野良からの季節のたより
「黄金堂の祭典(9月6日)」
9月6日は、集落の氏神さまである「黄金堂(こがねどう)」のお祭りでした。
祭典とは言いますものの、「45戸」の氏子さんがお堂に集まり、「ご住職」さまをお呼びしての「ご祈祷」を行うだけでした。
ただし、今年は、「お堂」の屋根の修理を行っていますので、それの「落慶法要」も合わせて行っています。
昨年までは、「子供神輿」も出たのですが、今年は大人だけの「直会(なおらい・祭事の後の宴会)」だけでした。
祭典の準備は、5戸ほどの「氏子」によって「班」が作られ、この班の持ち回りによって「企画から実行」まで「仕切られて」います。したがって「班」によって、「祭典のやり方・内容」も異なってくる「仕組み」になっています。
ちなみに「不作」の年は、「静かに、何もせず」と言った年もあったようです。
「黄金堂」の由来ですが、正式には「真言宗醍醐派 の宝珠山 黄金堂」となっています。
「縁起(起源)」によりますと、
「坂上田村麻呂将軍」が「東夷(蝦夷)」の征伐に赴き、大任を果たした「後」に、「報恩」と「両軍」の戦死者の霊を弔うために、「一宇(一軒のお堂)」を建立したとされております。
そして、この「お堂」を「黄金堂」と称し、「十一面観世音の尊像」を安置して「京」に帰られたことになっております。
なお、「和尚さん」から「十一面観世音」の解説がありました。これにつきましては別の機会にお知らせしたいと思います。
その後、「承和の年間(834年から847年頃かな・・)」に「慈覚大師」さまが、ご行脚なされて「五尺二寸」の「尊像」を「刻」して「安置」されたとのことです。
さて、その当時の「東北地方」ですが、「狩猟」を中心とした「蝦夷」の民が住む土地でした。
中央には「大和朝廷」があり、「東北地方」の「支配」を考えていました。
「日本書紀」によりますと、
「東国の中に日高見の国あり、そこの人は勇ましく強くまとめて蝦夷という。また土地も肥えていて広大である。撃って取るべきである」。
と記されています。
また、「歴史書」によりますと、
「田村麻呂」が「征夷大将軍」にに「任命」されたのは「797年(延暦16年)」となっております。
「802年(延暦21年)」には、「胆沢城」を築き、この年に蝦夷の長である、「アテルイ」が「京」で「斬られ」ています。この頃になって、さすがの「蝦夷」も少しは静まって来たのかも知れません。
「志和城」を築いたのが「803年(延暦22年)」となっています。
なお、「坂之上田村麻呂」は「811年(弘仁2年)」にお亡くなりになっておりますが、この年に「陸奥に和我(和賀)・稗縫(稗貫かな)・斯波(紫波かな)三郡を設置」となっています。「大和朝廷」の支配下におかれ、「行政府」も置かれたものと考えられます。
また「胆沢城」には「坂東・甲信越の浪人4000人を配す」とありますから、「駐留軍」の駐在、さらに「農耕の技術」の伝達、さらに、その当時、蝦夷には「優れた馬」がいましたので、「武器」としての「馬の献上」など「支配地」としての形態が整ってきた頃と思われます。
*(中には、この当時の「朝廷」が、「優れた馬二頭の献上を拒否したために女・子供を含む住民、60人を惨殺して馬2頭を奪い去った」という言い伝えが、「爾薩体の乱」として残っています)。
「黄金堂」の「建立」も「800年(延暦19年)」ころであり、「大和朝廷」の「役所などの痕跡」かも知れません。
耳を澄ましていますと、「蝦夷」から「奪った馬」にまたがり、「闊歩する「武将達」の、誇らしげな「ヒズメ」の音が聞こえて来るようです。
少し長くて、クドイ内容に成りました。
「ごめんなさい」。