食べることは生きること。』  このページでは特に マクロビオティックや料理、食、それにまつわる暮らしについて つづったものです。  私がなぜ肉を食べないのか? なぜここまで「食」を「選択」するのか? 自分なりの答えをこれからも見つけていこうと思います。 また、その他 日々のことについては こちらのページ http://air.ap.teacup.com/green-tribe/ もご覧下さい。 私自身が、 この世界の豊かな一粒になれますように。

 

オーガニック 「農」という哲学  WWOOF オーストラリア

WWOOFを通して、有機農業、パーマカルチャー、自然農、オーガニックというテーマの話を聞く機会が多くなった。
正直にゆって、わたしは「オーガニック」という言葉の意味を、WWOOFを始めるまで知らなかった。今も、実はちゃんとは説明できない。オーストラリアにいるときに、あまりにもなんのことだかわからず辞書で「オーガニック」という単語をひくと、「有機=炭素を含む化合物」なんて出てきてますますなんのことやらわからない。
今の自分の理解としては、「ああ、ケミカル(人工的な化学品や合成品)でないんだな」ということくらい。これすら間違っているかもしれないけれど。

で、なんのことやらわからないまま、とりあえずそのMalenyという町は特にpermacultureパーマカルチャーを実践してる人が多くて、いろんな人に実際に話を聞いたり、本を買って読んでみたりした。
まあ、パーマカルチャーと有機農と自然農は厳密に言えばそれぞれの言葉の意味するところは違うけれど。でも、私には「実践哲学」として、それぞれ学ぶところが多かった。目の覚めるような思い、天の扉が開かれたような気すらした。

前にも書いたとおり、中3の時に「拒食症」と診断されて精神病院や心療内科に通ったりするようになって、自分の精神分析のために心理学や倫理哲学の本を必然的に読んだりもした。でも、誰の何を読んだかも覚えてないくらい、難しくてワケがわからなかったり、鬱のあたしと同じような他人のぐるぐる思考の話をただ延々と聞かされているような気がして、むしろますます鬱の深みにはまる気がして、特に私を救うものはなかった。高校でも倫理や道徳の授業があったけれど、教科書に書かれている言葉、先生が語る言葉に、なぜか説得力を感じなかった。『生きるとは何か』『命とは何か』、そんなことなら、もう手首に何本もの傷があるあたしなら先生に言われなくても自分で十分にわかっていた。むしろ、その倫理の先生が、遅刻してきた生徒に理由も聞かず罵倒するのを見て、「ああ、『生きること』や『人生』を生徒に説く先生が、生徒のたった1回の遅刻を許せないなんて、人間性疑うなあ。信憑性ないなあ」なんて思っていた。
『生きていくって何か?』授業に遅れずに来ること?あたしが知りたかったのはそんなことじゃない。

アホかもしれないけれど、このパーマカルチャーの本や自然農の本を読んで、何度あたしは感動して涙を流したかわからない。学校で先生が教えてくれなかったこと、だけどあたしが聞きたかった言葉が、その本の中にあった。

たとえば、「diversity 多種多様性」。十人十色なんてもんじゃない。万物万色。畑に、1種類ではなく、いろんな作物を植えましょう。その作物それぞれに、ちゃんと役割がある。そしてそれらはそれぞれにお互い助け合ってバランスをとって生きている。そして豊かな土を作り、豊かな畑になる。
わたしはこの世界だってそうだと思う。みんながニンジンになっちゃあ困る。それじゃあこの世界は成り立たない。エンドウ豆にはエンドウ豆の、ジャガイモにはジャガイモの仕事がある。
だけれど、あたしは学校で、「みんな同じ」であることを求められてきた。教室の中で求められていたのは、みんなが生徒手帳にのってるような見本の髪型と服装になることで、通知表の数字に5が多いこと。スカートの丈を変えてみたり、学校指定外のかわいいお気に入りカーディガンを着てきたり、あたしのように勉強をやめて通知表1なんかとられては困る。みんな同じ、一種類にならないといけなかった。それが学校だった。それがあたしは苦しかったんだと思う。その不自然なこと。みんなが一緒になってしまったら、クローンになってしまったら、本当につまらないし、フツーに考えて世界は成り立たない。
この世にはいろんな人がいる。そしてその誰もが、そのままでいていいんだ。いろんな人がいることでこの世界は豊かに回りだす。なんて恵まれてることだろう、と思った。
私の一番好きな言葉かもしれない。 わたしがわたしであるからこそ、世界とつながっていられる。わたしがわたしである限り、わたしは決してひとりではない。そんなことを思って泣いた。

