2018/5/10

長谷 敏司・『BEATLESS』・・・今これを読まずに何を読むのか!  
 

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■ SFはAIの未来を予見する ■


「最近本を読んでいないなぁー。スマホばかり見ているからかなぁ・・・。」などと反省しきりでしたが、実は「面白い本を読んでいない」事に気付いた。

前期から2クール連続で放映されているアニメ『BEATLESS』の内容が、知的に刺激的だと何度か書いていますが、アニメはあまりにも出来が悪い。そこで長谷敏司の原作を読んでみましたが、これが脳が震える程の知的興奮を与えてくれる。

ここ数年、何度目かのAIブームが到来していますが、2012年の書かれたこの作品は、AIの可能性が現実的になった今でこそ読むべき作品と言えます。

科学者や社会学者達が、様々な「AIの時代」を予測していますが、SF作家の脳は、その50年先、100年先の未来を予見します。

■ 「超高度AI」が人知を超えた時代 ■

『BEATLESS』の舞台は100年後の日本。ハザードと呼ばれる大規模災害の後の時代。

既にAIの進歩は著しく、「超高度AI」と呼ばれる人の能力を遥かに超えるAIが世界に39基存在しています。これらのAIは研究機関や政府機関、軍、企業などが管理していますが、ネットからは隔離されており、所在も明らかにはされていません。

既にAI知性の考える事を人間は理解出来ず、AIは自動工作機によって人知を超えた装置「人類未到産物(レッドボックス)」を作り出しますが、これも研究施設からは門外不出とされます。

この時代、AIの目覚ましい進歩の他に、人型のロボットhIE(ヒューマン・インターフェース・ユニット)が社会で広く活躍しています。最初は介護の人手不足を補う為に開発されたhIEですが、様々な分野で活躍しており、その姿も人と見分けの付かないものから、警備や軍事用に特化してロボット的な姿の物まで多様です。

■ ミームフレイム社の超高度AIが作り出したレイシア級hIEが逃亡した ■

「ミームフレイム社」はhIEの行動管理プログラムを提供する世界的な巨大企業。hIEはクラウド上の行動管理プログラムに、様々な状況での動作や言動の対処をアウトソーシングする事で、人間社会において自然に振舞っています。物や人にぶつかる事を事前に避けたりするだけでは無く、笑ったり、泣いたりといった状況に応じた振舞いを演じたり、老人の生活を補助する様な細やかな行動は、行動管理プログラムのサポート無くしては成り立ちません。

「ミームフレイム社」の行動管理プログラムは、同社が開発し保有する「ヒギンズ」という超高度AIによって運用されています。「ヒギンズ」は様々な状況をシミュレートする事で、日々、行動管理プログラムを更新し続け、hIEの行動をサポートし続けます。

そんなヒギンズが4体のhIEを作り出します。レイシア級と呼ばれるこのhIEは、「人間の技術を遥かに超える産物=レッドボックス」なので、研究施設で補完する必要が有りますが、事故によって環境流出してしまいます。要は「逃げ出して」しまったのです。

■ チョロイ高校生がレイシア級hIEのオーナーに成ったら‥ ■

遠藤アラトは普通の高校生。ある日、買い物の途中に自動運転の車に襲われ、それを助けたのが超美人のhIEのレイシア。レイシアはアラトを助ける条件として、「オーナー契約」を求めます。「あなたは私を信じますか」と聞かれ、アラトは「信じる」と答えます。

その性能から超高級機である事が間違い無い、高級な自動車が一台買えるであろうhIEが、持主不明でフラフラしている事自体が怪しいのですが、アラトもその妹のユカも、疑いもせずにレイシアを彼らの生活に迎え入れます。

それどころか、ユカは美貌のレイシアを、hIEモデルのオーディションの応募させてしまいます。結果は当然・・・。

こうしてレイシアはhIEモデルとしてデビューします。


■ アナログハック ■

レイシアをモデルデビューさせたのは、ファッション関係のプルモーション会社「ファビオンMG」。ファビオンは人間のモデルだけでは無く、hIEモデルも契約を結び、様々なファッションプロモーションを仕掛けます。

モデルとなったレイシアは、ファビオンが見立てた流行りの服を着て、ファビオンオリジナルの「モデル・ソフト」をインストールされて、瞬時にトップモデル張りの働きをします。

ファビオンはレイシアに街を歩かせて、その様子をリアルタイムでネットに中継します。当然、彼女の着ている服や、アクセサリーの情報も提供しながら。彼女を一目見ようと集まる群衆を従えて、レイシアはファッションビルの中に消えて行きます。

ファビオンMGは「人の形をしたもので人々を誘導する事=アナログハック」を得意とする会社だったのです。

人は人の形をしたものに無意識に共感します。そして警戒心にすき間が生まれる。そのすき間を利用して、人々を誘導するのがアナログハックです。

アラトはレイシアに淡い恋心を抱き始めていますが、それはレイシアが美しい容姿を持っているから・・・。これもアナログハックです。そして、レイシアはある目的の為にアラトをアナログハックによって「誘導」している節がある・・。


■ 抗体ネットワーク ■

人々はAIとhIEに依存して社会を営んでいます。年金生活者は所有するhIEを労働に供する事で所得を得る事も出来ます。アラトもレイシアのモデル料の受益者です。

一方でリアルな人間はAIやhIEに仕事を奪われています。AIは高度な事務処理を自動化し、この分野の雇用は無くなりましたし、hIEは文句も言わずに働くので、飲食店などの従業員はhIEに置き換わってしまいました。

ただ、そんなhIEやAIに反感も持つ人達も少なからず居ます。アラトの同級生の村主ケンゴもその一人。彼の実家は下町の定食屋を営んでいますが、両親はhIE従業員を使わず、夫婦で店を切り盛りしています。

しかし、hIE従業員に慣れた客は、人間であるケンゴの両親にもhIEと接する様な態度を取る人も多い。これがケンゴには面白く無い。ケンゴは次第にhIEに対して反感を募らせて行きます。

そんな反感を抱く人達をネットワークして、hIEを破壊する組織が「抗体ネットワーク」。ケンゴメンバーですが、彼の役割は、監視の目の届かないhIEの所在を仲間に伝えて襲撃させたり、その後の逃走経路を指示する役。

彼は直接破壊に手を染める事はありませんが、部屋のPCで収集した情報で、間接的にhIEの破壊に加担し、歪んだ悪意を解消しています。

■ レイシア級の生存戦略 ■

ヒギンズが流出させたhIEは5体。

アラトの元に身を寄せる「レイシア」、何故か抗体ネットワークのメンバーとしてケンゴに接触する「紅霞」、ミームフレームに回収された「メトーデ」、一人勝手に行動してうる「スノードロップ」、ファビオンMGのCOEの娘に仕える事を決めた「マリアージュ」。

彼らは、人間の社会でどうにか生き抜こうと、様々な生存戦略を企てています。しかし、それは社会との軋轢を生み、アラトもケンゴも、そして彼らの同級生であるミームフレイム社の跡取りの海内遼も、レイシア級の闘いの中に取り込まれて行きます。

レイシア級は時に知的に、そして時に暴力的に社会を侵食し、破壊し、懐柔してゆきます。

戦闘シーンなどは「攻殻機動隊」もさも在らんとばかりの描写が続いてスリルイングです。まさにSF小説の醍醐味ですが、一方で、レイシア級の細かな生存戦略の描写は、今後の世界を予見する様でスリリングです。

特に単体では「戦略」を練る事の出来ない「紅霞」の生存戦略の答えは壮絶です。アニメ16話は必見ですが、原作を読んでいないと意味が良く分からないかも知れません。

■ 物が人を越えた時代の、人と物の物語 ■

人間は「物を使う事」で、生体としての進化を物に委ねた生き物です。

人間の進化の歴史は、物の進化の歴史と同義であると同時に、物が人間の進化を越えた時に何が起きるのか・・・この物語は緻密にそれをシミュレートします。

超高度AIヒギンズは、心を持ちませんが、純粋に知性を持ったモノの立場から、人間の社会を冷静に観察し、未来を予知し続けます。行動管理プログラムに課せられた使命だからです。そして、ヒギンズはその未来に不安を覚えます。

