まだまだ、暑い暑いと思いながらも、朝晩にすっかり秋を感じるような時節になっている。8月に入ってからは、お盆前後から、墓参、親戚の不幸、実家の父の入院、父を看護している母の体調不良、あれこれめまぐるしく私用で走り回っていて気がつけばもうすっかり秋風が吹いてきている。気がつけばなんと・・・ブログは全く更新できてない。
私の家は、両脇が田んぼと言うのどかな場所に住んでいるが、ついこの間、田植えを見て、・・・もう稲刈りをしている田んぼをみて、一年はもう半分以上過ぎてしまい、あれこれしているまに、年末を迎えるのかなと。
今年の私の年運を見ても、それなりに動きが取れなくなると予想していたので、予定を詰めては入れていなかったので、全て問題なくこなすことが出来たのも運命学をやっているから予想できる事態であったのだろうとそう思う。
25年ぶりに親戚の不幸と言う形で形ではあったが、年賀状でしか挨拶したことのない従姉妹に会うことも出来、一番気になっていた、高齢の叔母に会うことも出来た。
今年87歳となった叔母は、当時事業に失敗した父親が体調を崩し、一家が貧困のどん底に落ちた時、長女であった叔母は一家を助けるべく夢を持って女優を目指し、何千人かの難関を突破し、夢の松竹映画の女優になった人だった。
京都太秦の大部屋時代の同期の女優さんはどの方も大御所と呼ばれる女優さんでお亡くなりになっている方も多い。叔母は、駆け出しの頃、李香蘭さんが映画の撮影途中で出られなくなった間に彼女の代役として出演していたこともあったらしい。
そんな家族の期待を背負って女優になった叔母だったが、その叔母がやっと主役を射止め、主演をした映画は、封切りを目の前にして、当時、戦争の最中で戦火もひどい時期と重なり、映画など娯楽は一切、国からの命令で廃止となった。
やっとの思いが叶うというその直前夢はぷっつりと絶たれ、叔母は結婚と言う道を選んだがそれも、事情があって長男を出産後、不幸にも離婚せざるを得なくなり、実家に戻ることも出来ずに、その子を連れて福井県の田舎に、つてを頼って身を寄せて生きる事となった。
めぐりめぐって、私が長男を連れて夜逃げ同然で着の身着のままで、家を出た時、その話を聞いた叔母は大阪に来て、夢破れ憔悴しきっていた私に福井においでと声をかけてくれた。でも私はそのお誘いを断り、何とか自力で自分の夢を叶るまで頑張ると叔母にいい、私は大阪に残った。
その後の人生は本当に叔母をなぞったように同じような人生ではあったが、ある時を境に、やっと私は今前向きにとても幸せであることを実感する人生を歩むことが出来ている。
深い因縁、それは叔母のその叔母も同じように、夢破れ、深い事情に耐え切れず、長男を連れ夜逃げ同然で、地方巡業をしていたサーカス団に拾われ、そのサーカスの団長が高齢となり、サーカスを辞め、全ての財産をなげうって福井県三国町の田舎に当時の孤児院を作ったあとその孤児達を育てて生きた人だった。
この話はあまりにも因縁が深く、小説に書いてもかなりの長編になるであろう人間関係で、簡単に書けるようなものではないので割愛するが、全て因縁を背負った長女は夢を持って、やっと結婚したにも関わらず、今で言うDV、博打、酒乱、借金という最初の主人に泣き、長男を連れて夜逃げしているのには本当に驚かされる。
輪廻転生因果応報・・・なのだろう。私が鑑定士になったのも本当に因縁に導かれたとしか言いようがない。その叔母の娘、私の従姉妹であるがその従姉妹も離婚して今は祈祷師として生計を立てていた。従姉妹は昔から霊が見える人だった。誰にも信じてもらえず、離婚してから修行の道に入り、現在、二人の子供たちも独立し、東大阪に健在でいることも解った。
鑑定士をはじめてから私の父の家の因縁、母の家の因縁、関わってくる人たちが全て何らかの縁のある人たちであることがわかって本当にびっくりすることが多い。
先日、私の恩師、日本易学院の金澤光叡学院長に挨拶に行った。その時学院長と話をしていて驚いた。私の父は幼い頃、和歌山県の粉河寺に疎開していて子供の頃、満州に住む家族と離れ離れに暮らしていた。学院長は子供の頃、その粉河寺のすぐそばに暮らしていたそうで、金澤一族は今もたくさん周辺に暮らしているのだと教えてくれた。私の父の実家の墓も粉河寺からそう遠くない場所にある。
学院長は粉河寺の事を本当に良く知っていた。年齢から言っても父とほとんど変わらない。もしかしたら当時、顔を合わせていても不思議はないだろうと。学院長も貴方とはやっぱり縁があったんですねとおっしゃった。
和歌山県庁にもよく学院長は出向いたそうだが、伯父は和歌山県庁を定年まで勤め上げ現在も88歳の高齢にも関わらず、現在も健在で和歌山の講演会の壇上でいろいろな講演を引き受けている。その様な担当でもあったので学院長と伯父も、どこかで知らないまま顔を合わせていたかもしれない。
学院長ともやはり縁が深かったのだと、学院長に会いに行って話しが出来ることで、共に知ることが出来た。この頃、人に会うたび、話をするたび、驚くような縁を感じることが多い。出会いと言うものも、その昔は、全くの偶然なんて思っていたがそうではないのだと思い知らされる。
私が鑑定士になったひとつに、自分の過去、因縁を知りたいということから、自分と言うものを見つめなおし、宿命には逆らえないけれど、運命を変えていくことが出来たらと言う気持ちから勉強しだしたが、今は鑑定の現場に出るたび、教えてもらうことが多く、感謝することの意味をやっと解ってきた気がする。
頭でわかる感謝ではなく、身をもって知る感謝。いつも先祖に手を合わせ、いいことがあると、どんな小さな事でも感謝の報告をする。厳しい夏が終わりになり実りの秋を目の前にして思うことは、その厳しさを経験したからこそわかる本当の感謝があるのだと。苦しいことを超えるからこそ楽しいと感じる気持ちも倍になるのだということを。
学院長に卒業時に頂いた色紙には「森羅万象有縁にして生命なり」と書かれてある。学院長はいつも私に言っていた。「全ての原因は我にあり」この頂いた言葉を大切に伝えていけたらと思う。この易称名も卒業時に金澤学院長に付けていただいたものだ。
完璧な人などいないが、間違いを知って一人でも多くの人に自分が身を持って知った経験上の失敗から学んだことを、同じことで迷っている人たちに、お伝えできることが出来たらといつも願っている。
「私は間違っていない」と断言する人ほど、意外にも、なるようになっていかないことをみんな馬鹿な周りの人のせいだと悔やみ、嘆き何事も全てを他人のせいにしているような不幸な考えの人が本当に多い気がする。人を信じず、宗教等に走る人にもそのようなひとが多い気がする。一体何にどんな救いを求めているのだろうか。特に鑑定の現場でも、普通にする雑談でさえもよくその言葉を聴くことがある。
全ての人たちの考え方や感じ方や表現の仕方が違うのに、完璧なんてありはしないと思う。同じ人なんていないし、正しいと思っていても人だから間違い、人だから苦しみ、人だから学び、気がつくのではないかと。確かに一人で生きているけれど、誰かとコミュニケーションを取らない限り世の中で生きていけないことも現実なのだから。
幸せの価値観は全ての人で違うけれど、究極幸せを感じることが出来る人間に自分自身がなれることを見つけ出すことこそが本当の開運であると私は思っている。