他にもある。けれどここではたくさんありすぎて割愛させていただく。
ただ、たとえば、蜘蛛が糸に乗って飛んでくる話や、無農薬栽培に切り替えて弱りかけたミカンの木に話しかけていた人が、他の人に見つかって恥ずかしくなって声をかけなかったミカンの木だけが、真っ二つに幹が割れて枯れてしまった話とか。どんなおとぎ話よりも、どんな先生の話よりも、胸に響いた、というか、体の芯から、もっと言うなら仙骨から脳天までブルッと震えるほど感動した。私はその話は本当だと思った。
すっかりひねくれものになってしまったあたしは、土に触ったことがない人や、餓えたことがない人の言葉を信じられなくなってしまった。そういう人たちの語る哲学論は
まるで綿菓子の上に立つ大きな絵空事の塔のように聞こえる。

いくつか私が読んだ本もトップページで画像だけはってますので、もしよかったら見てみてください。
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Malenyでの初WWOOF  WWOOF オーストラリア

私が人生で初めてのWWOOFホストに選んだのは、イギリスからの移民の50代くらいの女性の家。本当に大きな家で、家は7部屋、離れにコテージが2つ(ひとつはワークショップスペース、もう一つは2部屋寝室があるゲストルーム)、プール、そして庭だけでも1000坪はあるかもしれない。そんなおうち。
WWOOFホストは、必ずしも農場をしているわけではなくて。
家庭菜園や、もしくはそういうオーガニックな生活を送っていたり、そういうこのにか関わっている人たちもホストになれるみたいで。彼女自身もパーマカルチャーという有機農法の類みたいなのを学んだ人だったけれど、家には鶏飼ってて、庭にちらほら野菜や果物やハーブが植わってる。

WWOOF日記ではないので詳細は省くけれど、とりあえず、この場所で感じたことは人間は食べないと生きていけない、そして、土があるかぎり、食べ物を育てることができるということ。

実は、このホスト、あまり評判のいいWWOOFホストではなかった。というのも、WWOOFとは、ウーファーが仕事をする代わりに、ウーフホストは寝るところと食事を提供する、というやりとりで成り立つシステムなんだけれど、このホストは、他のホストの倍以上仕事をさせる代わりに、食事をほとんどあたえず、ウーファーにたいする待遇がひどいホストとしてManelyでは有名だった。ちーん
わたしはそんなこととはつゆ知らず。1か月もここにいましたが。
確かに「おいちょっと待てよ」と突っ込みたいところがありました。
異様にゴキブリが多いこととか(「あー、オーストラリアって自然が多いからゴキブリもたくさんいるのかなあ」とかポジティブに考えていたり)、そのホストの部屋は新築のそのコテージのゲストハウスで、彼女のベッドにはお姫様カーテンもついてるような立派なベッドルームなのに、一方わたしは、そのゴキブリいっぱいのリビングの床に、
クッションを何枚かひいてブランケットをかけて、彼女が飼っている犬と一緒に寝たり
とか。
彼女は朝ごはんは食べず、ブランチとディナーを外食してくることが多く、私の食事は
パンと林檎とハーブティーだけ
、とかね。
まあたまに彼女の庭でとれた野菜で料理してくれたりしたけれど、それも週に2〜3回かなぁ〜。
ある日、彼女は私にこう言った。
「ちょっと仕事で出張で家を1週間空けるから、その間庭の草取り全部お願いね。あと、ボーディー(犬の名前)のためにお肉とごはんと野菜を買ってきたのを冷凍してあるから、それをいつもちゃんと料理して食べさせてあげてね」そう言って彼女は1週間家を空けた。で、その日、「ああ、ボディーにご飯あげなくちゃな。あと、自分もなんか作って食べよう」と思って冷蔵庫開けた瞬間。凍りついたよ。
冷蔵庫の中トマトとレタスが一つずつしかないんだけど。えっ、ちょっと待って?私のごはんは???
冷凍室を空けると、そこにはちゃんと肉のかたまりと、ミックスベジタブルみたいなのと、なぜかもう炊いてあるごはんが、ゴミ袋みたいなの全部一緒に一つの袋に入ってた。
「いやいやちょっと待て。確かあの人は『ボーディーのためにお肉とごはんと野菜を買ってきたのを冷凍してあるから、それをいつも料理して食べさせてあげてね』と言ったはず。『あなたのためにお肉とごはんと野菜を買ってきたから、それを料理して食べてね』とは言わなかった。第一、これがもし本当に私が食べるものならこんなゴミ袋に入れたりしないだろう。。。確信犯的に私の食料はトマトとレタスしか彼女は残していかなかったんじゃないか?犬にはご飯と野菜と肉を買ってきておいて???」冷蔵庫の中には他には一切食糧はなかった。パンも。
この犬のため用のゴミ袋に入ったものも、食べる気はしなかった。どっかの残飯でも拾ってきたんじゃないかと思ったから。。。。
うわーどうしよう。これから1週間あたしどうすんの?
コンビニに買いに行けば?なんて話じゃない。周りに店なんてない。家もほとんどない。山の中です。
まあ、町の中心部までは歩いて1時間くらい。。。歩いて行けないこともないけれど、あたしだって所持金もう少ないし、外食なんてできない。
ただ、この家には庭がある。野菜も果物もハーブもまばらに生えている。探してみると結構あった。「庭の野菜を取って食べていい」なんて言われなかったけれど、だって食糧ホントにないんだもん。あと、ここは水道設備がない代わりに、雨水タンクがある。だから、水もある。調味料もあった。水と野菜と。。。ああ、生きていける。
そう思った。土があればそこに植物は生えるんだ。そしてそれを食べて生きてゆけるんだ。と思った。

