6月2日にエントリーした「『プレカリアート』社会への怒り」に、
愚樵さんからのコメントを受け取った。
愚樵:「正直申しまして、いまどきマルクスや『蟹工船』のようなものが読まれている現実に戸惑っています。また『ロスジェネ』も読んでみましたが、こちらにも違和感は感じてしまいました。
現在の日本にプレカリアートに分類される人たちが大量発生していることは事実でしょうし、彼らの怒りを私とても共有できなくはない。ですが、怒りの矛先がずれているのではないかと感じるのです。
プレカリアートを生み出している現象を犯罪行為だとしますと、確かに産業資本も犯人であることには間違いはありません。しかし、主犯は金融資本です。産業資本は実行犯、金融資本は計画を立案した首謀犯だと言ってもよいでしょう。
マルクスは資本家が生産手段を占有することで労働者から収奪すると言いました。これに間違いはないでしょう。しかしマルクスのいう資本家とは産業資本の方であり、金融資本はさらに産業資本から収奪します。ファンド等による企業買収や、企業買収に至らなくても株主の利益を最優先するよう圧力がかかることが金融資本による産業資本収奪の表れです。
産業資本は、金融資本の収奪に対抗するために労働者から収奪するようになった。確信犯的に労働者から収奪を行う産業資本も少なからずありますが、多くの産業資本は労働者から収奪する構造に企業体質を変えなければ生き残っていけない社会になってしまった。それが小泉・竹中の推し進めた改革であったわけです。
彼らに力を与えたのは、実は労働者です。これは郵政選挙のことだけを言っているのではなく、労働者=消費者の意識がますます金融資本の力を強固なものにしているということです。消費者=労働者が金という虚構に力を与え、その金を自在に操る金融資本が産業資本を収奪し、産業資本は自らの生き残りのために労働者から収奪しなければならない状況に追い込まれている。こうした構造が見えないままでの周回遅れの産業資本批判では、主犯の金融資本はいつまでたっても安泰です。『蟹工船』が今脚光を浴びているというのも、自らへの批判の目を逸らすための金融資本の誘導ではないかと勘ぐっています。」
morichan:「愚樵さん、反応が遅くなり失礼しました。
『産業資本は実行犯、金融資本は計画を立案した首謀犯』は納得します。
ただし、中小・零細企業はこの構造を維持させていますが、超大手産業企業を産業資本と金融資本に分けることができるかどうか疑問です。
それに超大手産業企業は金融機関からの借り入れ金利を金融機関が日銀からの調達金利と変らない金利で借り受けています。そして、最近の傾向として、超大手企業は金融機関からの借り入れを減らしながら、新たな金融機関への名乗りまで上げています。
資本の分類は産業資本と金融資本とに分けられますが、この双方を巧みに利用しながら国家の政策に介入し、政・官・財の癒着構造を作り出しています。
この餌食にあうのは中小・零細企業と国民です。中でもプレカリアートと呼ばれる人たちは目の前にいる収奪する相手と向き合う行動を取ることによって、産業資本と金融資本への抵抗だと考えられます。
言うまでもなく、私は零細企業のオヤジですから、直接的に金融資本を儲けさせる役割を担っています。時には脅され、時には誉められながら。そして、取られた金利分をわが社員の給与から差し引いています。一度会社が止まれば、担保として金融機関に全て持っていかれる憂き目に私はありますが、社員が先ず給与の値上げや勤務形態を要求するのは私にでしょう。
実際は私の苦しさを一定程度理解している社員ですから、火花は散りません。しかし、史上空前の利益を上げた超大手企業の収益を見たとき、それと反比例する非正規雇用の自らの状態と比較して、それへの戦いを挑む彼らはまともだと私は思っています。」
愚樵:「morichanさん、再度のコメントお許しください。
>超大手産業企業を産業資本と金融資本に分けることができるかどうか疑問です。
この疑問を私も妥当だと考えます。こうした超大手は、産業資本から金融資本に鞍替えすることで企業の存続を図ったと見ていいでしょう。代表例は、日本企業ではありませんが、かつての電機メーカー世界最大手、G.E.でしょうね。G.E.のジャック・ウェルチはかつてずいぶん持てはやされましたし、日本の企業も多かれ少なかれ、G.E.流の経営手法を取り入れたと思います。
>実際は私の苦しさを一定程度理解している社員ですから、火花は散りません。
ほんの少し前まで日本では大手を含めてそのような状態でした。労使協調路線といわれたものですね。労使が協調できるならそれが企業経営としては最上のものであるはずですし、実際にそれが実現もしていた。
『蟹工船』に惹かれる者たちが見落としていると思うのは、この事実です。日本企業はオイルショックなどの危機をこの労使協調路線で乗り切ってきた。実績のあったこの路線を、バブル以降、なぜ日本企業は捨てたのか? そういう問題意識に欠けていると思うのですね。
『蟹工船』に惹かれてしまう現状を否定しようと思う気持ちはありませんが、危惧するのは、一度辿った歴史の道をもう一度歩まねばならないのではないかという懸念です。『蟹工船』とくれば次に来るのは労使対立路線でしょう。歴史をみれば、この対立路線はあまり実のないものだとして学習され、やがて労使協調路線に落ち着いていった。その道をもう一度歩むことはなかろうと思うのです。」
