(無題)  




2012/2/4

『J・エドガー』  映画

『J・エドガー』(クリント・イーストウッド)
(注:本稿は結末にあたる部分に触れています)

 上昇気流にのった、ディカプリオ演じる、後のFBI初代長官エドガー・フーバーが、若い衆を紹介されてがっちり握手するが、彼が去った後、その手をハンカチで拭いとる。
 その様子を見て、そういえばガス・ヴァン・サントの『ミルク』でも、ミルクとジェームズ・フランコ演じるその相棒が、初めて引っ越してきたサンフランシスコの街の、向かいの店主が彼と握手するはいいが、すぐさまその手をハンカチで拭くのだった。
 脚本はどちらも同じ、ダスティン・ランス・ブラック。

 エドガーはそのとき併せて、彼の服装にも一言するのだったが、彼はどこまでも身につけるものにこだわり、部下たちの服装チェックも厳しかった。身なりのことでは、部下の解雇さえ辞さない。それというのも、初めてしかるべき役職に就いた時、ジュディ・デンチ演じる母親に、ふさわしい服装をしなさい、と釘をさされているからだ。
 そんな母の影響がどれほど強いかということは、彼がしかるべきシーンで、その母親の衣服を身につけまですることで、存分に表現される。

 ハンカチの方に話を戻すと、生涯の(公私にわたる)パートナーとして、アーミー・ハマー演じるクライド・トルソンとの出逢いと、最後の朝食の場面はハンカチを通して、手と手を握りあう2人だった。そして、あまつさえその手が触れた、そのハンカチの残り香を深く吸い込みさえもする。

 そして、衣服にこだわったエドガーは、何も身につけていない姿で転がっているのを、発見されるのだ。脂肪がたっぷりついたその見苦しい裸身―今回のディカプリオは、その老けメイクがずいぶん喧伝されている節はあるが、一番すごいのはこのボディメイクではないだろうか―は、誰にも負けぬぱりっとしたスーツで覆い隠されていた。
 それこそまさに、表面とその裏の乖離の著しい、エドガーの人生、ひいては、彼が君臨した合衆国の姿そのものを象徴してはいまいか。

 若き日のエドガーが、ジェシカ・ヘクト演じるアナーキスト、エマ・ゴールドマンを国外追放に至らしめる裁判の場面で、その評決を与える後ろの窓の、はるか向こうには自由の女神が小さく映っている。ただし、焦点があわないのでぼんやりと、ちょうど“幽霊”のように。
 移民の国アメリカが、まさにその移民たちが、合衆国にやってきて最初に目にすることになる象徴としての自由の女神のおひざ元で、厳しく自由を制限する法案を行使している。

 この映画を見て受ける印象としては、エドガー・フーバーという人物は、大を生かすために小を殺すことをいとわぬ、典型的な人物だ。それを実行するために、徹底的に表と裏を使い分ける。
 その一貫として、この映画は、エドガーがこれまで功績としてきた、犯罪者逮捕歴を最後の最後にひっくり返し、すべてをメタフィクションの闇の中に葬ってしまう。
 この映画の中でもっとも胸のすく下りでもある、次々と凶悪なギャングたちに手錠をかけていくアクション・シーンをウソに塗り固めてしまうのだ。

 そうしたエドガーの生涯が、合衆国史上もっともうさんくさい大統領である、ニクソン政権の時に終わるのは実に不思議なものである。
 そんなニクソンの思惑を無と化すために、この映画の最後は、ナオミ・ワッツ演じる、生涯エドガーにつかえた秘書、ヘレン・ギャンディの作業シーンで終わる。
 彼女の姿で終わるのは他でもない、おそらくたぶん彼女ただ1人が、まったく裏も表もなく、素のままの人物として描かれているからだ。きっと彼女だけが、やましい所なく、何も恥じていない。それもこれもアイロニーである。

 ちなみに、エドガー・フーバーが死んだのは1972年5月。目の上のこぶがなくなったからかどうか、それは知る所ではないが、ニクソンが民主党委員会オフィスに盗聴器をしかけさせ、いわゆるウォーターゲート事件をしでかすのは、ついその翌月、6月のことだ。

2012/1/25

アンゲロプロスさん安らかに…  映画

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テオ・アンゲロプロス(1935―2012)
永遠にあなたの名作群と共に…。

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『第三の翼』(2009)

