2009/7/3

エヴァンゲリオン「序」TV放映と、『崖の上のポニョ』DVD発売が同日である。  映画

 今日、21時から日本テレビで放送された、『新世紀エヴァンゲリオン 序』。
 あれこれの告知によると、劇場公開版とはどっか変えていて、それは必ず見ればわかるとか、そんなふうにあるので、実は気にしていた。

 夜の9時からのテレビなんか見れるわけがないので、10時20分ごろ、帰宅後早々にテレビをつけたら(もちろん録画予約はしておいた)、ちょうどヤシマ作戦発動のところで、いやはや、このオペレーションは何度見ても胸躍るなぁと、でもさすがにこの展開では何かが変わっていてもわかんないな、と思いながら第6使徒をポジトロン・ライフルがぶち抜く快感は他に変え難く、改変部分などどうでもよくなっていた。

 で、「笑えばいいと思うよ」の後のしばらく、「ここか!」と思わずのけぞる。

 「そこ」を変えるとは、きっと「そこ」しか変えてないんだろうな、と思うと、何だかだまされたような気もして、しかし、それならそれで、そのだまし方のセンスがあまりにもいいので、これならだまされた事もいっそ爽快だ。
 なんか、コロンブスの卵のような改定ぶり。これはたいしたもんだ。すごい。
 あるいは、ほとんどのEVAファンは予想済みだったことなのだろうか。私はひっくりかえるほど驚いた。さすがである。

 で、これから録画で「序」を見るのかと思いきや、さにあらず。
 ちょうど、本日、Amazonから届いた『崖の上のポニョ』のDVDを、恭しく封を切り、じっくり改めて堪能するのだ。
 あれこれあったようで、「ポニョはこうして生まれた」5枚組DVDの発売が延期されたのは残念だが、でもかえってよかったかもしれない。

http://www.ghibli.jp/10info/005837.html

 本編と5枚組が同時に送られてきても、ちょっと困る。
 発売が12月に延びたのなら、お正月休みのよい楽しみができたってことだ。

 では、これから『ポニョ』に没頭します。

2009/7/2

東浩紀・北田暁大 編『思想地図 Vol.3』  

 気を取り直しました。(自分の気持ちの中では)再開です。

 東浩紀・北田暁大・編『思想地図 Vol.3 特集アーキテクチャ』(日本放送出版協会)読了。
 確かに、編者本人が編集後記で「かつて自分が見ていた「こんな批評誌が読みたい」という夢が、本誌ではほぼ実現している」と記すだけに、「アーキテクチャ」というキーワードから何を考えようか、という冒頭のシンポジウムは、いささか議論がぐるぐる回っているようにも感じるが、それはきっと想定内のことだったろう。何しろ「批評空間」の2人、浅田彰/磯崎新を招いているのだ。
 そして、そのことは、シンポの最後に「新しい議論の叩き台は作れた」と宣言する司会者・東浩紀の言葉が証していると思う。実際、「叩き台」になっている。

 その「叩き台」としての空回りぶりを(福島亮大によるあまりにも見当外れというか、ごく単純に低俗極まりない論文はあるにせよ)中間の論文が補強して、終盤に設けられた原武史を迎えての編者による鼎談が、きちんと受け止め、アーキテクチャという言葉から何をどう考えていくかを、明確にしている。
 すなわち、アーキテクチャ=建築+社会設計+コンピュータ・システム、というのは、3つがそれぞれ個別に論じられるべきものでなく(冒頭のシンポジウムでは、これらを個別に論じようとしたから、から回ったわけだ)、相互に補完し合っている。
 その3つが総合的な操作の源となって、空間のイデオロギー的なるものも、けん引していくということ。
 ことに、原武史がリードをとった、皇居前広場についてのやりとりは、とても興味深く読んだ。

