なんとなくイラン開戦が遠のいていて、ほっとしているが
イラン爆撃が始まってしまうと日本にはチャンスかもしれない。
#1 主婦が世界情勢を知ることができる
#2 日々の生活が世界戦略と密着していることを全員が知る
#3 米国世界戦略がニホンに味方するわけないことがわかる
#4 マスコミと政府が完全に信用を失う
自活のための思考が再開する。
ショックであるが、起こらないと対応しない、場当たりな国民性なのでそのほうがいいように思う。
少なくとも売国族、外資族(中国族も含む)を駆逐できるかな?。
必要項目は
#1 食料自給
#2 武力自立(政治の自立)
#3 経済自立(いまはあるようなないような。銀行の把握が必要でしょう)
参考になるかもしれない参考資料:イエズス会と豊織政権
当時の硝石は現代のウラン、プルトニウムにあたる。
<引用開始>
大規模な家畜飼育が行われなかった日本ではこうした方法は困難であり、せいぜい汲み取り式の便所から染み出した糞尿から民家の床下の土壌中で生成した硝石を小規模に採取できる程度であった。そのため、戦国時代の火器導入以降の黒色火薬の原料としての硝石を海外からの輸入に頼らざるを得なかったが、その後、加賀藩などで人間の糞尿を草木とともに醗酵させて硝石を得る技術が開発されて、国内での需要をまかなえるようになった。
<引用終わり>
問題はいつ国内自給可能になったのかである。そうでないとイエズス会を駆逐できない。敵に供給されると政権崩壊するのである。
この重要な要素がなかなか歴史書に出てこないのは困ったことだ。まるで当時の国際政治が読めなくなる。
<引用開始>
Q:
紀州雑賀の地が鉄砲生産地であるのは周知のことであるのですが、では火薬の調達についてはどうしていたのでしょう。もちろん海外から輸入していたのはわかりますが。
A:
種子島か、坊津か、これらの複数ルートだと思います。
信長が堺を直轄領とした1568年以前であれば、堺でも入手できたでしょうが、少なくとも石山合戦が起きた1570年以降は、上記ルートのみだと思います。
その当時、日本はムガル帝国治下インド産硝石を輸入していましたが、鉄砲の威力に着目していた信長は、1568年、京都を制圧するやすぐに堺を直轄領とし、境以東の武将が硝石を入手できないように手を打っています。
だからこの時以降、堺の鉄砲と硝石は信長の監視下に置かれたと推定できます。
このことは、1570年、石山合戦が始まると、石山本願寺・顕如上人が雑賀衆に鉄砲一千挺を早急に調達するよう要請した証文も残されていることからも納得できます。
http://www.hinet.jp/magoichi/suzukimagoichi.htm
雑賀衆が、海上交通に長けていたことは、上記URLをご参照ください。
なお、五箇山製硝場で作られた加賀硝石の上納は、
慶長8年(1603年)から始まっています。硝石小屋で仕込みをしてから7,8年かかって良質の硝石が得られるので、逆算すると1595年ころの仕込みとなりますね。
文禄の役(1592−93年)で朝鮮の捕虜から知識を得たのではないかという南坊平造氏の説があります。
<引用終わり>
つまり家康以前には、完全な自立は不可能であった。インドからこちらの制海権を握っていない豊織政権にはイエズス会と断交する力はなかったと見るべきでしょう。
で、秀吉は手強い島津をやっつけるために、キリシタン大名を使っている。
「かれらは相互に連帯し、 -----途中略------ 豊臣軍が進軍した陸路、海路にはともに
十字架の描かれた旗や指物がはためいていたといわれる」
秀吉神話を覆す 藤田著 p225
(ニホンはイエズス会にのっとられ直前状況であった。秀吉が天皇をがっちり握っていたのでそうはならなかった。)
それでも秀吉は島津に勝てなかった。薩摩は家康も危なくて関が原後も薩摩に軍を入れられなかった。そしてロシア軍を粉砕したのは薩摩出身の司令官たちである。特攻機も鹿児島から出陣している。
西欧中枢は500年後米国と原爆と平和憲法、ヤクザ、朝鮮人、マスコミ、洗脳教師を使ってやっと、ニホン武道の核心である「薩摩の牙」を抜いたわけだ。
精神の自立と武装がいかに民族自立に重要かがわかる。
参考資料:薩摩の野太刀自顕流。おそろしい自殺剣法。
打ち込みのようす