どう書けばいいのでしょうか〜
まぁ文章がたどたどしいのはいつものことですが、何も書かないのはメッセージ性がないのでとりあえず筆をとり…いや、キーボードを叩きます。
記事の日付の日、2月3日(実際書いているのは4日です)、恩師の先生の誘いで
日本基督教団東北教区センター エマオの教区勉強会「あらゆる差別の撤廃を」に出席してきました。
とはいっても、私は今現在キリスト教信者ではありません。 ですから教団の内部について、どういう雰囲気でどういう活動をしているのかとか、殆ど知らないのです。 ですから、見解の相違や間違った記述があるかもしれませんが、そのときはコメントでご指摘ください。
まず、東北教区による性差別事件があったようです。 これは昨年、東北教区選出の信徒議員の発言で「信徒としては、同性愛のことについて、自分の教会の役職につく方がそういう方ならば、避けたいと思う」という趣旨のものがあったというもので、これについて差別だなどそうでないなど色々議論がなされた模様です。 詳細は私はよく知らないので割愛します。
また、8年前に教団による性差別事件があったようです。 そのことについても知らないので割愛します。
まぁ、つまりは、差別、こと性差別についてその議員さんも含め教区としてちょっと不勉強だったかなということ、もっと勉強しなくちゃという、その一環として今日の勉強会が開かれたものなのかなと思います。 私には詳しく知りませんが、キリスト教の中でも、やはり差別は、性差別も含めて撤廃すべきだという方向に動いているのかもしれません。
で、今回、国際基督教大学の森本あんり先生がいらっしゃって講義をして下さいました。
私が印象に残ったのは…
まず、キリスト教では、聖書・伝統・理性(科学)・経験という4つの視点からから見て考えるという考え方をするということを知ったことです。 これはキリスト教信者ではない私にとっては目から鱗でした、キリスト教信者はもっと聖書によっていると思っていましたから。 それだけではないのですね、知りませんでした。
その2は、聖書に同性愛の記述は存在しないという事実です。 これも目から鱗でした。 よく考えればそれはそうですよ、2000年前に、同性愛はきっと存在はしていたでしょうけれどそれが言葉として、一般的認識として知られていなかったでしょう。 ですから同性愛は2000年前に記述できるわけないのです。 いや、書かれているじゃないですかと思われる人もいるかもしれませんが、実際書かれているのは同性間性行為についてです。 愛についてはかかれていないのです。
で、同性間性行為は罪と書かれているわけですが、大抵は嘘つきが罪である事と同列に書かれています。 つまり同性間性行為が取り立てて重い罪であるわけではなく、誰もが1度はついたことがある嘘と同じくらいの罪なだけのようです。
同性愛については直接的には聖書にかかれていないので、聖書は信者にとって一番参考にすべき書物ですが、それを基にしながらも伝統・理性(科学)・経験の手助けをかりながら解釈していくしかないのかなと思います。
性はアイデンティティの座としてあるということ、これは私も同感です。 特に私はアイデンティティをなす数ある要素の中で、特に性は根源的な位置に存在すると考えています。 アイデンティティを偽りつつ生きなければ社会的抑圧がどれほど当人を追い詰める苦しいことであるか、それは私も実感として頻繁にヒシヒシと感じるところです。 そこが危機に瀕すると、人はしばしば排他的で攻撃的になる、これも同感です。 これはマジョリティにも言えることだと思います。 ホモフォビアもこれによってなされることだと私は考えています。
個人的経験からの議論は、他者との共通理解に至る道を狭めること。 これもはっと気付かされました。 個人的経験のみに立脚しない、他者の理解を得られる訴え方、これをどうすればよいのか、頭を悩ませます。
声高な両極の人々の間に、緩慢にしか動かない静かな中間派が存在して、その中間派によってことが動いていくということにも気付かされました。 中間派の存在の重要性もさることながら声高な人々の存在もやはり必要なのだと思います。 いくら事態が多くの中間派の人々によって動いていくにしても、やはり声を高くして「差別を撤廃しよう」という人の存在なしには、事態が恐い方向へ動いていく気がしてなりません。
重ね重ね、私はキリスト教信者ではないので、キリスト教の中でどう動いていくかについては詳しく書いてはいませんが、勉強会はキリスト教信者が多分私以外全員なので、結局キリスト教の牧師や役職につく信徒はどうあるべきかという話で結んでいましたが、先生は、牧師やほかの役職につくことについて、同性愛、異性愛に関係なく、適任者もいれば不適任者もいるのではないかということで、性愛によって差別する理由はないと結んでいました。
キリスト教と切り離してもそれはそうなのです。 同性愛者だからといって、特別犯罪率が高いというわけでなく、特別罪深いわけでもなく、HIVをもっている率が特に高いわけでなく、…(以下延々と続きます)…、異性愛者と特別変わることは何もないのです。 ただ、愛の対象の性が違うだけ、ただそれだけなのです。 ただ数が少ないというだけで、そこには善も悪もないのです。 ですが数が少ないから、人々はそれを想定しにくい状況があり、そこに考えが至らない人が思わず差別(意図的に差別する人もいますが)が生じてしまうのです。 それでも性を含め「あらゆる差別の撤廃を」やはりしていくべきと私は考えます。 それにはやはり多くの人に理解をしてもらう必要があります。 いくら事態が静かな中間派によって動くにしても、「あらゆる差別の撤廃を」訴える人がいなくてはそちらにベクトルが向きませんよね。 「あらゆる差別の撤廃を」意識していきましょう。
うまく書けましたでしょうか〜…
ごちゃごちゃに書いたような気がしますが、ここまで読んでくださった人へありがとうございます。 何か間違った記述があればご指摘ください、訂正するかもしれません。 考え方の違いに関しては指摘してくださっても良いですが、余程私が無配慮な記述をしたと感じなければ訂正はないと思います。
参考サイト
日本基督教団東北教区センター エマオ