 確かに編者が自評するだけあって、全2冊に比べ、このVol.3を一番スリリングに読む。

2009/7/1

今後は、「625」以後として…  マイケル

 月も変わった。個人的なことだけ呟いて、これで最後にします。ずいぶん気持ちも落ち着いてきました。
 
 1986年夏。初めての外国。初めてのロサンゼルスに行った20歳の私は、いろいろなことに燃えていた。たとえば、次のようなことを必ずやろうと決めていた。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアン・カーをこの手に触る。
 『E.T.』のロケに使われたエリオットの家を絶対に見つけ出す。
 「ホテル・カリフォルニア」の前に立つ。
 『ビバリーヒルズ・コップ』のLAPDの中に入る。
 『ターミネーター』のサラ・コナーが働いていたダイナーを探し出す(もちろんグリフィス天文台にも行く。これは『理由なき反抗』巡りもかねて)。
 『48時間』のLA市庁舎に入り込む。
 チャイニーズ・シアターのC3POとR2D2の手形足形に触れる。
 オリヴィア・ニュートン=ジョンの経営するコアラ・ブルーでお買い物をする、
 などなど・・・。執念が実を結んで、幸いそれらすべてを実現した。

 そしてもう1つ。“We Are The World”の面々が着ていた、白字にブルーのUSA for Africaのロゴの入ったトレーナーを必ず手に入れる。
 そのため、LA中の店をさまよった。とある小さなレコードショップで、いろんな服といっしょに、吊られているのをやっと発見したときはとにかくうれしかった。
 
 私がマイケル・ジャクソンの生コンサートに接したのは3回。
  1987年9月12日 後楽園球場
  1988年12月9日 東京ドーム
  1992年12月31日 東京ドーム カウントダウンコンサート
 
 マイケルがいちばんよかった時期は、私の人生でもいちばんよかった時期だった。
 そして、マイケルが好きだというのを超えて、マイケルが代表していた頃のアメリカが好きだった。映画も音楽も文学も最高の時代だ。これほどの時代は2度と再び訪れない。当たり前だ。自分の高校から大学にかけての時期はもう訪れないのだから。
 マイケルが代表していたときのアメリカが、私という人間の100%を形作っている。
 それ以外のものはすべて、マイケルの時代のアメリカとの距離の相対でしかない。

 1983年5月 モータウン25周年コンサート。何から何までここから始まった。
 すべてがこれに凝縮され、言いたいことはこの中に全部ある。
 http://www.youtube.com/watch?v=3PAJqgeeJf4&feature=related

 そして、2009年6月25日。全てが終わり、これまでと同じ自分ではいられなくなった。
 「あの頃」はもう終わったものとして、今後のアメリカ映画を観、アメリカの音楽を聴かなければならない。
 その崩壊感は「911」どころではないのだ。はっきり言って。
今後、少なくとも自分の中では、「625」以前と以後としてだけ、ものを考えることとなるだろう。「625」は永遠に自分のターニングポイントとなる。
 
 言うべきことももうない。これで終わりにする。今度こそ、本当にさようなら。

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写真:2009年6月27日タワーレコード渋谷店前 撮影:Incidents

2009/6/30

The Man by Paul & Michael  マイケル

 休みます。
 今、頭の中で鳴っているのはこれ。
 http://www.youtube.com/watch?v=fsrcZvNLiTM&feature=related

 快晴の空の下、フリスビーかなんかやっているような、そんなスポーティで爽快な歌。
 今となっては、誰かとデュエットしている曲がなんだかとても安心するね。独りで演奏しているのを見ると、逆に痛々しい。

 パソコンの前に座るのが、すごくしんどいのだけど、いつまでもこうしているわけにいかないので、明日あたりは無理にでも復活しようと思います。

2009/6/29

マイケル・ジャクソンとE.T.  マイケル

 しつこいようだけど、まだマイケル・ジャクソンに対する喪失感が残っていて、どうにもこうにも…。
 本当ならば、土曜に観た、ウディ・アレン『それでも恋するバルセロナ』とユーロスペースのキェシロフスキ特集の『平穏』のコメントを書きつけるべきなんだけど、なんだか興がのらない。
 決してつまらなかった訳じゃないんだけど(まさか!)、映画を見ながら、どうしても頭がマイケルのことにシフトしていっちゃって、まるで集中できない。

