2009/11/8

回顧上映「女優 岡田茉莉子」 その5  映画

『愛情の系譜』(五所平之助/1961/松竹)
 とてもややこしい物語で、村上龍の小説の冒頭をちょっとモジって言うなら、ここでの茉莉子さんはとても忙しい。それは彼女がとてもしっかりしているからだ。

 アメリカの大学に留学するほどの才媛で、福祉士としてのキャリアを積むべく激務の毎日。しかしその出生には暗い過去があり、母・乙羽信子は自分を捨てた夫・山村聡への怨念で生きている。
 そんな中、ふとした偶然からその父・山村聡と出会ってしまう茉莉子さん。で、彼女にはフィアンセの三橋達也がいて、彼との結婚を熱望しているが、仕事とのバランスからなかなかそれが果たせない。彼は彼で立身出世のための結婚を重役から勧められて、茉莉子さんとの結婚に及び腰だ。ここに彼女のストレスの根源がある。
 茉莉子さんの妹・桑野みゆきも尻軽で彼女の世話に手こずり、面倒を見ているかつての不良少年で、今では更正のため働く宗方勝巳。この子はこの子で、茉莉子さんに勘違いの恋をして、それが叶わぬと知ると真っ逆さま。さらにストレスの多い茉莉子さんである。

 非情に入り組んだ人間関係を、実に手際よくドラマ化していて、確かにこの頃の日本映画の底力を感じる。ライティングをあれこれ変えたりする、五所平之助的な表現主義表現はどこか鼻につかぬでもないけれど。
 しかし、母親とは違う生き方をしているつもりなのに、結局は母親と同じ行動に出ようとしてしまう、茉莉子さんの「こんなバカな」的な苦悩がすばらしい。演技もすごいが、そのように持って行くシナリオが実に巧みだ。

 ここでの茉莉子さんは、女の強さを強さとして生かしきれず、「男社会」がどれだけ「女」の芽を摘んでしまうか、その悲劇の主体を一身に表現している。戦後日本は、なるほど「機会」は創出した。が、「意識」そのものがまるでかわっていないので、女の受難は続く。
 こうしたありようを含め、男性主体の日本を、吉田喜重監督は一連の「女性」のドラマで糾弾したのだな、と興味深く観る。
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写真:ポレポレ東中野から、大通りの方に出て商店街に入り徒歩3分くらいの所に、どういう偶然か「茉莉」という中華がある。3年前の吉田特集の時に発見。昼食に今日もここでラーメンを食べる(550円)撮影:Incidents

『今年の恋』(木下恵介/1962/松竹)
 どこかぎくしゃくしているのは相変わらずだけど、普通に楽しめる木下コメディ。

 和食屋の娘の茉莉子さんだが、思春期の弟のできが悪くて、いつもやきもきさせられている。弟のできが悪いのは、友達が悪いからだと思い込んでいる。その弟の友達が田村正和。まだ19歳でとても笑える。
 その田村正和の大学生の兄・吉田輝雄は、こっちはこっちで弟の出来が悪くて引きずりまわされている。その吉田輝雄と茉莉子さんがいつしか恋仲になる…までの物語。

 ダイアログの多い木下シナリオだが、ここでも丁々発止の会話のやりとりが笑わせる。滑舌のいい茉莉子さんのここは本領発揮。弟の処遇をめぐって、基本的にどうでもいいと思っている母・浪花千栄子と、もっとどうでもいいと思っている父・三遊亭円遊に向かって、くどくど文句をぶちまけるあたり、爆笑の連続。
 あれほど悲劇のヒロインを見事に演じるのに、コメディエンヌとしてこれほどうまい女優って、世界を見まわしてもちょっといないのではないか。

『女舞』(大庭秀雄/1961/松竹)
 今日最大の収穫。というより、これは途方もない傑作で瞠目する。『離愁』もすごかったが、ちょっと大庭秀雄を集中して観なければ、という思いに掻き立てられる。
 じっくり対象を見つめる余裕あるカメラ。場面転換の妙、しかもトーンをがらりと変えてくるので、時間の推移さえもわかる。ナレーションと字幕の絶妙な使い分け。
 そのいちいちが、ものすごく的確で、映画のプロの仕事を堪能できる。

 ここで茉莉子さんは、日本舞踊の家元。芸を深めるために、天才能楽師・佐田啓二の教えを請うが、天才故に破滅的な性格。しかしそんな佐田啓二に恋心を寄せてしまい、同時に芸の限界にも直面する。

 茉莉子さんの迫力ある舞を心ゆくまで観ることができる。恋する相手に会いたくて会えぬ、メロドラマの王道ど真ん中を行く。
 この映画はだから、女優としてやりがいのある仕事だったろう。実際すごい見ごたえで、「終」のマークが出た時、劇場から一斉に拍手があがった。

『女舞』終映後、茉莉子さんのトーク。
 この映画は大好きな作品で…と語り始める。
 まあでも、今から見ますとまだまだヘタですね。今だったらもう少し、うまく踊れるとは思うのですが…と苦笑する茉莉子さん。

 今でこそ、こうして大勢の人の前で話していますので、考えられないかもしれませんが、私はずっと人見知りの激しい、引っ込み思案でした…と、『女優 岡田茉莉子』のエピソードを独演なさる。

