大正2年・1913年の今日、家永三郎が名古屋で軍人の家の三男として生まれた。父の転勤に伴い間もなく熊本へ、そして大阪に移り住み、小学校入学は唐津だった。父が予備役になり2年生の時に、一家は東京へ出る。退職金さえ出ない退役軍人の家計は苦しく、そのことが後の家永博士の考え方にも大きな影響を与えた。中学では病気で一年休学する。これ以来体力的な問題から無駄なことに労力を割くことができなくなり、藤村の詩を読んだり校友会雑誌に投稿したりして過ごした。高校から東大文学部国史学科に入って2年生の頃、美濃部達吉博士の「天皇機関説」が問題となる。
これに対して「他人の信念に対し、道徳に名を借り、権力、暴力によって圧迫しようとすることは断じて許せない」という感想文を中学の同窓会誌に書いた。
昭和12年に東大を卒業して、同大資料編纂所、旧制新潟高教授を経て、昭和19年に東京高等師範学校(後の東京教育大、現筑波大学)の教授になる。
博士が執筆した高校用教科書「新日本史」が昭和37年度の文部省の教科書検定で不合格処分になり、翌年度の検定では条件付き合格となった。このため検定制度の違憲性などを主張し、昭和40年に第一次訴訟を起こした。
さらに昭和42年には前年度検定での不合格処分取り消しを求めて第二次訴訟を起こす。第一次、第二次訴訟は、家永教授の主張が退けられる形で、判決が確定したが、第三次訴訟の最高裁判決では、検定制度は合憲としつつも「南京大虐殺」「731部隊」などの記述を削除するよう求めた検定側の意見を違法とするなど、訴えの一部が認められた。
一連の教科書検定訴訟は、国が教育にかかわることについて、大きな議論を呼んだ。