 何か、これを超えるもっとすさまじいものを観なければならない、と、自室の棚をあさると、ついつい『カラー・パープル』のDVDなんか手にとってしまって、うわ、この音楽はクインシー・ジョーンズじゃないか、とか。
 そういえば、その昔、『E.T.』のストーリーを、マイケルが朗読した、「E.T.ストーリーブック」なんてレコードが出たっけ。
 ずいぶん聞きこんで、英語のヒアリングのレッスンにしたけど、いかんせんレコードなので、その後CDでの再発もなく、紛失したままだ。
 これを機に復刻されたりとかしないだろうか。
 まだ、東急ハンズの向かいくらいにあった頃の渋谷タワー・レコードで買ったのだった。

 そういえば、土曜日に渋谷に行くと、タワーレコードの方は、きちんと店頭と店をすぐ入った所に(26日のダイアリーの写真参照)、マイケルコーナーを作ってあったが、HMVの方は特に何もなかったなと。

 そうと意識したことはなかったけれど、タワーレコードの方が駅から離れてるのに、HMVにはほとんど足を運ばず、タワーの方ばかり行くのは、きっとそうした微妙な、店のニュアンスによったんだろうなと、思いがけぬところで納得する。
 そういえば、HMVでは買い物したことがないので、ポイントカードも持ってないや。

 それはともかく、自分の中で何かの整理がつくまでは、ひょっとしたら更新を休むかもしれません。ちょっと、ぽっかり穴があいちゃってます…。
 エヴァンゲリオンを観に行けばいいのかもしれないけど、まださすがに、ほとぼりが冷めるまで、しばらくは劇場に行くのが怖いし。

2009/6/28

差異の象徴としての、ファラ・フォーセット  映画

 2晩たってもなお、マイケルを失った痛みが残り続けているが、こっちも触れぬわけにいくまい。
 マイケルの訃報と同じ日、ファラ・フォーセットの死去も報道された。
 折しもライアン・オニールが結婚を正式に申し込み、ファラがそれを受け入れてくれたという、報道があった直後だっただけに、これもまた驚いた。

 もちろんライアン・オニールとしても、余命はあとわずかと知っての事だったろう。ただ、その声明から逝去までが、こんなにも短かいということを予想していたかどうかは預かり知らぬことといえ。

 彼女は残念ながら映画への転身には、成功し損ねたというべきだろう。個人的には、当時、世界最高のセクシー美女と言われつつ、『スペース・サタン』(1980)で見せたバストが、当時中学生でやる気満々だった私の目にさえ絶句せずにいられぬ、信じがたい貧乳だったことが原因だろうとは考えている。
 有名な『サンバーン』(1979)ポスターの、男の劣情を刺激せずにおかぬ、白いウェットスーツの下にはどんなパラダイスが待っているのだろうかという、私を含め、世界中の男どもの期待を木端微塵に打ち砕いた、あれは作品だったはずだ。
 なお、『スペース・サタン』の監督は、最晩年のスタンリー・ドーネンだ。

 その彼女の胸に関していえば、長い年月の後、ロバート・アルトマン『Dr.Tと女たち』(2000)で再会することができた。が、ここでのバストは当時とはまったく別の意味になる。それをさらすよう指示したアルトマンの残酷さは恐るべしだが、その時点では、バストの貧富の差はもはや問題とはならない。

 しかし、そうしたことは別としても、TVシリーズ『チャーリーズ・エンジェル』を降板し、映画界への転身をはかった連続出演作、『シャレード79』(1978)に続く上記2本。本人の意欲と裏腹に、これが中学生の私の目さえごまかせぬお粗末さだったことは、いかにも無念だった。
 そして、ここで私のファラ・フォーセットに関する記憶は、完全に終了する。
 私の個人的な思い入れは、『チャーリーズ・エンジェル』は、ファラの妹という設定で、新たに加わったエンジェル、シェリル・ラッドに100%向かっている。
 もっとも、今も昔も一番好きなエンジェルはジャクリーン・スミスだ。