庭からとってきた野菜でテキトーに料理した。そしてボーディーにも、ちゃんと、そのご飯と肉と野菜のを煮て、あと取ってきた野菜も少し入れてごはんにしてあげた。この犬にはなんの罪もないの。一緒に一人と一匹で食事をした。

とりあえず食事をして、もう草取りするやる気が出ずに、とりあえず町まで歩いて出てみた。小さい町で、まああたしは珍しい日本人で、しかも新顔なので結構知り合いはいた。通りでやっぱり知り合いにあったから、事情を話してみたら、「ああ、彼女はそんな人だよ。早く出たほうがいいよ」って。ああ、やっぱり。。。
ということで、1週間、そんな風に庭から採ってきたものでどうにか食いつないだ私は、彼女が帰ってくるのを待ってから別のホストに移動した。帰ってくるなり、草取りが終わってないのを見た彼女は「草取りできてないじゃない」と言ってきた。私は適当にごまかして、出て行くことを伝えた。「あなたのこと家族のように思ってたのよ〜〜寂しくなるわ」なんていう彼女の言葉がイマイチ信じられず。まあ、私の食料を置いていってなかったのは彼女が本当にうっかり忘れていたのか、それとも、私のサバイバル精神を養おうとたくらんだ彼女の小粋な計らいなのかはわからないけれど。。。とりあえずもうそこには行かない。



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2008/12/9

せっけんすら使わない  くらし

私の家はみずあらいがほとんどである。
どういうことかというと、食事をして食器を洗うのも、掃除をするときも、洗濯をするときも、おふろに入る時も歯を磨く時も、合成シャンプーや洗剤はもちろんだけど天然の石鹸や洗剤であってもほとんど使わない。なぜかというと、やっぱり、「必要ない」からである。