 今回もやはり聞きほれる。戦時中の子ども時代を経て、やがて東宝でデビューしたこと。東宝をやめ、フリーとなり、松竹専属となったが、やがて結婚。吉田喜重監督とともに松竹をやめたと思うと、木下監督まで辞めたと聞いて驚いたこと。
 そして、現代映画社を設立。いよいよ新しい道を歩み始める…。ここまでをたっぷりと聞かせてもらったところで、ここから先はまたの機会に、ということとなった。

 本には書かれていなかった言葉として、今日もっとも印象的だったもの。それは、
「私は、吉田が求めてくれるような女優、吉田が使ってくれるような女優になりたいと願ったのです」だった。
 もちろん劇場の最後列には吉田喜重監督の姿も、いつも通りにあった。

 考えてみれば、東宝、松竹の大スターとして、最高のメロドラマ女優から、最高のコメディエンヌまでを演じ分け、日本舞踊の達人としても舞い、その後に世界映画の最先端として『エロス+虐殺』、『煉獄エロイカ』までをも表現しきって、その合間に舞台とテレビの仕事をこなす。
 確かにこんな女優は世界レベルで見てもいないはずだ。


2009/11/7

『パリ・オペラ座のすべて』,『空気人形』,『ワイルド・スピードMAX』  映画

 フレデリック・ワイズマン『パリ・オペラ座のすべて』
 普通の発想では、オペラ座の記録を伝えようと思ったら、しかるべきステージの本番に向けて、少しづつ舞台が出来上がっていき、クライマックスは輝かしい本番。エンディングは満場の拍手へというのが本道だろう。
 『THIS IS IT』は、その肝心の本番が失われた点で、さまざまな想いをかきたてられたわけだが。

 ワイズマンはしかしどこまでもワイズマンで、そうした本番さえもがその日常であって、それ自体は頂点でもなんでもないかのように記録する。リハーサルとステージの繰り返しという、それこそがダンサーたちの人生であることが浮き彫られる。
 その意味で、印象的だったのは終盤におかれた、まだうら若い女性ダンサーが、舞台へと大抜擢されて無邪気に喜びつつも、コーチに大丈夫か、と諭されるシーンだった。
 抜擢そのものは、彼女において1つのピークかもしれないが、オペラ座としては日常だ。
 リハでは未完成の振り付けが、本番舞台では寸分の狂いなく演じられる。そこに気付くと、ダンサーの中では、常に静かなクライマックスが繰り返されているのを実感できる。

 映画自体はアンチクライマックスに進むが、ものすごく小さな爆発が画面の中の人物のそこここに起こっている。これこそ、ドキュメンタリーの知性そのものか。
 160分、まったく飽きずに眼が釘付けになる。
 
 是枝裕和『空気人形』
 申し訳ないけど、これはまったく受け付けられない。画面や編集が磨き抜かれていることは十分わかるつもりだが、ことごとく意味不明。
 どうしてもペ・ドゥナが美人だと思えないし。で、この顔を好きになれなければ、この映画も好きになれないという、そういうタイプの作品だとも思うのでご容赦。

 ジャスティン・リン『ワイルド・スピードMAX』
 このシリーズも4本目だが、観る前の期待感と鑑賞後の満足感が、実にほどほどでいい。この程度には楽しませてもらえるだろうという、その「程度」が本当に適度なのだ。

 番外編的だった3作目をスキップして、ヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーらのオリジナルメンバーがそろったのが今回の売り。
 面倒な説明は省くが、ディーゼルの恋人が殺された。その黒幕は麻薬組織の大ボスだ。 その黒幕が、腕のいい運び屋を探すためにレースをする。FBI会議室でそこまでの説明がされるのだが、仏頂面で聞いていた捜査官ポール・ウォーカーが、それに興味を示してくる。
 レースに勝てば組織に近づける。潜入捜査のために、よし、お前レースに出ろ、とウォーカーが上司に指名を受けて思わずガッツポーズ。
 このあたりがものすごくよくて、ここから映画そのものも走りだす。

 実際にレース会場に出向くと、FBIのお尋ねものにして元親友のヴィン・ディーゼルも参加している。雇われるのは勝者だけだ。ディーゼルも恋人を殺した奴に接近しようと真剣である。ディーゼルとウォーカーのドライビング・テクニックは五分五分だ。

 設定の興味さえがっちり引きつけておけば、あとは派手にやってくれれば大いに満足。ウィークエンド・ムーヴィーとして文句なし。

2009/11/6

岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』  

 岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)読了

「早く読んでもしかたありませんから。どうかゆっくりと読んでいただきたい。」(by蓮實重彦)
「とっても長い本ですから。どうぞ、ゆっくりお読みになって…。」(by岡田茉莉子(直接私におかけいただいた言葉))

 著者自身の談によると、自身で万年筆を使って原稿用紙に書いた原稿を、吉田喜重がワープロに起こしたという。そしてその校正チェックは蓮實重彦である。
 
 最高の映画監督と、最高の映画評論家を丁稚に使って、最高の映画女優が書き下ろした自叙伝。最高の書物にならぬわけがない。
 全586ページ、すべてのページにわたって忘れ難き記述に満ち溢れている。途方もない密度であるが、その密度を可能とした、というよりもその密度を必要とするだけの密度で人生を歩んできたのである。
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写真:茉莉子さんから直接お手渡しいただいた「しおり」と純金ストラップ。撮影:Incidents

