2009/11/22

「泣ける映画」5本  映画

 『ブルータス』誌最新号の「泣ける映画」が一部で話題になっており、1位がフェリーニの『道』とは、案外ナイーブな順位だなあと、決して揶揄でなく驚いたりする。
 そんなわけで愛読しているブログSomeCameRunningさんが、「皆さん、恥ずかしがらず、自分の「泣ける映画」5を」と煽っておられ、こういう遊戯は決して嫌いじゃない、というか、かなり好きなので、のせられてみる。

 以下のセレクションは、私個人の完全オールタイムの「泣ける映画」ベスト5。
 たぶん、1年後だろうが10年後だろうが、この5つで不動の自信あり。
 ちなみにスピルバーグと宮崎駿は、特別措置として除外。キリがなくなる。
 しかしYou Tubeはすごい。この場面を引用して貼り付けたいんだが、と思ったものが全部しっかりアップされている。

『レッズ』(ウォーレン・ビーティ/1981)

 ナンバー1。映画史上最高の再会/抱擁シーンを持つこの映画。いない、いないいないいない、ああ、やっぱりいないのかしら、というダイアン・キートンの胸かきむしるような想いのその果てに、そこにいるのか、ウォーレン・ビーティ…。限りなく柔らかく、そっと抱きしめ合う、完璧無比な抱擁。思い続ける男女の持続は、3時間以上の長尺を長尺でなくする。

『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ/1978)

 どれだけ裏切られ、傷つけられても、それでも讃えなければいかぬ、アメリカ合衆国。God Bless America。
 けれど、乾杯すべきは友の名のために。“To Nick”。「カヴァティーナ」の旋律と共に、そのニックの顔が終幕と共に出る、ただただ号泣である。

『恋のエチュード』(フランソワ・トリュフォー/1971)

 私にとって、トリュフォーのベストは『恋のエチュード』。どうして人は「選択」せねばならぬのか。その哀しみがみなぎる作品。
 ここに紹介した1分強のシーンは、映画史上最高の移動。まあ何も言わず、この1分だけでも見てほしい。ジョルジュ・ドルリューの名旋律だけで涙が止まらない。

『フォレスト・ガンプ』(ロバート・ゼメキス/1994)

 子どもとして、青年として、大人として、男として、女として、母として、父として、兵士として、市民として、そして人として…。いついかなる立場でも、哀しみからは逃れられない。どうしてなのかと問うと、その答えは風に吹かれているのだそうだ。そのことは、最も愛する人だけが教えてくれる。“I love you.”という、たったの3語のためだけに、人は生き続けることができる。

『霧の中の風景』(テオ・アンゲロプロス/1988)

 姉と弟。この2人の身長差に泣く。この世にたった2人。この2人はいつでも、そっと手をつなぎあっていて、互いの存在を確認し合うかのように、いつでも2人で立っていて、時には一緒に走る。その最終的な結果は別として、映画の骨子とは幸せ求めて走る姿にこそある。

 以上、「泣ける映画5本」というより、正確には私の生涯ベスト5。
 画面を貼りつける作業をしていて、涙が止まらなってしまった。大変困る。


2009/11/21

『フロスト/ニクソン』(舞台版)  映画

 『フロスト/ニクソン』。銀河劇場(天王洲アイル)にて。
 デヴィッド・フロストを仲村トオル、リチャード・ニクソンを北大路欣也が演じる舞台版。

 実は私は「お芝居」というのがすごく苦手で、これまでの人生でもこれが5度目だ。
初体験は親の生命保険の契約特典でチケットをもらった、森繁久彌『屋根の上のバイオリン弾き』で、これは中学生のとき。映画版の切なさがかけらもなかった。
 2度目が20年くらい前で、ジャンヌ・モローが来日して独り芝居をやった、『ゼルリンヌの物語』。生でジャンヌ・モローが見れるというだけでチケット入手。幸い前から3番目の良席。が、すごく退屈した。映画のジャンヌ・モローの方が1億倍くらいよかった。
 3度目が15年くらい前の、トニー・クシュナー『エンジェルズ・イン・アメリカ』第1部。評判の戯曲と聞いたので、戯れに見に行ったが、あまりにつまらなかったので、第2部は行かなかった。
 4度目が10年くらい前で、手塚治虫原作の『陽だまりの樹』。地元商店街の福引で当たったのだ。中井貴一と宮沢りえが演じた。ほとんど記憶にない。

 こんな感じで、舞台って本当に相性が悪いのだ。
 けれど、『フロスト/ニクソン』のオリジナル舞台を、日本でもやるとなると、ロン・ハワードをこだわりの対象とする私としては、見ずにはおけない。ロン・ハワード論も、そろそろ増補せねばと思っているし。
 
