2009/6/30
怒りについて 読書

「怒りについて」 セネカ著,兼利琢也訳(岩波文庫)。
2008年に出た新訳版です。表題作のほか,「摂理について」,「賢者の恒心について」が収録されています。
セネカは,ローマの哲学者で,精神論の大家というか,へりくつっぽいところもありますが,現代でも十分に参考になる部分が多かったです。
「摂理について」
なぜ世界が摂理によって導かれているのに,善き人々に数多の悪が生じるのかというルーキーリウスの問いに答えたもの。
確かに,そういうことってありますよね。
これについては,セネカは,要約,鍛錬と思って耐えよ!神に見込まれているのだ!というスタンスです。
個人的に好きなのは,次の一節
「障碍を知らぬ幸福は,どんな打撃にも耐えられない。だが,絶えず逆境と格闘した者には,受けた不正で厚い皮が育ち,いかなる悪にも屈しない。倒れても,膝立ちで戦う。」(15頁)
我々も,倒れても膝立ちで戦うくらいの覚悟が必要かもしれませんね。鬼教官からのアドバイスという感じの一篇。
「賢者の恒心について」
本篇は,賢者はいかなる不正も侮辱も被り得ないということがテーマになっています。 「怒りについて」とも重なるテーマですが,侮辱を侮辱として受け取る必要はないということに要約できますかね。
「怒りについて」
さて,表題作の怒りについてですが,怒りに身を任せるようなことにならないようにしようということで,怒りのデメリットについて説明していきます。確かに,怒ることのデメリットは感じますね。
「怒りは,落ち着きのない性格の人間に劣らず,温厚で穏やかな人間にとっても危険である。」(199頁)
まさにその通りで,万人が注意すべき点といえるでしょう。
他にもじっくりと味わいたい部分がたくさんあります。
セネカ自身は,死刑について否定はしませんが,刑罰についての考え方としては, 「法律の守護者であり国の主導者たる人にふさわしい方法は,できるかぎり,言葉,それもかなり穏やかな言葉で人心を治療することである。」(98頁)として,ヒステリカルな厳罰主義とは一線を画しています。
「罪を犯した者を穏和な親心をもって監督し,彼らを厳しく追及するより呼び戻してやるほうが,どれほど人間的だろう。」(113頁)
確かにそうですね。
「何であれ偉大なものは,同時に穏やかなものにほかならない。」(129頁)
これは,額縁に入れて飾っておきたい。
「慎みには暇な時間がある。欲望はいつも多忙をきわめる。」(151頁)
こちらは,現代人に対する箴言ですね。
「支配されることを知る者でなければ,支配することはできない。」(154頁)
権力欲を持つ方々に。
「怒りに対する最良の対処法は,遅延である。」(174頁)
ちょっと時間を置くということが意外に有効であったりします。
「その上,他の情念が人間一人一人を捉えるのに対し,この情念だけは,しばしば単独で全体を侵す。」(193頁)
これは,怒りについて述べた部分ですが,好戦的な国民感情などを考えるとよく分かりますね。2000年近くも前に,こういうことが述べられていた訳です。
「われわれが私的公的を問わず,多くの仕事を,あるいは実力以上の難事を背負うのをやめれば,平静な境地が現れる。数多の世事に忙殺される者が,人からであれ,仕事からであれ,心を怒りへ向かわせる厄介事が何も起きずに一日を過ごせるような,そんな幸運に恵まれることはありえない。」(202頁)
デモクリトスの言葉として紹介される部分ですが,忙しすぎると短気にもなりがちです。
「怒りは多くの仕方で阻止しなければならない。たいていは戯れや冗談に変えるのがよい。ソークラテースは,拳固で殴られたとき,ただこう言って済ませたとのことだ。人がいつ兜をかぶって外出すべきなのか分からないとは厄介なことだ,と。」(211頁)
ソクラテスの言葉かどうかは争いがあるようですが,こんな具合にやり過ごせたら,かっこいいですね。
「他人のものを眺めると,誰でも自分のものが気に入らなくなる。」(246頁)
まあ,昔から言われていることですが。
それにつけてもギリシャ・ローマの古典はいつものように面白いですね。
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2009/6/29
百日紅 マンガ