 なるほどこの本は、確かにオーバーセンチメンタルでないところがいい。しかし、淡々とつづられてはいるが、この書物にはいかに多くの「死」と「別れ」があることか。
 著者の育ての親であった、母上の妹である「お姉ちゃん」。そして、舞台裏で常に共にあった実の母。それに、夫である吉田喜重の父親といった肉親はもちろんであるが、「岡田茉莉子」の名づけの親である谷崎潤一郎、デビュー作『舞姫』の原作者、川端康成。
 最多共演者の佐田啓二、高峰三枝子、鶴田浩二、そして小津安二郎…。
 
 何より、この書物に一貫して漂うのは、1歳の時に病で亡くなった、サイレント期小津のスクリーンを彩った父、岡田時彦。そして、その全盛期を大スターとして過ごし、その衰退を一身に経験した「映画」というものの死。

 このおびただしい、死と喪失が繰り返される中で、著者が「涙」を流したことを直接的に記したのは、ただの3回である。その3回がどんな内訳かを書くのは、未読の方に向けて失礼だから避けておく。ただ、そのうちの2回は「死」に対して向けられたものではない、ということだけ明かしておきたい。

 感傷過多でないとはどういうことか。それは、その現実を前に決して取り乱さぬ、まっすぐ対象と向き合う意思の力である。これこそ、150〜180本から演じて来た「岡田茉莉子」の典型的な姿ではないか。
 本書の中で、著者はたびたび、「岡田茉莉子」が「岡田茉莉子」を演じるということ、それが映画女優であり、映画スターである、と記す。
そして、この本の著者である「岡田茉莉子」も「岡田茉莉子」を書いているのだ。

 なお、著者が感傷過多でないことは真の美徳に通じるが、その読者が感傷にまみれるのはきっと許されるだろう。
 いくども落涙しそうになるこの書物の中で、私にとって一番の号泣ポイントはここだった。引用の域を超えるほど長いが、引いておく。
 ここには、「演技」があって、描写された「映像」がある。だから「映画」である。「夫婦」のあるべき姿があって、しかも岡田茉莉子の人格と、それ以上に吉田喜重の人格が滲み出ている。深い知性と人間性のみが出会い、そして為せる一連のイメージが、この上なく美しい文章でによって描写されている。

「それは死者の都からの帰路、対岸のルクソールの街へと渡る小舟を待っているとき、私たちがベンチに座り、いま陽の傾きかけている砂漠を遠く眺めていると、幼い男の子と女の子が、私たちの前に現れたのである。
 幼いふたりは、兄と妹のように見えた。兄は五、六歳、妹は三、四歳だろうか。そして兄のほうは、幼い子羊を両手に抱いており、妹は私たちにしきりに手を差しのべてくる。吉田が小銭を出して手渡すと、兄のほうはお礼のしるしなのだろうか、手にした子羊を夫に抱かせようとする。「それをいただいても、もって帰れないわ」と私はつぶやいたのだが、夫は子羊を受け取ってしまった。
 幼い兄妹は、立ちさってゆく。夕陽を浴びて黄金色に輝く麦畑のなかを去ってゆく、それを見送っていた吉田は、ベンチより立ち上がり、抱いていた子羊を放してやった。その子羊はなにも迷わずに、遠ざかる幼い兄妹を追うようにして小走りに走ってゆく。やがて振りかえった兄妹は、ふたりを追ってゆく子羊を待つようにしてたたずんている。そして幼い妹が足元に走りよる子羊を胸に抱くと、ふたりは彼方へと去ってゆく。
 すべてが物乞いするために、仕組まれていたのだろう。だが幼い子供たちの、なんと素晴らしい、なんと美しいお芝居であったことだろうか。ひととき風が吹きわたり、麦の穂が波打って、いっそう黄金色に輝きわたると、西の砂漠に陽が沈もうとしていた。
 「神さまが、いま通ったみたい」と、私は思わずつぶやいた。夫も深くうなずくと、「神がなせる業だ」という。たしかにそれは神の演技としか言いようのないものだった。そして、遠く彼方に去ってゆく幼い兄妹は、天使だったのだろうか。」
(第15章 「神さまの演技」より)

2009/11/4

回顧上映「女優 岡田茉莉子」 その4  映画

 朝っぱらからレヴィ・ストロースの訃報にひどく驚くが、亡くなった人のことを偲んでいる場合ではない。今日は仕事を休んで東中野に走る。今日は、茉莉子さんの松竹もの4本。
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写真:ポレポレ東中野。いい天気。まさに「秋日和」。映画日和である。撮影Incidents
『霧ある情事』(渋谷実/1958/松竹)
 葬儀で始まるこの映画、ゆっくりとトラックバックで式場に入って行こうとするカメラの左右に花輪の列。いきなり松竹アグファカラーの色彩が目を射る。続いて加藤大介の裸の背中に彫られた鮮やかな刺青の色彩。なるほど、カラーはいい。

 この葬儀は加藤大介の本妻のもの。茉莉子さんはその妾を演じる。ときどき茉莉子さんは、自分で自分の運命を決める術がなく、そのことの悔しさに歯噛みする「女」を演じる。これはその最たるもの。
 加藤大介のドラ息子・三上信一郎を、その育ちの鬱屈から誤って刺してしまった津川雅彦と、茉莉子さんとの逃避行。

 前半はコメディタッチだが、それはひとえに茉莉子さんの不機嫌演技が、面白いからだ。後半からどんどん悲劇色を強め、逃避行中の旅館やら、2人が結ばれる馬小屋やらのセットが絶妙で、なるほどこの頃の「日本映画」の技術力は確かにすごい。