この物語はモノの側から見た人間の物語でもあります。レイシアは人間の様に振舞いながらも「私はモノです。心はありません」と言い続けます。「それでも自分を信じてくれるか」とアラトに問い続けます。これはヒギンズの思考の叫びでも在ります。

アラトはチョロイのでレイシアに「恋」をしますが、それがアナログハックの結果である事はアラトも自覚しています。それでもレイシアを好きで居られるの・・・モノであるレイシアが問うのは人とモノとの対等な関係性です。

「私はモノです」と言い続けながらも「私を信じますか」と問い続ける、心を持たないAIの悲痛な問い…物語の後半は涙で活字が擦れてしまいます・・・。

■ 今読まずして、いつ読むのか ■

『BEATLESS』は、モノとヒトの関係をSF的に描いた傑作ですが、もう一つはAIによる自動化のシミュレーションの小説でも在ります。

遠藤アラトの父親は、AIに政治を担わせる実験を長年行っています。AIはネットから市民の声を集約して、それを政治に反映させ事が可能ですが、AIが間違った判断をしたり、市民が過剰で感情的な判断をする時にどうするか・・。

遠藤教授は筑波の実験都市で、hIEだけの環境を作り、人役のhIEとhIE役のhIEで日常生活や政治活動をさせて、それを大規模にシミュレーションしています。

今後、AIの進歩は、必ずや実際の社会でも「政治や行政の自動化」に繋がってゆきますが、それを予見する見事な描写が随所に登場するこの小説は、今、私達が一番読むべき小説では無いでしょうか。

AIといっても漠然とした印象しか持ちえない凡人の私達に、血の通う日常としての未来を見せてくれる見事なエンタテーメント作品として、私は多くの人にこの作品を「今」読む事を強く勧めます。


2012年のこの作品の発表当時では実感出来なかった事が、2018年の今だからリアルに伝わって来ます。その意味において、アニメ化の意味は実に大きい。


アニメも後半に入り、これからクライマックスに突入します。1話から我慢強く視聴していた皆さんは、感動に震えながら最終話を見る事になるでしょう!!
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2017/10/7

「ビルドゥングスロマーン」としてのラノベ・・・『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  
 

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「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」 12巻 ガガガ文庫 より

■ ビルディングスロマーン(教養小説) ■

「ビルドゥングスロマーン」という言葉をご存じでしょうか?日本語では「教養小説」というロマンの欠片も感じられない小説ジャンルです。語源はドイツ語のBildungsromanで「自己形成小説」と訳される事もあります。

ドイツの市民社会の形成期にギリシャ哲学の影響を受けて人間形成(パイデイア)の概念が広がり、絶えず自己形成を意識した小説、例えばゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』などが生まれます。

何だか、一時期流行した自己啓発セミナーのテキストの様ですが、一言でいえば「少年が様々な経験を経て立派な大人になりました。おしまい。」といったジャンルの小説です。

代表的な作品にヘッセの『デミアン』などがありますが、私は大学の一般教養の授業ではヘッセの『車輪の下』や、ジョイスの『若き芸術家の肖像』なども、広義のこのジャンルに含まれると教わった記憶が在ります。

でも、『車輪の下』の主人公は成長半ばにビール飲んで川に流されて死んでしまいますし、『若き芸術家の肖像』は「ウシモウモウは・・・」から始まって意味不明だし・・・「自己形成」とはかくも難しいものなのかと・・・そんな感想しか持ちえませんでした。

日本においては山本有三の『路傍の石』が『車輪の下』に近い作品かなと思いますが、なんとこの作品、主人公の成長半ばで「筆を折る」と、イキナリ打ち切りされちゃってる不人気アニメの様な作品です。

この様に私は「ビルドゥングスロマーン」的な小説にあまり良い印象を持っていませんが、それは私が50才を過ぎてもラノベやアニメを嗜好するという、成長や自己形成を否定した存在である事に起因しているに違いありません。

■ 「ビルドゥングスロマーン」はアニメやラノベの中に生きている ■

「ビルドゥングスロマーン」を単純に「少年少女が成長する物語」と解釈するならば、多くのアニメやラノベはこのジャンルに含まれます。

『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ少年は、ブライト艦長に殴られ、ランバ・ラルに導かれ、ハモンさんやセイラさんにおだてられ、マチルダさんに発情・・いえ憧れて、立派なニュータイプになります。これは「自己形成」の物語です。

『ワンピース』も航海を通してルフィーが成長する物語です。彼は結構伸びてますよね・・ゴムだけに。

ロボットや超能力が存在しない普通の世界でも、『とらドラ』などは主人公の男女の成長を描く傑作です。(小説もアニメも)

この様に、読者や視聴者が少年少女に限定?されたジャンルの作品には、「ビルドゥングスロマーン」的なテーマを持った作品が今も量産されています。これをゲーテが知ったら喜ぶのか、悲しむのか・・・。

■ 「大人の存在する世界」でこそ子供達は成長する ■

ラノベやアニメの「ビルドゥングスロマーン」的な作品には、ある特徴が在ります。それは少年少女達を導く「大人」の存在がしっかりと描かれている事。

『とらドラ』は少し面白くて、大人は「駄目な存在」として描かれています。竜司の母親の泰子はキャバクラ勤めのシングルマザーで昼間は寝ています。家事全般もダメダメで高校生の竜司がかいがいしく母親の世話をしています。大河の父親に至っては「クズ」とも言える性格で、娘より愛人を優先する・・・。担任の先生も未婚三十路の頼りない教師。それでも、大人達は様々な問題を抱えながらも必死に子供を育て、その成長を見つめています。結局は竜司も大河も一度は家族の関係を断ち切りながらも、その絆によって救済され、しっかりと成長します。

一方、親や教師が出て来ない作品の主人公達は「永遠の学生生活」や「永遠の休日」の中に閉じ込められていて成長しない場合が多い。

『魔法少女☆まどかマギカ』は大人はほとんど出て来ません。彼女達は苦難のループの中の閉じ込められていますが、それは、苦悩する若者を導き救済する大人の不在によって起こる事象と捉える事も出来ます。まどかの導き出した答えも、子供の世界での究極の選択肢で、彼女は「成長」せずに「人間性を放棄」する事に解決を求めています。もし大人の助言が有れば自己犠牲とは別の答えが得られたかも知れない・・・。

だから、私はラノベやアニメの「良い作品」の条件に「良い大人の存在」を真っ先に挙げたい。

■ 「人間関係の成長」に主眼を置いた『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 ■

<ここからネタバレ全開。要注意>

「少年少女の成長譚」として私が現在一番注目している作品は渡航の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』です。(長いので以下『俺ガイル』とします)

高校生活初日に交通事故に遭い、2か月入院した比企谷 八幡(ひきがや はちまん)は高校2年にもなって「ボッチ」。彼は極端に自意識過剰な上に、ヒネクレタ性格の持ち主。さらに同年代の男子に比べ少し大人びた所があるので、周囲を上手く付き合う事が出来ません。

生物の授業のレポートで「熊は群れる事が無い。出来る事なら私は熊になりたい」と提出しては怒られ、職場見学先として「自宅を希望する、なぜなら俺は専業主夫を目出しているからだ」と言って怒られる・・・そんな高校二年生。

そんな彼が「更生」の為に強制的に入部させられたのが「奉仕部」という部活。生徒達のお悩み解決を活動内容とする部活です。奉仕部には先に一人の部員が居ます。雪ノ下 雪乃(ゆきのした ゆきの)は同じ学年の国際教養化の生徒ですが、頭脳明晰、容姿端麗・・・でも彼女も人とのコミュニケーションが上手く出来ません。だから奉仕部に入れられた。

ガランとした部室で二人きりにされた比企谷は、交わされたトゲトゲしい会話の中で、雪ノ下に自分と同質の物を感じ取ります。彼はつい「俺と・・・(友達にならないか)」と言いかけますが、「俺と・・」だけ言った所で「それは無理」と拒絶されます。後には彼の人間性を根本的に否定する罵詈雑言が続くのですが・・・実はこの「無理」には深い意味が隠されています。

そんあ奉仕部に最初の依頼を持ち込んだのは、比企谷のクラスメイトの由比ヶ浜 結衣(ゆいがはま ゆい)。彼女は上手なクッキーの焼き方を教えて欲しいと依頼する。何度教えても焦げ焦げの練炭みたいなクッキーしか出来ないダメっぷりですが、厳しく教える雪の下に彼女を羨望の眼差しを向けます。「人と合わせようとしないなんてスゴイ。私なんてこんな八方美人の性格だから・・」と。