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『エレニの旅』(2004)

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『エレニの旅』(2004)

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『永遠と一日』(1998)

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『永遠と一日』(1998)

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『ユリシーズの瞳』(1995)

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『こうのとり、たちずさんで』(1991)

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『霧の中の風景』(1988)

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『霧の中の風景』(1988)

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『霧の中の風景』(1988)

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『霧の中の風景』(1988)

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『霧の中の風景』(1988)

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『霧の中の風景』(1988)

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『蜂の旅人』(1986)

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『シテール島への船出』(1984)

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『シテール島への船出』(1984)

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『アレクサンダー大王』(1980)

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『狩人』(1977)

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『旅芸人の記録』(1975)

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『旅芸人の記録』(1975)

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『旅芸人の記録』(1975)

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『旅芸人の記録』(1975)

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『1936年の日々』(1972)

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『再現』(1971)

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『放送』1968

2012/1/20

安原顕さんの命日に  

 1月20日は安原顯さんの命日だ。毎年、この日が来るたび思い出す。さみしい。2003年に亡くなって、今年は9回忌。早いような遅いような。

 今日は、初めて面と向かってお話しした時のことを書いておく。
 「で? あんたは何の人なの?」と聞かれた私は、「映画の人です」と答えたのだった。

 私はときどき、自己紹介するときや文章の中で、自分のことを「映画の人」と述べることがあるが、これすべてこの時の記憶に基づいている。

 そしてさらに聞かれた。「ふーん。で、どんな人が好きなの?」
 来た。ここは運命の分かれどころだ。「こいつ、つまらん」と思われるか、会話を続けてもらえるか。うかつに「小津」とか言おうものなら、どっか行ってしまわれること確実だ。

 「どんな人、と言いますか、キャサリン・ビグロウの『ストレンジ・デイズ』が最近ではおもしろかったです」と答えた。
 「へえ、みてない。どんなの?」と聞かれたので、合格だな、と胸をなでおろしたものだった。背中は汗でびっしょりになっていたのを思い出す。興味を持っていただけたのだ。
 「どんなの?」と聞く時、安原さんは、かならず目を少し大きく開いて、体を少し前に倒してくる。本当に好奇心の旺盛な方だったのだと思う。

 好奇心といえば、新宿のABCでばったりお会いしたとき、私の事など覚えていないはずなのに、長々と立ち話していただき、「誰? 今なら誰の文章がおもしろい?」と急くように質問されたことも忘れ難い。そういう方なのだ。
 たまたまそのとき持っていた、タワーレコードのフリーペーパー「ミュゼ(現intoxicate)」を引っ張り出し、片山杜秀さんや小沼純一さん…と述べると、何度もうなずいて…。
 「しかし、いま一番面白い音楽誌ってミュゼですよね?」と述べると、「もちろんそうです。もちろんです」と。その言葉以上に、安原さんの声が今も耳に残る。

 ジャズ好きの安原さんのことだ。もしご存命なら、たとえば今なら、上原ひろみのピアノをどれだけ愛して、贔屓にしたことだろうと思う。彼女の演奏を聴くたびに、いやあ安原さん好みの音だなあと思わされる。

 御存命なら今年で73歳。今の世界を見て、安原さんはそれでもなお、「ふざけんな!」とおっしゃるだろうか。それとも、もはやあきれ果てて声も出ないだろうか。

2012/1/14

『ニューイヤーズ・イブ』  映画

 ゲイリー・マーシャル『ニューイヤーズ・イブ』
 ゲイリー・マーシャルが掘り当てた、1年のうちの、ある特別な記念日のゴタゴタを、オールスター・キャスティングで群像劇にするという、期間限定記念日企画第2弾。
 非常に愛らしい佳品だった前作、『バレンタイン・デー』の舞台となったロサンゼルスを、ぐるり東西ひっくり返して、今回の舞台はニューヨーク。

 横に広く、水平空間を基本とするLAでは、女性と男性、大人と子供、老人と若者らが、いつだって対等の目線で表現されていたけれど、ニューヨーク、ことにマンハッタンのすべては垂直関係。何から何まで上下関係だ。
 高い舞台に上がったリー・ミシェルを、彼女に魅かれたアシュトン・カッチャーは、下から見上げてみせ、その高い舞台に立って、何とか恋人との仲違いを修復せんとするジョン・ボン・ジョビは、そこからさらに上にいる、窓辺のキャサリン・ハイグルを見上げんとする。
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写真:『ニューイヤーズ・イブ』。いくつになっても、やっぱりミシェル・ファイファーは最高! 画像元allcinema.com