『離愁』(大庭秀雄/1960/松竹)
 茉莉子さんのエメラルド色の服が、とにかく眼に刺激的で、松竹イーストマンカラーの色彩がすごくいい。
 この作品が今日最大の収穫。まさにメロドラマの究極。今では幸せな結婚生活を営んでいるはずの茉莉子さんだが、姪にあたる桑野みゆきの失恋旅行で、彼女を助けた男性、佐田啓二は結婚前の茉莉子さんが恋した男。偶然の再会に2人の感情が火花を散らす。
 
 茉莉子さんの洋装があまりに美しくて、上映中何度もうっかり声をあげてしまう。ことに回想シーン、女学生時代の茉莉子さんが、輝く日光を浴びて微笑むシーンなど絶品。

 「女優」を撮るとはこういうことなのだろうか。恋への歓喜に身を震わせる表情。かなわぬ恋に身をしのび独り泣く姿。嘘をつく仕草。本当を告げて「しまった」と思う感情の瞬間の変遷。あらゆる「女」のコレクションがこの映画にあるような気がして、従っていろんな茉莉子さんを見ることがでいる。
 吉田作品以外の「岡田茉莉子」も、もちろん「岡田茉莉子」なのだ。

 上映直後、劇場の方が「実は岡田茉莉子さんが会場にいらっしゃいます」とアナウンスし、その声とほとんど同時に、少し小走りに後ろの方から茉莉子さんが前にやってくる。
 小走りのその様子。何だ、たった今スクリーンで見たのと、ほとんどお変わりがないじゃないか、と感激。

「今日はサイン会がありまして、すぐこの後、サイン会なんですけど…わたし、ついこの作品、見ちゃいました。
 昔はこんな映画がたくさんあったんです!

 これだけ。「こんな映画がたくさんあった」きっと本当にその通りなんだろうなと、いつもながらに的確な、茉莉子さんの言葉の選択に胸打たれる。

 ロビーにあつらえたデスクでサイン会が始まり、2冊目の『女優 岡田茉莉子』にサインを頂戴したく、順番が回ってくると、私の顔を見て茉莉子さん、にっこり笑って
「どうも、お待たせいたしました。ほんとうに何度も来てくださって…。」

 おお、、、。これはもう言葉など出てこない。感激のあまり何も言えなかった。
 何も言えなかったので、もう1度並び直し、別に持参していた、『24時間の情事』のヒロイン、エマニュエル・リヴァの写真集『HIROSHIMA 1958』(港千尋/マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセル編 インスクリプト)にサインをおねだりする。
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写真:エマニュエル・リヴァ写真『HIROSIMA1958』のカバー折り返しに頂いた、岡田茉莉子さんのサイン。撮影:Incidents
なぜこの本なのか。それは『女優 岡田茉莉子』P.572を参照。


「本当に何度もすみません。このご本にご署名をいただくのは失礼でしょうか?」と、本を差し出すと、「まあ、リヴァさんの?」と快くサインをくださる茉莉子さん。

『女の坂』(吉村公三郎/1960/松竹)
 ここでは京都の老舗のお菓子屋の養女となった、若おかみを演じる茉莉子さん。芸者のデッサンをとりにきたんだとやって来る版画家が佐田啓二。次第に彼に惹かれていく茉莉子さん。が、彼は茉莉子さんの母親、乙羽信子が昔恋した男性だった。

 これは茉莉子さんの「乗り物編」とも言うべき作品か。自転車に乗り、車を運転し、船に乗り、電車に乗る。
 ここでも茉莉子さんのかわいらしさに、胸をかき乱され、どのショットもスチールにして、デスクに飾っておきたいものだと思ったのだが、よく見ていると、「あ、その表情最高!」と思った瞬間、その次の表情がまたもっとよかったりもし、次々とそれが動いていく。
 この方の演技はまったく、動きそのものなのだとつくづく思った。

『春の夢』(木下恵介/1960/松竹)
 茉莉子さん初の木下作品。助監督に吉田喜重だそうだが、クレジットにはまだその名はない。ちなみにこの年、『ろくでなし』で吉田喜重の監督デビューである。
 
 ときどき木下作品というのは、ピントがはずれているような気がするのだが、これもその最たるもので、人間がやや戯画化されすぎ。
 『永遠の夫』や『破れ太鼓』などが極端な例だが、音楽がそもそもヘン。それをしかし、集団劇の勢いであれよあれよと見せてしまうのが、ベテランたる所以か。
 
 集団劇なので、茉莉子さんの出番は決して多くない。が、ファンとしてのひいき目を抜きにしても、彼女が登場すると画面が躍動する。いわゆる松竹オールスターキャストのこの作品の中で、ずば抜けてセリフの歯切れがいい。とにかく気持ちのいい声なのだ。
 
 ちなみにサルトルかぶれの、変人の弟を演じる川津祐介が笑える。「ぼくもいっしょに戦うんです!」とか言いながら、日の丸の旗を持ち出して、労働デモに参加しようとする彼に、祖母役の東山千栄子があきれ顔で、「あんた、赤旗の中にその旗、持ってくってのかい?」といったあたり、大爆笑。

2009/11/3

『谷中暮色』  映画

舩橋敦『谷中暮色』
 こんな深みある作品を作れてしまう人がいるのかと嘆息。
 東京下町の谷中という街にあった、五重塔にまつわる記憶と、1957年に焼失したというその塔が炎上するフィルムを探すという若者の物語だと、とりあえずまとめておく。
 