そのWWOOFで滞在していたMalenyはホントに小さな町で、メインストリートは1キロもないけれど、そこにはまぁ品揃えの良いオーガニックショップがあった。そこでエッセンシャルオイルを使った手作り液体石けんシャンプーを言うのを売っていた。青いボトルと、合成のように変に鼻に残らない自然な香りが気に入りそれをたまたま買って使った。髪はきしんだけれど、その香りと、髪を洗ったときの地肌にスッとエッセンシャルオイルが入っていくような気持ち良さが好きになり、なぜ合成シャンプーがダメなのかとかは考えずに、とりあえず「石けんシャンプーって気持ちいいな」と思うようになった。
で、その後まあ自分なりに環境について勉強する機会が増えて、合成洗剤やシャンプーが人間や動物や環境に与える被害のことも知って、以降は一切そういうのを使わなくなった。で、日本に帰ってきてからはやはり同じ石けんシャンプーが手に入らず、そもそも「石けんシャンプー」自体を見つけるのに苦労した。石鹸は自分で手作り、化粧水も自分で作るようになった。
確かにそういったいろいろなものを手作りする過程は楽しいし、実際使って気持ち良かったし、友達に薦めたりもしたし、友達も気に入ってくれて「また作って」というほどだった。
前にも書いたように、私は目の前の川で蛍が見られる環境で育った。単純に、ずっと蛍を見ていたい。川を汚したくない、そう思っていた。また、サーフィンもする。だから、川も海も汚したくない。川や海を汚す環境負荷の高いものを使っている人たちが、わざわざ田舎まで車で蛍を見に行ったり、「街の川も海も汚いね〜」なんて言うのを聞くことが嫌だった。「じゃあ、水をきれいにするために何をしてますか?せめて、これ以上汚さないために、何をしていますか?」といつも聞きたいくらいだった。

だけれど、「ホントに石けん屋になろうか」と考えるほど何年もずっと石けんを作ったり使ったり人に作り方を教えたりしてきたけれど、次第に、そういったものを作る材料を「買ってくる」ということ自体に、疑問に思うようになってきた。買わないと手に入らないものというのは、だいたい本来不要であることのほうが多い。石けんの材料のオイルを求めて遠くまで出かけたり、インターネットで取り寄せたり。。。「なんか違うよなぁコレ」と思っていた。実際、石鹸を作るためのココナッツ油やパーム油は輸入品だし、ということはその輸送にコストもエネルギーもかかってるはずだし、しまいには「オイル用の椰子を育てるために輸出国の森が伐採されている」なんてことまで聞いて
しまった。うわ〜やっぱり。。。と思った。

そもそも、「合成洗剤とか使うよりは断然せっけんのほうがいいだろうけど。。。でも、もっと早く、もっと海や川がもとどおりきれいになるには、『自然に優しいせっけん』 というのも、きっと使わないにこしたことないよなぁ。。。」と思い始めた。「石けんって本当に必要なのか?」そう悩んでいた。それに、手作りの石鹸だと、まあ肌への優しさとかを優先して作ると、泡切れの悪い石けんになることがある。洗い流すのに時間もかかるし、水も無駄だなぁ。。。と思っていた。だけど、私の頭にはどうしても「洗い物」というと、ぶくぶくいい香りの真白な泡をむくむく立てて、お皿や体をふくふくごしごしして、洗い流すとツルンとさっぱりキレイになりました、という、大好きなとても気持ち良い感覚で、やっぱ泡ぶくぶくしないと、キレイにならない気がどーしてもしてしまうのである。

でが、意外と答えは簡単に見つかり、結論は、「洗い物にせっけんはなくても良い」だった。「せっけんすら使わない」というくらしをしている人は意外といた。まず、雑誌で二人見た。お名前出していいのかわからないのでふせておくが、旦那さんが陶芸家で、ご自身はちくちく縫物作家の方。もう一人は、日本のどっかの南の島に住んでいる、女性のカメラマン。あと、私が通ってる料理教室のおばあちゃんたちは、実際洗い物するときに、「油もんなんもつこーとらんけん水でさっと洗えばよかよか(=「油ものは何にも使ってないから水でさっと洗えば良い」)と言って、ちゃっちゃと水だけで食器を洗っていた。(この料理教室は、私の田舎とはまた別の山の谷合にあって、そこにもやはり蛍が飛び交うような川が山のてっぺんから村人の集落までずっと流れてきて、村の人は川や水の大切さをよくわかっていた)