「百日紅」(さるすべり) 杉浦日向子著(ちくま文庫)。マンガ。
上下2巻。江戸は,北斎の暮らしを描いた,杉浦日向子の代表作。
もちろん,北斎については必ずしも多くの資料が残っている訳ではないので,フィクションの部分も多いとは思いますが,いつもの杉浦作品らしく,何気ない日常を描いたというところが自然に江戸の景色を感じさせてくれます。
本書では,著者は北斎の評伝を描こうとしたのではなく,あくまで晩年の北斎の日常を切り取ってみたという感じで,特段北斎を神格化もしていません。変なじいさんに,あばら屋で生活する仲間たちという感じで,なごめます。
一緒に絵を描く,北斎の娘,お栄は本書の事実上の主役という感じですが,それですら特にオチらしきものを用意している訳ではありません。
ただ,何気ない日常を描いた中にも,時間軸の違いというものを深く感じさせてくれます。雨がもたらす景色の変化や魔物が息づいていたであろう江戸の空気というものをこうやって現代に蘇らす手法は,本当に斬新さを感じます。
本当の意味での大人向けのマンガです。
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2009/6/23
「絆」 小杉健治 読書

「絆」 小杉健治著(集英社文庫)。推理小説。
1987年に発表された作品で,1988年の推理作家協会賞受賞作。新聞記者である主人公が法廷を傍聴するスタイルで描かれる。事件は,会社社長の殺人事件で,被告人はその妻。強盗事件に遭ったかのように偽装工作をするなどしたものの,その後犯行を認め,自白している。弁護人は,弁護士登録を抹消し,引退していた凄腕弁護士原島保弁護士で,当初の弁護人の辞任後に新たに選任されている。
主人公の記者は,被告人と面識があり,子どもの頃には憧れていた存在であったことや,突如いなくなってしまった彼女の知的障害をもった弟のことなどを思い出す。
裁判が始まると,被告人は罪を認めるものの,弁護人は無罪を主張した。
法廷での審理を通して事件を描いたという意味では,意欲作でしょう。後半の展開も,悪くなく,読後感もよかったです。
ただし,法廷サスペンスという目で見ると,1987年という年代で,著者の初期の作品ということもあるんでしょうが,現代の裁判員裁判の時代の目で見てしまうと,刑事裁判の知識の欠如が目立ちます。推理作家協会ももう少し刑事裁判の知識を持っておくべきだったのではないかと思いますね。まあ,裁判員制度が導入された現代とは,状況が違うのかもしれませんが。
まず,起訴状については,認否が行われるので,裁判官が「どう思いますか?」と聞くのは変。「事実と違う点がありますか?」くらいの聴き方でしょうね。
また,検察官の冒頭陳述は,検察側の立証の目標を示すものだから,「身勝手な犯行と言わざるをえない」とかの断定や意見が出てくることはありえない。これはやるとすれば,論告でやる話。
最初の証人である警察官に対する尋問は,法廷物を読み慣れた人には耐えられないでしょうね。ここを何とか乗りこえられるかどうかが,本書を読み通すことができるかどうかの分かれ目ですね(後半は,まあありうるかなというレベルに落ち着く)。
証人が直接経験していないことや,直接聞いていない話(伝聞)を裁判で聞くなんてことは基本的にありえない訳で,ここで異議を出さない弁護人が凄腕って,ありえないだろうと思ってしまう訳です。ここは,いっそのこと,弁護人が事件の真相をさぐるために刑事に接触したとかいう設定にしてしまった方がよかったでしょうね。
そういう意味では,刑事裁判の基本的なところの知識が弱いため,法廷サスペンスには遠い部分があるのですが,そういう点に目をつむれるのなら,そこそこかな,と。
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2009/6/20
シアワセ行進曲 マンガ

「シアワセ行進曲」 山川直人著(エンターブレイン)。マンガ。
山川直人のマンガは,つい手が出てしまう。本作は,マンガ家の幹太と喫茶店で働く絵美の同棲生活を描く。若い二人の日常を描くのだけれど,その内容はいつものように小市民的。
元は4コマ漫画誌に連載され,自費出版で出していたものを完全版として単行本化したもの。
このマンガを自費出版しているあたりが凄いですね。下積みの生活というか,アンダーグラウンドな環境で,こういうのほほんとしたマンガを描いていたっていうのが,山川ワールドの原点なんだなーと。
本来だとあまり好きなジャンルではないんですが,彼の場合だとなぜか許せてしまう,というか,引き込まれてしまっています。
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2009/6/16
友だち地獄 読書

