▼ 軍閥割拠から大躍進政策・文革まで
袁世凱の死後,中国は軍閥が割拠する混乱に突入する.もともと広大な国土と歴史を有する中国では,各地域において自給自足が可能であり,政治も軍事も地方の独立色が強かった.それを無理にでも統一するには,元や清のような異民族による漢民族支配が最も有効だったのだ.
辛亥革命によって,清朝は滅亡した(皇帝が退位した)ため,これまでの緻密な全土に対する支配体制が崩壊してしまう.袁世凱も,結局は北洋軍閥と称する有力軍閥の親玉にすぎなかった.孫文や国民党は,議会政治による共和制を目指していたが,中国の2000年以上に及ぶ地域独立志向を一朝一夕には変えられなかった.このあたりが日本の明治維新と違うところである.
中華民国成立期の軍閥割拠の状態は,三国志や日本の戦国時代以上に複雑かつ多様性に富んでおり,日本のパソコンシュミレーションゲーム開発の草分けである「光栄」は,このときの中国軍閥割拠状態をシュミレーションゲームにしようと企画を練っていたそうである.しかし,対中関係の問題から,企画は見送られたらしい.実際,この時期の中国は,清朝の滅亡と軍閥割拠,各軍閥間での私闘,権力闘争,日本を含む欧米列強の介入と援助,共産党の台頭など,非常に多くのファクターが絡み合い,シュミレーショーンゲームとしては,この上なく面白い企画だったようだ.
やがて,蒋介石による北伐によって,北洋軍閥は壊滅する.中国の歴史において,華南勢力が華北一帯を武力鎮圧するのは多くないが,太平天国の乱から現在に至るまで,華南のほうが経済的軍事的な実力が優勢であることを示している.
北洋軍閥とは、清朝末から辛亥革命、中華民国成立と中国の権力闘争の中心にいた袁世凱が根拠としていた軍事力を起源とし、袁没後の北京政府(北洋政府)を支配し、または政権を争った中国の地方軍閥の総称である。元々は清朝末期の淮軍として結成されていた地方軍が主体となっている.
1916年に袁世凱が死ぬと北洋軍閥は根拠地とする地方と背景勢力の違いにより、直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系 (奉天派)、晋系(山西派)、馮系 (西北派)の各分派に分裂する。以後、分派間あるいは同一派内の有力者間で抗争を繰り返し、北京政府の政権を争った。
最初に北京政府の実権を握ったのは、日本の後押しを受けた段祺瑞の皖系だったが、1920年の安直戦争で直系と奉系の連合軍に敗れ勢力を失った。直・奉の連合も長くは続かず、1922年に奉直戦争が勃発、2年に及ぶ戦闘の結果、張作霖の率いる奉系が勝利を収めた。張は直系から寝返った馮玉祥との争いにも勝ち、1924年に政権の実権を握った。勢力を失っていた段祺瑞が張の支持を受けて臨時執政に就任した。
1925年に孫文が没する。1926年に蒋介石を中心とする国民革命軍は北伐を開始し、これを受けて張作霖は海陸軍大元帥に就任し非常大権を握った。北伐によりまず直系が滅ぼされ、さらに北進した国民革命軍は1928年に張作霖を破り北京を占領する。張は奉天へ向かう途中関東軍により爆殺された。その結果奉系の政府も消滅し、袁没後13年間続いた北洋軍閥支配の北京政府は終わりを告げ、蒋介石の国民政府が中華民国唯一の政府になった。(Wikipedia)
関東軍による張作霖爆殺と,日本の事後処理の不徹底が,さらなる関東軍暴走を助長し,満州事変という形で具現化する.しかし,背景には日本や欧米による中国利権の争奪戦があったことを認識する必要がある.さらに,日本とって致命的だったのが,国共合作である.
第一次国共合作
第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。
蒋介石の同年北伐で南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。国共内戦に突入した。
第二次国共合作
西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。しかしながら北京盧溝橋事件と上海で起きた日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試みた。(Wikipedia)
日本は満州事変を起こし,中国に対する権益を急拡大させていたため,米ソは対抗上,共産党や蒋介石を援助し,国共合作という形で対日共同戦線を結実させる.これは日本の外交戦略上,最悪のミスだ.
孫子の兵法でも,団結している敵は内紛を仕掛け,内紛している敵は,それを助長して利用すべしとある.日本は不用意に蒋介石と敵対してしまい,国共合作という抗日戦線をつくってしまった.これは最終的に第2次大戦における米ソ両国からの日本侵攻という最悪の結末をもたらしてしまった.おまけに,壊滅寸前であった共産党政府が息を吹き返し,大戦後に共産党が国民党を追い出して中国を統一するきっかけをも提供したことになる.日本史上に残る戦略上の失敗である.
