大変によくできた映画だ。
唐突ながら、『俊寛(平家女護島)』の名セリフを思い出した。
それは俊寛と一緒に鬼界ヶ島に流された成経が島の女・千鳥に恋をして、父親同然の俊寛に彼女を紹介したときに、俊寛が微笑みながら吐くセリフだった。
さてさて、おもしろうて、哀れで、だてで、殊勝で、かわいい恋。
ここに、この作品が単なる歴史ドラマではなく、都に残してきた妻への恋慕があったからこそ、つまり人間ドラマとしての側面が濃厚であったからこそ、後段の悲劇が生きてくるのだ。
原作者近松の天才である。
むろん今回紹介する映画は若者の恋愛を中心的に描いたものではない。
だが、俊寛のセリフの「恋」を「映画」とか「過去」といい換えた場合、それはこの作品をうまく表現しているのではないか。
ストーリーについては省略する。
オフィシャルページでもご覧いただきたい。
中国映画にしばしばありがちな、主人公ないし主人公に近い人物のモノローグから始まる。
主人公・毛大兵(マオ・タービン、夏雨=シア・ユイ)は映画好きの青年だ。
北京で水の配達の仕事をしており、その数日分の給料で映画が一本観れるのである。
好きな映画は戦争映画。
ハリソン・フォードのポスターが貼ってある映画館で、彼は座席に身を沈める。
座席の両側には巨大なペットボトルが置かれている。
彼はそれを抱くようにして帽子のツバを頭の後ろに回し映画に見入っている。
物語はこの大兵がかつての小兵(「毛沢東の紅小兵、だから毛小兵」と自己紹介していた)であったことが判明するが、面白いのは、大兵が遭遇した「謎の女」の部屋に残された日記を読むことで、そこに登場するのが自身であったことがわかるというプロセスである。
観客は、日記を読む大兵とともに、この「謎の女」つまりはかつての玲玲と出会い、過去を生きることになるのである。
小兵を演じた王正佳(ワン・チャンジア)の演技は、幼年時代の玲玲(關曉[丹+彡]クアン・シャオトン)と相俟って見事なものである。
性悪のガキ大将的存在でありながら、転校生ゆえに地元のリーダー的少年たちからは苛められ、実の父親からも叱られてばかりいるが、玲玲に対するジェントルな気持ちと、玲玲の母・江雪華(姜易宏、チアン・イーホン)に語るときの実にクールな家族分析など、虐げられた弱者だけがもつ知性と状況判断力を鋭敏に持ちあわせている。
その彼がいつも首から下げていたのが双眼鏡だった。
もともとは
八路軍の兵士になって日本軍と戦いたいという希望をもっていたので(それとて映画の影響であろうが)、その双眼鏡は「軍事用」であったにちがいない。
だが、野外での映画上映会のときに、その双眼鏡を覗けば、好きな映画の好きなシーンが見えてくるという、魔法の覗きカラクリでもあったのだ。
冒頭近くで、大兵が映画館で両側にペットボトルを置いているのはだから、幼きころの双眼鏡を表象したものであり、彼は青年になった今でも好きな映画の好きなシーンを観ようとしているのだ。
ペットボトルの水は、そのままのカタチではないにせよ、大人になり聴力と正常な精神の均衡を失った玲玲が買っていた金魚の水槽へ流しこまれることになるし、玲玲が入院している治療院の美しい池へとその眼は注がれることになる。
ところで、この作品には映画を嫌う人間はほとんど登場しない。
玲玲の両親、弟、小兵(大兵)、玲玲の住んでいた村・寧夏の人びと。
だが、映画をずっと好きでいつづける人間は少ない。
玲玲、玲玲の母、そして玲玲の義父であり、かつては野外上映の映写技師であった潘大任(パン・ターレン)、もちろん大兵。
しかし、彼らの映画に対する態度、のようなものはそれぞれ異なっていた、と云わざるをえない。
母の雪華(シュエ・ホワ)は映画女優になる思いを捨てて玲玲とその弟にすべてを託した。