 今日の鑑賞の成果は、ロン・ハワード論増補版で…と言いたいところだが、どのように反映されるかは今のところまったく未知数。
 ロン・ハワード版を知る身としては、映画の興奮の千分の一も感じられず、編集によって構成される映画というものが、どんなに偉大かと改めて感じ入った次第だ。

 舞台というものをまったく知らないので、この舞台版『フロスト/ニクソン』のことは、正直全然わからなかった。
 きわめてシンプルな舞台装置で、セットをほとんど変えずに、TV討論シーンから、深夜の電話、ラストのお別れまで、全部を演ってしまうことに驚く。

 実力俳優2人の熱演と滑舌を、生で見るのはさすがに見事だな、とは思うものの、フロスト×ニクソンは、あくまでTVインタビューなのであって、裁判での弁論ではないはずなんだが…と、語気を荒げて討論する仲村×北大路の演技設計に疑問を感じたりとか。
 あるいは、この2人はイギリス人×アメリカ人なんだから、お辞儀なんかするな、そこは演出がNG出ししろとか。
 そんな程度のくだらない感想は持ってしまう。

 根拠のない想像をするに、ロン・ハワードはきっとこの舞台をすごく、楽しんだのだろうと思う。
 David Frost with Bob Zelnick“FROST/NIXON”(PAN BOOKS)によると、彼はあらかじめピーター・モーガンの戯曲を読んだうえで、舞台を見、それから直ちに映画化を決意したそうだが、これは絶対に映画でやるべき素材だと思ったに違いない。
 というのは、舞台だとよくわからないのだ。

 たとえば、「大統領がやったことならば、それはもう違法ではないのだ」という決定的な一言を、ニクソンが述べてしまったときの、本気で耳を疑うフロストの茫然。
 それをクローズ・アップするロン・ハワードの、これ以上はないタイミングと、絶妙なマイケル・シーンの表情。それに続く、おや、私は何かおかしなことを言ったかな? とでもいうような、フランク・ランジェラのアップの連鎖。

 仲村トオルは、ここをうまく溜めて表現したとは思うが、たぶんこの舞台のお客さんの1割も、ロン・ハワード版を見ているとは思えないから(注)、ここはどれだけ理解されただろう。
 仲村トオルの溜めを受ける北大路欣也は、これをニクソンのある種の諦念として発された言葉であるかのように表現して、それ自体はひとつの解釈だからまったくOK。
 けれど、ここを理解できたのは、私自身があらかじめここは絶対に見ようと待ち構えていたからで、そうでなければ、何があったかわからぬままに、スルーしてしまうだろう。

舞台は遠い。手を伸ばしても絶対に届かないところで、演じられているものに、私はどうしても耽溺することができない。

(注)もちろん根拠はないが、終演後、かなりの数のお客さんが、口ぐちに「こういう話とは知らなかったね」とか「すごく難しかったね」、「よくわからなかったね」と言った感想をもらしながら、駅に向かうのを耳にしたので。

2009/11/20

『イングロリアス・バスターズ』  映画

 クエンティン・タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』

 初日。直ちに地元シネコンに駆けつける。しかし、観客は私を含めてほんの10数人。レイトショーとはいえ何たることか。

 そんなことはともかくとしても、何と言うか、言葉にならないほどすばらしい。
 タランティーノの映画愛は誰がみてもわかるはずだが、その自由度たるやどうだ。
 『キャット・ピープル』といえば、ポール・シュレイダーさ、もちろん。小賢しいジャック・ターナーなんかじゃなくて。そう言わんばかりに、こんなシーンで、まさかデヴィッド・ボウイによる主題歌『キャット・ピープル』を、これほど高らかに聴けてしまうなんて。
 そのうえ、観劇中に席を立って、同じ列の観客の前を鬱陶しがられながら、途中退出するという、ここでルビッチの、しかもナチスがらみの映画まで引用できてしまう、この柔軟さはいったい何なのだ。

 こうして見ると、はたしてやってはいけないことなど、映画にあるのだろうか。
 そんなものはない。だから、戦車も出さずに戦争映画が撮れるし、微妙に話の辻褄が合わなくとも平気だし、歴史的事実だって変えてかまわない。ここは「センス」である。

 そして、たとえば『ウィンド・トーカーズ』のジョン・ウーは、その登場人物にどう聞いても日本語とは思えぬ「日本語」をしゃべらせて、日本兵の包囲を突破するというでたらめをやるのだが、逆にそういうウソはダメなんじゃないか。
 母国語でない言葉をしゃべることによって、『イングロリアス・バスターズ』の人たちはしっかり墓穴を掘る。つまり、やっていいでたらめと、やっちゃいけないでたらめはある。
 こうした選択を行うのは、これはセンスに付随する「知性」である。
 それも、自ら影響を受けたことを隠さぬジョン・ウーに対して、そうした批評をしているのだとしたら、これは「覚悟」だろう。
 不幸は言葉の不自由さからやってくる、となると、どこかスピルバーグに対しても、もの言いたそげな風情でさえある。
 こうなってくると、同種の映画作家はほとんどいなさそうだ。