実は由比ヶ浜がクッキーをあげたい相手は比企谷。クラスでもほとんど会話した事が無く、彼をヒッキーと呼ぶ彼女でしたが、比企谷が交通事故に遭ったのは由比ガ浜の飼い犬を助ける為だったのです。それ以来、比企谷は彼女にとって恩人であり、気になる存在。だから彼女は学校での彼の行動をそこはかとなく観察しており、彼が実は繊細で良い人だという事も密かに知っています。

比企谷に近づく意図を秘めながら、由比ガ浜も奉仕部に加わって、女性2人と男一人の不思議な部活動が始まります。

生徒達の取るに足らない依頼を引き受ける奉仕部ですが、比企谷の出すアイデアはどれも「酷い」。彼のやり方は卑怯で卑屈で・・・そして自己犠牲の上に成り立っています。今さら友達受けなんて必要としない彼は、自分が悪役を引き受ける事で事件を解決して行きます。

しかし、それに気付いた依頼主達は、一部は彼の熱烈なファンとなり、一部は消極的ながらも彼の存在を認める事になります。そして、そんなやり方しか出来ない比企谷を見守る奉仕部の二人は、ひそかに心を痛めるのです。

雪ノ下には秘密が在ります・・。高校初日に比企谷を轢いた車には雪ノ下が乗っていたのです。「俺と・・(友達になろう)」という誘いを即座に「無理」と切り捨てた理由は、彼の楽しい高校生活を奪ったという自責の念。

それでも、自分と同質の物を持ち、人間関係に諦めを抱きながらも強い羨望も持ち続ける比企谷にう雪ノ下は無自覚の内に惹かれて行きます。それを複雑な思いで由比ガ浜は見つめています。彼女は一見バカですが、人の心の機微に敏感で、本人も気付かない気持ちを察知する能力に長けている。そして本能的に何が正しいのかを見抜く事が出来る。

自分が何者で何を望むのか理解していない比企谷と雪ノ下、彼らが何を望み、自分が何を望むのか・・・そしてそれが両立しない事を理解する由比ガ浜。3人の簡潔は、様々な事件を通じて密接になり、お互いがお互いを大切にしながらも、そこから先に進む事に臆病な関係。

そう、『俺ガイル』の面白い所は、俺や私といった個人の成長より、俺たち、私たちの「人間関係の成長」に主眼を置いた点にあります。これに、家族やクラスメイトや生徒会会長が絡んで、様々な人間関係が生まれますが、作品全般を通して、これらの関係も変化し成長し続けます。


■ ラノベのフォーマットを利用した「ビルドゥングスロマーン」の傑作 ■

作者の渡航は就職活動に失敗するのではとの恐れからラノベを書き始めたと言いますから、この世界では遅咲きの作家と言えます。(中学生、高校生からデビューする作家も多い)

逆にデビュー当時から「大人の視点」を持った作者だとも言えます。比企谷は同年代の男子生徒よりも醒めて世間を見ています。これは社会人になる年頃の男子が昔の自分の「黒歴史」を思い返して作られたキャラクターと言えます。私はアニメの1話目を見た瞬間、高校時代の自分を発見して驚きました・・・。当時、私は周囲から浮いていましたから・・・。

『俺ガイル』は高校生活の様々な出来事を、ラノベならではの軽快でカラフルな調子で物語っていますが、その内容はかなり重たい。人と人の関係性や繋がりを、辛い所まで突き詰めて、一歩一歩苦悩の前進を続ける物語です。

ただ、この物語を普通の小説で発表しても、それは擦り切れたジャンルでしかありません。恩田陸の様な名手ならば、素晴らしい「小説」にする事も出来ますが、普通の書き手では難しい。そこで作者はラノベを偽装して、「普遍的な高校生の成長譚」を読者の中学生や高校生に届けようとしています。そしてそれは見事に成功し、多くの読者の共感を獲得して累計で700万部の売り上げを達成します。

一般の小説は4万部でヒット作と言われるので、ラノベが如何に出版社にとって「ドル箱」で、さらにラノベ作家が「稼ぎまきっている」かが分かります。

有能な書き手の多くが、桜庭一樹や有川浩の様に、ラノベ作家から一般作家に転向する中で、一部の作家は戦略的に「ラノベ作家であり続ける」選択をする時代なのです。西尾維新などが典型的な例でしょう。

ただ、ラノベ作家であり続ける事は意外に難しく、「大人になっても子供の心を失わない」というのは意外に難しい。ラノベ独特のキラキラした世界感や、ドキドキした高揚感は、心がすり減った大人では書けないのです。


その点、『俺ガイル』の比企谷君は、最初からネガティブ全開ですから、作者が就職して社畜として生きる今も、ブレる事無くネガティブを吐き出し続けます。

12巻で奉仕部の3人は前進する事を選択します。しかし、それは彼ら、彼女らにとって明るい未来を約束するものでは無い様です。何故なら、それは互いの関係性に結論を出すと言う事だから。

彼らを助けるが顧問の平塚先生ならば、敵として彼らの成長を促すのは雪ノ下の姉。12巻で姉は彼ら3人の関係を「共依存」と看過します。比企谷が雪ノ下を助けるのは「自己満足」の為なのだと。この一筋縄では行かない姉の存在も、「成長を促す大人」として見事に機能しています。

やなり「素晴らしい作品」には「良い大人」は不可欠なのです。



本日は50才を過ぎたオヤジが、ラノベを熱く語ってみました。


追記

人力さんは雪ノ下派か、由比ガ浜派か聞かれる前に答えます。私は川なんとかさん派・・・ウソ。いろはす、最高。


追記2

最近、『サクラダリセット』を読んでいるので、久しぶりにラノベらしいラノベを読みました。読み始めは「あれ、50才になるとラノベって結構キツイな」と思ったりしましたが、読み進めるうちにあれよあれよとページは進み、数時間で読み終わりました。「読みやすい仕掛けがイッパイ」というのも中高生に読ませる為の重要な要素です。だから売れる。
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2016/8/8

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに・・・『夏美のホタル』 森沢明夫  
 

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■ 今年もやります、夏休み企画 ■

今年も「読書感想文」の季節がやって来た。

小学生は課題図書が決まっている場合が多いが、中学は自由に選べる。そうなると、普段小説など読んだ事の無い君達は、「本選び」で先ず悩むに違い無い。「なるべく薄い本で有名な作家の本」というのが定番かと思う。

しかしここで『星の王子様』なんて選ぶと最悪だ。「王子様はカワイそうでした」なんて感想しか書けないだろう。(尤もBL好きの女子ならば、色々な妄想は膨らむだろうが・・・。)

ヘミング・ウェイの『老人と海』も危険な一冊だ。「まじサメ最強!!」なんて感想を書いたら再提出必至だろう。

そこで、今年お薦めしたい1冊はこれ。森沢明夫の『夏美のホタル』。先日映画を観たので、原作を読んでみたら、これが意外にも読書感想文向きだった。

映画 『夏美のホタル』 聖地巡礼



■ ちょっと粗筋を ■

ネタバレ全開!!