それゆえに映画とは無縁に残された人生を生きようとしている。
義父の大任は、画面では正面から映されることは少なく、いつもうつむき加減か映画上映のポスターを貼るときの後ろ姿が印象的だ。
正面から彼が映しだされ、そしてカメラがその握りこぶしまで移動するのは、弟を死なせてしまった玲玲を殴るとき、その一回である。
それはともかく、殴られ聴力を失った玲玲が家出をしたあと、この夫婦はどのような人生を送ったのだろうか。
どうして北京にやってきて、どんな暮らしをしていたのだろうか。
大兵の提案で、玲玲のいる治療院で野外映画会を行なうことになったとき、ほとんど真新しい映写機材をもっていたことからすると、映画とは無縁な生活ではなかったような気もするが、判然としない。
そして、玲玲。
大人になった彼女の住む部屋は、中国語のサイトでの物語紹介から引くと次のような状態になっている。
一個私人電影院,不但牆上貼了電影的海報,唱機滿是周璇的唱片,甚至還有一部電影放映機和一捲又一捲的老電影膠捲。
いちいち翻訳はしないが、なんとなくその字面で部屋のありさまはわかるだろう。
彼女にとって映画は自身の過去そのものだったのだ。
地元の公共放送のアナウンサーであり、30年代の上海で活躍した伝説的シンガー・周璇(チョウ・シュアン)に憧れる美しい声の持ち主であった母親から生まれているのに、玲玲は聴力を失ってしまっている。
皮肉な境遇だが、その原因をつくった義父のふるまいは、すでにテレビのために野外上映会など人気がなくなってきた時代に最後の「露天電影」を行なった当日であったというのも、また皮肉であった。
この夫婦は映画と二人の子どもを失ってしまったのだから。
そして大兵。
彼だけが、父親の「しつけ」によって遠い親戚の家にあずけられ、のちになんらかの理由で北京にやってくることになり、映画を観続けるようになる。
彼にとって映画は、かつての自分の夢(八路軍に入ること)を醸造したものであり、いまもなおそうでありつづけている。
「寝ないで夢を見ることができる」
映画を観ているときの大兵のセリフだ。
映画の映画ということのできる逸品だ。
ここでは言及しなかったが、中国映画史としての様相も呈している。
監督は1972年生まれの小江(シャオ・チアン)、北京電影学院修了の女性である。
文革の強い影響下の時代を舞台にした映画は多いが、この作品はそれを批判的に描くわけではない(誰が父親かわからない子を産んだ雪華が自己批判を強制され、やがてアナウンサーの仕事を失っても、同じ地域に住み、住人たちと交流し、あまつさえ映写技師の潘大任と祝福されつつ結婚式を挙げるという設定は、今まで文革被害の酷さをさんざん映画で見せられたわれわれとしては些か拍子抜けしてしまうソフトな展開だ)。
だが、随所にはさまれる空の景色や露天電影場の俯瞰、劇中二度ほど登場する路線バスの後ろ姿など、おそらくは監督自身の心象風景なのではないか。
原題は『夢影童年』(香港では『電影往事』とも)、英語題は “
Electric Shadows”、ラストの治療院での野外上映シーンも、玲玲、大兵、そして玲玲の両親が再び出会えた美しい瞬間であるかもしれないが、それもまた一瞬のものでしかないことがこのタイトルによって暗示されている。
その意味で、邦題はネタばらし的であり、かつ覗き見的であるという点であまり好ましくはない。
そういえば、子ども時代の玲玲と小兵が遊ぶシーンで、真っ白なシーツをスクリーンにして兵士(小兵?)の役を演じている小兵の影絵のような場面は印象的だ。
玲玲にプレゼントした双眼鏡が玲玲のマンションのベランダに置かれており、それを覗いた大兵は、夫婦二人で仲良くシーツを干す玲玲の両親を見ることになる。
彼にとって双眼鏡は、好きな映画の好きな場面を見ることのできる魔法の道具だった、はずだ。