 しかも、同じヒトラー暗殺計画でも、事実をベースにした、「ワルキューレ作戦」で、トム・クルーズが失敗した原因を外さぬ分、『イングロリアス・バスターズ』の「プレミア作戦」の方が、荒唐無稽にもかかわらず、よほど現実的に見えてしまうから不思議である。

 で、現実的に見えるというのは、ここがこの映画で私が何より感激した部分なのだが、「女」の間違いない確かな感情をおさえているからなのだ。
 タランティーノは間違いなく、常識をわきまえた人物だと思う。

 ダイアン・クルーガーはもちろんいいが、やっぱり最高なのはメラニー・ロランで、彼女がたった一回だけ、思わずボロッと泣いてしまう瞬間がある。
 これはたった一度だけこの映画で見ることのできた、唇と唇のキスだったとだけ、ネタばらしさせてもらうのだが、しかしこの涙の理由は何なのかというと、復讐の終わりとか、最後のキスとか、失った家族の想いとか、いろいろありそうで、そのあまりにもたくさんの感情が混ざり合って、それがここ一番というところで、だって涙が出ちゃうの、女の子だもの、というあまりにすばらしい涙だった。
 こんな涙を描ける人は、絶対にロマンチストなのだ。
 実際、これまでの彼女はふてぶてしいナチスどものキスを、手の甲にさんざん受けてきている。それらをすべて洗い流すような、真の愛情と共に交わす清浄なるキス…。

 そして、ひとたび涙をこぼしてしまった後は、来るべき「本番」へと集中力を高めに高めるのだが、集まってくるナチスを眺めて煙草をくゆらせる彼女を、何度もオーバーラップさせる表現の素晴らしさはいったいどうだ。
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写真:このショットが幾重にもオーバーラップする。最高のヒロイン誕生の瞬間である。
画像リンク元
 
 闘いを描いて超一流。女を描いて最高峰なら、この映画は無敵ではないか。
 「オレの最高傑作だ」という、ブラッド・ピットの劇中のセリフは、タランティーノ自身に対するものでもありそうだ。間違いなく最高傑作である。

2009/11/18

トニ・モリスン『スーラ』  

トニ・モリスン『スーラ』(大社淑子・訳 ハヤカワ文庫)読了

 膨大な第三作『ソロモンの歌』に先立ち、デビュー作『青い眼がほしい』に続く、第二作。村上春樹なら『1973年のピンボール』にあたり、村上龍なら『海の向こうで戦争が始まる』にあたる。つまり、超大作となる第三作の前作となるが、忘れ難くも珠玉の作品というわけだ。
 訳者あとがきでも、名作の誉れ高い『ソロモンの歌』よりも、『スーラ』の方がむしろ愛されているといった意味のことを書いている。

 それはわかる。『スーラ』は本文256ページと、決して長くはないが、実に1919年から1965年までの46年間の物語である。
 中心となるのは、スーラとその親友ネルの、2人の少女の物語。どこか『赤毛のアン』を思わせる、まるで「腹心の友」のような彼女たちだが、この2人は黒人という呪われた民族なので、アンとダイアナのように晴れやかな物語にはなりようがない。
 当然のことに、深く激しい憎しみ、というにはあまりに複雑な感情を伴って決裂する。

 先に、それはわかる、と書いたのは、この2人の「ついたり離れたり」が、現実的な生活感を伴っていることの他、個々の描写にリアリズムを残しているからだ。つまり俗な意味で、身につまされる。
 『ソロモンの歌』同様、『スーラ』にも、2人の主人公を中心におびただしい死が訪れる。けれど『ソロモンの歌』のように、幻想的に、消えゆくように死んでゆくのでなく、『スーラ』でのいくつかの命は、実質的な重みを伴って、間違いなく失われる。

 一例をあげると、さまざまな感情のもつれの果てに、スーラの母ハナは焼け死んでしまう。その描写も凄絶なのだが、ハナの母(スーラの祖母)エヴァは、それを救えない。が、母親の焼死をスーラが眺めているのを、エヴァは確かに目にする。そこでこの一文。
「スーラがハナの焼けるさまを眺めていたのは、驚きのあまり体の自由が利かなくなったからではなく、興味をそそられたからだということを確信していた。」(P.116〜117)

