マイケル・ジャクソンが死んだ。
自分がリアル・タイムで親しんだアーティストが死ぬというのは本当にショックなものだ。こういう感覚は尾崎豊以来かもしれない。
マイケルの死後、彼は音楽の革命者だったような報道があるが、音楽的に彼が革命を起こしたことなど一度もないと思う。
彼は、もちろん自分でいくつかの名曲を作り出したが、根っからのパフォーマーだったし、まこと努力の人であった。
「努力の人」と聞いて、違和感を覚える人もいるかもしれない。
確かに、彼のことを天才と称する向きもあるが、彼の天才はジャクソン5としてデビューしてからの数年間の時期だけである。この時期の彼は「歌手」としてまさに天才としか言いようがない仕事をしている。
デビューから4曲連続でチャート1位を獲得したという大記録が残っているが、どの曲も歴史に残る名曲だし、その張りのある歌声は本当に素晴らしい。1曲だけ選ぶとすれば、4番目のシングル「I'll be there」だろうか。その後の彼の決して幸せとはいえない、プライベートな人生を想うとき、この曲の純粋無垢な歌声に涙しない人はいないであろう。
子供のころに天才、大人になったらただの人というのが世の常だが、マイケルはそこを不屈の努力でスターとなった稀有な例である。
どんな努力か。
それはダンスである。これは才能だけではなしえない。食事の制限から徹底的に体を鍛え上げるトレーニングまで、まさに努力の賜物である。
彼の場合、ムーン・ウォークばかりが注目されるが、フレッド・アステアらの古きよきハリウッドのダンスを徹底的に自分のものにして、なおかつ独創性をもたせて現代に蘇らせたマイケルの功績は実に大きいと思う。
もちろん、ムーン・ウォークも素晴らしいが、このような踊りはすでにストリートを中心としたブレイク・ダンスのムーブメントでは散見されていたものだ(70年代終わりころのシックの「おしゃれフリーク」のPVでもブレイクダンスを見ることができる)。
成人したマイケルのダンスに対して、歌については少年時代の天才に遠く及ばないと思う。もちろん、それなりに素晴らしいが、必要以上にか細い神経質な声質は、プロの歌い手としては大いに評価の分かれるところではないだろうか。
音楽的にもファンの方には申し訳ないが、全盛期の80年代ですら、音楽のクリエイターとしては、天才プリンスの前ではかすんでしまう存在だったことは否定できない。
そんなマイケルを僕が初めて知ったのは、まだスリラーで大ブレイクする前、1980年か1981年ころのことだった。
当時、彼は日本のテレビコマーシャルに出演していた。
それは、スズキのスクーター「ラブ」の宣伝で、どこかのビルの屋上のような所で、赤いスクーターの周りを踊りながら口パクで歌うというものだった(たぶん)。曲は当時は分からなかったが、後からオフ・ザ・ウォールという曲であることが分かった(関係ないが、この曲のベースラインは、サザンのシュラバ☆ラ☆バンバにそっくりである)。
そのときの彼は、黒人ではありながら、当時流行していたレイフ・ギャレット(田原俊彦のデビュー曲「哀愁でいと」のオリジナルとして有名だった)やアンディ・ギブ(ビージーズ兄弟のイケメン)系の、ちょっとしたアイドルのような立ち位置だったと思う。
そのころ、ビートルズにはまっていた僕は、マイケルがポール・マッカートニーに急接近し、ポールの元で作曲の修行をしているらしいという噂もしっかりとチェックしていた。どうやらマイケルはアイドルではなく、自分で立派にソングライティングできるアーティストを目指しているらしかった。
そんなマイケルが、アルバム発売に先駆けてポールとのデュエット曲をリリースしたのは1982年の秋ころ、僕が高校1年生の頃だったと思う。
その曲「ガール・イズ・マイン」は、後にモンスターアルバムとなる「スリラー」の先行シングルとしてリリースされたものであるが、この曲のためのプロモーション・ビデオ(PV)は製作されず、もっぱらラジオでオンエアされるのみという、まことに地味なプロモーションがなされたのであった。
しかし、軽いフュージョン・タッチのこの曲はFMでよく流れていたし、一人の女性を取り合い、結果的にその女性がポールを捨ててマイケルの元へいくというような歌詞の内容が、まるでファン(女性が象徴している)がビートルズからマイケル・ジャクソンの元へ走る、つまり、これからはマイケルの時代だよと暗に示しているように解釈され、話題となっていたのだ。
このころはすでにMTVの全盛期で、ビジュアル栄えするデュラン・デュランやカルチャー・クラブなどのイギリス勢がアメリカのチャートを席巻している時期だった。だからマイケルがMTV時代を作ったみたいな表現はちょっと違うと思う。
マイケルがMTVを使って最初に作った本格的なPVはビリー・ジーンである。
これこそマイケルがスリラーでやりたかったサウンドなのだ。
