2010/2/22 23:30
植村直己「北極点グリーンランド単独行」 本(その他)
棋盤井も朝方の一番寒い時は−6℃程度迄は下がるものの、日中は+10℃近く迄上昇する為、もう冬と言う感じがしなくなって来ましたな。
勿論、三寒四温で段々と春が近付いて来るのでしょうが。さて、
植村直己の「北極点グリーンランド単独行」。

これは、植村直己が日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げた後に抱いた南極大陸横断を実現させる為の準備として行った、犬橇訓練と極地順化の為の北極圏滞在記録の「極北に駆ける」、グリーンランドからアラスカ迄を1年半掛けて行った「北極圏一万二千キロ」に続く第三弾として1978年3月から8月に掛けての冒険行の記録であります。
表題の通り、この冒険行は2つのパートで構成されており、1つ目がカナダの最北端エルズミア島のコロンビア岬をスタート地点(北極点初到達のロバート・ピアリーと同じ場所)として北極点を単独で目指す犬橇冒険行(単独での北極点到達は世界初)で、もう1つがグリーンランド最北端のモーリスジェサップ岬から最南端のナルサスワック迄あと90キロ手前にあるグリーンランド氷床の最南部のヌナタック帯にある無名の岩峰(後に「ヌナタック・ウエムラ峰」と命名された)迄の無人・無生物地帯を犬橇で縦断する冒険行です(グリーンランド縦断も世界初)。
植村直己はこの2つの冒険行ではこれまでと違ったアプローチを採りました。
1つ目はアメリカのスミソニアン研究所の支援を得てDCP(ま、現在で言うトコロのGPSのようなモンらしい)で正確な位置確認をすると言う科学的支援を受けたことと物資補給に飛行機を使用したこと、2つ目は資金面で莫大な費用が掛かり、多くの援助を受けざるを得なかったこと、なのだそうです。
確かに、これらの科学的支援によって安全を保証されているのだから「タライの中にボートを浮かべているようなものだ」との批判が出て来ることがあったようだけれども、植村本人は、例えこれらの支援があったとしてもそれら以外にも死に直結するような数多くの危険と苦心がその支援のみによって多いに減る訳ではないので、その批判には首を傾げざるを得ない、としている。
植村自身が、所謂「極地法」と呼ばれるシェルパやエスキモーを総動員して大人数で行う登頂や極地行への抵抗や疑問があって単独行(登山で言うトコロのアルパインスタイル)をやっている訳だけれども、今回のこのやり方はその中間を行くような、ある意味ギリギリの選択であったのだろうと考えられます。
無人・無生物の南極大陸横断(縦断?)をする為には、全くの単独行では成し遂げられる訳がないので、ある意味ではこれはやむを得ない選択であったのだろうと思われます。
しかし、この冒険行では、上述のスミソニアン研究所・アメリカ海軍・NASA・カナダ政府・デンマーク政府、文芸春秋社・毎日新聞社・電通、それに西堀栄三郎を始めとした植村直己後援会の人々から多大な協力・援助を受け、完遂した訳だけれども、これも偏に植村の人間的魅力と偉大な冒険行に協力したいと考えるヒト達が多くいたからこそ出来たのだと思いますね。
ただ、その後の植村はエベレスト厳冬期登頂と南極点単独犬橇探検の2度の冒険に失敗し、初心に戻る決心をして、単独で登頂を成功させた厳冬期のマッキンリーで消息を絶ち(1984年2月13日)、その生涯を終えたのでありました。
嗚呼・・・。
0
勿論、三寒四温で段々と春が近付いて来るのでしょうが。さて、
植村直己の「北極点グリーンランド単独行」。

これは、植村直己が日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げた後に抱いた南極大陸横断を実現させる為の準備として行った、犬橇訓練と極地順化の為の北極圏滞在記録の「極北に駆ける」、グリーンランドからアラスカ迄を1年半掛けて行った「北極圏一万二千キロ」に続く第三弾として1978年3月から8月に掛けての冒険行の記録であります。
表題の通り、この冒険行は2つのパートで構成されており、1つ目がカナダの最北端エルズミア島のコロンビア岬をスタート地点(北極点初到達のロバート・ピアリーと同じ場所)として北極点を単独で目指す犬橇冒険行(単独での北極点到達は世界初)で、もう1つがグリーンランド最北端のモーリスジェサップ岬から最南端のナルサスワック迄あと90キロ手前にあるグリーンランド氷床の最南部のヌナタック帯にある無名の岩峰(後に「ヌナタック・ウエムラ峰」と命名された)迄の無人・無生物地帯を犬橇で縦断する冒険行です(グリーンランド縦断も世界初)。
植村直己はこの2つの冒険行ではこれまでと違ったアプローチを採りました。
1つ目はアメリカのスミソニアン研究所の支援を得てDCP(ま、現在で言うトコロのGPSのようなモンらしい)で正確な位置確認をすると言う科学的支援を受けたことと物資補給に飛行機を使用したこと、2つ目は資金面で莫大な費用が掛かり、多くの援助を受けざるを得なかったこと、なのだそうです。
確かに、これらの科学的支援によって安全を保証されているのだから「タライの中にボートを浮かべているようなものだ」との批判が出て来ることがあったようだけれども、植村本人は、例えこれらの支援があったとしてもそれら以外にも死に直結するような数多くの危険と苦心がその支援のみによって多いに減る訳ではないので、その批判には首を傾げざるを得ない、としている。
植村自身が、所謂「極地法」と呼ばれるシェルパやエスキモーを総動員して大人数で行う登頂や極地行への抵抗や疑問があって単独行(登山で言うトコロのアルパインスタイル)をやっている訳だけれども、今回のこのやり方はその中間を行くような、ある意味ギリギリの選択であったのだろうと考えられます。
無人・無生物の南極大陸横断(縦断?)をする為には、全くの単独行では成し遂げられる訳がないので、ある意味ではこれはやむを得ない選択であったのだろうと思われます。
しかし、この冒険行では、上述のスミソニアン研究所・アメリカ海軍・NASA・カナダ政府・デンマーク政府、文芸春秋社・毎日新聞社・電通、それに西堀栄三郎を始めとした植村直己後援会の人々から多大な協力・援助を受け、完遂した訳だけれども、これも偏に植村の人間的魅力と偉大な冒険行に協力したいと考えるヒト達が多くいたからこそ出来たのだと思いますね。
ただ、その後の植村はエベレスト厳冬期登頂と南極点単独犬橇探検の2度の冒険に失敗し、初心に戻る決心をして、単独で登頂を成功させた厳冬期のマッキンリーで消息を絶ち(1984年2月13日)、その生涯を終えたのでありました。
嗚呼・・・。
0
おおたま(本名:太田正義) 釣と酒と料理をこよなく愛すオジさん。 個別メールはmasayoshi.ota@gmail.com迄どうぞ。