 個々には重たいはずの命も、やがて訪れる災厄によって一挙に失われ、命の重さも相対的に軽くなる。すべて神の思し召しである。

2009/11/16

『ボヴァリー夫人』  映画

 結局、岡田茉莉子特集のオーラス、吉田喜重編に行けなかったが、まあ致し方なしか。しかし最後にもう一度、茉莉子さんをお見かけしたかった。それでもまずまず、満足としたい。

 とりあえず、その合間に見ていて、書きそびれていたものをまた備忘に。
 アレクサンドル・ソクーロフ『ボヴァリー夫人』

 ちょっと厳しい。これほど「映画」を見る官能と悦びから、遠く隔たっていていいものかどうか、判断を迷う。これを観客のことを考えぬ蛮行と考えるか、勇気ある創作と考えるか。結論としては、私自身はこれを支持したくない。
 この類の一般性の欠如、通俗的な意味での美から完全に背を向けたものは、単に劇場から観客を遠ざけてしまうのだ。
 ひょっとしたら、ゴダールの諸作も観客を失わせた一因かもしれない。淀川長治さんが、ゴダールとロッセリーニを拒否したのは、誰でも映画を撮れると思いこませた、と本人がおっしゃるのはどこか本音じゃない気がしていて、どちらかというと、彼らは一般的なお客さんを劇場に誘っていないからではないかと、私は理解している。
 それがゴダールであるというつもりもないが、観客を想定しない映画というのは、基本的にあってはいけないと思う。それはその瞬間、映画ではないと思うからだ。
 どのような形であれ、作り手の「想い」のようなものは、観客へと向けられていなければならないのではないか。そうした「想い」をソクーロフにはまったく感じられなかったが故に、この映画はよろしくない。

 そのソクーロフのボヴァリーだが、この人の映画はいつでも死後の世界を見せられているような思いだが、今回も死にゆく者たちの世界を描き、腐臭さえ放っている。
 その腐臭感は、画面のあちこちに過剰なまでに飛び交っている蠅の数々。食べ物に群がっている蠅、窓枠に飛んでいる蠅、裸体のあちこちに群がっている蠅。
 そもそもあまりに醜い男女優。ちっとも楽しくなさそうな、気持ちよくなさそうなセックス。が、快楽を呼び込んでいないセックス描写に果たして何の意味があるのか。
 逆に意味があるとして、その意味をどのようにとらえたらいいのか。それがわからないから、映画を見る快楽を与えてもらえない。しかし、それでもなお、映画を愛せよというのだろうか。で、それを強いる権利が誰にあるか。

 何となく意味付けはできそうな気がする。この映画では、すべての有機物は腐敗するものとして扱われている。特に人間は。それを覆い隠すために、過剰なまでに材質を厳重にした棺が用意される。そうした人間のもろさを隠ぺいする、人間自身の営みというもの。
 けれど、そうした分析(にもなっていないもの)さえ、いかにもとってつけたようだ。
「ソクーロフ」のネーム・バリューで、必至に「批評」の言葉を探そうとしている卑しい自分ばかりを見出して、赤面するばかりである。

 ほとんど苦行のような128分の中で、「何のために映画を見るのか」と、そんなことばかりを考えさせられていた。その意味では価値ある一作というべきなのだろうか。

2009/11/14

『アンナと過ごした4日間』、『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』  映画

 岡田茉莉子特集の合間に見ていながら、書きそびれていたものを急いで備忘。

イエジー・スコリモフスキ『アンナと過ごした4日間』
 寝たきりの祖母の世話をする孤独な本作の主人公は、生身の人間とのコミュニケーションは、ほぼ完全にその祖母とに限られている。主人公は祖母を愛している。そのため主人公は、祖母が死んだ後、恋した女性も寝たきりでないと、愛情表現ができなくなっている。

 そこで、祖母が使っていた睡眠薬を、恋するアンナの部屋の砂糖壺に混ぜ込んでおく。就寝後、薬の効果で熟睡する彼女の部屋に忍び込み、彼なりの愛情を注ぐわけだ。

 しかし、目の前に好きな女性の、露わになった乳房があって、それに触れることをしないような奴に、幸福など絶対に訪れることはない。
 だからこの男は、常に貧乏くじをひくことになる。この「間違えられた男」は、まさにこのアンナへのレイプ犯のえん罪で服役するハメになっており、最近も指輪泥棒の汚名を着せられる。

 『街の灯』のチャップリンなら、好きな女性の知らぬところで世話を焼き、あげく無実の罪を着せられて服役しても、やがて幸せの予感は訪れるが、『アンナと過ごした4日間』の主人公にそれは期待できない。
 時計を修理するなどと、どうでもいい、絶望的なまでにくだらぬことを企てるから、案の定そこで警察にみつかってお縄となる。
 