 それだけを考えるなら、小さな街が舞台のローカルな映画、と思えてしまう。
 けれど、「暮色」という言葉ひとつで小津を連想し、失われた幻のフィルムを求めるというモチーフに、アンゲロプロスをイメージしない者はいないだろう。

 そして、シンボルとしてそこにあったはずの「塔」が、もう今はないという感覚。そこに注目すると、舩橋監督が10年間ニューヨークに住んだという、経歴を別としても、かの街にかつてあり、9月11日に消失した「双子の塔」のことを思い出さずにいるのは難しい。
 このことを私は断言してもいいのだが、今のところ、かつて「双子の塔」があったはずの空間を「見上げる視線」、というものをとらえた映画は、まだ撮られていないはずだ。

 断っておくと、グランドゼロそのものは、もちろん無数に撮られている。私がここで指しているのは、虚空を見上げる視線のことだ。ここに「双子の塔」が確かにあった、という感情をこめて空を見上げる人物の映像というのは、いまだ撮られていない。
 しかし『谷中暮色』は、かつてそこにあったはずの五重塔に思いを巡らせ、その空間を見上げる視線を、ばっちりとそしてこれ以上はないほどの構図とアングルと、その見上げる人物の表情で抑えて見せる。車椅子の老人のことである。
 「双子の塔」がすでにない虚空に向ける視線を、日本人が撮るようなことがあってはならない(ような気がする)が、それは撮られるべきではないのか、という批評的映像は撮ってもいいのではないか。そんな映像を、私自身は『谷中暮色』の中に見た。

 ここにおいて『谷中暮色』は、街と建造物と時間とが織りなす視線のページェントを、この一本の中に包含することに成功する。
 そして『谷中暮色』の若者たちが暗闇に見る映像は、デジタル機材で手軽に撮られたものでなく、8ミリフィルムなのだ。
 この作品には、いったいどれだけの時間と記憶の封じ込めがあるのだろうか。

 自転車をすべらせるように走らせるヒロイン、佐藤麻優を追いかける移動カメラに、ほとんど完璧なタイミングで、左側からフレームインする野村勇貴の走り。
 こうしたショットは私の映画的性感帯ともいうべき運動で、ぞくりとさせられるのだが、この映画には運動があり、停止があり、消滅がある。
 運動を担うのが若者たちで、停止を担うのが老人たちなどと、手軽に分類できるものでないところがまたよくて、いつだって忙しそうにせかせかと動き回っている、谷中のお墓を守っている盲目のおばあさんというのが、また存在感を極めている。

 この人は眼が不自由なので、五重塔があったはずの場所を、想いを馳せつつ見上げるなどということはない。けれど、身体そのものが時間であり記憶であるこの人は、眼が見えないことに(客観的には)なんの不自由も感じさせずに、お墓の手入れをし、かつ墓地の地理など完全に把握しているのだ。

 こうした映画を撮ってしまう人こそ、真実の芸術家と呼びたい。

2009/11/2

回顧上映「女優 岡田茉莉子」 その3  映画

 3日目…といきたいが、さすがに無理。そこで、初日『やくざ囃子』上映後の蓮實重彦トークを簡単に記しておく。
知人も多くいたし、私ひとりがこうしたことを書くのも、どこかはしたない思いがあるのだけど、備忘も兼ねて。

 御大の『女優 岡田茉莉子』からの最初の引用は、1985年、大阪は梅田のコマ劇場で、鶴田浩二と『花の生涯』を上演した個所についてだった。
 この上演の直前に、岡田さんが慕っていた「お姉ちゃん」が亡くなっているという言葉を添えつつ、1966年から岡田さんは芝居の仕事も始めているが、その楽屋にはだいたいお母さんも来ていらっしゃる、という解説も交える。
 その時もお母さんが来ていたが、その楽屋に鶴田さんが入ってくる。その時、鶴田さんは、岡田さんにでなく、お母さんに対して「「お嬢さん」は本当に芝居がうまくなりましたね」とおっしゃる。
 御大は本書を、チェックのために校正のゲラ刷りで読んでいたのだというが、それまでは「仕事」として読んでいたのですが、「そこでいきなり嗚咽です。」と、この場面で号泣したことを白状する。

 なぜ、ここでそんなに泣けたのか。そこにはまず「斜めの視線」がある。ここで視線は交錯していない。岡田さんに向けた言葉を、岡田さんにでなく、お母さんに対して言っている。ここには、31年前の『やくざ囃子』への時間的な距離も、浮かび上がっていると。
 
 鶴田さんによる、「振り返るところがいいな」という言葉。これは、こんな人と演れて、本当によかった、という鶴田さんの岡田さんに対する「ありがとう」だと思う。
 プロフェッショナル同士の、嫉妬に近いものを感じた、と告白する御大。

 もちろん鶴田さんは、その2年後に亡くなるのだが、本にはそうした感傷的な言葉がまったく書かれていない。そこには「運動の記録」だけがある。岡田さんのその「振り返り」方において、日本舞踊を身につけている岡田さんだからこそ、「これはすごい」と鶴田浩二も思わざるを得なかったのではないか。
 
 センチメンタルがまったくない…。これはどのように評価すればよいのか。これまで自分は、俳優というのはいったい何なのか、これを突き詰めて理論化したことがない。そんな人間が、「女優 岡田茉莉子」をどう受け止めるべきかが、ますますわからなくなったのです、と話を続ける御大。