第2次大戦後,中国は再び国共内戦に突入する.このときの最大の謎は,ソ連が一貫して共産党軍を援助していたのに比べ,米国の蒋介石に対する態度が冷たかったことだ.後に朝鮮戦争であれだけ苦戦するのに,中国の赤化を黙認していた米国の態度は不思議である.
田中宇氏的な解釈をすると,多極主義者たちが,中国を自立させるために,あえて赤化も黙認し,五大国へ誘導したとなるだろうか.もうひとつの側面は,蒋介石や国民党は華南に基盤を置いた経済的に裕福な貿易及び商人の流れを汲む勢力だが,毛沢東や共産党は,華北の農村を基盤としていることだ.これは,重農主義の明王朝と自由経済を発展させた宋王朝,元王朝,清王朝の対峙でもある.このときは明王朝由来の重農主義が勝ったことになる.
毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言してから,中国は未曾有の国難に直面する.もともと時代遅れの零細農業を基盤にした国づくりを掲げていたため,近代化と冷戦に突入した環境で,爆発的に増加した人口を食べさせるだけの経営手法を持ち合わせていなかったのである.
焦った毛沢東の大躍進政策と文革によって,何千万人という中国人民が犠牲となった.これは毛沢東という一人の独裁者に全ての原因があるわけではなく,前記事でも言及したが,中国は人口爆発と内戦,飢餓の歴史を繰り返しており,歴史的に必然な現象だったのである.外交面でも,ソ連との関係が決定的に悪化,朝鮮戦争での甚大な犠牲,中越戦争での敗戦など,中国は内外ともに行き詰まり,一歩間違うと崩壊する危険性もあった.
このピンチを救ったのが,周恩来であり,トウ小平である.周恩来は,熾烈な中国の権力闘争において,いつもNo2の地位を保ち,人民からも慕われて政治生命を全うできた.周は米国と関係改善を図り,ニクソンの電撃訪中を実現させる.日本と国交を樹立し,莫大なODAを手に入れて,経済的な近代化への橋頭保とした.トウ小平は,何度も失脚するが,そのたびに不死鳥のように蘇り,瀕死の中国を「改革開放」によって蘇生させる.なお,次の国家主席を江沢民,その次を胡錦濤に指名し,無用な権力闘争を予防し,改革開放を確実にする周到な手立てを講じたのもトウ小平である.
つまり現在の中国の驚異的伸長は,トウ小平の深謀遠慮の賜物なのである.逆に言うと,トウ小平はさすがに胡錦濤以後に手を打っていなかったため,ポスト胡錦濤で中国共産党はひどい権力闘争を演じ,国家分裂の兆候が出ているのだ.
▼ 中国の台湾化と客家
中国発展の礎をつくったのはトウ小平であったことは,疑う余地がない.では,トウ小平とは如何なる人物なのか.トウの最大の特徴は客家であることだ.読者の方は思いだしてほしいのだが,私は「総括」の記事において,太平天国の乱と辛亥革命の指導者および,基盤がいずれも華南の客家出身であることを特徴として指摘した.これで3人目の客家登場である.そもそも客家とは何なのか? 田中氏のメルマガより引用する.
中国革命の立役者だった客家
http://tanakanews.com/990915hakka.htm
政治戦略に長けていた客家は、もっと大きな中国大陸全体の歴史にも、大きな影響を残している。
漢民族の王朝と、北方から攻めてくる騎馬民族の王朝とが、代わる代わる政権を取るという、中国の歴史の中で、客家は、騎馬民族に追われて南下した漢民族の王朝高官たちの末裔である、と言い伝えられている。そのため客家は、異民族の支配に屈しない人々としての誇りを持ち、客家語は古い時代の正統的な漢民族の言葉であると自負している。
19世紀前半、清朝が弱体化したとき、広東省の客家だった洪秀全が、清朝打倒をうたう「太平天国の乱」を起こした背景には、こうした客家としての自負があったとされる。太平天国は失敗したが、その精神は、同じく広東省の客家だった孫文に受け継がれ、上海に住む裕福な客家だった「宋姉妹」の宋一族の資金援助を得て、中華民国の建国に結びついた。
孫文の死後、中華民国の実権を握った蒋介石は、共産党を弾圧したため、中国共産党は、本拠地を山西省の山岳地帯に移したが、山西省から福建省にかけての山岳地帯には、客家が多く住んでいた。そのため、共産党の初期の党員には客家が多くなった。客家の多くは、山間部の貧しい農村に住んでおり、共産党を支持した人が多いのは、当然ともいえる。さらに、客家の中には商人として、中国各地に住んでいる人々もいたから、共産党が全国的な地下組織を作る際の貢献も大きかった。
こうした歴史から、客家は「漢民族復興の旗頭」とも言われているが、一方で新竹の義民廟の故事からはむしろ、ある時は「漢民族復興」を掲げ、別の時には「清朝の義勇軍」になるという、政治戦略の柔軟性が感じられる。
これは、客家であるトウ小平の「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを取る猫は良い猫だ」という合理論にも共通する、したたかな考え方ではないか、などと思いながら、羅さん一家に連れられて、義民廟を後にした。
私は華南江南地区の上海,南京,広州,香港には行ったことがない.しかし,現在の台湾は,もともと華南を地盤に革命を主導した孫文の流れをくむ国民党政府が発展させた国である.それでは,孫文や国民党の原点は何かというと,客家の合理的思想と商売を生計とする華南人の性質が結び付いた,近代的合理的な政治スタイルを封建的な中国に確立しようとする運動である.