 幸せの予感というのは、『セントエルモス・ファイアー』のエミリオ・エステベスのように、好きな彼女の枕に顔を押しつけ、胸いっぱいにその香りを吸い込む、という決定的に正しい行為からしか生まれないのだ。
 この主人公も、せめてアンナが脱ぎ捨てた洗濯前のパンティかなんかを見つけ出して、それを頭にかぶる、ないしは口に含んでチューチュー吸う、と最低限その程度のことをしておれば、あるいは幸せになれたかもしれない。
 
 正しい変態行為と、正しくない変態行為というものはある。正しくない変態行為など、理解されないのだ。(だから裁判でも不利になったではないか)
 洗濯前のパンティを口にふくむのは純愛だが、ほつれたボタンをつけ直すなどというのは、不純もいいところだ。いっそ不潔である。まして時計を修理するなど言語道断。 ここを間違えるバカは不幸になって当然だ。きっと、お祖母さんの教育が悪かったのだろう。

 このどうしようもないほどくだらぬ男の、ふんだりけったり、というよりは、自業自得の顛末を見せるブラック・コメディは、あまりにも正しくなさすぎる変態行為のリストを、余さず示したが故に、ギリギリ傑作となることに成功する、実に不可思議な作品である。

 
根岸吉太郎『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』
 私がこの世で一番好きなのは松たか子なので、よい点をつけたいことは確かなのだが、何しろ1日に4本もの岡田茉莉子の後に見てしまうと、どうしてもこの映画の松たか子が岡田茉莉子だったら、浅野忠信が佐田啓二だったら、どんなに見事だったろうと、無意味なないものねだりをしてしまう。

 というのは、偶然にすぎなかろうが、しばしばこの映画の松たか子は、いかにも岡田茉莉子的なしぐさ、演技をする。
 我慢の果てに、つい若い妻夫木聡に唇を許してしまうときの、心と体が裏腹になった証である、首から下は男の方にあるのに、あごから上はそれに背いた絶妙の身体のねじれ。
 終盤、ある決意を秘めて堤真一の事務室で、彼の告白を聞くとき、男の情けなさに焦れながら、それをすべて不問とし、ぐっと顔を伏せそしてもう一度、上げるときの眉間から目もとにかけての魔法のような変化。こうした表現は、岡田茉莉子の独壇場だと思う。

 松たか子はいい。けれど、「現在」32歳の松たか子と、「当時」32歳の岡田茉莉子とでは、どうしたって太刀打ちはできないのだ。ましてこの種の題材で。
 なお、それはそれとしても、傑作は傑作であるので念のため。

2009/11/13

『スペル』  映画

サム・ライミ『スペル』
 どうも週末映画を見れない気配濃厚なので、レイトショーに駆け込む。すると、驚いたことに観客は私たった1人。シネコンとはいえ、決して狭からぬ劇場を1人で占拠して、サム・ライミのホラーを大スクリーンで見る。これは怖い。

 結果的になのだが、こうした映画を楽しめないのが、たぶん私の限界なのだと思う。「こうした映画」というのは、つまりB級ホラー。
 確かにここぞという見せ場は多い。私は性的にやや倒錯気味なので、鼻血シーンにはかなり興奮した。なるほど、宙に浮かんで振りまわされると、きっとこんな衝撃なのだろうな、というヒロインとの視覚的・感覚的一体感も、さすがに超一流と思った。

 ここで映画のチープさというものを考えてみる。たとえば公開当時、『ターミネーター』はどうしようもなくチープだった。けれど、そのチープさにかかわらず、この映画からは新しい何かが始まる、と確かに思わされた。
 実際、『スペル』と『ターミネーター』は基本構成は同じだろう。
 
 『スペル』は老婆に呪われたヒロインが、その呪いをとこうと悪戦苦闘する物語だが、『ターミネーター』のヒロインだって、『スペル』と同じように、何であたしなのよ!? という疑問が解けぬままに追い回される。あの殺人サイボーグは、どうにも逃げられないという意味で、要するに『スペル』における呪いみたいなものだ。

 ということは、(たぶん私にとって)許せるチープと、許せないチープさがありそうだ。それは何かというと、そのチープさに対して葛藤があるかどうか、という点なのだと思う。
 これでいいはずがないというのは、重々承知だが、しかし予算の関係でどうしても、ここまでが限界だ、という作者のギリギリの誠意が画面に表れているかどうか。
 そんな中で、ベストを尽くそうとする作者の姿勢に、私はしばしば魅かれることがある。
 
 今や2億ドルの予算で映画を作れるサム・ライミが低予算を装い、本当に低予算らしく『スペル』を作ることに、どこか不誠実なものを感じてしまうのは、ここにどうしても、ベストの映画を作ろうという作者の良心を感じ取れないからだ。
 それは、今さら低予算で映画を作るな、という意味では決してない。額の問題ではないのだ。(IMDBによると、『スペル』の製作費は3千万ドルだから、なるほど安い)

