2008/10/15

蓮實重彦『映画論講義』  

蓮實重彦『映画論講義』(東京大学出版会)読了
 460ページ以上にもわたる口語編。本書に収録された「講義」のうち、いくつかは実際にその場にいたものでもあり、いささかの懐旧の思いをこめて読む。
 
 ことに思い入れが深いのは、1996年にフィルムセンターで開催されたルノワール全作品上映時のシンポジウムでの講演録だ。
 またまた個人的なことで恐縮だが、以前にもこの場で書いたように、この時期、人生「どん底」の頃で、とにかくルノワールに溺れに溺れることで耐え忍んでいたのだった。
 その会期中に、午前10:30から午後5:30もの長時間にわたって行われたシンポの中での、蓮實御大の講義。このとき、御大は20分の持ち時間を無視して、たしか1時間以上も延長して、しゃべりにしゃべったのだった。

 本書に収められた採録は、初出であるNFCニューズレター別冊「ジャン・ルノワール芸術の魅力と秘密」と、ほぼ異同なく、著者の承認を得たものであるとはいえ、実演のおそらく10分の1程度(?)の抄録のはずだ。
 本書のその他のテクストも、多かれ少なかれ、かなりの削減が行われており、ここが残念といえば残念であるが、だからといっていささかも価値を減じるものではない。

 ともあれ、私の個人的境遇も手伝って、ルノワール、そして映画というものに、100%没入できたという意味で、この講演の日は、かけがえのない日になっている。忘れもしない1996年12月7日のことだ。

 ここで蓮實御大は、ルノワールは「生」と「死」を作品世界に導きいれるということを、語ってくれる。
 御大以外の話者なら、これをいきなり、「ルノワールは生と死を描いた作家なのです」と、陳腐極まりない言い方をするはずだ。
 けれど、蓮實重彦による「映画論講義」は、ルノワールにある「枯木」や「木片」など、木の表象を実作品の中から抽出してみせることで、それが否応なく「死」のイメージとなっていることを、示して明かす。
 そして一転、その「木」→「杖」は、容易に「笛」に姿を変え、画面の中で「生」と「解放」のイメージへと変換する。(このとき、御大が『大いなる幻影』で、ピエール・フルネがフルートを吹き、ジャン・ギャバンとマルセル・ダリオの脱出を助けるシークエンスを示したとき、その見事なイメージ力に涙を流さずにいられなかった!)

 かくして御大が 
 「樹木は、それがほんのわずかばかり形態をかえただけで、「生」と「死」というまったく対照的な主題を作品に導きいれることになります。ルノワールは、それを、和解しがたい矛盾対立としてではなく、異なるものの豊かな共存の可能性として提示しています。」(P. 62)
 とまとめたとき、生きていてよかった、いや、生きていてもいいんだ、と思わずにいられなかったことを記憶する。
 ここで、御大はルノワールが「生」と「死」の作家だみたいな言い方は、まったくしていない。この人は、ルノワール作品における樹木のイメージを次々と示しただけなのだ。

 蓮實重彦的映画論は、どこからどこまでも、映画のことだけを考えてよいのだと教えてくれる。そこに教条主義的な何かのような、不純物など一切紛れ込むことがない。
 100%映画だけ。画面に映っている以外のことは、映画とは何の関係もないことだ。

 本書はもちろんルノワールだけでなく、ホークス、グル・ダッド、ホウ・シャオシェン、そしてとにかく心のこもったダニエル・シュミット・・・さまざまな映画作家、あるいは、映画そのもののことを、変わらぬアプローチで語りつくしている。
 そのどれもに共通するのは、「映画」だけを見てわき目もふらぬという、「映画」を生きることの作法である。
 この「講義」によって、もちろん「映画」を学ぶこともできるが、何より生き方を教わり、そして生きることの勇気が湧いてくるということが、最大の価値なのだ。
 それは「映画」でよいんだ、という確信そのものである。



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