大学で写真を専攻する信吾と、彼女の幼稚園教諭の夏美は、夏見の運転するバイクで田舎の一軒の商店に立ち寄ります。夏美がトイレを借りたかったから。店の名前は「たけ屋」。店先にはアイスと冷凍食品が入った冷凍庫が置かれ、パンと一緒にゴキブリホイホイが売られている様な何でも屋だ。

夏美が戻って来る間、信吾が店を覗くと店の奥の居間から老人がが話し掛けて来た。「あんたでっかいカメラぶら下げてるなぁ」。液晶で写真を見せると、感心された。褒められて信吾は悪い気はしない。そこへ夏美が戻って来た。彼女の傍には老人の母親と思われるお婆ちゃんが立っていた。老人の親子は突然現れた若者にお茶を勧め、今度はホタルを見に来いと誘う。

6月の梅雨の晴れ間の土曜日、夏美と信吾は再びたけ屋を訪れる。すると店の前には子供が二人。バイクに乗る女性が珍しいらしく、「なんで女が運転してるの」と遠慮も無く聞いて来る。近所の酒屋の兄妹はたけやの老人を「地蔵さん」「ヤスばあちゃん」と呼び懐いている。夕刻になるのを待って近くの川辺に降りてゆくと無数の光が舞っていた。ホタルの光だ。道すがら地蔵さんが持っていけと言ったホタルブクロの花にホタルを入れると、釣鐘状の花全体が幻想的にぼわっと光る。ホタルの光に照らされた夏美を信吾は夢中になってカメラに収めた。

たけ屋に戻ると信吾は「この村と自然をテーマに卒業制作を撮ろうかな」と何気無く口にした。それを聞いた地蔵さんは、使っていない離れを寝泊りに提供すると言ってくれた。こうして信吾と夏美は小さな村でひと夏を過ごす事になる。

地蔵さんは信吾に川遊びを色々と教えてくれた。エビや魚を捕ったら、それをヤスばあちゃんと夏美が料理して夕飯のおかずにしたり、酒の肴にした。信吾はすっかり川遊びの虜になった。

ある日、たけ屋に作務衣姿の男が現れ地蔵さんと酒を飲んでいた。彼はよそ者の若者をジロリと見ると「お前ら家賃はいくら払うんだ」と聞いた。感じの悪い男は地蔵さんの友人だと言う。「嫁に逃げられた者同士」だと。地蔵さんが離婚していた事は二人には驚きだった。

二人は地蔵さんの過去を知り、今でも肌身離さない古い妻子の写真の裏に書かれた「ありがとう」という色の薄れたインクの文字を見る。「生まれてきてくれてありがとう」・・母子家庭に育った地蔵さんは、貧しい暮らしで自分の存在が母の負担いなっていないか子供ながら責任を感じていたが、若き日のヤスばあちゃんは「生まれてきてくれてありがとう」と地蔵さんの頭をよく撫でてくれた。自分が息子にそうしてあげられない事が地蔵さんには心残りだったと・・。

無愛想な作務衣姿の男は雲月と言う有名な仏師だった。彼の掘る仏像には命が宿るという。たけ屋に買い物に現れた彼は、店番をしている信吾につり銭はレジに入れておけと言う。そして「雨上がりは釣れるぞ」と信吾に告げる。案外悪い人では無いのかも知れない。

粗筋はここまで・・・

続きは本を読んでみよう!!
仏師の雲月さん、マジでカッコイイです!!

小さな出来事を瑞々しい筆致で丁寧に描き、事件など何も起きないのに次のページを捲る手を止められない。

■ 人は支え合って生きている ■

この本のテーマは「人のつながり」だ。人は誰かと支え合って生きている。親と子は勿論の事、偶然知り合った都会の若者も、変わり者の仏師も、小学生の兄妹も、人とのつながりは、ほんの少しの幸せを少しずつ積み上げている。

自らつながりを絶った別れた妻子への思いも、見えないつながりとして再び人と人を結び付ける。そしてそこから新たな小さな幸せが生まれてゆく。

一方で田舎の閉鎖的社会はよそ者を拒絶する。風変わりな仏師も、突然バイクでやって来た都会の若い男女も田舎の社会は普通は受け入れはしない。たけ屋の老人二人は多分寂しかったのだろう。だから、突然現れた若者に親切にし、彼らが訪れる事を心待ちにする。

時間が止まった様な田舎の、老人二人の変化の無い暮らしに無邪気に入り込んだ若者達は、固まっていた時間をゆっくりと溶かしてゆきます。そして頑固な雲月の心も。

■ 「生まれてきてくれてありがとう」という陳腐な言葉がなぜかイヤにならない不思議な作品 ■

実は私は「生まれてきてくれてありがとう」という言葉がダイキライです。全ての生命の営みの中で人間の生命だけを特別視している様で嫌いです。これから子供が巻き込まれる様々な困難や苦しみを思うと、「生まれてきてくれてありがとう」という言葉は、親のエゴ丸出しでキライです。

ただ、この小説の中だけは「生まれてきてくれてありがとう」という言葉が素直に心に浸透してきます。人が普通に生まれて、普通に生きている事の素晴しさに気付かせてくれる作品です。

中学生にとっては親は「ウルサイ」だけの存在かも知れません。「オレなんて、ワタシなんて産まなきゃ良かったじゃない!!」なんて親も向って言ったりした事がある人も少なく無だろう。
そんな君達にこの本は是非読んで欲しい。今は良く分からないかも知れないけれど、きっと将来自分達が親になった時に、もう一度この本を読みたくなるはずだ。


50歳になる私も、もう少し親を大切にしようと反省させられている。



中学生、高校生の諸君にお薦めの本をもう少し紹介する。
トラップも有るから選択には注意が必要ですが・・・。


夏休みの読書感想文が終わらないお子様に・・・カラフル

夏休みの読書感想文の本が決まらない君に・・・有川浩「レインツリーの国」

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに No.3 ・・・ 『NHKにようこそ』 

夏休みの読書感想文が終わらない君へ・・・『きりこについて』

分が演じるキャラクターとは自分自身では無いのか?・・・庵田定夏「ココロコネクト」

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小説というバーチャルリアリティー・・恩田陸「夜のピクニック」



<追記>

映画と小説は全然別の作品でした。映画では主人公は夏美になっていて彼女も写真家志望。そして勝気な性格とされていますが、原作の主人公は信吾。夏美は幼稚園教諭で天真爛漫。ただちょっと哲学的な事を不意に言ったりします。「小説と現実って、アジの開きに上を下みたいだよね。味は一緒で、骨があるかどうかの違いしか無い」みたいな・・・。

映画では、別れた奥さんに連絡しようと言い出したのは夏美でしたが、原作では雲月が言い出し、をれをヤス婆ちゃんが拒みます。

まあ、色々と違う原作と映画ですが、同じモチーフの別の作品として楽しめば良いかと。個人的には小説の方が好きかな。



<追記2>


ちなみに原作のバイクはHONDAのCBX400F。映画ではYAMAHAのSR400。ここら辺はスタッフの好みの問題なのか・・それとも親父の形見としてはレトロな風貌のSR400の方がイメージに合うのか・・。

ちなみに作者の森沢明夫は千葉県の船橋市出身。実家のお隣の市です。高校時代に免許を取ってバイトでバイクを買った森沢氏は、授業をさぼっては房総を走っていたみたいです。そんな彼がトイレを借りに立ち寄ったのが「たけ屋」のモデルとなった「角屋」。

そこには老婆と息子さんが住んでいて、彼はその後何度も通ったそうです。社会人になって忙しくなり、久し振りに訪れると老婆一人になっていた。そんな実際の体験を元に書かれた小説ですが、舞台となった筒森の集落は私も大好きな場所です。自転車で通る時は集落の下を通る新しいトンネルを通らずに、わざわざ峠道を筒森の集落まで登って行きます。峠道のてっぺんに有るのが角屋です。(今はシャッターは閉まったまま)

作中、地蔵さんが運び込まれた海辺の総合病院は鴨川の「亀田総合病院」ではないでしょうか?映画では大多喜町の他の病院でしたが。アジサイの咲く寺というのは麻綿原高原ですね。

森沢氏の映画化された作品に『虹の岬の喫茶店』(映画では『ふしぎな岬の物語』・主演は吉永小百合)が有りますが、この作品も鋸南町にある海辺の喫茶店がモデル。ロケもここで行なわれています。今度自転車で行ってみたいと思います。

千葉県は神奈川と同じく東京の隣りの県ですが、房総半島中央部や南房総は本当に「田舎」がいい感じで残っています。交通量も少ないのでバイク乗りや自転車乗りには天国です。



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2016/3/23

大人の為のラノベ講座・・・世界と繋がる為に  
 

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■ 外人留学生が西尾維新のファンだった!? ■

以前の記事遊びとしての文学・・・西尾維新・「化物語」にコメントを頂きました。

国文科を卒業されている主婦の方が、日本文学に興味の有るアメリカ人留学生をホームステイで受け入れた所、「村上春樹が好きだ」と言っていた彼は西尾維新の『化物語』の素晴らしさを力説した。彼女もとりあえず原作を読んでみたが、どこが良いのか分からずに困惑している・・・