 上へ下へと、登場人物は移動し、その中心に位置するのは、タイムズ・スクエア名物のカウントダウン、クリスタルのボールが落下し、紙吹雪が舞う、ボール・ドロップのイベントだ、それを仕切るヒラリー・スワンクはタイムズ・スクエアの下界を見下ろすてっぺんから、NY市民に向けて熱いメッセージを発信するだろう
 移動につぐ移動、場面転換につぐ場面転換、次から次へと出現するスターの数々に、今まさにアメリカ映画を見ていることの幸せに胸が高なる。

 出演者の中ではいちばん高齢に属する、ミシェル・ファイファーとロバート・デ・ニーロは、『バレンタイン・デイ』のシャーリー・マクレーンとヘクター・エリゾンドがそうであったように、てっきりこの2人でロマンスがあるのかと思っていたら、その予想は外され、ファイファーときたら、一番年少のザック・エフロンとのラブシーンをやってのける。
 (今回のエリゾンド=『プリティ・ウーマン』でジュリア・ロバーツに何かと親身なホテル給仕=は、落ちないクリスタル・ボールを修理する古株の技師を演じて、大いに笑わせる)
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写真:『ニューイヤーズ・イブ』 もはやNYの生きた広告塔と化した、サラ=ジェシカ・パーカーが、結局誰よりもおいしい結末を持っていくには、さすがに驚いた。左はアビゲイル・ブレスリン。 画像元:eiga.com

 個人的に病院のデ・ニーロを世話する看護師ハル・ベリーが、勤務を終えて着飾って向かう先が、自宅のノートパソコンの前であることにぐっとくる。
 ネット通信で、彼女の夫が新年の挨拶を送ってよこすのだ。彼が今いる場所はたぶんアフガニスタンの駐屯地だ。これは今も、アメリカ市民の日常の中にある現実なのだ。

 ちなみにこの映画、本当につい最近まで撮影していたものとみえ、タイムズ・スクエアには『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』の巨大ビルボードが輝き、一瞬映ったバス停のポスターは『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』だ。
 本当にこれは2011年12月31日から、2012年1月1日にかけての物語なのだ。
 

2012/1/11

ゴヤ展 (国立西洋美術館)  美術

 「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」 於 国立西洋美術館

 この展覧会では、友人への書簡の余白に描かれた、限りなく高慢ともいえる表情の中年期(54歳頃)の自画像と、どこか曖昧な怒りとも哀しみともつかぬ表情を浮かべた、その15年後の自画像を含むいくつかのゴヤの顔に、まずは迎えられる。
 そしてこの2作の間には、国際的事件として、ナポレオンのイベリア半島侵攻、そしてそれに続くスペイン独立戦争が横たわっている。
 ただし、この戦争のビフォー/アフターで、ゴヤの作風の何かが大きく変化した、という印象は受けない。

 展覧会の順を追って見て行くと、比較的初期のタペストリー用原画から、本店の目玉でもある絶頂期の「着衣のマハ」を経て、晩年の強烈な風刺に満ちたエッチング連作に至るまで、人間と社会の実相を表現しようという迫力にあふれている。
 その意味でゴヤはどこまでも、人間主義的な作家だった。権威を痛烈に断罪すると共に、だからといって、その圧政に虐げられる“か弱き”民衆に憐みの眼を向けるわけでもなく、人間そのもののどうしようもなさ(それを「原罪」というのかもしれないが)を、強烈なビジョンで描く。
 しかし、それと同時にゴヤは、最晩年には自ら辞するとはいえ、終生、国王の首席宮廷画家の地位を守り続けてもいるのだ。
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写真:<戦争の惨禍> 7番「何と勇敢な!」(1810-14製作 1863初版) 死体を踏みつけにして大砲に火を放つ戦場の女!