 けれど、ファラ・フォーセットは、まだ映画を見始めたばかりの、中学生の私にとって、アメリカ人男性が本気で熱狂する「偶像」というものの、かくある姿だった。彼女を通して、日本国内と海外のイメージギャップというものの存在をイメージできるようになった。
 おそらく、ファラ・フォーセットを通して、柄谷行人が言うところの「差異の感覚」というものをつかむことができたのだと思う。
 というのは、ファラ・フォーセットは日本国内では、必ずしも騒がれていたわけではない。明らかに「日本人」好みのタイプでないため、アメリカで言われるほどの熱狂が、日本にあったかというと、これは「ない」と言わざるを得ない。
 かくして、「日本」と「日本以外の国」というものの、差異に対する居心地の悪さというものが、私の中に育まれていった。

 以上は個人的な思い込みにすぎないが、あるひとときのアメリカの空気を伝えてやまぬ、サブカルチャーの表象であった2人が相次いで亡くなった。
 本当に、ひとつの時代が終了したのだという思いがする。しかも世代的に、その真っ只中の「同時代を生きる気分」を知っている2人だけに、ひときわその喪失感が強い。
 改めて、ファラ・フォーセットさんのご冥福をお祈りします。長い闘病生活、本当にお疲れさまでした。

2009/6/27

共演者としてのマイケル・ジャクソン  マイケル

 やはりこの人の遺産は途方もなくて、後から後からいろんな瞑想が浮かんでは消えていく。ほとんど頭が、マイケルのことでいっぱいだ。
 ジャクソン5時代はもちろん、ソロがすごいことは言うまでもないのだが、他の誰かのサポートとしてボーカルを添えたとき、これがまたいい。

 たとえば、ポール・マッカートニーと共演したこれ。“Say Say Say”。
 ポールとはもちろん、“Thriller”収録の“The Girl Is Mine”があるが、この曲は、ポール・マッカートニーの“Pipes Of Peace”収録曲。

 ポールの創作能力が絶頂だったのが、ビートルズ時代だったかというと、とんでもない。
 私の意見では、この人のピークは“Tug of War”(1982)と“Pipes Of Peace”(1983)の頃だ。
 ジョン・レノンが亡くなって、(そのようなものが仮にあったとして)抑圧のようなものが、すっかりなくなったのか、泉のように湧くメロディの豊かさ、ボーカルの力に至るまでまさに頂点。才気みなぎると同時に、ポールの中のイギリス色が全面に出た頃だ。

 曲の面白さも相まって、これはぜひ堪能してほしい。
 http://www.youtube.com/watch?v=5gWvBXS2t4A
 MTV全盛の時に作られたこの曲のヴィデオは、数あるミュージックヴィデオの中でも、最高傑作のひとつだと思う。
 インチキドリンクを売ってドサ周りをする、ポールとマイケルとリンダという設定。
 物語の愉快さもさることながら、コメディアンとしてもポールはイケたんじゃないかという可能性を感じさせる。
 また、リンダ・マッカートニーが何しろ美しい。そのリンダも、もうこの世の人ではない。
 しかし、何はさておき、マイケルのこの体のキレはどうだ!
 
 それからもう1曲だけ。キャロル・ベイヤー・セイガーと共演した“Just Friends”。
 http://www.youtube.com/watch?v=gTxQ0F0Qcro
 
 キャロル・ベイヤー・セイガーの“Sometimes Late At Night”(1981)収録曲。
 “Thriller”発表前年の曲だから、ボーカリストとしてのマイケルの頂点。
 ちょっとハスキーな、キャロルのメイン・ボーカルを、そよ風のような、としか言いようのないマイケルの天使の声が優しく、しっとりと支えている。
 作曲はバート・バカラック。比類なき名曲。

 マイケルの声が、どれだけ歌を豊かにしてきたか、およそはかりしれない。
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写真:2009年6月27日タワー・レコード渋谷店 特設コーナー 撮影:Incidents

2009/6/26

マイケル・ジャクソン 心からご冥福を…  マイケル

 ダニー・ケイが、映画からTVに舞台を移した60年代。ダニー・ケイ・ショーのある回で、子ども達を舞台に集めて「大きくなったら何になりたい?」と、ひとりひとりに質問したそうだ。
 宇宙飛行士、大統領、などと答える中、ダニー・ケイが、ひとりの黒人の子どもにマイクを向けところ、思いがけぬ答えが返ってきたという。
 「白人になりたい」
 返す言葉の見つからないダニー・ケイ。
 私自身は、この映像を見たことがなく、どこかで聞いたか読んだかしただけなので、正確ではないが、何とも胸の痛むエピソードだ。