 このあたりから、客席におられた茉莉子さんも呼んで、2人の対談になる。ご本人を前に、鶴田さんはじめ、俳優たちから賛辞を受けるというのは、どうでしょう、悪い気はしないのではないですか? という御大の言葉に、「それはもう…とってもうれしいです」とチャーミングに答える茉莉子さん。

 御大にとって、茉莉子さんの記憶は、1本の予告編だったのだそうだ。その予告編を見て、とにかくこれは見なきゃいけないと。その周辺で岡田さんの映画を何本も見ることになったが、その映画というのは『坊ちゃん』(1953 丸山誠司)でした。とにかく、この中のマドンナの可愛らしさって、これはない! と熱心に語る。
 また、自分が一番、岡田さんらしいなあと思うのは、中村登作品であるということも。

 センチメンタルがまったくないのがいい、と言いながら、実は本人が一番感傷的になっている様子ありありなのが、どこか可笑しい。
 ところで、御大は吉田喜重監督が、岡田さん主演による『残菊物語』を断ったことが、日本映画の一種の不条理に思えてならないと。
 しかし、ここは今からでも吉田/岡田でぜひ撮っていただきたいがどうでしょうか、と無茶ぶりをする御大に、やはり客席に座っている吉田監督に「どうですか?」と問いかける茉莉子さん。

 ここで、内容的には吉田監督に向けた言葉なのに、茉莉子さんに対して質問をする御大。しかしそれを茉莉子さんが答えるのでなく、さらに監督へと回答を促す茉莉子さんと、何とここに2重の「斜めの視線」が交わされたことに、私は深く感動する
 しかし、いつものように、新作話となると決まってする仕草、寡黙に顔の前で手を横に振る巨匠が、その「斜めの視線」を一身に回収してしまう。
 今日のトークのここが白眉だったろう。

 最後に御大は、かえてよりダニエル・シュミットが、イングリッド・カーフェンに、(『ラ・パロマ』の中で)黄色いバラを贈っていたのを真似て、ぜひやってみたかったと言いつつ、「私の花をお受け取りいただけましょうか?」と黄色いバラの花束を茉莉子さんに手渡す。
 大喝采のうちにトークは終了。

2009/11/1

回顧上映「女優 岡田茉莉子」 その2  映画

 ポレポレ東中野「自伝刊行記念 回顧上映『女優 岡田茉莉子』」。2日目。

 昨日の蓮實御大トークで、「この場に2人の映画作家がいるのですが…」と紹介され、その手が指す方向の座席には、吉田喜重監督が座っており、その隣には、舩橋敦監督がいた。
 御大に煽られ、舩橋監督はちょうど初日を迎えた自作が、モーニングショーで3週間上映なので、こちらに来る前に是非足を運んでほしいといった、コメントを述べておられた。

 私はたいへん正直なので、その言葉通り11時からの舩橋敦監督『谷中暮色』を見る。大感激するが、それはまた後日。
 昨日に続き、ばったり『谷中暮色』劇場でお会いした、こちらもバカ正直な盟友Hさんと、彼が連れられていた美女と昼食後、私は東中野に走る。
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写真:ポレポレ東中野階段付近。この狭い空間にいると、ピラミッドパワーならぬ、茉莉子パワーに鼓舞される。撮影:Incidents
(この写真の掲載が不適切なら御指摘ください。直ちに削除します)


『舞姫』(成瀬巳喜男/1951/東宝/白黒)
 岡田茉莉子さんのデビュー作。
 本作は初見ではないが、昨日の御大がふと発した「斜めの視線」というのが、どこか心に残っていて、そちらにどうも気がとられる。
 もともと「斜めの視線」というのは成瀬の表現の粋であろう。ただ正直、他作品との比較で、この「斜めの視線」を語れるほど、私は成瀬作品を十分に咀嚼している自信がない。
 が、『舞姫』の人たちはそろいもそろって、斜めの角度で会話を交わす。なぜか。全員が互いに対して後ろめたいからだ。

 『舞姫』の会話における、カメラポジションや構図の妙は、かなりの議論があると認識しているが、この斜めの視線だらけの中で、対話の相手に面と向かって会話ができる人物が、この映画ではたった1人だけいる。
 それがもちろん茉莉子さんだ。

 高峰三枝子と山村聡の、愛憎半ばする夫婦の相互不倫劇の中で、長女を演じる茉莉子さんだが、茉莉子さんはラストの東京駅シーンにおいて、母の決意を伝える手紙を二本柳宏に手渡す。
 この場面で茉莉子さんは、はっきり正面きって二本柳宏と相対する。ここで全編を彩った「斜めの視線」は氷解し、その立ち姿こそがその後に控える、高峰三枝子と山村聡が真っ向から向かい合うラストショットを導いているというのは、言いすぎだろうか。

 ところで、茉莉子さんの銀幕初の登場シーンは、高峰三枝子との喫茶店シーンである。
 高峰の待つテーブルに颯爽と登場する茉莉子さんは、着席するなりハンケチを取り出し、両首筋の汗を実に上品に拭いとる。
 細かい部分だが、こうした清楚な物腰が、洋の東西を問わず、「女優」から決定的に失われた所作だろう。

 さて、上映後は岡田茉莉子さんのトーク。

 舞台中央に置かれた椅子に、足を組んでお座りになった茉莉子さんは、自伝の前に、まずご覧いただいたばかりの『舞姫』のことから…、とお話を始める。

 そこから約30分強をお話になられた茉莉子さんの言葉は、これはどのような音楽にも増して音楽的な、まさに旋律を伴う語りである。メモもとらず、ただただ聴きほれるのみ。今、自分は歴史的なライブに立ち会っているのだという陶酔が、おそらく場内に共通する感情だったはずだ。

