也だけが彼女に興味を持ち続けた。これを彼女が「救い」と感じる事は絶対に在りませんせんが、その繋がりすらも彼女には大切な物だったのでしょう。

だから、「お前なんか大っ嫌いだ」と敵意をむき出しにする将也に硝子は本気の抵抗を見せる事が出来たのではないでしょうか。それは彼女の人生にあっては数少ない「本音」の行動であり、だからこそ将也は彼女にとって「トラウマ」であると同時に「気になる存在」で在り続けたのでは。

■ 彼女の事を考え続けた将也は、硝子にとって特別の存在 ■

高校3年生になってから、手話を覚えた将也が突然現れます。彼が彼女を気にし続けてくれた事は彼女にとっては驚きであると同時にある種の喜びだったのでは無いか。「関係が続いていた」事が彼女にとってはイジメの辛い記憶に勝る喜びだった・・。

勝手な解釈ですが、「現実的」かと言えば「作者の願望」に近い展開ですが、この最初の「赦し」が無ければ物語自体が成り立たない。

最初は単なる「ストーリーの切っ掛け」として描いたシーンだと思います。しかしこのシーンには作者自身が「不自然さ」を感じていたと思います。ですから7巻に及ぶ原作の執筆の間、「赦し」の理由を考え続けていたのでは無いか。

その試行錯誤に積み重ねが、将也や硝子以外の登場人物にも重要な役割を与え、彼らの造形を深いものにします。

この作品の最大の魅力は、登場人物のみならず、彼らを描くことで原作者自身が成長し続けている事に在る。これは新人作家にだけされた「魔法」のひと時です。

■ 全ての努力を無化してしまった自殺シーン ■

原作の難点を一つ挙げるとするならば、硝子が自殺を選択し将也がこれを助けて命の危機に陥った事。

物語的にはインパクトの有る事件ですが、これまでそれぞれの内面や経験を丁寧に描いて来て、彼らの関係がどう改善されるのかが期待される局面で「リセットボタンが押された」感じがして仕方が無い。これでイジメられていた側とイジメテいた側の罪のギャップがキャンセルされてしまった。この物語で非難されるプロットは、硝子が将也を赦した事では無く、それでも消えない将也の罪を自殺事件が無化してしまった事。

ここら辺が少年誌連載の限界かと感じています。


何れにしても50才のオヤジですら、この作品を読んだ後には色々と考えさせられてしまう。これこそが、素晴らしい作品に求められる条件であるとするならば・・・『君の名は。』は映像表現が美しくとも『聲の形』には勝てない。(個人的にですが)


原作の大ファンでライブのMCで原作1巻のあらすじを全部話しちゃったというAIKOの主題歌がアップされていました。



8

2016/9/25

人は「善」でありたいと願うが・・・『聲の形』  マンガ
 
クリックすると元のサイズで表示します

■ 耳の聞こえない転校生 ■

映画『聲(こえ)の形』を見て来ました。

活発でクラスでも人気者の少学6年生の石田 将也(いしだ しょうや)は耳の聞こえない転校生西宮 硝子(にしみや しょうこ)に無邪気な興味を抱きます。

彼にとって初めて接する「耳の聞こえない」女の子は退屈な日常に突然現れた「おもちゃ」みたいな物。どの位、耳が聞こえないのか確かめたり、彼女の発声を真似たり・・・それがクラスで受けると彼の行為はどんどんとエスカレートして行きます。

一方、クラスの女子は彼女に色々と気を遣います。彼女の為に先生の「言う」事をノートに書いてあげたり、ノートを使っての筆談をしたり・・。しかし、だんだんと彼女の世話を「面倒」だと感じる様になります。

興味津々で硝子を観察していた将也は「おまえ、うざがられちゃうよ」と告げますが、硝子は自分をカラかって遊んでいる彼に「トモダチ」になろうと手を握ります。将也は反射的にその手を振りほどき、砂を投げつけます。

その日以来、彼の「イジメ」がエスカレートします。彼女の補聴器を捨てたり、水を掛けたり、足を引っ掻けて転ばせたり・・・。クラスメートは彼のイジメに積極的に、或いは消極的に同調します。

とうとう、保護者から学校にクレームがきます。今までに紛失したり故障したりした補聴器の総額が170万円になると・・・。校長は「警察沙汰になって親に迷惑が掛る前に申し出て欲しいと」と生徒達に告げます。すると、教師を始めクラスの全員が「石田君がイジメていた」と言います。「お前らだってイジメテいたじゃないか」と抗弁する石田は完全にクラスメイトにハブられます。子分だった親友二人は彼の上履きを何度も隠し、遊ぶふりをして暴力を振るいます。