 なぜ人間とはかくあるのか、運命はこうも過酷なのか、と画面から巨大な「クエスチョンマーク」が浮かび上がってくるかのような作品群を見つめながら、どういうわけか私の頭の中に、ベートーヴェン最晩年の、弦楽四重奏曲第13番のカバティーナが流れてきた。
 そういえば、1746年生まれのゴヤと、1770年生まれのベートーヴェンはほぼ同時代の人物なのだ。

 どちらも貴族との浅からぬ付き合いを保ちつつ、時代の動乱の中において、人間のありさまを作品にこめた巨人である点で、限りなく近しいものがあり、キャリアが熟すその真っ只中で聴力を失ったという点でもよく似ている。
 おそらくどちらも、人間の聖性を認めつつその本性としての俗なるものが、それを封じ込めて愚昧に堕す、人間の度し難い本性を、かたや音楽、かたや絵画で描いたのだ。
 きっと両者の作品は互いを補完し・増幅し合う。
 そう感じたので、美術館におけるマナーとして、正しいのか少々迷ったが、ふとポケットにあるiPodで先の13番(作品番号130)以後の、ベートーヴェン後期弦楽四重奏曲を小さい音で聴きながら、ゴヤを見た。
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写真:「魔女たちの飛翔」(1798年) これほど人間の奥底を掘り下げつつ、並行して貴族のための神々しい肖像画も残す。

 ベートーヴェンには、ゴヤがためらいがちにしか表現できなかった希望と救済の光があり、ゴヤにはベートーヴェンが表面化させなかった社会批判の鞭がある。
 そしてそれは、絵画と音楽のそれぞれが、よりよく成し得る両端だと思う。

 両者の作品を併せて鑑賞しながら、なるほど、このあたりから芸術というものが、人類が地球にとって百害あって一利なしの、迷惑千万な存在でなく、それを生み出せるが故に、それでもまだ存在するに値する最後の砦として、機能し始めたのだなと感じたのだった。

 たとえば、今回の40年ぶりの来日になるという「着衣のマハ」。この官能的な女性を、そのままのポーズで一糸まとわぬ全裸にし、「裸のマハ」として人類に残したゴヤの、どこまでも人間を探求していこうとする姿勢は、常にどこかで意識していたいと思った。
 ゴヤがそれだけの役割を背負わせたが故に、芸術とは人類の遺産として存在に値するものとなった。ということは、人類そのものが存在に値するものに、高まったということだ。
(2011年10月22日〜2012年1月29日)


2011/12/31

2011年度 ベスト10  映画

 2011年も終わる。
 今年はこんな1年だったという想いをこめて、私的ベスト10を。

●『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード)
●『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(スティーブン・スピルバーグ)
●『恋とニュースのつくり方』(ロジャー・ミッチェル)
●『僕が結婚を決めたワケ』(ロン・ハワード)
●『カウボーイ&エイリアン』(ジョン・ファブロー)
●『映画 「けいおん!」』(山田尚子)
●『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)
●『ラブ・アゲイン』(グレン・フィカーラ/ジョン・レクラ)
●『風にそよぐ草』(アラン・レネ)
●『コンテイジョン』(スティーブン・ソダーバーグ)
●『無言歌』(王兵)
●『ラビット・ホール』(ジョン・キャメロン・ミッチェル)
【特別枠】『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ)

 上位2本がぶっちぎりの他は、いつも通り順不動です。本当です。

 何がなんでも落とせないのをどんどん並べていくと、『トゥルー・グリッド』、『ウォール・ストリート』、『ゴーストライター』、『ヒア アフター』、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』、『塔の上のラプンツェル』、『お家をさがそう』を入れられなかったのは痛恨。

・しかし今年は、アメリカ映画が圧勝だったという印象が残る。
・『MI4』と『タンタン』は文句なし。
・『恋とニュースのつくり方』は今年いちばん愛した作品。レイチェル・マクアダムスは個人的主演女優賞。
・『僕が結婚を決めたワケ』と、『カウボーイ&エイリアン』は上の2本がなければ、代わって上位2本になるのだが。
・『映画「けいおん!」』を見ている間の幸福感は今年最高。
・『永遠の僕たち』、『ラブ・アゲイン』、『コンテイジョン』、『無言歌』は絶対に落とせない。
・『風にそよぐ草』は昨年のレネ映画祭で。一般封切祝。
・『ラビット・ホール』は入れておかないと無視される。と思ったら、ん? 12本?
・特別枠は2011年を決して忘れないために。何年後にも見直されるべき作品と思う。

