改めて「景観」やら「風景」やらを考える機会があり,最近の己のしてきたことを振り返りつつ,ひとつの宣言をしてみたくなる.
―――「景観」を対象とした研究は,しばらく止める.
いわゆる透視図的な捉え方としての「景観」については,一般に違和感を持たれるようになって久しい.樋口先生が指摘したように,タウンスケープ派の移りゆく経験を通して,次々と繰り広げられる出会いのダイナミックな「景観」というのも,結局は透視図的な構成を基本としている.
では,どういった「景観」(の記述方法)こそが,人が生で描く体験を表すのか.
しかしこの問題の設定の仕方は,誤りではないけれど,今一つ鮮やかさに欠ける気がする.記述(表現)の仕方は,結局人それぞれである.共通の像はむしろ成立しないのではないか.あるマジョリティの像を提示すると,それをすり抜けて新たな像が見出され,そして新しい見方が体験を豊かにする.むしろ記述の見方は非常に移ろいやすく,それは何か特別なものの写像ではなくて,個々の自由な表現である.体験は,その見方に左右され,左右された体験は,その見方を強化するか,あるいは新しい斬新な見方を生み出す.本質はどこにあるか.
整った街並み,鮮やかなビスタ.透視図的構造をやや狂わすようなバロック的手法も含めて,ある視点から見た時の印象が際立つような空間の構成法が,まちの表舞台として重要な「景観」をつくる.これがいわゆる「景観まちづくり」の根底にある「きれいにしなくちゃ」的脅迫観念か.しかし,それも考えてみれば一つのモノ(あるいはコト)の見方にすぎない.しっかり整形された街を美しいものとして教育されて信じてきた西洋人が,たまたま見かけた近代初期の日本の街は,たまたま美しかったかもしれない.場所によっては軒がそれなりに揃っていて,見方によっては清潔で,もしかするとビスタっぽい場所もあったかもしれない.しかし,そういった街が,本当に西洋的美意識に似た規範的意識によって作られたかどうかは,定かではない.他の守るべきより重要な原理の集積が,たまたま他の美意識と響いたに過ぎないのかもしれない.
つまり,景観というのは,その場所に関わるいろいろな了解事や駆け引きや好みによって積み重ねられた結果としての空間の像である.蜘蛛の巣の構成の美しさに関して,蜘蛛君たちがそれぞれ競い合っている訳ではない(たぶん.少なくともその競い合いによって成立した構成法ではない).そういうものを経験する主体が,それを己の感性で了解して表現し,それがまた他の人々の共感を呼んで定着すれば「景観」(共通概念としての)が成立するのだろうが,それもまた揺らぎゆく風流の遊戯だ.どうもこれがひっくりかえっている例が多いような気がする.つまり,どのように見えるのかの最終段階だけが取りざたされて,そのために中身のない意味のない一義的(キレイニミセタカッタ)空間をつくるという愚.
人間一人が受け止めて表現するような景観は,景観という現象全般の中でごく偏った部分を成すにすぎないと思う.つまり,「崇高」な景観のように,圧倒的な大自然と対峙するような風景はそういう型だろう.これは,多くの場合透視図的な表現や,場合によっては吉田初三郎的なそれをぐっとデフォルメしたような表現で描かれるだろう.つまり,基本的に近代的景観を下敷きにして,スケールや構成の差異で比較できる対象である.
それに対して,複数の人間が関係している街のような場所においては,人と人との関係が,景観を経験する基礎になるのではないだろうか.人と人が非常に高いクオリティを求めていれば,その人々を取り囲む空間は,綿密に構成せざるを得ない.茶道の空間には,相手への心配りは空間に現れて当然と双方が思っているため,そういった緊張が確かにある.人と人が,マア俺らしかいないし,どうせこいつには何もわからないし,安く済ませないと損ヲスル,と思えば,応接空間にもドン・キホーテの愉快な品々で事足りる.人と人との関係において,片方が相手を収益のための存在としか考えなくなると,その空間としては,内側の商品の魅力的な陳列方法と品揃えにのみ神経を使い,効率化を図って巨大店舗,しかも特に相手の生活についてはどうでもよいので,安い素材でのっぺりとした外壁を誇る量販店となって現れる.基本には,人と人との関係がある.その密度や質がまちの印象となる.これを街の風景というのであれば,それを如何に文学的に読み取ろうが,システマチックに読み取ろうが,人の生きる舞台は既に成立してしまっている.如何に斬新な美意識が登場しようとも,それは現実から目をそらすことによって得るひと時の遊戯でしかないのではないか.
要は,人が何を求めて,どういう形が成立するのか.その直接的な空間形成の原理に迫ることなしには,景観の問題は何ら解決しない.したがって,しばらく風景の世界を楽しむことは我慢して,リアリスティックにものを見ていかねばと思うに至る.

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