 きっと、マイケル・ジャクソンも、そう思っていた子どもだったのだろう。
 そして、大きくなったから、本当に白人になろうとした。

 音楽活動を実質的に終えて以後のマイケルの、形成手術を重ねて、痛々しくも病的で幽鬼のような、白い容姿を報道などで見るたび、私はこのダニー・ケイの挿話を思い出す。
 
 今ではウィル・スミスに代表されるように、黒人であることのコンプレックスなどかけらも感じさせぬ人物が、トップスターダムに君臨する。エディ・マーフィにもその片鱗はあったが、彼の面白さの根本はやはり、隙さえあれば白人を出し抜いてやろうという、コソドロ的な軽みのはずだ。
 マイケルが、ウィル・スミスと時代を共にできなかったのが、本当に気の毒に思える。

 11歳ですでに、ショービジネスの頂点にあったマイケルは、本人の知る所、知らぬ所で、常人では想像もつかぬ搾取と差別と、表面的な栄光の中で、生きてきたろうし、自分の意思など持ちようのない生涯を送ってきたのだろう。
 しかし、ひとたび声を出せば天使になり、ひとたびステップを踏めば、そこにはダイナマイトが炸裂する。

 今、手もとにある“Off The Wall”、“Thriller”、“Bad”、“Dangerous”までの、4枚のアルバムを久々に順に聴いていて、これほど個性的な歌唱力を持った歌手は、確かに空前絶後だと改めて実感する。(“P.Y.T(Pretty Young Thing)”の何たるグルーブ感!)

 マイケルのことを思うと、ついムイシュキン侯爵(白痴)を連想してしまうことがあるが、彼が小鳥のような声で歌う、“Heal The World”を聴くとき、この人はひょっとしたら、本気で自分の歌で、世界に平和をもたらすことができると考えていたのかもしれないと思う。この人の歌には、たとえばジョン・レノンのシニカルさがかけらもない。
 もしあるとすれば、「マイケル」という商品で、本人をはるか凌駕する金銭を搾取しているに違いない、影の「誰か」の存在だろう。マイケルの人生には、そうした「裏」の部分があまりにも濃厚に漂いすぎている。

 だからきっと、ダイアナ・ロスやエリザベス・テイラーのような、年上の女性が拠り所となる。または、もの言わぬペットのチンパンジーや、精神年齢において同等の幼児たち。

 人様の、しかもショービズ界で最大の成功を収めた人物の気持ちを、勝手に斟酌することなどできはしないが、想像するに、不幸な50年の人生だったろうと思う。
 早すぎる死と報道されているようだが、本人にとっては、あまりにも長い人生だったのではないだろうか。そして、ようやくゆっくり休めて、ほっとできたのだと思う。

 けれど、本人の思いをよそに、私たちにはあまりにも見事な音楽と映像の記録が残されている。すべての作品は、何の保留もなく最高のものだ。
 
 追悼のこれ1曲としては、“Thriller”収録のラストナンバー、“The Lady In My Life”を選びたい。これほど、切々と温かく包みこむようなラブ・バラードは他に知らない。
 現世ではおそらく、ついに巡り合えなかっただろう、“我が生涯のレイディ”に、天国で会えているといいんだが。

 心から、本当に心からご冥福を。
 最後に、スティーブン・キング『クリスティーン』から、とっても印象的な最後の数語。これを少しだけもじって捧げたい。

 “Rest in peace, Michael. I love you, man.”

http://www.youtube.com/watch?v=cm-cTvviMRQ
  ↑
  追悼…“The Lady In My Life”


http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=208921
  ↑
  これは本当に涙が止まらない。“Heal The World"



2009/6/25

蓮實重彦「私の収穫」4編 (朝日新聞夕刊)  