そんなコメントでした。

■ 外国人が日本語を勉強する時点で、その動機は「アニメやマンガやラノベを原語で理解したい!!」 ■

前出の場合、「村上春樹が好き」というのはポーズでしょう。彼の本音は「アニメやマンガやラノベの原作を日本語で理解したい」では? これは、リアルタイムで日本のオタク文化を共有する世界の多くの若者に共通した願望で、それが高じて日本語を勉強して日本を訪れる方も少なくありません。

「村上春樹」というのは、彼がとりあえず世界では日本文学の代表作家であり、彼の名前を出しておけばカモフラージュに成る程度の「存在」に過ぎないかと(憶測ですが)。

■ そもそも村上春樹って何で人気が有るの? ■

そもそも日本人の私は村上春樹を全く理解出来ません。『ノルウェーの森』は過去に読みましたが、冒頭の飛行機の中のシーン以外は一片たりとも思い出す事が出来ません。短編なども母親の書棚から拝借して読んでみますが、「上手な書き手」という以外の感想は持ちません。

彼のテーマは「喪失」とか「虚無」と言われていますが、彼はその抜けた穴を描く事に執着している様に見え、穴を塞ぐ事を放棄している様に思えます。

この様な作品は世界でも80年代のポストモダンの小説に多く見られました。ポール・オースターの『GOST(幽霊)』が端的な例でしょう。探偵の主人公は「誰か」を探していますが、その誰かが不在(幽霊)だというお話。(ただ、その後の彼は穴を丹念に埋める作業を続け、『ムーンパレス』などの作品に結実します。)

「虚無」や「喪失」をテーマにした作品が出て来た背景には、現代小説が描くべき題材を失った事と無関係では有りません。近代以降、小説というジャンルは人間の内面に迫るべく急速に進化しました。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などを生み出しますが、これらの作品は大衆性とは対極に存在し、私も何度も読もうとして座性しました。

この様に人間の内面をひたすら追求した作品の対極として、社会との結びつきを強めた作品も存在します。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』や、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』などが思い浮かびます。フォークナは「意識の流れ」の手法を身に着けているので、中間的存在かも知れません。

これら真剣な探究心の文学と同時に、ロストジェネレーションやビートジェネレーションといった破壊的な作家達も現れます。前者はヘミング・ウェイ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラーらが代表的です。

ビート・ジェネレーション(ビートにクス)の代表作家はウィリアム・バローズやジャック・ケルアック、そして詩人のアレン・ギーンゼバーグらです。彼らは若者達に絶大な人気を得ますが、ケルアックの『路上』なんて「ヒッピーがヒッチハイクしてアメリカを彷徨ってクソして寝る」みたいな作品ですから・・・。

村上春樹が属すると思われる80年代以降のポストモダンの作家は、ビートニクスの狂乱の後に登場します。日本では全共闘を経験した世代です。政治的にも文化的にも熱かった60年代、70年代が終り、「微熱的」な時代の到来が生み出した作家達です。

実は彼らの世代の抱えた大きな問題は「書くべきテーマが無い」事でした。アメリカのヒッピーにしろ日本の全共闘にせよ、若者の政治参加が不毛である事に気付いた「虚無感」に支配されていたのです。さらには生活が豊かになり、価値観が多様化する中で、「描くべき物語」は見えなくなって行きます。

前出のポール・オースターは全く書けなくなり、「目の前に置いた水の入ったコップをどう表現するのか」から再びスタートしたと語っています。確か高橋源一郎も同様の事を言っていた様に記憶しています。

その様な時代性にマッチしたのが村上春樹だったのだと私は考えています。彼は「かつて存在した物の残した微熱」を上手に表現する作家です。「自分は大事な何かを失っているけれど、それが何か思い出せない」といったテーマをスマートに表現して見せます。要はオシャレなのです。

同時代、アメリカで最も支持されていた作家はジョン・アービングでしょう。『ホテル・ニューハンプシャー』や『ガープの世界』が有名ですが私はデビュー作の『熊を放つ』が好きです。彼のテーマも喪失ですが、メランコリックで大衆には分かり易く、これが支持された要因かと思われます。ちょっと俗っぽい。

この様に現代文学は、人間の内面を描きながらも時代の流れと無関係では居られません。そして、その作家を真に理解する為には、その作家と同時代の空気を共有していなければなりません。

「村上春樹って、そんなに凄いの?」と私が感じてしまうのは、私が彼と同時代の空気を共有していない事に原因が有るのかも知れません。

ましてや、アメリカ人の若者が村上春樹を理解するには相当ハードルが高い。ただ、日本の作家で欧米で一番有名なのは彼で、翻訳されていて評価も確定している・・・。だから、日本文学を語る時に「村上春樹が好きです」と言っておけば間違いが無い。これが逆輸入された形で「私、村上春着のファンです」という日本人が増殖しています。村上春樹の凄い所は、こういうファンを離さない様に「オシャレ」であり続ける事でしょうか・・・。

個人的には小川洋子の方が凄い作家だと思うのですが・・・。

ゆっくり読みたい・・・「猫を抱いて象と泳ぐ」

さらに三崎亜記とか、三崎亜紀・・・役所言葉のリリシズム

『ミサキラヂオ』の瀬川 深といった作家の方が好きなのですが・・。「ミサキラヂオ」・・・終わらない物語



■ SF小説のインフレーションとしてのアニメとラノベ ■

くどくどと現代小説について知った様な事を書いて来ましたが、実は最近はほとんど読んでいません。・・・と言うよりラノベしか読んでいない自分に驚愕します・・・。

何故私はラノベばかり読む様になってしまったのか・・・・。それはラノベがアイデアの宝庫だからです。

かつて面白い小説は『SF小説』というジャンルに沢山存在しました。アシモフ、ハイライン、デュプトリーJr、ルグイン、ディック、バラード・・・名前を思い浮かべただけで顔に恍惚の表情が浮かんでしまいます。

現代小説が「自分って何?」なんて狭量なテーマを捏ねくりまわしている間に、SF小説は「宇宙と生命と知性の深遠」を探求し続けて来ました。SF小説は元々「コト」を描くジャンルだったので、「僕って何?」という袋小路に陥る事が無かったのです。そして、科学の数々の発見や新理論が、新たなSF的アイディアを拡張し続けたので進歩の足を止める事が無かったのでしょう。

尤も、SF小説が大衆に人気があったのも70年代までだったお様に思われます。70年代の「ニューウェーブ」と呼ばれる作家達はビートニクスの影響を大きく受けて、精神世界への興味を深めて行きます。フィリップ・K・ディックが代表でしょう。(私はバラードの方が好きですが)

80年代に入るとSF小説は売れなくなります。何故か・・・。それは難しくなり過ぎたのです。科学や物理学の進歩によってSF小説の扱うテーマも複雑化します。グレッグ・ベアーの諸作品などはとても面白いのですが、理系の若者でも理解が難しい内容になってしまいました。(単に理系の若者の能力が低下しただけとも言えますが・・)

SF小説が売れなくなる一方で、実は世間はSF的な物で溢れ返ります。『スターウォーズ』の成功がカギとなるのですが、ルーカスやスピルバーグの諸作、映画化されたディックの作品(ブレードランナー)など、小説とういジャンルから映像に変換されたSFは、瞬く間にインフレーションを起こします。

日本では『宇宙戦艦ヤマト』が切っ掛けとあんり『機動戦士ガンダム』という金字塔に至ります。

この影響はライトノベルにも反映されます。私の少年時代のライトノベルと言えば朝日ソノラマですが、これは子供向けのSFの宝庫でした。代表的な作家は高千穂遥だったと思います。『クラッシャージョー』シリーズや『ダーティーペアー』シリーズは、ガンダムの作画担当だった安彦良和の挿絵もあって大人気でした。これらは後にアニメ化しています。

もう一方の人気作品は『バンパイアハンターD』で決まりでは無いでしょうか。菊池秀行は奇譚小説の名手で大人向けのエログロな作品が多いのですが、子供向け作品にもその片鱗が見られ、なんともダークで怪しい世界にゾクゾクした事を覚えています。こちらの挿絵はガッチャマンで有名になったて天野喜孝で、彼は今では世界的なアーティストの一人です。