 もちろん、これほどの技術的達成を見られれば、それで十分だろうという向きもあると思う。信頼する何人かの評者が、『スペル』を絶賛しているのも知っている。
 けれど、ことのはじめから、「B級」に居直り、意図的なチープさを売り物にする映画は、どうも好きになれないのだ。

2009/11/12

万田邦敏『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』  

 万田邦敏『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』(港の人)読了。

 万田邦敏初の映画論集ということで、興味深く手に取り読んだが、繰るページ繰るページ、唖然茫然の連続でかなりめげた。
 めげたというのは、内容にショックを受けたというより、全部かつて読んだ文章ばかりだったからだ。前半、というか「前期課程」の章のことだが、それもそのはずで、大半が80年代の「イメージフォーラム」(または「リュミエール」)に掲載された文章で、どれも確かにはっきりと、かつて読んだ記憶がある。

 もちろん当時は、これらの文章の筆者が、後の『接吻』の監督だなどと、考えもしない。文体の軽みの中に、否応なく滲み出る、確かな映画的教養とセンスから、『映画的!』4人組の系統と勝手に思い込み、愛読してはいたが、長年のうちにすっかり忘れていた。
 で、何よりひどいことには、当時高校生〜大学生の私は、これでいいならOK、オレでも書けるなどと、穴があれば頭をぶち割った上で、入ったまま一生出て来ないくらいの、不遜な感想を持ったのだった。

 だから読み進めながら、当時のそれこそ文字通り「とっても恥ずかし」い記憶の数々が、後から後から湧き上がって、いたたまれなくなる。
 「とっても恥ずかしゼミナール」という書名は、まったくその通りで、これらの文章には、80年代当時の、映画的環境がまざまざと刻印されている。
 避けては通れぬスピルバーグへの揶揄。必死に“擁護”されたイーストウッド。世界的な名声を増す一方の黒澤明への苛立ち。まさに増殖しつつあったハスミムシ。テレビで見る映画は映画か?という今では起こり得ぬ議論。台頭しつつあった自主製作映画集団に、その可能性の中心としての黒沢清。お勉強の場である日仏とアテネ的環境…などなどなど。

 後期課程になってくると、『UNLOVED』の監督の人、として意識的に読んだ文章が多くを占めるから、これは普通に読む。
 読むには読んだが、これはしかし80年代のいわゆる自称「シネフィル」どもが、腹の中で、どんなことを考えていたか、という「とっても恥ずかし」い記録の書として、私は読む。

2009/11/10

『パラダイス・アレイ』は見事な傑作だった。  映画

 楽しみにしていたDVD、シルヴェスター・スタローン監督・脚本・主演の『パラダイス・アレイ』が届く。1978年作品。

 中1の時に見て以来の、実に30年ぶりの再見。当時はとにかく素晴らしいと思った。が、今の目で見ても果たして「いい」と思えるか、というのが最大の不安だった。
 恐る恐る再生し、そのすべてが杞憂であることがわかった。
 冒頭から、胸をかきむしられる。ノスタルジーと抜きで、これは逆に今の目から見て最高の傑作であることがわかった。

 舞台は1946年。ここ、ものすごく重要なところなのに、完全に忘れていた、というより当時はまったく気付かなかった。が、今なら一発でピンとくる。これはスタローンが生まれた年ではないか。これは彼の自伝的作品なのだ。

 ニューヨークのスラム街に生きる三兄弟。長男がアーマンド・アサンテ。しがなく死化粧の仕事をしているが、ちょっと知的でおそらく将来を嘱望された気配もあるが、戦争で足をやられて現状に甘んじている。さすがの名演。
 三男坊リー・カナリートは、いささか知恵遅れのようだが、腕っ節は誰にも負けぬ大男。
 そして次男がスタローン。ここがすごいのだが、こいつは口先だけで、何も取り柄がない。困ったときは兄の知恵と、弟の力頼みの役立たずである。しかしその要領のよさで、何とかその日をしのいでいる。

 ストーリーの大枠は何もない。クライマックスで、三男坊がナイトクラブの深夜レスリングに出場し、束の間の栄光を得るくらいのもの。
 そこを頂点に、この三兄弟が互いを補いあって必死の、スラムの生き様を描く。この描写がすばらしい。まさに、イタリア移民として幼少期を過ごした者の凄みか、スラムでの夜の生活を見事にとらえている。
 夜の酒場。煙草の煙で少し向こうは何も見えない。テーブルは食い荒らした落花生の皮でびっしりで、こぼしたビールでびしょびしょだ。
 そんなテーブルを服の袖でぬぐったりするから、袖口なんか真っ黒けで、そもそも狭くて、その上うるさいから顔をくっつけあうようにして、会話をしなければならない(こうした演技指導が実に細かい)。不潔である。そして男くさい。