morichan:「愚樵さん、このような議論ができることをとても有難いことと思っています。これがなければ、私自身、深く考えないで感覚的に書いているだけでした。もう一度、経済構造を見直す良いチャンスとなっています。
ところで、「『蟹工船』に惹かれる者たち」がわが社の社員と同等でないのは、余りに過酷な労働条件で働いているからです。特に、収入が少ないがゆえに、休む時間を削って二つの会社で働かざるをえない状況を作り出しているからです。これがまさにワーキングプアの現実です。
旧来の「労使協調」は一企業内の正規労働と経営の関係でしたが、今の「対立路線」は非正規雇用と複数の経営となっています。
季節労働として農民を駆り出した時代と異なり、常用労働として極めて安い非正規雇用を作り出し、その層の量的拡大を国家レベルで作り出したのが要因でした。
非正規労働者は仕事でクタクタになり、風呂のない家で少ない睡眠時間だけでフトンも干せない状況で暮らしています。
この状況そのものが『蟹工船』と見るのは当然と考えます。
ですから、グローバル化の後押しによって労使の経済構造そのものが大きく変り、労使の協調か対立かという図式では説明が付かない状況になったのだと思います。
このような中で、雨宮処凛さんがマイクで叫ぶ内容が、経済構造そのものを対立相手としています。
プレカリアートはすでに肌でそれを感じているのだと思います。」
以上の愚樵さんと私の議論が必ずしもかみ合っている訳ではないが、今の産業構造や資本構造を見るときの議論の基になるだろうと期待している。そして同時に、1929年に小林多喜二が発表した『蟹工船』がなぜ今脚光を浴びているのかもこの構造に由来していると見るべきであろう。
「上場企業4割 実質無借金」(日本経済新聞6月25日付け朝刊)で、「上場企業の財政改善が進んでいる。手元資金が有利子負債額(注1)を上回る実質無借金企業は2008年三月期末に全体の四割を超え、連結決算での業績開示に本格的に移行した00年三月期末以降で最高となった」と。
(注1):銀行からの借入金や社債など金利を支払わなければならない負債のことである。これへの依存度が高い企業は金利上昇局面で利払い負担が増え、利益の圧迫要因となる。
この日経記事から、有り余る資金がどこに流れるかを予測することができる。多分、その流れは三通りあると考えられる(日経同日=「グローバル財務の潮流」を参考)。
@ 自社の設備投資によって、一層の収益を狙う。
A 海外他社への投資によって配当を受け取り、国内に持ち込まずに海外での投資を続ける(注2)。
B 外貨のまま運用・再投資をするのだが、石油や穀物等への投資にも向かわせている。
(注2):政府は09年度の税制改正に向け、日本企業が海外現地法人から受け取る配当を非課税にする検討に入る。
結局、ここでの有り余る資金は「カジノ資本主義」を活発にさせ、現在の物価上昇の根源を作っている。そして、それを応援する政府が存在している。
「若者が分断を乗り越えるために」(しんぶん赤旗7月3日)は作家の浅尾大輔さんと東京大学准教授の本田由紀さんの対談である。
本田:「・・『蟹工船』ブームを見ていると、私は天の邪鬼で心配性なので、ブームに浮かれて入られないという気がするんです。ブームといっしょに背景にある青年の雇用の問題が押し流されてはこまります。」
浅尾:「・・客観的な生きづらさや過酷さがあるから多喜二が八十年の時をこえて呼び出された気がします。」
本田:「就職難や労働の過酷さにはさまざまな質の違いがあって、若い人は細かく分断されています。・・」
本田:「日本社会には集団主義へのアレルギーもけっこう強くあると思うんです。若者の間で『団結』や『連帯』を直接掲げることの有効性を疑問に思い、私は言葉遣いにも気をつかっているんです。・・『皆で』という表現でとめています。」
浅尾:「貧困双六(すごろく)から自分だけ上がればいいというのではない意識が生まれています。未払い残業代の問題でも、自分だけでなく、みんなに同じように払えと要求して団交というオプションを選び、勝利している。『連帯』『団結』は、自覚的な運動のなかで生きた言葉となると思います。」
分断化された「プレカリアート」と「蟹工船」が必ずしも重なるわけではないが、何か心の拠り所としての共通性を与えていると解釈できる。個々バラバラはいつまでもバラバラではなく、『皆で』から『団結』や『連帯』へと変化する過程が「蟹工船」なのかもしれない。
カモさんは「『蟹工船』と現代」で次のように述べている。
http://blue.ap.teacup.com/perie/
「日々の労働に押しつぶされ、何のために生きているのか分からなくなることすらある。
職場には精神的に病んだり、体調を崩したり、そのことで職場を去ってしまう人もいて、労働によって「人間が壊される」ことが決して珍しいことではなくなってきていることを実感もしている。
『人間とはかくも弱い生き物』であるということを痛感する日々である。
ただ、こうした現実を見て、ひたすら後ろ向きになって社会不信に陥ったところで、それはおそらく生産的な解決にはならないことは判断できる」と。
分かっているようで分かっていないことが多い。社会性をなくし、上から目線で評論してしまう私に今さらながら気が付く。
ブログを通じての
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愚樵さんの「関係性」へのコメントとブログ「愚樵空論」(
http://gushou.blog51.fc2.com/)には感謝である。