そんな石田に何故か優しく接する硝子に将也は怒りを爆発させます「お前さえ居なければこんな事にはならなかった!!」。掴みかかる将也に硝子も必死の反撃をして、二人は取っ組み合いに・・・・。そして、硝子は転校して行きます。


ここまでは『聲の形』のプロローグ。

中学になってもかつての同級生達は彼を無視し、他の小学校から来た生徒達に「石田はイジメっ子だから気を付けろ」と言いふらします。将也は完全に孤立し、いつしか自ら周囲を拒絶する様になります。

そんな将也も高3になり、彼は何となく自分の寂しい将来が見えてしいます。そして彼は自殺を決意し、身の周りを整理して、最後の「清算」を決行します。

・・・・それは、西宮硝子に会って謝る事・・・。

突然現れたかつての天敵を見て硝子は逃げます!!そんな彼女に将也は思わず手話で話し掛けます。「オレと友達になろう」。自分でも考えもしなかった言葉が飛び出して驚き戸惑う将也を何故か硝子は拒絶しません。目を潤ませて嬉しそうに見えます・・・。

こうして、少年と少女の時間が動き出します。それは、周囲も巻き込んで・・・。

■ 「問題作」を社会は受け入れた ■

作者の大今 良時(おおいま よしとき・女性)が19才で2008年に「少年マガジン新人賞」に応募した作品『聲の形』は入賞を果たしますが、賞の特典である雑誌掲載は見送られお蔵入りに。「聴覚障碍者へのイジメ」を描いた作品に批判が集まると考えたのです。

しかし、マガジンの副編集長は、どうにかこの作品を世に出そうと奔走します。社内の法務担当や弁護士に掛け合い、聴覚障碍者に意見を聴きます。「全日本ろうあ連盟」はこの作品に一切の手を加える事無く雑誌掲載して欲しいと告げます。

こうして、お蔵入りになっていた『聲の形』は、『別冊少年マガジン』2011年2月号に掲載されます。読者アンケートでは『進撃の巨人』・『惡の華』を抑えて首位獲得。マガジン編集部は。この作品を読者が求めていると判断し、「週刊少年マガジン」での連載を決定します。

■ 映画『聲の形』をファンは受け入れた ■

こうして、奇跡的に日の目を見た『聲の形』は、多くの若者の支持を集め、アニメ化の要望も高まります。

9月17日から全国でロードショーが始まった映画『聲の形』は、ファンの期待を裏切らない素晴らしい出来栄えでした。原作に思い入れが深い作品程、ファンはアニメに厳しい評価を下しますが、監督・山田尚子と脚本・吉田玲子という最高の布陣で、京都アニメーションはこのハードルのはるか上を超えてみせました。

下は劇場予告です





■ 弱い「異分子」を集団は排除する ■

子供は本能的に「イジメ」をします。これは生物や集団に備わった防衛本能だと私は考えています。「異分子」を集団は排除するのです。

小学校のみならず、大人の集団の会社であっても、「変なヤツ」や「空気が読めないヤツ」は排除されます。但し、その人物が圧倒的な肉体的、あるいは頭脳的能力を備えている場合、彼らはリーダーとなり集団を牽引します。

文部科学省は「イジメ撲滅」に必死ですが、人間が生物である限り、学校が集団社会である限り、洋の東西を問わず「イジメ」は無くなる事は有りません。

■ 集団のかなの序列を決めるイジメ ■

もう一つイジメには「本能的性質」が在ります。をれは「集団の序列」を決める事です。生物の集団にはリーダーと序列が必要です。

子供達は遊びの中でも無意識に優劣や序列を決めています。腕っぷしの強いヤツや、ずば抜けて頭の良いヤツは格上。そして、その他大勢は、その中で序列を競って必死になります。仲良く遊んでいても、絶えず、「オレ、こいつより上だな」と確認し続けます。

こうした序列決めの最下層で「イジメ」が生じます。たいして能力に差が無い者達は、誰か一人を最下層にする事で、溜飲を下げるのです。

「イジメ」の原因に理由は要りません。「給食を吐いた」とか「頭が臭い」なんんて理由で十分です。

尤も重要な事はイジメの対象が「反撃」をしない事です。「反抗」や「反論」は反撃では有りません。物理的、肉体的反撃で集団に危害が及ばない事が重要です。

こうして、小学校のみならず、大人の集団でもイジメは必ず存在し、多くの人達が意識的、或いは無意識的にイジメに加担しています。

私も小学校の頃は「○○菌」なんて遊びを平気でやっていました。

家内は「イジメっ子」が東に居ると聞けば東に走り懲らしめ、西に現れたと聞くと西に走って懲らしめたと言っています。お前は『化け物語』のファイヤーシスターズかよと突っ込みたくなる活躍ぶりです・・・。