 なお、『宣戦布告』、『三人の結婚』は、特別な上映機会ということではずしています。ワイズマンやシャブロルの日本初公開となる旧作も同様です。

 さて、今日で2011年も終わりです。いろいろなことがあった1年でした。今年お世話になった皆さま、1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。
 そして、いつも閲覧くださっている皆さまには、最大の感謝を。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

2011/12/28

『無言歌』  映画

 王兵『無言歌』
 映画にはこれほどまでにすさまじい、まだ見ぬ風景があったかという驚きの連続。
 かつて寺山修司は新宿の底辺に住む者どもの生活空間に見出すあれこれを、「あゝ、荒野」と呼んだが、しかしこれほどまでに凄絶な「荒野」は、さすがの寺山もイメージしてはいまい。

 ドキュメンタリー作家、王兵初の長編劇映画作品。
 毛沢東率いる中国共産党は、それまでの方針を転換させ、それまでに共産党批判した知識人を、1957年より右派として粛清を開始する。
 右派分子とされた者どもを、ゴビ砂漠辺境の収容所に送り込み、「再教育」という名の強制労働をを行う、その過酷以上に過酷な地獄を109分に至って描く、『鳳鳴』『鉄西区』の王兵にしてみれば、ほんの短編といっていいくらいの凝縮度の作品だ。

 開巻早々、圧倒的なまでに乾燥した空気と、過酷そのものとしか言いようのない、枯れ果てた風景に心がくじかれる。こんな環境に、数百人もの人々が送り込まれているのだ。
 1人の新参者がやってくる。突風吹きつける中、お前の寝ぐらはここだよ、と案内される、その人物の後ろからカメラはついていく。ああ、王兵の見慣れたカメラだと思う。

 そこには、荒れ果てた原野に、ぽっこりとあいた、穴のようなところがあって、そこへと入って行く。無論、カメラもついていくのだが、えっ、カット割りもせずにそのまま入っていくのか、と、早くも心が動揺してしまう。
 これほど必然的なワンカットも滅多にあるものじゃなく、そのまま入っていったカメラは、とても人間が住むような空間ではない、奥行きだけがある穴倉へと案内してくれる。
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写真:『無言歌』より。こんな穴蔵には人は住めない。これではどのみち人は死ぬ。射し込む光はさながら、リドリー・スコット。 画像リンク元

 窓、というよりは、むしろ空気穴と言った方がいい、隙間からは外からの強烈な太陽光が刺している。その光の筋は、まるでリドリー・スコットさえも思わせるが、さらにすごいのは、外で吹き荒れる突風があまりにも激しいので、土埃がまっており、その光の筋によって、もうもうたる埃の粒子がくっきりと浮かび上がって、それすなわち空気を可視化している、ということなのだ。
 とてもじゃないが、マスクもせずにこんな空気を吸い続けていたら、肺などあっという間に腐ってしまうだろう。『風の谷のナウシカ』の腐海なんてものではない。

 映画は、外からこの穴倉に入って来るワンカットのショックと、ここから外に出るときのワンカットのショックの2つを用意する。
 どのシーンをとっても驚愕の連続なのだが、ことにそのクライマックスとなるのは、強制労働者の妻が面会にやってくるくだりだ。
 夫はとうに死んでいることを聞かされるが、それを受け入れられない彼女は、せめて夫の墓を探す! と、穴倉からよろよろと出ていく。
 
 またしてもカメラはそんな彼女の背後からついていく。狭く低い土段をのぼり、薄暗い穴倉から、強烈な光の射す荒野へ。
 いやはや、ここで彼女が見ることになる荒野の荒野っぷりがすさまじい。そこにはどこまでも砂だけが広がり、激しく吹き付ける風に、人間ごときの力ではもはや取りつくしまのない、絶望的な風景が広がっている。
 それでも彼女は歩いていく。その後ろをカメラはどこまでもどこまでも追いかけていく。いったいどれだけの長時間長回しで撮っていたのか、検討がつかない。ものすごい体感時間だったことだけ記しておきたい。

 そして、彼女の視線が向いた先は、どこまでも無限に続く土饅頭だ。墓碑など無論ない。ただそこには、無名の死体が埋まっている。個人認証の木札は死体にくくりつけているというが、夫の墓を知るには、1つ1つすべての墓をあばいていかなければならない。
 そして、実際に彼女はそれらを手袋こそしているとはいえ、素手で掘り起こしていく。