また、人間の体というのは、やっぱり「自然にも肌にも優しいせっけん」であっても
やはり「異物」であるらしく、たとえば、油分を補う石けんを使うと、逆に体は「ああ、外から油を補ってもらえる」と思って怠けてしまい自分で皮脂を分泌しなくなり、そうなるとますます乾燥肌になる、ということや、逆に、せっけんは皮脂を取り除くので、洗う時に奪われた皮脂を補おうと、肌は皮脂を分泌しすぎるらしい、ということを本で読んだ。ええ〜そうだったの?毎日洗っていると気付かないけれど、たとえば後者の場合、石けんで髪を洗うのをやめてみると、1週間くらいは頭皮がやはり過剰に皮脂を分泌してしまうらしいけれど、もう石けんで皮脂が取られないことがわかってくると皮脂の出方も落ち着いてきてちゃんと正常になるらしい。肌もまた然り。それはまた別の本で読んだんだけど、「へ〜なるほどねえ」と思い、私もそれ以来せっけんを使う回数を減らしてみた。

私は、自分の髪は乾燥タイプだと思って、石けんに昆布パウダーやツバキ油やダイズ油やなんやら入れて使っていた。けれど、せっけんを使わずに、お湯でしっかり頭皮をマッサージしながら洗い、仕上げに洗面器にお湯入れて、エッセンシャルオイルを垂らしてそれを頭からかぶり、香りを残す。そのあと乾かすと、髪はヘアクリームをつけすぎたみたい皮脂がべっとり髪についていて驚いた。それを1週間もつづけると、お湯で洗うだけで髪は一番ベストなうるおいが出るようになった。

食器のほうは、うちの料理教室の先生いわく「お湯や洗剤で洗わないとお皿の油汚れが落ちないようなら、それは油の使い過ぎ」だと。「つまり体にも油の取り過ぎってことよ。」と。へい。そもそも、人間(特に日本人)なら、油の摂取量は、1か月1合(つまり、一日に小さじ1杯もないくらい)らしい。なるほどね。
実際、ほとんど油なしの料理の場合、食器を洗うのがとても簡単。前まで一度洗剤をつけてあらって、そしてまたすすいで、としていたのが、一回そのままスポンジやアクリルたわしでこすりながら水で流すだけで十分にきれいになる。ホントに楽で、助かる。

そんな矢先に見つけた、職場の休憩所の流しにあったとある合成洗剤のうたい文句「卵焼きの焦げ付きや乾いたご飯のこびりつきに強い!」

それはお湯か水にしばらくつけとけばいーんじゃないんでしょーか。

そんなことのために、川や海を汚さないでほしい。ホタルやお魚や植物や鳥さんや、そういった生き物たちの住処を汚さないでほしい。それでも使うっていうんなら、自分たちが汚したその川の水を飲み、その海で泳いでほしい。

でもまぁやっぱり「手作り石けん」っていうのは使って気持ちいし、作るのも楽しいし、もらってもうれしいものではあると思う。ちょっとだけ、自分に特別なご褒美として、大事に使いたい。
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2008/12/8

「ともだね」   くらし

「人でないもの、生き物でないものの存在を認識する」「目で見えないものを感じ、その存在を認識する」ことが、このくにの人々は本当は昔からすぐれていたんじゃないかと思う。
何かの本で読んだけど、昔の人は、発酵させるための酵母菌や麹菌のことを「ともだね」と呼んでいたらしい。顕微鏡とかなくて、実際にその「菌」を見ることはできなかったと思うけれど、それでも確かに存在しているその菌を、と呼んでいた。
私たちは友達だったのだ。すごいなぁと思う。

今私の家で掃除するときは、だいたいもう水ぶき。自分は家で酵母をおこしてパンを焼いたりお漬け物やお味噌つくったりしてるから、その「菌ちゃん」たちを殺してしまいたくない。一緒に仲良く住める家でありたいと思う。
あの変なボトルに入って、気分が悪くなうような香料が入った洗剤とかは使わない。よっぽどのことがない限り、重曹やエッセンシャルオイルとか環境にやさしいという洗剤も使わない。

抗菌グッズや抗菌スプレーとかいろいろあるけど、あたしには必要ない。
本当にこの世界の「菌」を殺してしまったら、人間だって生きていけない。
なんにも残らない。
カゼの菌やウイルスだって、あたしは不要に殺したくないと思う。
病気を恐れてすべて抹殺してしまうのではなく、私は、そういう菌やウイルスが体にもともと入ってこない体、もしくは、入ってきても、病気をひかずちゃんとしたバランスで共存できる体であることが理想だと思っている。