ちょっとラテン風味の入った8ビートのリズム(ドラムはンドゥグ・チャンクラー)にルイス・ジョンソンの重たいベース・ラインが重なる。曲はGmの暗いブルースの変形みたいな展開で、当時はスティーリー・ダンのDo It Againのパクリではないかとアメリカでは話題になり、二つの曲をつなげたディスコ・バージョンも作られたと思う。権利関係も大らかな時代だった。
この曲のキモは、マイケルのボーカル、悲しげなメロディもさることながら、後半に頻繁に現れるギターだろう。ひずまないクリアな音で、16ビートで奏でられるフレーズは本当にかっこいい。今世紀にリリースされたスリラーのスペシャル・エディションでは、この曲のデモテープが収録されているが、まだ歌のメロディは未完成なのに、このギターのフレーズはしっかりと入っていた。最初からこの部分は完成していたものだったのだ。
サード・シングルはビート・イット。エディ・ヴァンヘイレンの派手なギターソロのインパクトも素晴らしいが(当時はノーギャラでワンテイクで弾いたとか言われていたっけ。ギャラはともかく、リイシューされたときに相当なフィーは得ているはずだろう。)、この曲のPVもまた素晴らしい。
本物のLAのチンピラ集団を出演させ、まるでウエスト・サイド・ストーリーのような抗争劇に仕立て上げたもの。一触即発のチンピラ同士の喧嘩が、最後はマイケルの仲介で、みんな仲良く踊って終わるというあり得ない展開なのだが、マイケルの独創的なダンスが実に素晴らしい。この曲をパロディにしたアル・ヤンコビックの「Eat It」のビデオも笑えるが、それだけインパクトのあるビデオだったということだろう。
スリラーというと、タイトル曲の14分にも及ぶPVばかりが話題になるが、実はこの曲「スリラー」がシングルカットされてPVが製作されたのは、だいぶ後である。
シングルとしては、4枚目「スタート・サムシング」、5枚目「ヒューマン・ネイチャー」、6枚目「PYT」の次ぐらいではなかったか。当時は、アルバムタイトル曲はさすがにシングルカットしないのだろうなと皆が思っていた。これに反してスリラーをカットしたのは、おそらく、それまでのシングルもまだまだ売れていたし(普通は4枚目、5枚目ともなればチャートインすらしない)、アルバムもロング・セラーを続けていたので、ファンに対する感謝の意味をこめて、シングルの「うちどめ」として最後に派手なPVとともにリリースしたようなものだったと思う。
しかし、このことが結果的にスリラーを他のヒット・アルバムとは次元の異なるモンスター・アルバムに仕立て上げる結果となったのだ。
そして、モンスターアルバムになって、普段は音楽なんて全く聴かないような人々にまで知られる存在になってしまったことが、結果的にマイケル・ジャクソンの悲劇につながったのだと思う。
マイケルの立派なところは、これだけのアルバムをリリースした後に、プレッシャーと戦いながら、ファンが期待するとおり名作「BAD」をリリースしたことだろう。
しかし、今から考えるとこのときに思いっきり実験的な作品でもリリースして、ファンをひとまず突き放してもよかったのではないかと思う。スティーヴィー・ワンダーですら、キー・オブ・ライフの次に実験的なシークレット・ライフをリリースしてファンをドン引きさせているのだし。
「BAD」は妙にがなり立てるボーカルはどうかと思うし、そのアレンジはやや時代性を帯び、今から聴くとダサいポイントもないではないが、曲のクオリティはスリラーに勝るとも劣らない出来だと思う。このアルバムがリリースされた1987年8月は、僕は大学生の夏休みで、ちょうどヨーロッパに貧乏旅行していた時期だったので、よく覚えている。どの街のCDショップでも皮膚が白くなり始めたマイケルのかっこいいポスターが貼られていた。
とにかくマイケルを真剣に聴いたのはこのくらいの時期までだったろう。
日本での人気も急速にしぼんで、90年代以降はある種のイロモノのようになってしまった。
彼が死んでしまったことは本当に悲しいが、これによって彼がゴシップの標的にさらされずに正当に評価されるようになるし、伝説になっていくことはよいことなのかもしれない。
ついでに彼が実現しようとした人類愛や人種差別のない世界は、同じアフリカ系アメリカ人の大統領就任で一歩実現に近づいているわけだし、マイケルの「白人化」として生前常に好奇の目にさらされてきたものも「尋常性白斑」という病気が原因であるということも徐々に周知されていくだろう。同じ病気で苦しむ人たちの理解につながるかもしれない。
後期のマイケルの音楽は真剣に聴いてはいないが(なぜかCDは持っている)、これからゆっくりと聴いてみようと思う。今はただマイケルのために祈ろうと思う。

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