 この生々しい描写を可能にしたのは、撮影ラズロ・コヴァックスの手腕だろうが、これは間違いなくスタローンの中にはっきりとしたヴィジョンがあって、そのルックを再現するように指示しただろうことは想像にかたくない。

 この映画が何しろ見事なのは、朝のけだるさを描く腕前だった。
 熱狂的にして情熱的な夜が終わると、朝がくる。この朝の重たく、またイヤな一日が始まってしまうという、とにかく憂鬱な思い。朝には碌なことなどありはしない。なぜなら、また働かなければいけないからだ。
 その憂鬱をしのぎ、ようやく楽しい夜が来ると、鬱憤晴らしにまた酒をくらい、ケンカをし、女を冷やかす。その様はほとんどとり憑かれたようでさえある。
 そんな狂熱の夜が終わると、また碌でもない朝がやってくる。その永遠の繰り返し。この夜と朝との落差、ギャップがとにかく見事なのだ。
 ここには「ロッキー」の栄光も、「ランボー」の爽快もありはしない。1946年ニューヨークのスラム街の描写だけがある。
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写真:『パラダイス・アレイ』より。
夜が明けると、また碌でもない朝が来る。朝はとにかく最低である。たとえば、好きだった女(アン・アーチャー)が、実は兄貴と寝ていたことを見てしまったりする。
(画面左奥に逃げるように去っていく人影は、長男アーマンド・アサンテ)

 
 三男坊の日中の仕事は、氷の運び屋だが、時代はまさに冷蔵庫。得意先から搬入はもう不要と注文を断られる。
 仕事を失い、同時にやる気も失った三男坊が、ほとんど意地で巨大な氷の塊を長い長い(そして狭い)階段を上まで持ち上げ、登り切ったところで、ばーんと下に突き落とす、カメラのこちらに向かって巨大な氷が転げ落ちてくる。
 氷と一緒に、生きる希望も転げ落ちてくるような、すさまじい描写である以上に、そもそも希望なんてものは、溶けてなくなるようなものだったんだぜ、と言わんばかりの悲哀感あふれるいいシーンも満載している。

 また、冒頭での三男坊と街の顔役の用心棒との腕相撲合戦など、凄絶な迫力で、後の『オーバー・ザ・トップ』を軽く超えている(この腕相撲に勝ってしまうことで、街の顔役の恨みをかうわけだ)。
 
 一度聴けば決して忘れられぬ、作曲ビル・コンティ 作詞キャロル=ベイヤー・セイガー&ブルース・ロバーツによる主題歌“Too Close To Heaven”が熱い。歌うはスタローン本人。
 『パラダイス・アレイ』は70年代アメリカ映画、最大の達成の一つと確信した。大傑作。

2009/11/8

回顧上映「女優 岡田茉莉子」 その5  映画

『愛情の系譜』(五所平之助/1961/松竹)
 とてもややこしい物語で、村上龍の小説の冒頭をちょっとモジって言うなら、ここでの茉莉子さんはとても忙しい。それは彼女がとてもしっかりしているからだ。

 アメリカの大学に留学するほどの才媛で、福祉士としてのキャリアを積むべく激務の毎日。しかしその出生には暗い過去があり、母・乙羽信子は自分を捨てた夫・山村聡への怨念で生きている。
 そんな中、ふとした偶然からその父・山村聡と出会ってしまう茉莉子さん。で、彼女にはフィアンセの三橋達也がいて、彼との結婚を熱望しているが、仕事とのバランスからなかなかそれが果たせない。彼は彼で立身出世のための結婚を重役から勧められて、茉莉子さんとの結婚に及び腰だ。ここに彼女のストレスの根源がある。
 茉莉子さんの妹・桑野みゆきも尻軽で彼女の世話に手こずり、面倒を見ているかつての不良少年で、今では更正のため働く宗方勝巳。この子はこの子で、茉莉子さんに勘違いの恋をして、それが叶わぬと知ると真っ逆さま。さらにストレスの多い茉莉子さんである。

 非情に入り組んだ人間関係を、実に手際よくドラマ化していて、確かにこの頃の日本映画の底力を感じる。ライティングをあれこれ変えたりする、五所平之助的な表現主義表現はどこか鼻につかぬでもないけれど。
 しかし、母親とは違う生き方をしているつもりなのに、結局は母親と同じ行動に出ようとしてしまう、茉莉子さんの「こんなバカな」的な苦悩がすばらしい。演技もすごいが、そのように持って行くシナリオが実に巧みだ。

