今日この映画をアメリカで製作したとしましょう。一番大きな違いは何になりますか?
まず撮影はヨーロッパでする必要があるだろう。アメリカでは必要な風景が見つからない。撮影はフランスでしなくてはならないだろうね。(イギリスの)ドーセットでも、もうあんな景色はないんだ。今でも生垣がある原っぱがあるけど、数は少ない。大半が大きくされてるが、生垣は刈り込まれて、道は舗装されている。建物に関しては、イギリスの方が見つけやすいだろうね。しかし田舎、風景となると、ノルマンディーかブレターニュならまだあるんだ。なぜそうなっているのか説明するのはとても難しいね。僕がアメリカでやることになっていたら、もちろん君たちが見た通りになるように、奮闘しただろうね。
しかし、ハリウッドのやり方を実践してきた者がこの映画を作れたでしょうか、色々と困難があった訳ですが・・・
今昔のやり方では映画製作をしない新しいグループの監督たちがいるんだ、人工的なスタイル、ハリウッドの従来のやり方に反してがんばっている連中だよ。マイケル・チミノ、コッポラやスタンリー・キューブリックとか。
アメリカの監督には感情を描ける、あれほど深い情熱を描ける監督は、キューブリックを除いていないと思われます。
皆それが恥ずかしいんじゃないかな?40年代あるいは少なくとも戦時中は感情を押し殺すようにしてしまった。そうした「マッチョ」的な面は僕にもあったんだ。年を取って判ることもあるんだね。かなり安心できるのは、それは僕には感動的なことなんだが、ここではアンジェイ・ワイダが3〜5週間前のことだったけど、同じ話をしていたよ。彼も全く同じことを感じていたんだね。ワイダは僕に「20年以上も前に私たちが作ろうとしていた映画を現在作ろうとしてる輩は、馬鹿だよ、全く何も判ってない。自分らは前衛だと思ってる」と言ってた。今でも『アンダルシアの犬』を作りたがる連中がいるんだから。あれを今またやるなんて、完全に逆行してる。少し短編がどうなっているか、見るといいよ。君たちの職業なら、きっとたくさん見る機会もあるだろうけど。似非インテリや気取り、偽の詩という奴だ、あれほどうんざりさせられるものはないな・・・
あなたがカイエ誌で行った最後のインタヴューを読み直しました、10年前ですが、あなたの発言に良く出て来る単語があります。僕を驚かせようとする人は好きじゃない。正にそうなんですね。短編映画では、そうです:15、20分という上映時間であるアイデアが必要で、このアイデアで驚かせなくてはならない。残念な事にこれは短編に限ったことではなくて、全ての映画、アメリカは映画はもちろんフランス映画でも、監督たちがあやゆる面で急いでいて、確保した少ない自由さを驚かせることに、使ってしまう。つまり『テス』では必要なだけの時間をかけ、驚かせることなく、最後にストーリーを語ることに成功していると思います。
これは正直かどうかという問題だね。映画では正直であるためには、肝が据わってないといけないんだ。と言うのもリスクも大きいからね、自分にもリスクがあるけど、他人にもそのリスクを負わせることになる。『テス』の場合は、いつもよりも大変だったよ、そのリスクをクロード・ベリに負ってもらったからね。大金を右から左へと動かせるメジャーなスタジオ製作の作品じゃなかった。あの映画は本当に最後の最後まで図太い神経が必要だったんだ。僕は人生で色々と神経を鍛え上げる機会があって、今ではそのお陰か、あまり不安に駆られることなく、リスクを負えるようになったような気もするよ。(続く)

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