あたしの家に人間はあたし一人しか住んでいないけれど、でも、完全な一人暮らしではない。確かにうちにはもう「おともだち」がたくさん住んでいる。
たとえば、夏に野菜スープとかを作って一日部屋に置いたままにしておくと、腐るのではなく、ぷくぷくしゅわしゅわ発酵している。「おともだち」の仕業に違いない。
「あたしには見えないけどこの子たちはちゃんと生きてるんだ、すごいなぁ」なんて、ただただ感動する。
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2008/12/8

艶めかしい国  この「くに」について

さっき、NHKのフランス語のラジオ講座で、フランス人の先生が日本の四季の話や気候の違いについて話していた。フランスにも四季はあるけれど、日本ほどはっきりしていないと。また、一緒に出てる日本人の先生が「フランスのニュースには、ほとんど季節の話題がないことに気がついた」と言っていた。
たとえば日本の天気予報では、もちろん今日の天気や気温、湿度なども話すけど、「桜前線」や「開花情報」までお伝えする。フランスにはそんなのないらしい。
桜の開花状況、ツツジの開花状況、紅葉情報。。。「そろそろ見頃です」なんてことまで伝えてくれる。
「あ、これってスゴイことなんだ」と思った。
この国には、そういう季節の移り変わりを、わざわざ出かけて行ってまで愛でる習慣があったのだ。なんてすばらしいことだろう、と思う。

そういえば、日本人は、虫の声を聞くと「音」としてでなく、「人間の声」と同じ脳の部分で認識する、と聞いたことがある。まあ、こう書いてる時点で、ニホンゴでは虫が発生させる音を「虫の『声』」だという。「虫の『音』」ではなく。そこには、愛情があるからじゃないのか?たとえば、うるさい赤ん坊の泣き声を、「騒音」ととらえるのか、「自分を呼ぶ声」だと思うのか。「音」と「声」の違いは、そこにコミュニケーションが求められているかどうかの違いなのかな?だとすると、日本人は「虫の声」にも、「人の声」と同じに、虫のこともちゃんとそのコミュニケーションをとる相手として、無意識に思っていたのかな?だとすると、それはすんげぇことだと思う。四季のあるこの国はなんて豊かで、そこに暮らす人々の心もなんて豊か(だった?)だろう、と思う。

日本は、ユーラシア大陸のしずくみたいに、とってもちっぽけな国で、でもこの国で営まれているダイナミックな自然のエネルギーは、それはそれはすごいと思う。
正直言うと、私は寒いのと雨が苦手で、だから「梅雨とか冬とかなくなればいいなあ、いっつも晴れててあったかいほうがいいなあ」なんて思っていた。
だけれど、まあオーストラリアやニュージーランドや韓国とか、合わせてだいたい2年半くらいは高校卒業して住んでいたけど、日本に帰ってきて、その日本の季節のうつりかわりが、「艶めかしい」と思うようになった。
日本に帰ってきて車ではなくバイクに乗るようになって、時間のあるときによく出かけるようになった。出かけた先での風景もそうだし、そこに行くまでの間、バイクだから雨が降れば濡れるし雪が降れば本当に凍えそうになるし。その日の天気や季節を体で思い知らされた。バイクに乗ってて、気温や風、太陽の熱や、雨のや雪の冷たさを皮膚で感じたし、走ってる途中、街から山に入ると空気の温度が変わったり匂いも変わることも感じた。そんなことを皮膚で感じていると、このくにはいやらしいくらいに艶めかしい、とすら思うようになった。
この国は実は女なんじゃないか、と思う。
こんなにコロコロと表情を変えて、豊かで、見ていて飽きない。乱暴なくらいに力強いかと思うと繊細で細やかで。でももしここに大きな穴が掘れるなら、ホントに火山みたいにエネルギーが噴き出すんじゃないかと思うくらいすごい。

虫の「声」を聞いて、そんな女の「表情」をいつもいつも愛でていたこのくにの人々は、昔、この土地とちゃんとコミュニケーションが取れていたんじゃないかと思う。
「つながっている」のではなく、ただ単に「結ばれている」だけでなく、季節季節に
お互い確認して触れ合ってうなずきあうように生きていたんじゃないかと思う。
今はどうなんだろう?このことを忘れなければ、今の日本はこんなことになってなかったはず。
もう一度、そんなことを取り戻したいと思っている。
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タグ: 天気 四季 自然



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