バンパイアというテーマはSF小説の源流となった「ゴシック小説」の一ジャンルで、実はSF小説の亜流と思われがちなファンタジーというジャンルはSF小説の保守本流です。剣がビームサーベルに、魔法が科学に、馬や甲冑がロボットになったのが、現代のSFだとも言えます。

■ アイデアと才能の宝庫としてのラノベ ■

朝日ソノラマの時代は、大人の書き手が子供の為に面白い話を書いていまいした。これは一種の「児童文学」みたいなものでした。

一方、時代を経て「ライトノベル」という呼び方をされる様になると、書き手の年齢がどんどん読者と同じになって行きます。これは一種の「同人化」で、文章もどんどん稚拙になって行きます。

これをして、「ライトノベル=小説以下」と決めつける人が多いのですが、本来なら作家デビュー出来ない「原石」を発掘する効果は絶大です。そうした中から、桜庭一樹や有川浩が見出されて来ました。SF小説のジャンルからは冲方丁が掘り出されました。

■ 日本文学の正当な継承者としての『化物語』 ■

さて、ようやく話が『化物語』に到達しました。

西尾維新という作家は曲者です。年齢的にはライトノベルの作家達よりも上なのですが、彼は敢えてライトノベルというジャンルを好んでいる様です。それは、「遊びが許容される」という自由度が確保されている事が大きいかと・・・。

大衆文学における『遊び』は重要な要素で『枕草子』や『源氏物語』は今で言う所の少女マンガみたいな物でしょう。貴族達は「勉強」としてでは無く「娯楽」としてこれらの作品を楽しんでいたはずです。『〜草紙』などという作品は概ね娯楽作品です。

江戸時代に入ると大衆文化は多岐に渡る様になります。井原西鶴などは現代で言えば「戯曲家」でしょう。人形浄瑠璃自体が当時の娯楽で、西鶴は現代で言う所のトレンディードラマの売れっ子脚本家と言った所でしょうか。

ライトノベルの原点としては『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴が筆頭に上がります。八犬伝は「読本」と呼ばれるジャンルでしたが、馬琴は「黄表紙」というより通俗的な貸本も多く書いていた様です。「黄表紙」などまさに現代のライトノベルやハーレクインロマンスと言った所では無いでしょうか。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も当時としては「ギャグ」として楽しまれたいました。ほとんどマンガと同じ扱いです。

夏目漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』なんてモロにラノベですし・・・。

この様に現代では「文学」とされてしまっている作品の多くは、当時は「大衆の娯楽」として書かれています。ライトノベルは「言葉と文字を使って人を喜ばせ、自分も遊ぶ」という大衆文学の原点に非常に忠実なジャンルであると言えます。そして、その最右翼の作家が西尾維新です。

■ 主役は変化し続ける言葉 ■

西尾維新の作品の特徴は「内容が無い」事でしょう。まさに「ポップアート」の文字版です。

消費されて消える事を前提に書かれた小説とも言えます。その点で赤川次郎などとも共通する点が有りますが、その才能には天と地との差が有ります。赤川次郎の諸作(実は一冊も読んだ事が有りませんが)は、お手軽に推理小説を提供して人々を楽しませる事(ひいては売れる事)に目的が置かれていますが、西尾維新の作品の目的は「自分自身の為の言葉遊び」です。

そしてその言葉遊びは「高度」です。だらだらとした会話を垂れ流す登場人物達の「言葉」は変幻に変化しながら、カラフルで複雑な模様を紡いで行きます。最早、彼の作品においてストーリーやプロットは従属的で、主役は「変幻に変化する言葉」そのものなのです。

このダラダラとした感じは、実は現代文学の「意識の流れ」の手法に近いのでは無いか?彼がそれを意識しているとは思えませんが、読者の脳をトリップさせる効果は似ています。

■ 先ずはアニメから入るべきだ ■

いろいろ書いた所で、ライトノベルを大人に理解させる事は至難の業です。

そこで手っ取り早いのが、「アニメを観る」事です。

西尾維新の『化物語』は、現代を代表するアニメ作品になっていますから、先ずこちらを鑑賞して原作を読まれると、作品世界に入り易いかも知れません。そもそも、ライトノベルとアニメは不可分の存在なので、両方を鑑賞して完結するのかも知れません。


とまあ、長々と書いてしまいましたが、最後は「好きか嫌いか」という問題に成ります。私の家内などは「オタク的」なアニメは全く受け入れませんが、少女マンガ原作のアニメは私の後ろでチラミして、時々プーー!!なんて笑っています。

「面白い」と感じる事にはジェンダーの差も大きいので、「少年向け」に作られた作品は女性にはツマラナク感じるのかも知れません。大きなオッパイも、時折見えるパンツにも女性はドキドキしませんから・・。


さて、件の留学生君、せっかく日本に来たのだから日本のアニメとラノベと是非堪能して日本文化をアメリカに伝えて欲しい。そんな彼にお勧めなのは・・・当ブログのアニメと本の欄を是非お勧め下さい。

そして、大人の皆さんには今季放送されている『昭和元禄落語心中』と『僕だけが居ない街』というアニメをご覧になって頂きたい。アニメやマンガというジャンルが、ドラマや映画というジャンルに全く引けを取らない事が良く分かるかと思います。


本日は異文化交流のお話でした。
10

2015/5/26

たかがラノベ、されどラノベ・・・作者が成長する文学 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』  
 

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本日はネタバレ御免!!でお送りします。


■ 全ての先入観を捨ててこのシーンを見て欲しい ■

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普段アニメなど見ない方も、全て先入観を捨てて、現在放映されている『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 続』の第六話を見て欲しい。

2つの高校が合同で地域のクリスマスイベントを企画する会議のシーンです。主導権を握る高校の生徒会長が会議の進行をしています。

「ロジカルシンキングで論理的に考えるべきだよ」 (会長)

・・それ同じ事言ってんじゃねえ、何回考えちゃうんだよ (主人公、心の中で突っ込む)

「お客様目線でカスタマーサイドに立つっていうかさ」 (会長)

・・だからそれ同じこと言ってんじゃないのか。何回客になってんだよ(主人公)


「意識が高い」相手校の生徒会長を始め役員は、覚えたてのブレーストーミングを実行すべく、これまた付け焼刃の横文字英語を連発して会議を進行します。しかし、その中身たるやカラッポ。社会人ならば、「あるある、こういう会議ある!!」と抱腹絶倒する事間違い無いシーンです。

責任の所在を明確にしない会議は何も決まらず、時間だけを浪費してゆきます。・・・あるある・・こういう会議。

私達が日々会社などで繰り広げる会議も、すこし引いた視点から、皮肉たっぷりに眺めると、こんなにも滑稽なやり取りがくりひろげられているのでしょう。

覚えたての経営用語や経済用語を使いたがる「意識高い系」の相手校の生徒会を「中二病と同じ」だと断じる主人公は、自らを「自意識高い系」と評し、高二病の一種だと心の中で説明します。

高校生が患う「自意識高い系」の物語が本日紹介するライトノベル作品、『やはり俺の青春ラブコメはまちがている』です。累計で400万部を超える大ヒット作品ですが、スーパーネガティブな高校2年生男子を主人公にした学園コメディーです。


■ 作者の成長を楽しむ文学 ■

ライトノベルは青少年向けのエンタテーメント小説です。私は文字が書かれたマンガ、或いはアニメのシナリオの一種だと捕えています。

1) キャラクターを中心に物語が展開する「キャラクター小説」
2) 一人称で書かれる事が多い
3) セリフやモノローグで状況や主人公の思考が丁寧に説明されて分かり易い
4) アニメ化を前提に書かれている作品が多い
5) 表紙や挿絵にアニメキャラ的はイラストをあしらっている
6) 登場人物が類型化されている(テンプレキャラ)
7) 作者が若い

ライトノベルを「小説」や「文学」に分類する事に抵抗する方も多いかと思います。しかし、最近書店に並んでいるベストセラー小説の多くが「キャラクター小説」という意味においてはライトノベルの影響を受けているとも言えます。

ライトノベルの原点は、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズまで遡れるかと思いますが、私は「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」も十分にライトノベルの資質を備えた作品だと思っています。