 日本語が美しいなどとは、私の場合、めったに感じぬことである。
 しかし、ちょうど今日の朝日新聞夕刊で、「完」の一語の入った、「私の収穫」欄、全4回の蓮實重彦には深い感銘を受けた。
 これは、「評論家」蓮實重彦がたぶん、本気で美文を書こうと意図して取り組んだ、ほとんど最初の短文4編であると思うし、このレベルの人がそうしようと思えば、これほどのが書けてしまうという究極のものだと思った。
 
 この4編は、いずれも幼少期の、それも敗戦前後の時期の筆者が、他の誰かからそっと耳打ちされたたった一つの言葉が、どのような印象を幼心に残したかというものだ。
 1が「日本は敗けますよ」
 2が「赤布で指がひび割れてしまうような厳しい寒さが、あなたにとっては一番良い季節ですよ」
 3が「今日から秋だな」
 4が「また寄らせて貰います」

 さて、この4編を書く上でのヒントがどこにあったかは、およその推理はたつだろう。
 それは、吉田喜重監督による、たとえようもない名文、
 「お預かりできません、見知らぬお人のものは」
 のはずだ。
 敗戦間際、少年時代の吉田監督が、落下する照明弾に追われ、一軒の家にたたずむ見知らぬ女性に、自転車を預かってもらえまいかと頼んだときの、返事が上の言葉である。
 この言葉が少年・吉田喜重に残した印象を綴ったこの名文は、くだらぬ要約を斥けるので控える。

 今回の蓮實御大の4編は、まさにこの吉田監督の文に誘発されたものとみて、ほぼ間違いないのではないだろうか。
得難い体験が、得難い書き手に訪れるとき、得難い名文が生まれる。
 なお、くだらぬ遊戯をしてみると、蓮實重彦4編は各600字強。吉田喜重の一文は786字。(改行字の余白はカウントせず)まずまず同じ字数というのも、どこか胸打たれる。

 吉田監督の文章は『吉田喜重 変貌の倫理』(蓮實重彦・編 青土社)所収。

2009/6/24

四方田犬彦『歳月の鉛』  

四方田犬彦『歳月の鉛』(工作舎) 読了
 『ハイスクール1969』続編。今度は大学生編。東京大学に入って、登場する知名人もぐっと増えてくるので、やはりどうしても、(たぶん)著者の意図をはるかに超えて、ゴシップ的興味は強まる。

 「授業中に「わたしがいずれ文部大臣になれば」という言葉を繰り返すのがおかしくて、何人かの学生が真似をした。」という蓮實重彦(P38)。
 蓮實ゼミの発表では、「人はヌーヴェルヴァーグにヒチコックの影響ばかりを云々しますが、本当に大きな意味をもっているのはルノアールではないでしょうかと付け加えた。」という松浦寿樹(P239)などなどなどなど。

 必ずしも、著者の温かい眼差しばかりが注がれているわけではないが、しかしそうしたことはともかくとしても、羨望すべきは学友と教員たちの信じがたいレベルの高さだ。
 いったいどうして、これだけ問題意識と高い学識を持った人物ばかりが、ひとつの空間に集まっているのか不思議でならない。
 やはりそれが東京大学というものなんだろうか。

 でも、私の大学でも、私自身法学部法律学科だったので、必ずしも専門的な芸術関連のゼミを専攻したわけではないけれど、たとえば一般教養の音楽は、バッハ研究の権威、樋口隆一教授から学んだ。
 門下の学生に実際にピアノを弾かせつつ、数コマかけて行った、「ワルトシュタイン」ソナタのアナリーゼなんかは、実に手に汗握るものだったし、おりしも来日中の、ヴォルフガング・サヴァリッシュを教室に呼んできて、ハイドンについての講義をやらせたりなど、かなり刺激的なものだった。
 
 しかしだからといって、この本に書かれてるように、学生と教授が切磋琢磨するような、そんなことはなかった(だから私に『歳月の鉛』みたいな本は書きたくとも書けない)。
 それは私自身の、交友を広げる能力の欠如であり、やはり生活の設計の拙さにつきるのだろう。もちろん、自分と四方田さんの知力と能力が天文学的にかけ離れていることを棚に上げてもなおのこと。
 いささか劣等感を禁じ得ぬ読書で、やや落ち込む。



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