「タランティーノが語るイングロリアス・バスターズ:その6」
インタヴュー和訳
一部ネタばれがあります。
『デス・プルーフ in グラインドハウス』では、フィルムに傷をつけたり、コマを飛ばしたり、1巻なくなっているなどの試みがありましたが、『イングロリアス・バスターズ』では更に過激にニトロセルロースのフィルムの火炎性をナチスをテロ攻撃するための武器として使っていますね。クレジットでモンテ・ヘルマンに感謝をしめしていますね、フィルムに火が付いた時、2車線のマカダム道路を閉鎖してしまいます。
マカダム道路、そうだね、あれは考えても見なかったな。あの最初のシークエンスは、モンテ・ヘルマンのお陰なんだ、彼の『旋風の中に馬を進めろ』に影響を受けてる。ニトロセルロースのフィルムのアイデアはとても豊かだと思うな。1方では、映画の力を示す有利なメタファーであり、他方では、1つにはまとめられないだろうが、文字通り、セルロースのフィルムがあればダイナマイトは不要ってことだね。文字通りで隠喩的−素晴らしいね。シナリオを書いた時は、火災を引き起こすにはどんな映画が積み上がっていればいいのだろうと思ったんだ。あるヴァージョンではショシャナ自身が火を放つ;フィルム・リールを持って、ダイナマイトの筒みたいに、点火するんだ、最初にどの映画を燃やすのか彼女に躊躇までさせた:『ユダヤ人ジュース』−ゲッベルスの怪物みたいな創作が彼自身を破滅させる、あるいは『大いなる幻影』−ジャン叔父さんがナチスを叩きのめすのさ。
ヒトラーとゲッベルスの死には2バージョンあることになりますね:この映画でのものと、歴史上の死です。
僕の書き手としての強みは、自分が作り出した人物に、良いと思える方向へ行くのを禁じてないことだと思う。彼らが連れてってくれて、僕が後を追うんだね。筋書きなんか無駄なこともある、そこから逸脱してしまうからね、そんなのは下らないと彼らが証明されてしまうんだ。ある人物が道を行くとする:よくある場合だと、十字路に来た時、脚本家たちは大半の道を封鎖してしまうんだ、(そうしないと)物語がどうなるか判らないからだよ:それじゃあ、映画にならない、別物になってしまう。僕はいつもこう思うんだ:どこへ行ってもいいんだ、行っちゃうだから。
その道の1つが、歴史が語るものですね−実際にヒトラーとゲッペルスが死んだ通りに。
うん、実は僕もその道へ行きかけていたんだ。でもシナリオを書いてく過程で、こう思った:この作品の登場人物は自分たちが歴史に属しているのは知らないんだ、これまで僕が撮った映画では、予め書かれたお話(実話)を扱ったことはなかったのに、どうして突然それを変える必要があるんだ?この作品の登場人物は実在しなかったわけだから全ては実際起こってもいないんだ。でも彼らを歴史の中へ放り込んでしまうと、歴史も変わってしまう。SFの教訓は、時間を遡って、ある些細な事を変えてしまうと、全てが変わってしまうということがあるよね。あとはもっともらしくするだけで良かったんだ−ショシャナや、セルロールの映画やバスターズに彼らの爆薬の話だけじゃなくて、フレデリック・ツォラー/ダニエル・ブリュールの話だよ。彼みたいに、もしもドイツ兵が戦闘で凄い活躍ぶりを見せたとしたら、ゲッベルスは彼の映画を撮ったかもしれない、彼がブリュールに似ていたら、演じることも出来たかも知れないよ、『地獄の戦線』のオーディ・マーフィみたいにね。実際、ゲッベルスは戦争の終りにこの種の映画制作を頼んでいるんだ、『コルベルク』という映画だよ。戦場ではもう希望もなく、プロパガンダが残った前線だったからね。ツォラーが実在していたら、ゲッベルスが「国家の誇り」を製作してパリでプレミア上映をしたかも知れない、そこで攻撃をしかけることも出来たわけだ。(続く)

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