袁世凱も毛沢東も,権力基盤強化のために,封建的な体制へ中国を先祖がえりさせようとして失敗した.それが袁の皇帝宣言であり,毛の大躍進政策であり,文化大革命なのだ.客家出身で賢明なトウ小平は,改革開放によって「中国を台湾化」することで,爆発的な経済発展を可能にした.
江沢民が国家主席のときは,合理的な華南江南人らしく,経済発展を強固にした.後を継いだ胡錦濤は団派出身であるが,国土の均衡発展を掲げて,華南の独走と自立に待ったをかけている.元来,トウ小平が江沢民起用で狙ったのは,北京に巣食う保守派(李鵬など)を駆逐し,改革開放を推し進めることだったが,現在の胡錦濤体制における「北京‐上海対立」は,少し様相が違う.より経済的利害対立が先鋭化してきた印象がある.つまり,「先に富むもの」である華南江南が,北京の介入を極端に嫌っているのだ.
たとえば,人民元の切り上げ問題でも,製造業の強い広東省にとっては死活問題だ.一方で四川や蘭州,ウイグルなどの内陸部発展は依然として進んでいなく,国家資源の公平分配が欠かせないが,そうすると上海や長江デルタが多大な負担を背負うことになる.「カネを巡る争い」は性質が悪く,深刻な分裂機運が高まっている.実際に,太平天国の乱や辛亥革命を主導した華南地区が,十分に北京に対抗できる力を持ち併せていることは,歴史が証明している.
結局,トウ小平が「中国の台湾化」「華南主導」にすることで,中国は危機を脱して発展したのだ.ということは,華南地区と台湾は兄弟のようなもので,革命を生んだ華南の「気風」は脈々と息づいているとみるべきであろう.
▼ 中国大発展の秘策
北京の故宮の裏に景山公園という,故宮造営のときの土を積み上げた丘のような公園がある.その上に登って,私は故宮を眺めながら,今後,中国はどのように発展していくべきか,いかなる政策をとるべきか考えた.中国の安定的発展は,日本はもちろん,世界に莫大な恩恵をもたらす.そしてついに画期的なことを思いついた.
漢民族は大変有能であり,素晴らしい文化を残し,また商売の才能は世界でも1,2位を争う.以前も言及したが,彼らは支配されてこそ能力が発揮できる.しかし彼らは,その素晴らしい才能とは裏腹に「支配能力」「国家経営能力」は著しく劣る.逆に言うと,国家経営を漢民族以外が担うか,もっと合理的な国家経営システムを構築しさえすれば,中国はアメリカを凌ぐ一大強国となり,21世紀に君臨する強大国となるのは間違いない.その方法は簡単である.
まず,中国は漢民族国家であることを否定し,世界の中国であることを鮮明にする.最高意思決定機関のメンバーを,漢民族代表1名,チベット代表1名,満州族代表1名,日本代表1名,統一朝鮮代表1名,ウイグルイスラム代表1名,東南アジア代表1名,その他少数民族代表1名の8名による合議制,集団体制とする.首相もこの中から選出する.
胡錦濤は国家主席から「皇帝」の地位に就く.この皇帝は中国史上初の「君臨すれども統治せず」の中国統合の象徴としての皇帝である.人材は,出自や民族にとらわれず,適材適所で有能な人材を登用する.
これによって,中国は元朝の再来に匹敵する一大強国となるであろう.日本にとっても喜ばしいことだ.ここに平和と楽土が完成するのだ.
アッ・・!
これを書いていて,私は重大な事実に気がついた.この構想は,石原莞爾によるラストエンペラー溥儀の擁立と満州国成立,王道楽土,五族協和の理念とまったく同じではないか・・・・・.
やはり私は前世で関東軍の軍人か
満州政庁の役人だったのだろうか・・・・.
完

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