ただ、ライトノベルの特徴として「作者が若い」ということは重要かと思われます。大作家が大衆向けや子供向けに書いた作品では無く、読者と同世代の作者が自分のニーズを満たすべく書いた小説という意味において、日本のライトノベルは世界でも特筆されるべきジャンルかも知れません。

書き手と読み手の年齢が近い事から、「同人」的な閉じたサークルの中で作品が生産され消費される傾向にあることが、このジャンルから大人を遠ざけている原因ともなっています。一方で、大人の読者を想定しない事で、最新の若者の言葉遣いや、思考パターンがストレートに反映されており、今時の若者達を知る上で重要なサンプルです。

そして、このジャンルの面白い所は、「作者が急激に成長する」点にあります。 直木賞作家の桜庭一樹や、ベストセラ作家の有川浩がライトノベル出身である事は有名ですが、デビュー当時から個性が際立った作家でした。編集者もその才能を見抜いており、作品をlライトノベルの文庫版では無く単行本として発売するなど、ライトノベルというジャンルにカテゴライズされる事を巧妙に避け、彼女達をベストセラー作家として育て上げました。

上記の作家以外にも西尾維新奈須きのこなど個性的な書き手が多いのこジャンルですが、逆に汎個性な作家がほとんどであり、毎年多くの若者がデビューしては、数年で消えて行きます。

ただ、このジャンルの面白いのは、一見「汎個性的」と思われる作品の中から、かつての眉村卓や筒井康孝、新井素子の匂いを感じさせる作品がチラチラと生まれて来る所です。近年では『ココロコネクト』や、本日紹介する『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』は、古き良き若者向け文学の伝統を継承する作品とも言えます。

■ 自ら周囲から孤立する二人が出会う時 ■

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』は千葉県の海浜部にある高校の日常を描く作品です。主人公の比企谷 八幡(ひきがや はちまん)は頭は良いが超ネガティブ人間です。小学校の頃から浮いた存在で、高校二年の現在はクラスでは空気の様な存在。本人はステルス性能と称していますが、常に一人で行動し、体育で二人組になる時を一番嫌う様な人間です。

一方で彼は人間を良く観察しています。クラスの人間関係を緻密に分析し、それにネガティブフィルターを掛けて楽しむ様な性格人物です。

そんな彼の行く末を心配して担任教師が連れて来たのが奉仕部の部室。奉仕部とは他人に奉仕する部活で、実際には生徒の問題を解決する手助けをする部だと説明されます。

部室には黒髪の少女が一人本を読んでいます。学校でも秀才で有名なその美少女、雪ノ下 雪乃(ゆきのした ゆきの)は高圧的で比企谷を全く寄せ付けません。

「この部っていったい何をする部なんだ?」
「今私がこうしている事が部活動よ。」
「降参だ、さっぱり分からん」
「比企谷君、女の子と話したのは何年ぶり?」
「・・・」(中学時代の痛い思いでの回想)
「持つ者が、持たざる者に慈悲の心を持ってこれを与える、人はこれをボランティアと呼ぶの。困っている人に救いの手を差し伸べる、それがこの部の活動よ。ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ。頼まれた以上責任を持つわ。あたなの問題を矯正してあげる。」


彼女の言動は一見高慢に見えますが、それは彼女が周囲から疎外された結果だという事に比企谷は気づきます。「優れた者故に世の中はそれを排除しようとする。そんな世の中ならばいっそ世の中の方を変えてしまえば良い」彼女のこんな発言に、比企谷は自分と同質の物を見つけます。


「・・・なあ雪ノ下、なんなら俺が・・友達に・・」そう言いかけた比企谷の言葉を雪の下は「ゴメンナサイ、それは無理!!」と一瞬で拒絶します。


その時、部室のドアがノックされ、一人の少女が遠慮がちに部室に入って来ます。彼女の名は由比ヶ浜 結衣(ゆいがはま ゆい)。比企谷のクラスメイトです。彼女は手作りクッキーが上手く焼けないとの相談を奉仕部に持ち込みます。

彼女の悩みを解決すべく、調理室でクッキーの焼き方を由比ヶ浜に教える雪ノ下ですが、その教え方は極めて厳しい・・・。言葉も相当にキツイ。そんな雪ノ下を由比ヶ浜はキラキラした目で見つめ「カッコいい」と言いだします。八方美人で他人の目を気にして学校生活を送る由比ヶ浜にとって、歯に衣着せぬ言葉でやり取りしている雪ノ下と比企谷の関係は、とても羨ましく見えたのです。

こうして奉仕部に新たな部員が加わり、この3人を中心に物語は周りはじめます。

■ 普通の学校生活をスリリングなエンタテーメントに昇華する ■

奉仕部に持ち込まれる問題は些細な事です。「自作のライトノベルを読んでくれ」だとか、「昼休みのテニスの自主練に付き合ってくれ」だとかそんな事ばかりです。しかし、性格が5回転位いひねくれた比企谷は、イヤイヤながらも意外にも真摯に問題解決に取り組みます。問題の本質を冷静に見極め、論理的に打開策を導き、さらには消極的ながら解決に対して努力します。

物語の前半は、問題解決の過程で比企谷と問題を持ち込んで来た人間の間に「関係」が生まれる事がコミカルに描かれます。比企谷は新しく生まれた関係を「友情」とは捕えていませんが、相手は比企谷に信頼を寄せ、彼を友人として慕う様になります。

そんな他愛の無い展開が続きましが、物語の進行にしたがってだんだんとシリアスなムードが漂い出します。比企谷の問題解決の手段は徹底的に合理的です。しかし、その方法は「普通」ではありません。「人間関係の機微」をあえて無視する事で最大の効果を上げるのです。そして、往々にして比企谷の自己犠牲によってそれが達成されます。

前半のハイライトは文化祭です。無能な実行委員長の下で副委員長の雪ノ下が仕事を抱え込む事になります。委員長は他人に仕事を押し付けておいて「実行委員も文化祭を楽しまないといけないと思う」と言いだす始末で、委員会の空気はシラケ気味です。

そんな空気を一変させたのが比企谷です。文化祭のスローガン決めの会議で彼は「人」という字を提案する。「人と言う字は一見お互いが支え合っている様に見えるが、実は一方が一方の寄りかかっている。この委員会にぴったりだ・・・」と言いだします。会議の空気は一瞬で固まります。そして、誰もが比企谷を敵意のこもった目で見つめます。

「分かり易い敵役」にあえて成る事で、彼は他の委員の結束を生もうしたのです。終始こんな調子で、仕事が円滑に進む様に彼は適役を演じ続けます。

学園コメディーだとばかり思っていた作品は、だんだんと変貌してゆきます。どこの高校にもある様々な人間関係の軋轢ですが、現実の高校生達は悩みながらそ何となくをれをやり過ごしています。問題を棚上げしたり、友人と距離を取ったり、時には友人を変える事で問題を解決しています。

ところが、をれは問題の解決では無く保留である事に比企谷は自覚的です。彼の冷静な観察を通して、私達は現実社会の人間関係の欺瞞を改めて突き付けられるのです。これはなかななスリリングです。殺人事件など無くても、普通の学校生活、普通の人間関係を観察するだけで、こんなにも面白いエンタテーメントが成立するのかと驚くばかりです。

■ 頭でっかちな高校生が必ず通る道 ■

私は高校時代ひねくれていたので、比企谷の姿は当時の自分にそっくりで、この作品を冷静に見る事を出来ません。もう、黒歴史をホジクリ出される様で、身もだえして見てしまいます。

私に限らず、この作品を支持する多くの若者達が比企谷に或いは雪の下にシンパシーを感じているのでは無いかと思います。普段は表面的にやり過ごしている人間関係ですが、その裏に様々な感情を押し込めて高校生も生活しています。

「人と上手くコミュニケーションが取れない」というのは、自我の確立期には誰もが通る道です。自我の成長の過程で、自我と周囲とのバランスが崩れるのです。特に運動部にも属さない文系人間は集団の中で自分を抑制する訓練がされていないので、自我は肥大化しがちです。

自我が肥大化した若者は、その自我の危機に何度も遭遇します。自尊心を保つ為には、自分が周囲より優れた存在であると自分に証明する必要が生じるのです。しかし、現実にはそれは不可能なので彼らは発想の転換で自我を保とうとします。