 ここでの茉莉子さんは、女の強さを強さとして生かしきれず、「男社会」がどれだけ「女」の芽を摘んでしまうか、その悲劇の主体を一身に表現している。戦後日本は、なるほど「機会」は創出した。が、「意識」そのものがまるでかわっていないので、女の受難は続く。
 こうしたありようを含め、男性主体の日本を、吉田喜重監督は一連の「女性」のドラマで糾弾したのだな、と興味深く観る。
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写真:ポレポレ東中野から、大通りの方に出て商店街に入り徒歩3分くらいの所に、どういう偶然か「茉莉」という中華がある。3年前の吉田特集の時に発見。昼食に今日もここでラーメンを食べる(550円)撮影:Incidents

『今年の恋』(木下恵介/1962/松竹)
 どこかぎくしゃくしているのは相変わらずだけど、普通に楽しめる木下コメディ。

 和食屋の娘の茉莉子さんだが、思春期の弟のできが悪くて、いつもやきもきさせられている。弟のできが悪いのは、友達が悪いからだと思い込んでいる。その弟の友達が田村正和。まだ19歳でとても笑える。
 その田村正和の大学生の兄・吉田輝雄は、こっちはこっちで弟の出来が悪くて引きずりまわされている。その吉田輝雄と茉莉子さんがいつしか恋仲になる…までの物語。

 ダイアログの多い木下シナリオだが、ここでも丁々発止の会話のやりとりが笑わせる。滑舌のいい茉莉子さんのここは本領発揮。弟の処遇をめぐって、基本的にどうでもいいと思っている母・浪花千栄子と、もっとどうでもいいと思っている父・三遊亭円遊に向かって、くどくど文句をぶちまけるあたり、爆笑の連続。
 あれほど悲劇のヒロインを見事に演じるのに、コメディエンヌとしてこれほどうまい女優って、世界を見まわしてもちょっといないのではないか。

『女舞』(大庭秀雄/1961/松竹)
 今日最大の収穫。というより、これは途方もない傑作で瞠目する。『離愁』もすごかったが、ちょっと大庭秀雄を集中して観なければ、という思いに掻き立てられる。
 じっくり対象を見つめる余裕あるカメラ。場面転換の妙、しかもトーンをがらりと変えてくるので、時間の推移さえもわかる。ナレーションと字幕の絶妙な使い分け。
 そのいちいちが、ものすごく的確で、映画のプロの仕事を堪能できる。

 ここで茉莉子さんは、日本舞踊の家元。芸を深めるために、天才能楽師・佐田啓二の教えを請うが、天才故に破滅的な性格。しかしそんな佐田啓二に恋心を寄せてしまい、同時に芸の限界にも直面する。

 茉莉子さんの迫力ある舞を心ゆくまで観ることができる。恋する相手に会いたくて会えぬ、メロドラマの王道ど真ん中を行く。
 この映画はだから、女優としてやりがいのある仕事だったろう。実際すごい見ごたえで、「終」のマークが出た時、劇場から一斉に拍手があがった。

『女舞』終映後、茉莉子さんのトーク。
 この映画は大好きな作品で…と語り始める。
 まあでも、今から見ますとまだまだヘタですね。今だったらもう少し、うまく踊れるとは思うのですが…と苦笑する茉莉子さん。

 今でこそ、こうして大勢の人の前で話していますので、考えられないかもしれませんが、私はずっと人見知りの激しい、引っ込み思案でした…と、『女優 岡田茉莉子』のエピソードを独演なさる。

 今回もやはり聞きほれる。戦時中の子ども時代を経て、やがて東宝でデビューしたこと。東宝をやめ、フリーとなり、松竹専属となったが、やがて結婚。吉田喜重監督とともに松竹をやめたと思うと、木下監督まで辞めたと聞いて驚いたこと。
 そして、現代映画社を設立。いよいよ新しい道を歩み始める…。ここまでをたっぷりと聞かせてもらったところで、ここから先はまたの機会に、ということとなった。

 本には書かれていなかった言葉として、今日もっとも印象的だったもの。それは、
「私は、吉田が求めてくれるような女優、吉田が使ってくれるような女優になりたいと願ったのです」だった。
 もちろん劇場の最後列には吉田喜重監督の姿も、いつも通りにあった。

 考えてみれば、東宝、松竹の大スターとして、最高のメロドラマ女優から、最高のコメディエンヌまでを演じ分け、日本舞踊の達人としても舞い、その後に世界映画の最先端として『エロス+虐殺』、『煉獄エロイカ』までをも表現しきって、その合間に舞台とテレビの仕事をこなす。
 確かにこんな女優は世界レベルで見てもいないはずだ。



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