▼ 太平天国の乱から改革開放まで
日本は黒船の来航によって「政権交代」が起こり,明治維新という近代化への急発進の仕組みが成功した.翻って,他のアジア諸国ではどうか.韓国については,何度も言及しているので,今回は割愛するが,安重根という愚かなテロリストによって,自立の道が閉ざされたことは残念と言えよう(10月26日は伊藤博文暗殺から100年).
中国の近代化は失敗と苦難の連続であった.ときは清朝末期,列強はアヘン戦争などに見られように,清朝に難癖をつけて,次々と権益を拡大していたが,当事者の清朝には成す術がなく,相変わらずの宮廷闘争を繰り返すのみだった.そんな中でも,西欧近代化を見習い,改革の必要性を説く中国人は少なくなかった.中国の伝統文化や王朝制度を守りながら西欧の先進的な科学技術や近代兵器を導入する『洋務運動』が軍人官僚を中心に推進された.しかし結局,旧体制の因習に縛られ,改革は失敗する.
近代中国を語る上で,大きなイベントがいくつもあったが,今回は @太平天国の乱 A辛亥革命 B中華民国成立 C国共内戦 D大躍進政策と文化大革命 E改革開放 以上の6つに焦点を当てる.
太平天国の乱
1851年,清末期にに起きた大規模な反乱.洪秀全を天王とし,キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされた.南京条約締結以降,銀価騰貴と税金の増加により困窮化した貧農が洪秀全を支持して多数参加.広西省金田村で挙兵し,中国初の革命政権「太平天国」を建国した.南京を攻略して首都とし,天京と改称,洪秀全は天王として君臨した.変革の不徹底と内紛激化により弱体化し,1864年に清朝側に立った外国人の指揮する義勇軍に攻め込まれ,鎮圧された.
この反乱の見逃せない特徴として
T首領の洪秀全は広東省花県の客家出身であること
U外来宗教であるキリスト教が関係していること
V華南地区を支配下に置き,南京を首都にしたこと
W最後は列強の軍隊によって壊滅したこと
Xこの乱の背景に人口爆発があったこと
近代以降の中国の革命や反乱は,すべて華南地区が発祥である.そして,南京が拠点となる.これは後述する辛亥革命も同様である.そして,決定的なのが,革命の成否の帰趨が外国の意思により決定されていることだ.もし,太平天国の乱が列強側に寛容で,近代化に寛容であったなら,清朝はもっとはやく滅亡したであろう.もうひとつの側面として,清朝末期に中国全土の人口は爆発的に増加していた.そのための食糧不足が乱の主因となっていた.なお,この乱によって,何千万人もの死者が出たとされる.このような人口爆発と内乱,多数の犠牲者というパターンは,近代以降の中国で繰り返し見られる.
辛亥革命
1911年辛亥の年,清朝を倒し中華民国を樹立したブルジョア民主主義革命.10月の武昌蜂起に始まり,翌年1月,孫文を臨時大総統とする南京臨時政府が成立したが,革命勢力が弱体であったため,北洋軍閥の袁世凱と妥協.袁が大総統に就任した.
中国史上に残る市民革命であり,孫文の偉大さは群を抜いている.
孫文先生は清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き,1895年に広州蜂起に失敗して日本とアメリカを経てイギリスに渡り,一時清国公使館に拘留され,その体験を『倫敦被難記』として発表し,世界的に革命家として有名になる
1911年に革命のきっかけとなる武昌蜂起が起き,各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時,孫文はアメリカにいた.革命政府のリーダーを誰にするか揉めたときには,革命派はそろって彼の帰国に熱狂し,1912年1月1日,孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した.しかし,孫文は革命政府を維持するため,宣統帝の退位と引き換えに袁世凱に総統の座を譲る.袁世凱による独裁が始まると,反袁を唱えて活動するが,袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した.日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり.中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている.
この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚した.結婚年については諸説あるが,孫文が日本亡命中の1913年〜1916年とされ,この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった(Wikipedia)
ここでも見逃せない特徴がある.
T孫文も広東省の客家出身である
Uクリスチャンであった
V南京を首都とした
W清朝皇帝退位と新政権樹立に外国勢力が介在した
X袁世凱の帝政復古により革命が失敗した
前述の太平天国の乱と比較してほしい.驚くほど共通点が多い.太平天国の乱では,列強や日本との関係構築と,世界情勢に対する現実的な対処ができなかったため,最後には清朝に鎮圧されてしまった.しかし,辛亥革命は列強の支持獲得により,目的を達することができた.
なお,孫文の思想に共鳴し,惜しみない援助をした日本人も存在した.それが宮崎滔天であり,山田良政なのだ.私も孫文は近代中国の生みの親であり,中国史上に残る偉人だと思っている.日本には孫文ゆかりの施設や名跡が少なくない.
