26日・27日と経済経営系学会に出かけ、若い研究者や未だに仕事に就けない人たちと学会そっちのけで喫茶店で会話した。
そこでは
月刊誌『Fole12月号』(みずほ総研)の記事「進化した『スロービジネス』5つの着目点」(注1)を前にして議論し、私が体験した
スロービジネス(SBS)の清里での合宿(注2)の話や
「耕さぬ田 根付くか」(朝日新聞5月24日付け朝刊)での従来の農法と違って「農薬使わず低コスト」へと話が進んだ。
勿論、これらの話には研究者としての興味を湧かせ、同時に、将来少しは自分の問題として考えなければならないと理解しているが、結局、最高のスロービジネスは「大学の先生」で終わってしまった。学会で見る論文数と仲間関係だけの多くの優雅な研究者から彼らも学んでいる。
(注1):ブログ関係性の「マグロ消費と環境(おわり−後)」(2007/2/3)に掲載
(注2):ブログ関係性の「新しい消費市場の息吹」(2007/5/21)に掲載
「ゆたかさの増進へ」(日本経済新聞5月22日付け「やさしい経済学−名著と現代」より)で、佐和隆光(立命館大教授)はガルブレイス『ゆたかな社会』を解説している。
佐和は「レーガン政権以降、米国では累進所得税制や福祉への批判が広がった・・貧困との闘いに税を使うなど、もってのほかだと。彼らが支出に寛容な唯一の例外とは国防費のこと」とのべ、これに対置するガルブレイス『ゆたかな社会』のあとがきを紹介している。「第一に、貧者の社会的要求を受け入れないことを是とする学説に反対しよう(不平等の是正)、第二に、防衛の名目で地球を破壊しようとする者たちから「ゆたかさ」を守ろう(平和の尊重)」と。
しかし、『ゆたかな社会』(岩波書店 1960年)が書かれた時代から40年以上が経っているが、国家の役割にこそガルブレイスのものの見方が大事である。
「中流層こそ日本の『宝』」(朝日新聞3月29日付け朝刊「分裂にっぽん」(最終回の総集編)より)を読んで、ガルブレイスの言う「ゆたかさ」はどこへ行ってしまったのかと思う。
「大都市勤労者の典型的マイホーム、東京・高島平団地の地域には、会社や家族という共同体の弱まりでリストラと老後不安に漂う団塊世代、孤島のような高層棟でぎりぎりの生活を強いられる高齢者、社会参加どころか展望のない生活を続ける30代フリーターらがいた。戦後最長の景気拡大の陰で成長を支えた中流層がずり落ちかけていた」。
資本主義経済の成長を支えるのは言うまでもなく中流層で、彼らの労働と消費がなければ成り立たない。作っても売れないからである。戦後の高度経済成長は「中流層の育成」であったが、90年前後に無謀な投機ブームを招きバブルを膨張させた。
その後のバブル崩壊による景気低迷によって、富を一部に集中させ、長期停滞を脱するためと称して「中流層の分厚さを『悪平等。貧富差が小さいとやる気をそぐ』とし、格差拡大を『活力』」と推し進めてきた。
そして、中流層から下層へとボロボロと落ちていった様相が今の「非正規雇用」や「ワーキングプア」である。政府が担う役割を完全に放棄しようとしている。支配者は経済界も政治屋もそれを「自己責任」と平然と言うようになった。「非正社員を酷使する『低コスト経営』競争にどんな未来があるのか」。
そして、今また、東京の地価高騰や景気回復に庶民を投機ブームに招き、庶民、年寄り、退職金目当てに金融機関は執拗に追い掛け回す。しかし、次に来るバブル崩壊でこれを招いた張本人たちだけは救われる。
以上のようなことを問題意識として若者が認識し始めている。決して彼らは理論的にこれを述べないが、皮膚感覚で理解している。この経済構造から“幸せ”や“癒し”は獲得できないことを。その行動の一つが、
スロービジネスへの関心であり、農的生活への移行ではないだろうか。
彼らの多くは「半農半X」(農業に触れながら、物々交換も含めた最低限の食物の確保をしながら、Xという芸術等の自分らしい生き方を模索する)を求め、消費者から脱皮して、この経済構造に支配されない状況を創ろうとしている。そして、“幸せ”や“癒し”を求めることはこの地球上の人たちをイジメてはならないし、最低限の環境である水や空気の汚染に反対する行動とも連動している(反原発や非電化運動)。要するに、この「半農半X」は村の人たちとの安全志向への連携とゴミ捨て場(原発誘致、原発の廃棄物処理場、再処理工場)と化する地方の村同士の連携も視野に入っているような気がする。
いくらスローでもビジネスは収益を追うものであると私は主張するが、それを乗り越えていく彼らの行動と
関係性を強め、応援しながら、お金にまみれた私の頭の構造を再構築しなければならない。