 基本的には、『女優 岡田茉莉子』にも書かれた逸話を、改めてご自身の言葉で再構成して、お話になる。
 茉莉子さんが、当時の高峰三枝子を演じ、成瀬巳喜男を演じ、木村功を演じる。絶妙の“間”と声色を伴って、撮影の現場を再現なさる。

 朋輩・西田博至氏だったか、『女優 岡田茉莉子』の朗読会とかないかなあ、と嘆息をもらしておられたが、彼の嫉妬を煽るならば、今日のトークはまさに『女優 岡田茉莉子』の朗読会ならぬ、再現会の様相を呈した。

 『女優 岡田茉莉子』では、触れられていないエピソードもいくつか。
 高峰三枝子との初対面、それは茉莉子さんの映画初登場シーンでもあるのだが、『舞姫』の喫茶店シーンだった。大先輩・高峰三枝子に挨拶し、それに続く大先輩との会話。
 「あなた、立ってごらんなさい」
 「はい」
 「あなた、どんな靴はいてるの? あら、もっと低い靴にしてくださいね」
 「はい」
 ここで、小道具さんに頼んでもっと踵の低い靴に変えてもらったというエピソード。

 あるいは、初めての木村功との演技。
 経験豊かな木村功が、NGを連発したという。そのセリフは「先生が忘れられないの?」だった。
 木村さんは、「ら行」を話すのが苦手で、これがどうしてもうまく言えなかった。俳優というのは大変だなあと思った場面であったと。

 そして白眉は『女優 岡田茉莉子』を書くことになったきっかけとして、
 吉田喜重監督に、「もうそろそろ、回顧してもいいんじゃないの?」と言われたと。
 やはり客席に座っておられた、吉田監督を紹介して終演。

 とにかく、ここで文字にするのも無粋な、「女優」の語りのすばらしさ、そのご経験の豊かさに、酔いに酔いしれる。CDなどが是非販売されるべきだ。約40分の得難いトーク。

2009/10/31

回顧上映「女優 岡田茉莉子」  映画

 ポレポレ東中野「自伝刊行記念 回顧上映『女優 岡田茉莉子』」。
 13時から駆け込むことに成功。「映画」に浸り切ることの、何とも知れぬ悦びに陶酔。私はとにかく岡田茉莉子さんに心酔している。

 『ひとり寝る夜の小夏』(青柳信雄/1955/東宝/白黒)
 ここでの茉莉子さんは、自分の運命はひたすら他人に委ねるしかない元芸者。身請けされ、愛してくれた「パパさん」に先立たれ、譲られたアパートで孤独をかこう茉莉子さん。
 その秘書だった森繁久彌は何かと世話は焼いてくれるが、生活を引き受けてくれるほどの甲斐性はなく、あまりに小市民である。
 そこを策を弄して、茉莉子さんを身請けるのが2代目社長の志村喬。その手引きをするのが、信用できるのかできないのかわからぬが、基本的には自分の役得しか考えていない、茉莉子さんの芸者時代の「おかあさん」杉村春子。

 基本的に見るべき点の多い映画ではない。が、着物姿の茉莉子さんの立ち姿に目が眩む。
 将来を案じ、故郷・熱海に帰り、ふと母校の小学校を訪れる茉莉子さんが、ブランコのそばで立つ時の膝の曲げ具合に落涙。ここで高鳴るフルオーケストラの「うさぎ追いし あの山…♪」の通俗的なメロディも効果的。このとき茉莉子さん、22歳。

 『やくざ囃子』(マキノ雅弘/1954/東宝/白黒)
 足の悪い妹・茉莉子さんの治療費を稼ごうと、やくざ稼業に身を落とした河津清三郎。その茉莉子さんと相思相愛になる、流れ者のやくざが鶴田浩二。
 この映画は2007年のシネマヴェーラで、当の茉莉子さんの真後ろの座席で見たという果報は以前にも書いたが、さすがにマキノは一味違う。
 「好きよ、好きだわ、好きです」の永遠の反復を続ける茉莉子さんと男・鶴田の、こんなシーンを撮れるのはジャン・ルノワールしかあり得ぬ、森の中の輪舞。
 凄惨な斬り合いの中、「嫁にくれ」「なんねぇ」と果てなく続く、河津+鶴田の押し問答。
 
 冷静に考えると、「びっこ」という設定の茉莉子さんが、森の中でかくも優雅に動けるはずがない。しかし茉莉子さんの「好きよ」「好きよ」の声があまりにも涼しく、音楽的なので全てが忘れられる。このとき茉莉子さん21歳。
 あり得ぬすべてのファンタジーをリアリズムに変える、マキノマジックの頂点。

 ここで、蓮實御大によるトーク。詳細はまた後日。
 もちろん客席には茉莉子さんご本人と吉田監督もいて、トークの後半は蓮實重彦+岡田茉莉子対談となる。これも詳細は後日に。
 トーク後に、思いがけず茉莉子さんによるサイン会になだれこむ。

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(写真:岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)と、本上映会のフリーパス。通し番号は17。撮影Incidents)

 当然ながら持参した新刊、『女優 岡田茉莉子』にご署名を頂戴する。
 「まだ半分までしか読んでいませんが、あまりにもすばらしいので、実家の母と義理の母、そして自分のと、3冊買わせていただきました」と、無礼にもお声かけする。
 すると、「それはそれは…。長い本ですから、どうぞゆっくりお読みになって…」とのお言葉を茉莉子さんから頂戴する。死んでもいい。

