古い神社を訪ねると、いつも不思議な感じがする。
多くの場合、建物には何も無い、空虚感が漂い、
むしろ、裏山の小さな、そまつなほこら、や 大木や、神域とされている、森ー林の方になにやらおわします。
なぜだろうといつも不思議であった。
最近はそれでいいのでないか、と言う気がしてきた。
大きな社殿は、むしろ目くらましにおいてあるだけじゃなかろうか?おもえば、ニホンは様々な宗教侵略に会ったに違いない。
黒潮の自動的に流れ着く、この極東の島国に、一番始めはおそらくユダヤ教、道教、その次はゾロアスター教、仏教、キリスト教と権力を偽装した各種宗教が、流れ着き、あるいは侵略軍として襲ってきたに違いない。短気な信長は神社仏閣に(昔は神社と仏閣は同じだったので)立てこもったぼうずの着物着た傭兵隊?に火をすぐつけるし、それをまねして秀吉もしたい放題。応仁の乱なんかめちゃくちゃもいいところ。
それを乗り越えるにはどうするか?
「どんなへりくつならべてもかみさまには全部おんなじよ、ただしわたしは裏山に隠れているからね、気がつくヒトだけ来てね。おかねや権威やらせいぎやら何やら、にだまされて気の毒な庶民のために建物を立てておくので、そっちでやってね、こころは通じているから、それでいいよ」、と言っている風である。
ローマカトリックのように牢獄のような論理や豪華絢爛で無知のやからをごまかす仕組みが内容の偽装宗教と違って、ふとささやかな、暗示が真実よ、と語っているような気がする。(庶民は良く知っていて、この前みたTVではベネチアのカドカドにマリアの像が壁に埋め込まれていて、そのへんのヒトに聞くと「みんなのおかあさんなの」とのへんじ。教典なんかかんけいあるか、拝むこころは結局はそういうことなのだ。)
神道の教典なるものも、全て、意味不明、支離滅裂、論理なし。神社形成の由来も何のことやらわからない。
なんとか天皇が立ち寄って、水飲んだとかなんとか、何のこっちゃ?である。
上賀茂神社のような格式超高級の神社でさえ、由来不明。そんなあやふやなことで2000年もやってきたの?へ〜と、西洋へ理屈にけがされた左の脳みそが、それはそれでいいのに違いないという右の脳みそと言い合って、????に成るのが常である。
そこで、建物から出てくる感覚では立派な建物には神はおわしませず、ご神体と称セラルル、うらやまから流れ出るちょろちょろ小川の方が思わせぶりである。
なにもない、感じるこころが神様よ、と言っているのじゃなかろうかと思い当たると背筋がピンとするのは、
じぶんが日本教の信者になっていることの証明なのかそうでないのか。
謎だらけの「神社」であるが、なぜか心がつながったような印象はいつまでも残っている場合がある。
これを信心というのであろうか????
例を
上賀茂神社の由来を公式HPより引用。
『神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)[右図]に御降臨になり.......」
これだけである。
御降臨したのはUFOかドラコンか、とツッコミを入れたくなりませんか?この一行にも満たない表現で2000年やってきたの????
「上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社であり、雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されています.」
たしかに、この山にはなにかを感じるのではあるが。
参考資料
こうやまはこんな山

「加茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)(上加茂神社)
神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営されました。本殿御鎮座以後も広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまなく、国家の重大時には必ず奉幣、御祈願がありました。
嵯峨天皇は御杖代(みつえしろ)として皇女有智子(うちこ)内親王を斎王(さいおう)と定め、
その制度は以来三十五代、約四百年続きました。
<延喜式』では名神大社(みょうじんたいしゃ)に列し、のち山城国一ノ宮(やましろのくにいちのみや)として尊崇されました。又、摂関賀茂詣、武家の社参が相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に由来するところから、特に信仰を寄せていました。明治以降終戦まで官幣大社(かんぺいたいしゃ)として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位しました。」
なにやら格付け、をやっていますが。ようかんかまんじゅうの宣伝みたいになっていますね。
お山のほうは、勝手にやっときなさい、とほほえんでいるようで.....
ここです。