 この無限に広がる土饅頭も、またすごい。整然とした配列がないところに絶望の深さを思わせ、死体が出れば適当なところを掘り返して埋めておきました、という感じなのだ。
 たとえばキューブリックの『スパルタカス』の、沿道の左右に無限に続く磔死体も忘れられぬイメージだし、コッポラ『友よ、風に抱かれて』などで見られる、ワシントンDCの石の庭の整然と並んだ無数の墓地も印象に残るのだが、そうした規則性とはまったく無縁の、不規則であるが故に、一層深く迫るこの墓地の無常感。
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写真:『無言歌』より。無限の荒野をどこまでも歩く。カメラもどこまでもついていく。 画像リンク元

 食料がないための、飢えの描写もすごい。生きたネズミを罠でとらえ、熱湯をかけてドロドロのシチューにしてすする描写など序の口。
 悪い物を食べたと思しき1人が、深夜に嘔吐すると、それを冷ややかに見ていたもう1人が、その吐しゃ物の中から固形部分を選って、それをむしゃむしゃむさぼり喰う。他人の反吐さえも平気で喰らうほどの極限飢餓なのだ。これほどまでの描写、見たことがない。

 この作品は、かつてあった現実へと、見る者を連れていってしまう。この収容所の現実を、その場で目撃しているような映像体験へと導いてくれる。リアリズム映像の極限。 

2011/12/25

『永遠の僕たち』  映画

 ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』
 死というものに深く魅せられた映画であり、その死に抗うのではなくて、それと共に寄り添って生きることを選択した、2人の高校生の物語。

 新進ジェイソン・リュウによるそんな脚本に、ニューヨーク大学時代の同窓である、ブライス・ダラス・ハワードが共感する。さらにプロデューサー役を買って出て、実務的な製作に入るにあたって、父ロン・ハワードとブライアン・グレイザー率いるイマジン・エンターテインメントに話を持ちかけたのは、いささか安易なようだが、納得できることでもある。

 というのは、ロン・ハワード最初期の監督作品、『ラブINニューヨーク』。
 これがまさに、死体安置所を犬劼伐圓沐「両譴箸靴鴇h悗紡澆圭个靴董⊂ソ「魏圓位覺峽挌OC離灰瓮妊C世辰拭C修靴董⊆膺邑「呂修両h悗裡運佑販「僕遒舛襪里澄」
 娘ブライスが製作する、死と隣を接した恋愛物語の種は、父ロンによってここに既に撒かれている。
 ガス・ヴァン・サントは、『グッド・ウィル・ハンティング』で、当時まったく無名の新人マット・デイモンとベン・アフレックを世に送り、「明日のスター」を作ることでは実績がある。そんなガス・ヴァンに、かつて『サイコ』のリメイクで組んだイマジンが監督を依頼するのも、自然な人脈関係だ。
 そういえば、最近ブライスは『ヒア アフター』で、マット・デイモンと束の間の恋人同士を演じていたっけ、と、そんなことばかりを考えていると、上映が始まった。
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写真:『永遠の僕たち』より。この空気感がとても好きだ。 画像元:allcinema.com

 冒頭、少年は体を路面に横たえ、その体の輪郭を白いチョークでなぞって自らを死体になぞらえると、生きているポールと既にないジョンの声が重なる、ビートルズの“Two of Us”が限りない透明感を伴って響いてくる。
 少年はヘンリー・ホッパー。デニスの息子である。向かう先は葬式会場だ。彼は見知らぬ人の葬儀場にこっそり参列することで、死を身近に引き寄せようとしている。
 その理由はやがて明かされるが、その時ふと少女がこちらに振り向き、これも限りない透明感を伴った笑顔を向ける。その瞬間、この映画が“傑作”という絶対的な確信を持つ。
 少女はミア・ワシコウスカ。このころにはもう、製作の背景のことなどどうでもよくなって、透き通るように透明な画面の推移に、心は持っていかれている。

 2人の中も深まった病院からの帰り道、彼らが手を握り合って歩いていると、ふと彼女がかすかに手を引くや、路上で最初のキスを交わすとき、2人の全身がちょうどスクリーンの縦に見事に収まっている、その画面に胸がしめつけられる。
 背伸びしているわけでもなく、どちらかがリードしているわけでなく、死に行く側と生き続ける側の、どちらに引け目も気負いもあるわけではない、完全に同格のキス。
 このとき生と死とは、境目がなくなり、ひと続きのものになっている。