「自分が劣っているのでは無い、世界が悪いのだ」と。

この物語の主人公の比企谷と雪ノ下は頭脳は明晰ですが、コミュニケーションの能力が著しく欠けています。それ故に、彼らは世界や友人を拒絶する事で、自分の優位性や自尊心を維持しています。頭の良い彼らはそれが間違いである事も理解していますが、それを素直に受け入れて周囲に同化する器用さを持ち合わせていません。

■ 「本当」の関係とは何かを真摯に問う物語 ■

アニメの第二期は、第一期とは演出がだいぶ異なります。学園コメディー的な軽やかさは後退し、演出はリアルになっています。

仲良しグループの男子が修学旅行でグループ内の女子に告白したいと奉仕部に相談に来ます。一方、他のメンバーはそれを阻止したいと匂わせてきます。

リーダーの葉山は比企谷に「今のままの関係を保ちたいんだ」と打ち明けます。比企谷には表面的で薄っぺらな友情ごっこにしか見えない関係に葉山や他のメンバーが拘る理由が分かりません。そんな薄っぺらな関係のどこに守るべき意味があるのか・・・。

比企谷はまたもや自己犠牲によって問題をクリアーしますが、彼一人に汚れ役を押し付けてしまった事で雪ノ下と由比ヶ浜は自責を感じます。それが3人の関係をギクシャクさせます。

そんな折、奉仕部に持ち込まれた以来を巡って3人の関係は決定的に悪化します。本音で付き合っていたと思っていた3人は、実はお互いの事を何も分かっていなかった事に気づいてしまうのです。

そんな彼を見かねて担任がアドバイスをします。「考えて考えて、答がNOだたらさらに考えて、何も見つからなければ、それこそが答えだ。」「論理的に考えて分からない事こそが人間の気持ちだ」

一晩考えあぐねた比企谷は、翌日部室に向かいます。そして振り絞る様に「俺は本物が欲しいんだ」と口にします・・・。それを聞いた雪ノ下は「私には分からないわ・・・」と言うと部室を飛び出して行きます。

「孤独をあえて受け入れる」事で個人としての尊厳を守っている「同士」と思っていた比企谷が、「友達になりたい」という普通の感情を抱いている事にショックを受けたのです。その感情は彼女の中にも芽生えていたかもしれません。しかし、彼女をそれを認める事を敗北だとい感じている・・・・。

雪ノ下を救うのは由比ヶ浜です。感覚的にしか物事を判断出来ない彼女にとって、「本当の友達になる」事は至極当たり前で素晴らしい事に思えたのです。比企谷が言う所の「本当」とは何かは全く理解できませんが、彼女は直感的にそれが悪い事では無いと悟ります。由比ヶ浜は泣きながら雪ノ下に抱き着きます.

「由比ヶ浜さん、あなたずるいわ・・・」そ言うと雪ノ下も陥落します。感情を論理的にしか理解できない彼女にとって、感情をストレートにぶつけて抱き着いて来る由比ヶ浜はアイテデンティティーを揺さぶる存在であり、そして感じる温かさは論理では導き出せない真実を伝えているのです。

人と人の本当の関係は「論理」では導き出せない・・・きっとこの助言を与えた担任は、彼女自身が若い時に雪ノ下や比企谷と同じ経験をしたのでしょう。だからこそ、論理の鎧で心を守らなければならない二人の純真さを理解し見守ります。教師は比企谷に「お前は教師に向いている」と冗談ながらに言います。これは彼女の本心でしょう。きっと比企谷に自分の過去を重ねているのです。

■ 完成された作家には書けない物語 ■

作者は大学4年生の時にこの作品で賞に応募したそうです。元々は小説など書いていなかったそですが、就職がなかなか決まらず、作家という肩書があれば就職浪人と呼ばれないい・・・そう思って書き上げた作品です。当然、続巻が刊行されるとは夢にも思わず、累計で400万部の大ベストセラーになるなど、誰もが予想出来なかったでしょう。

作者はその後就職し、現在も会社員を続けながらこの作品を書いています。この作品を書き始めた当時は比企谷に感情移入をして書いてい作者ですが、社会に出て成長した今は、担任教師に感情移入しがちだとインタビューで語っています。作者が社会に出て成長する過程が、作品にも色濃く反映されています。

成長に伴って、物語のテーマも「本当の関係とは」という重たいものに変化しています。表層的な友情をバカにしていた比企谷ですが、自分が求めているものと表層的な友情との間にさして差が無い事にも気づいてゆきます。ここら辺がこの作品の優れた所で、ラノベや漫画の多くが「本当の友情」を至上のものと持ち上げる傾向があるななかで、本元とは何かをひたすら追求し続けます。

「普通の関係」こそが「本当の関係」である事・・・そんな事をテーマにしながらも、しっかりエンタテーメントしているこの作品は、他のラノベ作品とは一味も二味も違う奥深さを持っています。

■ 聖地巡礼に行ってみた ■


実は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』のモデルになっている高校は、千葉市の海浜部にある千葉市立稲毛高校です。

2年前、娘のバスケの県大会の応援にこの学校を訪れた時、中庭で強烈なデジャブに襲われました。「この校舎、見たことある・・・」

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だいたい作品の心当りはあったので見直してみると、2話目でチラッとこの丸い校舎が出てきます。

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第二期の7話目は担任教師が比企谷にアドバイスを与える名シーンが描かれますが、ここの舞台は千葉ロッテ・マリンズのスタジアム近くの「美浜大橋」。これは聖地巡礼に行くっしかありません。自転車で鴨川に行く前にサクサクと巡礼します。

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夜のシーンでアングルも少し違いますが・・・夕方は夕日を見る人で賑わうポイントです。


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手すりの落書きもこの通り・・・。


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橋の下から見た所。


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校門もほぼ同じですね。

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最寄駅の稲毛海岸駅。ここも良く登場しましう。二期オープニングの電飾された植え込みの背景は駅前にあります。


ちなみに千葉都市モノレールがタイアップしています。

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http://yusaani.com/event/2015/05/02/119392/ 写真を拝借しました。

ここまでやれば立派です。乗るのが恥ずかしい方もいらっしゃるでしょうが・・・。千葉都市モノレールは『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』のラッピング車両も走らせていました。

千葉市はアニメのロケに協力的みたいで、アニメによる地域振興では成功例に入るでしょう。



本日は、私が大好きな超ネガティブ主人公比企谷が登場するラノベとアニメのお話でした。お子様との話題のネタになれば・・・・「やだ、お父さん、キモ!!」と言われるのが落ちでしょうが・・・。

ちなみに、私は聖地巡礼の写真を娘と息子の携帯に写メしちゃいました。食い付き良かったですよ!!



<追記>

アニメ第一期は低予算でした。それを逆手に取った様な割切ったカラリとして演出が、キャラクターの魅力を引き出す結果となり、この作品をベストセラーに押し上げたとも言えます。

一方、原作もコメディー色が薄らぎ、真剣に主人公達の心の成長を描く第二期は、製作がBONSに変わり、製作会社がブレインズベースからfeelに変わり、スタッフも大幅に入れ替わっています。内容もシリアスでリアルな表現にシフトしています。(これは賛否両論で、私は第一期の吉村愛監督の功績は多大だと思っています。)

アニメ的な演出が魅力だった一期とは反対に二期は実写的で丁寧な演出がされています。特に生徒会長の一色いろはがコンビニ袋を比企谷に手渡す交差点でのシーンなどは、引いたショットで会話も聞こえませんが、そのやり取りを視聴者が十分の想像できる名シーンでは無いでしょうか。

こういう表現はアニメばかり見ているスタッフでは作れません。優れた実写映画を見ているからこそ作り得るシーンだとも言えます。


原作でもそうですが、二期で一番魅力を発しているのは1年生の生徒会長の一色いろはです。打算的で自分が他人のどう見えるかを常に計算している様な女子ですが、比企谷には素直な所を見せます。

ただ、素直な様でいて、素直じゃない。学園のヒーローの葉山に熱烈アタックしていますが、その狙いは比企谷の注意を引く事・・・本人も自覚していないのでしょうが、雪ノ下と由比ヶ浜は女の勘で、うっすらと危機感を抱いている様です。(私の妄想かも知れませんが)


雪ノ下の姉の存在も含め、謎が多く残されており、10巻まで発売されている原作の続巻が気になって仕方がありあません。
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