小学生の頃に習った(たぶん習ったと思うのだが、そんなに自信はない)コンドルは飛んでいるの歌詞はたぶんこうだった。
コンドルは飛んでゆく/高く/遠く/空の上/今
だったと思う。日本語で今もこう歌われていると思うのだが。
高校生になって買ったレコードの、サイモンとガーファンクルの「EL CONDOR PASA」の翻訳はかなり違って驚いたものだ。だって先ほどの日本語の歌詞とは似ても似つかない、高校生の私にとってはチンプンカンプンの情緒もへったくれもない日本語訳だったから。だから英語のメロディーを勝手に想像しながら聞いていた。たぶんコンドルは飛んでゆく〜高く〜遠く〜空のうえ〜いま〜に毛が生えたレベルのイメージで。
かたつむりよりも むしろすずめになりたい
そうだとも
もしなれるのなら
その方がずっといい
釘よりも むしろハンマーになりたい
そうだとも
もしなれるのなら
その方がずっといい
遠くへ
船に乗って海の彼方へ行きたい
昔 ここで見かけた
白鳥のように
人は大地に縛り付けられて
世界に向かって
悲しげな声をあげている
この世で一番悲しい声を
道よりも むしろ森になりたい
そうだとも
もし なれるのなら
その方がずっといい
ボクは足の下に大地を感じていたい
そうだとも
もし できるのなら
その方がずっといい
ー山本安見ー訳
詩を自分で少し書き始めてからこの歌の「人は大地に縛り付けられ」の部分が、妙に好きになったというか、いろいろな想像を張り巡ぐらさせてくれるフレーズとなった。最初の「コンドルは飛んでゆく〜高く〜遠く〜空のうえ〜いま〜」が陳腐で幼稚くさく感じだしたのもその頃かと。
☆生活に、仕事に、いろんなことに疲れてきた時に読む詩がある。何度もくり返し眺める詩がある。しんどくなった時に、ダメになりそうだと感じた時に、悲しくてどうしようもないときに聞く曲がある。今この瞬間もそうなのだが、このコンドルは飛んでゆく・EL CONDOR PASAもそんな時に聞く曲の一つ。たぶん明日話すことを考えるとたまらなくなっているんだと思う。
友人は指摘する。無意識の荒れた人間は〜と。その通りだと思うのだが、もしそれが本当に無意識ならどうしようもない。でもやっぱりそれだけじゃない。どんなに取り繕っても、無意識が荒れていたら、絶対に意識まで表れるものだと。それならあえて、カッコをつけて、良い人でも演じてみよう。立派な人を取り繕おう。そうでないと話せない小心者の自分を知っているから、せめて見栄えのよい格好で話すことにする。もっと荒れるのはその後でいい。いつものように、容赦のないハンマーになり、釘を打つ。正論を理由に。心が荒れるのはそれからでいい。いつものように。
☆「コンドルは飛んでいる」は好きな曲。
今は上記の翻訳よりも、シンプルな日本語の訳が一番好き。それ以外の歌詞は知らないけど、その方が都合いい。ほとんど言葉のない世界を、コンドルのように、鳥のように、アンデスの山々を、昔栄えた王朝を、遺跡を空の上から自由に遊泳する。その時、私は社会的人間でなくなり、飲食店もしてないし、焼肉店も韓国料理店もやってないし、マスターでもないし、在日でもないし、近所に挨拶をしなくていいし、親戚づきあいも、業者さんへの気配りも何もかもしなくていいただ宇宙の一つになる。そして上空を彷徨う。
ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々とは何か 我々はどこへ行くのか」の絵画でもないが、私は誰?ここにいるのは何故?どこへ行く?という ただの宇宙的1コの存在になりたい時がある。なりたいというか先祖帰りしているのだと思う。生まれたその瞬間に。社会的なつながりを得る前の状態に。たぶん疲れているのだと思う。だからこんな曲があると逃げ場になっていい。しばらく浸ってからまた元の社会に戻ってくる。そして明日はマスターとして話すとしよう。店のため、自分のために。もしかしたら自分だけのために。たかが小さな焼肉店、それだけのことさ。