 最近、死を扱ってとても印象的だった『ラビット・ホール』という作品があった。やや薄口だが『50/50 フィフティ・フィフティ』も挙げていいと思う。
 どちらも死というのは、克服すべき越えねばならぬ大きな壁だった。また、ガス・ヴァン・サントがこれまで手がけた多くの作品でも、死とは不意に訪れるもので、その見えない予兆を、丹念に追いかけることが一種の作風だったように思う。

 『永遠の僕たち』での死は、生を断ち切る何かではなく、生の延長にあるものだ。2人のキスの回数がかさむにつれ、カメラがどんどん近付いていくように思えるのは、生と死が混じり合っていくからだろうか。
 そんな彼らのキスの様子は、どこかフィリップ・ガレルの『ギターはもう聞こえない』を思わせられる、などと感じていると、何と映画のある所で、ガレルとの縁の深いニコの歌声が聞こえてくる。彼女も生と死の境にいるような歌手だった。
 
 ホッパーの眼には、幽霊が見えている。幽霊を演じるのは加瀬亮で、かつて神風特攻隊として一命を落とした日本兵だ。
 彼は、その幽霊との対話においてしばしば現世の時間を過ごしているが、日本兵の幽霊に「お辞儀というのは最大の敬意をもった挨拶だ」という、他愛のないレクチャーを受けている。鉄橋の上で。
 しかしその鉄橋のへりで、深くお辞儀をするとバランスを崩して真っ逆さま=即死という“敬意ある挨拶”について何を思うべきか。
 やがて、その鉄橋に列車がやってきてあわてて逃げるという、『スタンド・バイ・ミー』以外、思い出しようのない場面が続き、あの作品もまだ年端もいかぬ少年たちが死体を捜す小旅行の物語だったことに思い当たる。
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写真:『永遠の僕たち』より。何とも瑞々しいシーンの連続だ。 画像元:allcinema.com

 何度かは感情を爆発させずにいられぬヘンリー・ホッパーだが、そこにある死を静かに受け入れ、淡々と物語が進行するだけでは、それはそれでウソになる。
 そんな彼も、決定的な何かを受け入れざるを得ず、真っ白な光線が差し込む窓際で、大粒の涙をこぼす、そのこぼれ落ちる涙の大きさに、胸をしめつけられずにいられない。
 個人的にこの映画のベストショットを選ぶとしたら、この窓際シーンだ。もちろん、人によっては、こちらをふり返るミア・ワシコウスカという場合もあるだろう。
 どちらもぜひ見届けてほしいショットだと思う。

 劇場用パンフによると、デニス・ホッパーは死の直前に、息子が主演するこの作品をDVDで見たと、ガス・ヴァンが証言している。
 すてきな話だと思う。ここでも生と死の境は断たれるべきものでなく、ひとつながりだ。911というより、311以後の時代にあって、この映画が指し示す心のあり方は、ひときわ意味を持つように思った。

2011/12/22

『ラブ・アゲイン』  映画

 グレン・フィカーラ/ジョン・レクラ『ラブ・アゲイン』
 邦題からだと内容が少しわかりにくいのだけど、原題は“Crazy,Stupid,Love”。
 それでもまだ、わかりにくいが、鑑賞後ならよくわかる。
 映画の内容は、人は恋する気持ちで、とにかく愚かしいことばかりするけれど、しかし恋する気持ちを通して、よりよい自分に変わることができるということだ。
 ここには何のアイロニーもない。抱腹絶倒の笑いをちりばめ(筆者は映画を見ながら、久しぶりに劇場で何度も声をあげて大笑いした)、多彩な登場人物を描き分けつつ、よりよい自分を見出し、よりよい他者との関係を得るためのプロセスを語った恋愛交響曲だ。実に、実にすばらしい。
 この楽しさは、あえてたとえるなら、ジャック・ベッケルのいくつかのラブコメディ、たとえば『幸福の設計』や『エドワールとキャロリーヌ』をさえ思わせる。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。スティーヴ・カレルとジュリアン・ムーア。ジュリアン・ムーアはいつも実に素敵である。 画像元allcinema.com