しかし・・・
ここでも中国人特有の「内紛」「保守」「地域主義」が中国全体の足を引っ張ってしまう.孫文から禅譲を受けた袁世凱は,伝統的な中央集権的,独裁的な手法で国内をまとめようとするが,結果は惨憺たるものだった.
袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった.しかしこれにたいして当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した.その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた.
1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間、袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。さらに日本から「21か条要求」を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた.
こうした袁の弱腰な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想・社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。
こうした不安定な状況の中、1915年に袁は帝政復活を宣言した。翌1916年より年号を洪憲と定め、皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めた。こうした袁の行動は、自らの野望を果たすためという面もさることながら(彼の皇帝就任への願望を示すエピソードはふんだんに残されている)、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方が日本の学者では多い。
しかし、結果はまったく袁の予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局袁は1916年3月にとうとう退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。
袁の死後、彼の部下であった馮国璋、徐世昌、段祺瑞などが相次いで政権につきいわゆる北京政府として対外的に中華民国の正式政府として存続したが、いずれも一国をまとめる力を持ちえず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入した。蒋介石の北伐が終了するまでの10年余り、この状況が続くこととなる。
現在でも中華民国および中華人民共和国で、袁は悪役であり時に漢奸とまでいわれている。中国国民党と中国共産党の双方が称揚する孫文らを弾圧したこと、日本の21か条要求に屈したこと、そして時代に逆行して皇帝に即位したことは、革命で打ち立てられた共和制中国を乱したとして厳しく批判されている。
日本でもその叛服常なき行動から、袁に対する評価は低い。(Wikipedia)
この袁世凱の失敗は,多くの教訓を残している.最大の教訓は「中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得る」という考えが大間違いであることを証明したことだ.田中宇氏は,中国の一党独裁を肯定する主張を展開しているが,もっと近代中国の歴史を勉強したほうがよい.
広大な中国大陸の統一を維持するためには,圧倒的な独裁権力が必要なのは事実であり,歴史的にも疑う余地がない.しかし,中国が昔ながらの王朝制を続けるなら,このロジックも正当性を有するであろうが,近代化を成し遂げた世界の成長センターたる現代中国に,同じロジックを適用するのはペテンである.田中は,孫文の熱い志と中国市民の政治的覚醒を否定するのか?
結局,袁世凱の強権手法は破綻し,中国は群雄割拠の混乱期に突入する.「歴史は繰り返す」と言うが,この状況は,今の中国共産党政権と酷似している.現政権は,経済発展,オリンピック,プロパガンダの徹底,洗脳教育,万博などにより,中央への批判の目をそらす仕掛けを出し続けて,危うい均衡を保っている.
現代の中国も,各地方の共産党有力者と軍閥が利権を確保して,中央に依存しない体制を構築している.現在の中国人民解放軍が自給自足体制となり,それが軍閥の台頭と軍による企業経営,利権確保に繋がったことは以前に解説した.
「的中! 中国大乱」
http://green.ap.teacup.com/kyusiro/508.html
1970年代後半からのトウ小平による改革開放は軍隊にまで波及し,人民解放軍は大規模なリストラと独立採算による自給自足を余儀なくされる.中国は軍隊も党も血統や人脈がモノをいう人脈社会である.もともと地方軍閥が原点である人民解放軍は,各地域の有力者による人脈と地縁が強固に結びつき,商業活動による経済基盤の確立が進む.しかし,このような経済的独立性が各地方軍閥の実力強化に繋がり,北京の共産党中央が統制権を弱める主因となったのだ.
この事態に気がついた中国共産党は98年に軍隊の商業活動を禁止する通達を出したが,時既に遅しであった.強固な利権を確立した各地域の軍閥は,中央の統制を無視して益々ビジネスに介入していく.
軍事産業,線維産業,情報通信産業などの軍需で関係のある分野から,製薬会社や病院経営まで進出しているとされている.まさに巨大な軍産複合体である.つまり中国人民解放軍は,もはや共産党の軍隊ではないのだ.ビジネス上の利益を追求する経済ヤクザ,すなわち利権化した巨大な暴力団組織である.
ずばり言うと,中国共産党中央が権力を維持しているのは,各地方軍閥が儲かる仕組みを維持し,中央に反抗する理由を封じてきたからである.しかし,そんな仕掛けが長続きするわけない.袁世凱の死後に,中国各地の軍閥が群雄割拠したが,今まさに同じ様相を呈している.胡錦濤の次は危ない.
ここまで非常に長くなったので,再度結論は次回へ持ち越す

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