■ 「集団への帰属の試金石」となるイジメ ■

イジメにはもう一つの役割が在ります。それは「集団の結束を確認」する事です。これは「生贄」と呼ぶに相応しい。

集団は「罪の共有」や「秘密の共有」で結束を深めます。「文化祭。皆で頑張ったね!」と言うのが「ポジティブな結束の儀式」だとすれば、「○○をハブらねーーー?」と言うのが「ネガティブな結束の儀式」です。

秘密結社の儀式なども「ネガティブな結束の儀式」で、法に触れる様な秘密を共有する事で、結束を深め、裏切りを防止するのでしょう。

■ 「理性の鎧」と「善への希求」 ■

ここまで読まれて「胸糞悪い」と思われた方も多いと思います。それは人が「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を本能的に持っているからだと思います。

『聲の形』でも最初クラスメート、特に女子達は硝子に優しく接します。「耳の不自由な子に優しくする」というのは理性的には正しい行動ですし、「自分が正しい存在」である事を証明する事にもなります。人は誰しも「善でありたい」と願います。

「人に優しくしたい」「人に好かれたい」「人に尊敬されたい」と強く願う人は「理性の鎧」を厚くして、自分の中に在る動物的な欲求を必死に抑制します。

『聲の形』の中でもクラス委員長の「川井みき」の「理性の鎧」は強力で、自分の中にある「イジメの欲求」も抑えますが、「本当の自分」の認識も阻害します。彼女は無意識にイジメに同調していますが、自分がイジメに加担しているという意識は抑制されています。

そして、「彼女もイジメに加担していた」と指摘する人間を完全に否定し、自らを守る為には友人すらも無意識に裏切ります。

人は多かれ少なかれ「理性の鎧」を纏い、「善への希求」を内に秘めていますから、私達は「無意識のイジメ」を誰かに向けていても意外にも気付いていない事が多い。

■ 「公認された悪」に対して凶暴化する人々 ■

「○○バッシング」などという現象が良く起こりますが、雑誌やメディアが「公認した悪」に対して、世間の人々は容赦が在りません。

「理性の鎧」と「善への希求」によって抑圧されていた攻撃性が、容赦なく「公認された悪」を打ちのめします。彼らは相手を「悪」と特定する事で「正義の暴力」を執行する事に疑問を持ちません。これは「イジメ」と同質の物ですが、私を始めとしてほとんどの人はそれを「イジメ」と認識しません。

これは一種の集団の「ガス抜き」です。そして、メディアや政治は、この効果を良く理解した上で利用します。

■ 「本能」と「善」との葛藤を描く物語だ ■

『聲の形』が多くの若者の心を捕えたのは、この作品が「イジメル側の理屈」にも自覚的だったからだと私は考えています。

硝子を最後まで受け入れないのは、女子のリーダー格だった「植野直花」(うえの なおか)です。植野は小学校の時代から将也に好意を抱いていたので、将也が硝子をイジメルのは「
好意」の裏返しでは無いかと疑います。同時に将也の気を引く為にイジメに加担します。

彼女は恋敵として硝子を否定的に見ている分、硝子の問題点にも自覚的です。

硝子はイジメた相手に敵意を剥ける事が出来ません。仮に相手を憎いと思っても、それすら自分に原因の有る事だと解釈します。

実は「イジメをエスカレートさせる要因」は、「敵意に対する無反応」です。「敵意」に対して「敵意」を返す事で「コミュニケーション」は成立します。

ところが「敵意」に対して「敵意」が返ってこないと「コミュニケーション」すらも成立しません。生物はコミュニケーションの成立しない存在を本能的に嫌悪し、排除しようとします。

感情的、本能的な植野が硝子とコミュニケーションする為には、硝子の反撃や敵意が不可欠なのです。作者はこの二人の関係を丁寧に描いています。これは女性作家ならではの描写です。

■ 「イジメ」もコミニケーションなのかも知れない ■

『聲の形』に否定的な人達も居ます。その方達のインターネットの書き込みを見ると「イジメタやつを赦すヤツなんて居ない。」という意見が多い様です。

これこそが、この物語の本質です。

何故、硝子はイジメられたのに笑っているのか。イジメタ相手に「友達になろう」と言うのか・・・・。

それは「イジメ」ですら彼女にとっては「貴重なコミュニケーション」だったのでは無いか。耳の聞こえない彼女にとっては「無関心」が一番恐ろしい。

耳が聞こえない彼女は、相手が自分の方を向いて話してくれなければ、相手との繋がりを確立する事が出来ません。敵意を持って向けられる言葉でも、それが自分に向けられている事が、彼女にとっての救いになっていたのかも知れません。