「友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル」 土井隆義著(ちくま新書)。
社会学の教授が,最近の「空気を読む」若い世代について,「優しい関係」が支配しているとして,その実態について分析した新書。
自分より若い世代の行動が理解できない時に,人は下手をすると自分の若い時はこうではなかったとして,説教モードになってしまいがちだけれど,そうならないための分析の視座を持っておくというのは有用なこと。そういう意味では,多少違うんじゃないかなと思う部分もあったけれど,参考になった。
本書の構成は,下記のとおり。
第1章 いじめを生み出す「優しい関係」
第2章 リストカット「少女」の痛みの系譜
第3章 ひきこもりとケータイ小説のあいだ
第4章 ケータイによる自己ナビゲーション
第5章 ネット自殺のねじれたリアリティ
本書で指摘する「優しい関係」とは,「対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係」(8頁)のこと。
このような視点を用いて,いじめについても,「いじめがきわめて流動的な現象であり,その理由に客観的な根拠を見出すことが難しいのは,それが加害者や被害者の内面に固有のものとして存在するわけではないからである。あくまでも人間関係の重さを軽くするためのテクニックとして生まれたものだからである。」(21頁以下)と分析する。
その原因として,人間関係に対する不安を指摘します。「人間関係に安心感を抱けないのは,彼らの自己肯定感の基盤が脆弱だからである。身近な人びとからの承認を得ることなくして,不安定な自分を支えきれないと強く感じているからである。」(34頁)
まあ,若い時を振り返って見れば,こういう心理っていうのはよく分かりますね。で,一体なぜそうなんだろうかという分析に進むのですが,著者の分析もなるほどと思うのですが,このあたりはまた別の解釈も可能だろうと思います。
現在の若者に自分が理想とするモデル像や思想が欠如しているというのはその通りの部分もあるだろうと思います。しかし,その原因はやはり現在の若者を取り巻く環境による部分が大きいと思います。
ネットや携帯というのは,昔で言うところの噂話をかなりパワーアップさせた存在だということができると思います。さらに,テレビなどの存在によって自分で考えるまでもなく,一定の意見が次から次へと入ってくるという情報過多の社会状況というのも影響しています。
その結果,昔であれば「特定の番組」だけを知っていれば足りたのに,様々な情報に応じて話題を合わせる必要があって,情報(いわば噂話)の多寡によってその人らしさが形成されてしまう(ように思わせる)部分が出てきてしまう。また,自分の知っている情報についても,(情報が分散化しているから)相手が即座に理解してくれる訳ではなく,そういう意味での疎外感も常に感じることになります。
当然,そういう状況になれば,忙しいし,人間関係については渇望も感じる訳です。こんな忙しさや一種の飢餓感を抱えた状況ではゆっくり物を考える時間もないですし,寛容にゆっくり構えるなどという余裕もなくなってしまいかねません。
個人的には,こんな感じじゃないかなと思います。
第2章の,同じく自殺を選んだ高野悦子と南条あやを対比して論じた章も参考になりました。著者は,これを思想などの外在的なものを目標に獲得的な人生観を持っていた世代と,生まれながらという生得的なものに比重を置きがちな現代の若者という対比をしますが,確かにそういう部分もあるような気がします。
これを,「近代以降,私たちの社会は,血筋や家柄などの生得的な属性から人びとを解放し,知識や技能などの後天的に獲得される属性に優位性を認めてきた。自由にせよ,平等にせよ,そのための理念だったはずである。しかし,ここへきて,生まれもった自分らしさだとか,秘められた自分の本質だとか,表向き洗練された属性に置き換えられてはいるが,自己像に対する感受性の方向がかつてとは逆になりはじめている。獲得的な自己像のリアリティが失われ,代わって生得的な自己像のリアリティが復活しているのである。」(79頁)と指摘した点については,鋭さを感じますね。
ただ,これを前提に純粋な関係を希求しているという部分については,どの世代の若者も基本的には一緒じゃないかなーと思いました。ただ,純粋な関係っていうのは,どこにもありえない関係で,景色がシンプルな世界(情報が乏しい)では,比較的そのことに気付きやすかったんだけれど,景色が複雑化した世界(情報過多)では,どれもがどこかで見たような景色で結局複雑な関係に分け入らないといけない(汚れた中での純粋さという極端な世界を希求しがち)という側面があります。
そういう意味では,「望むものは何でも容易に手に入れられるようになったことで,さらにまた選択肢の幅も拡大してきたことで,それぞれの価値は互いに互いを低めあうようになっている。」,「ほかの選択肢の可能性もつねに残されているという事実が,自ら選んだものの魅力を相対化し,その価値を低めてしまうのである。」(185頁)という指摘は重要だと思いました。誰だって,こういう状況に置かれれば,つまらなさや自信のなさを感じてしまうはずです。
本書は著者の既発表の論考を整理したもののようで,その意味で原因付けが必ずしも一貫しているとはいえない部分もありますが,若い世代の問題を考えてみたいという場合の一歩としては,語り口も誠実なのでいいのではないかと思いました。
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