 主人公は、交際当初から妻一筋の堅物男(スティーヴ・カレル)。ところが、ある日突然、妻(ジュリアン・ムーア)から思いがけず離婚話を切り出される。会社の同僚(ケヴィン・ベーコン)と不倫中だというのだ。
 あまりといえばあまりのことに、自暴自棄の日々に転落。夜な夜なバーで、管を巻いているが、そんな彼を見つけた名うてのプレイボーイ(ライアン・ゴズリング)が、遊び半分の暇つぶしに、彼を少しは見栄えのする男性に改造しようと名乗り出る。
 そこから先は、高校生のベビーシッター(アナリー・ティプトン)やら、息子の担任(マリサ・トメイ)やら、弁護士志望の女学生(エマ・ストーン)やらと、いくつもの関係が生まれていく。キャスティングがとにかくいい。半主演格の俳優ばかりで、豪華とまでは言えないながら、見ごたえある演技陣がバランスよく集まっている。

 人は変わる。たとえば主人公は、40も過ぎて妻以外の女性を知らずに生きてきた(ここは傑作『40歳の童貞男』の、スティーヴ・カレルならではの役どころだ)。そんな彼は女性を前にまるで話題がない。口説くどころか、社交のためのボキャブラリーがないのだ。
 映画の当初は、基本的に“OK”と“All Right”くらいしか口に出さないし、酔って愚痴をこぼすにしても、同じ単語を使って同じことしか繰り返せない。
 それが、ライアン・ゴズリングの指南も手伝って、映画の終わりの方になると、実になんとも表現力豊かな饒舌家に変貌している。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。エマ・ストーンとライアン・ゴズリング。今年ライアン・ゴズリングは大活躍だ。 画像元:allcinema.com

 そんな脚本の妙味は、軽い一言の中にも存分に発揮されている。
 そもそも、生涯妻1人だけなんて主人公の人生は、毎晩寝る女を変えているゴズリングにとっては、ほとんどSFの世界だ。そこで聞く。「しかし驚いたな、いつからそんなになったんだ?」それに対して、「1984年ごろに何かあったことは確かだよ」と完璧なセリフが帰ってくる。
 たぶんそれは、妻と出会った年を指してはいまい。これは『すてきな片思い』の製作年。すなわち80年代ラブコメの幕開けだ。(それにしても1984年というのは、なんと偉大な年なのか!)

 冒頭に私は、この映画はジャック・ベッケルのラブコメのようだなどと、またかと思われるのを避けるため、大嘘を書いた。が、使用楽曲を含め、実は80年代ラブコメの空気を濃厚に宿した作品なのだ。
 スティーブ・カレルとライアン・ゴズリングの役は、かつてならエミリオ・エステヴェスとロブ・ロウが受け持ったことだろう(この映画は彼らの後日談とさえ言えそうだ)。
 主人公の中学生の息子(ジョナ・ボボ)が、ベビーシッターを恋するあまりの暴走ぶりは、ジョン・クライヤーが見事に演じた類型だ。そのベビーシッター(逆にこの子はスティーブ・カレルが好きなのだ)の恋心の持て余し方は、まるでモリー・リングウォルドそのものだ。
 エマ・ストーン演じる、堅物ぶりがどこか主人公に似た女学生の、真面目さのあまり一度タガがはずれると、果てしのない思い込みの激しさは、アリー・シーディの得意技だった。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。愚かな愚かな愚かな男ども。 画像元:allcinema.com

 もちろんこの映画は、80年代ラブコメなど1本も見ていなくても構わない。いかにも80年代的な外面の下に、そんな“昔話”を知らなくても100%楽しめる独創を備えている。
 その独創とは、人物と人物の最初の出会いに、必ず衝撃力を与えていることだ。数多くの登場人物に関わる話をパラレルに進めて、複数の糸が次第にからめていく、ジョン・ヒューズ的な段取りなどついぞない。
 人と人とを、不意にぶつけて思いがけず話がつながっていく、という構成に徹して、次に何があるかと身構えさせるテンションが常にある。もちろん、細かく見ていくとそこここに伏線はあるのだが。

 こうして最後の大団円に向けて、息もつかせぬラブゲームが繰り広げられるが、結局、いちばん損をするのはケヴィン・ベーコンとマリサ・トメイという80年代の出世組というのは、当然、作者としては狙いすました展開であることだろう。
 この作品は、今年最高の思いがけない拾いものだ。



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