だから彼女は無関心な相手よりも、自分をイジメル将也とより繋がりを求めた。だからこそ、高校生になって再開した彼を受け入れ、必死になってコミニケーションを図ろうとする将也に好意を抱く様になったのでは・・・。

この物語に登場する若者達は皆、実は「認識される事」を望んでいます。「好きな人に見てもらい」「自分を親友と認めてもらいたい」・・。そのすれ違いが物語に微妙な綾を付け、読者の心を掴んで離しません。

それぞれの読者が、登場人物の誰かに自分を重ねているのです。

映画化に当り、省略されてたエピソードも多く、それを惜しむ声が多いのも、そのシーンや登場人物に対する読者の共感が大きいからかと・・。

■ 吉田玲子の脚本には脱帽だ ■

「TV版の長さで見たい」との要望も多い様ですが、私は単行本7巻を2時間に纏めた脚本には驚愕しています。

大事なエピソードを丁寧にツナギ、原作で不自然な所は大人の視線で補い、そして、重要なシーンに十分な時間を作り出しています。ああ、脚本ってこんなに大事なんだって、実感させられます。

そして、当然、山田尚子の演出も冴えています。とにかく「カワイイ」を描かせたら当代一の作家だけに、結構エグイ内容を、美しい青春の一ページに昇華させています。「美化」はアニメーションの得意技です。実写でこれに成功した例はドラマの『のぶたをプロデュース』位しか思い浮かびません。(あの堀北真希ちゃんと、ヤマピーと亀梨はマジで神)


■ 読んでから観るか、観てから読むか ■

私は原作を読んでから観ましたが、映画版は原作未読でも十分に話の内容が理解出来ます。それこそ、吉田玲子の「神脚本」のおかげです。

実はこの映画、原作を読む前に観た方が感動出来ます。

私などは涙を拭く為にハンカチをスタンバイしていたのですが、隣が若い女性だったので、「何、このオヤジ、泣いててキモイんですけど」と思われたくなくて、泣きそうなシーンになると身構えてしまいました。

これ、原作を読まずに観ていたら・・・ハンカチ1枚では足りないでしょう。

劇場は小学生も多く、劇場を後にする彼らが口々に「感動した」「スゲー良かった」と言っていたのが耳に残っています。


当然、この映画、文部科学省も一押しで、文科省のホームページでもスペシャルページが作られています。

http://www.mext.go.jp/koenokatachi/


■ 「偽善」に陥らない細心の注意 ■

この手の作品は「偽善」との評価を受けやすいのですが、作者の主題は「障害者とのコミュニケーション」では無く、等身大の若者のコミニケーションに在る様です。「聴覚障害」は多くの若者が抱える「悩み」のバリエーションの一つに過ぎません。

原作者の母親が手話通訳をしていた事で生まれた作品ではありますが、一人一人の心の葛藤を丁寧にシミュレートする事で、「悩める若者一般」という普遍性を手に入れています。作者と、それを導いた編集者に最大の拍手を送りたい。


興行収入や作家性は『君の名は。』には及びませんが、視聴者の「共感」と言う意味において、『聲の形』は圧倒的に高い評価を受けるでしょう。特に、今を悩む若い世代の支持は高いかと。願わくは、もう少し上映館数を増やして欲しい。学校の先生にも是非見て頂き、生徒達と感想を述べ合うなど、この作品の社会的な役割は小さくは無いはずです。


50才を超えたオヤジですが、岐阜県大垣市に聖地巡礼に必ず行こうと心に決めました。


それにしても『君の名は・』の高山市・飛騨市に続き、大垣市もアニメ聖地となり、今年は岐阜県の年となりそうです。



<追記>

私は硝子の妹の西宮結絃(にしみや ゆづる)と、親友を自称する永束友宏(ながつか ともひろ)の存在が非常に大きな作品だと思います。この物語は、半分はこの二人の為に有るのかも知れません。

この二人は、ちょっとリアルで無いキャラなのですが、「映画」で、敢えて絵柄をリアルに振る事をしなかったのは、ファンへの心遣いでしょう。大人まで視聴対象とするならば、もう少しリアルなキャラの方が違和感は無いのですが、劇場に足を運ぶのは圧倒的に原作ファンであると製作側も予想していたのでしょう。

私はその予想が裏切られる事を望んでいます。子育て中お母さん、お父さんにこそ観て欲しい作品です。石田ママや西宮ママを観るだけで、明日への勇気が湧いて来ます。
6


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