 『旅路』(稲垣浩/1955/東宝/白黒)
 やくざ渡世の夫と息子との3人、逃亡生活の茉莉子さん。義理と人情の偶然で池部良に窮地を救われるが、夫の命は救えなかった。妻と子を守ってくれという遺言から、池部良との3人の旅が始まる悲恋旅。
 ここでの茉莉子さんは、目の表現がすばらしい。基本的に私は茉莉子さんを声の女優と認識しているが、その大きな眼を使いこなす時はさらにすごくなる。

 じっと相手を見つめる眼は、ときどきふと下に沈むわけだが、その沈ませ方のタイミングが絶妙。私は茉莉子さんの眉間の皺に萌えっぱなしなのだが、目を伏せるときその皺がつと消えてしまう。その変化が美しすぎる。このとき茉莉子さん23歳。

 『山鳩』(丸山誠治/1957/東宝/白黒)
 これはすごい。マキノは別格としても、本日最強の一作。茉莉子さんのかわいらしさが炸裂している。快晴の太陽の下、天真爛漫に笑顔を見せる茉莉子さんのアップに、幾度も声をあげてしまう。陽光あふれる林の道を、スキップする茉莉子さんのシルエットに悩殺。
 そして茉莉子さんの魅力もさることながら、始めは森繁久彌と茉莉子さんの、ミニマルな会話劇かと思いきや、少しずつ登場人物が増え、次第にこの小さな村を舞台にした集団劇の装いさえ呈するようになる、映画の構成も絶妙。

 舞台は浅間山ふもとの落葉松沢(からまつざか)駅。そこでたった一人働く駅長、森繁久彌。彼の遊び相手は将棋の相手である、村唯一の旅館の番頭、田中春男。
 そんな或る晩、その仕事いやさに逃走して、電車に身を投げようとしたものの死に切れず、路頭に迷った娼婦、茉莉子さんがやってくる。
 成り行きで彼女に一晩の宿を与える森繁だが、やはり成り行き上、そのまま同居することに。年齢差30を越えて、結婚にまで至るが、元娼婦という感情的なしこりは残る。

 ここでの茉莉子さんは、陽と陰のギャップを見事に使い分ける。今日の蓮實御大の指摘にも出た、成瀬の感じる茉莉子さんの「よさ」と、小津の感じる茉莉子さんの「よさ」。その双方がミックスされたのが、『山鳩』ではないか。茉莉子さん24歳。この映画はいい。

2009/10/30

クリント・イーストウッド最新作“Invictus”予告編  映画

 そうこうするうちに、何とクリント・イーストウッド最新作“Invictus”の予告編が、解禁となっている。『チャンジリング』、『グラン・トリノ』の興奮冷めやらぬのに、もう新作ができあがってしまうのか。http://www.apple.com/trailers/wb/invictus/

 これで今年のアカデミー主演男優賞は、マット・デイモン当確か。それにしても、イーストウッドとしか言いようのないショットばかりで、驚いてしまう。

 でまかせめいた書きかたをするなら、車の中の2人の撮り方。運転席と助手席の人物を、どうカメラに収めるかというのは、イーストウッド作品を考えるのに、最重要の観点ではないかと改めて思う。それから、車中から外をみつめる人物と、窓の外の風景と。

 これも直感にすぎないけれど、“Invictus”の映像を見て、真っ先に『ハートブレイク・リッジ』を思い出す。これは根拠なし。

2009/10/29

『THIS IS IT』・・・映画館における拍手とは。  マイケル

 映画館で沸き起こる拍手というのは、誰に対して向けられるものだろう?
 『THIS IS IT』は地元近くのシネコンで観たのだったが、上映が終わった瞬間に、感極まったかのように満場の拍手が響き渡った。

 作品の関係者が客席の中にいることがわかっている、特別な上映では決して珍しくない。熱心なファンが集まる、都心での先行ANの機会でもしばしば起こることではある。
 けれど、ごく平凡なシネコンでの上映で、拍手喝采が巻き起こった経験なんてない。

 『THIS IS IT』終映直後の拍手は、誰か1人2人の熱狂的な拍手につられて、自然にそれが広まったものではなかった。劇場の全員が、ほぼ同時に示し合わせたように起こったものだったのだ。

 『THIS IS IT』の中心たる人物は、この場にいないどころか、この世にさえいない。
 では、この拍手はいったい誰に聞かせているのか。
 天国にいるマイケルに聞かせているのだ、といったセンチなことは言うまい。
 これははっきり、「私はこの映画に感動した!」という意思表示なのだ。
 感動しなかったなどという人がいたなら、その人たちの感情を抑圧する、「この映画は素晴らしかったのだ」という断固たる主張のあらわれである。

 そして、その場に関係者のいない、「映画」の上映で起こる拍手というのは、あまねくそれだろう。
 『THIS IS IT』において、その拍手はほぼ全員に共有されたものだった。
 幸福の中にも幸福な映画だと思う。
 これはケニー・オルテガの誠意あふれる仕事への賛辞であると同時に、マイケルへの最高の花束だろう。

 劇中でマイケルは言う。
「ファンの記憶の中にある演奏をしたい。最初のレコーディングで出した音でやるんだ」
 マイケルは、ここまでファンのためを考えた音作りを目指していた。
 マイケルの想いは私たちにしっかりと届いている。



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