司馬遼太郎の『坂の上の雲』が昨年末にNHKで放映されはじめた。
明治の軍国主義と強く結びついた世相の中で、若者たちの野心を描いている。
まさに、ここから日本の軍国主義がはじまり、第二次世界大戦終結まで長期に続いてきたのだと確認させられる。
私は戦後生まれ。私にとって、戦後の教育で最も大きく影響されたのは親のものの見方であった。
女学校に通っていた母は、時の政府に虐げられていた朝鮮系の人たちをかくまう行動をしていたそうだ。そして、アメリカ留学帰りの父と結婚し、その数年後に第二次世界大戦がはじまった。
父は終戦間際に赤紙を受け取り、母に“もう直ぐ戦争に負けるので、生きて帰ってくるから”と言ったそうだ。二等兵で出かけ、一切の出世を蹴って二等兵で帰ってきた。殺人命令を出す側になりたくないという一心だったようだ。
そんな両親の戦争体験を背景に、戦後生まれの私は平和主義を学んできた。
私が結婚したのは27歳であった。
私たちの戦争観も一致して双方の両親を会わせたのだが、戦争時代の話をしないように私の両親には伝えていた。折角の婚約の話がケンカになってはいけないからである。
私の妻の父は「憲兵」出身であり、北朝鮮方面に出兵していたが、ケガをして終戦前に本土に帰ってきていた。私も面と向かって義父と語ることを避けてきたのだが、義父も私に戦争時代を語ることはなかった。そして、語らないまま数年後にガンで義父は亡くなった。
しかし、私たちが結婚するまでだけでなく、その後も私の戦争観は妻にプレッシャーを加えていたことが昨年末に発覚した。
彼女の意識には「憲兵」の娘という重圧が続いていたのである。それを結婚して35年間も私は気付かなかったのである。

(ウィキペディア「憲兵」より転載)
これを気付かせたのは、
帚木蓬生『逃亡』の読み直しであった。そして、この問題についてエントリー記事を書こうと思った発端は、ましまさんの
ブログ『反戦塾』の2009年12月16日 付け「こども/小学生/戦争」であった。
http://hansenjuku.cocolog-nifty.com/blog/

(新潮出版)
帚木蓬生『逃亡』は、まさに「憲兵」を扱ったもので、終戦を外地の香港で迎え、戦犯による死刑を逃れる姿を描いたものである。
赤紙を受け取り、村中からバンザイで送り出され、「憲兵」になったときには村の重鎮から誉れを言われていた。しかし、この人たちは「戦犯」を捕まえるための行動に早変わりし、自らの罪をこの行動によって免罪している。
香港でのスパイ活動や住民虐待は当然ながら行われ、それが国家のためと信じて「憲兵」たちは行動していた。
しかし、香港から逃げ出し本土に辿り着くが、家族への思いを抱えながら博多、山陰、大阪、東京、茨城と転々と人の目を避けた逃亡を続け、苛酷な逃亡生活とついに「戦犯」として捕まる様子が描かれている。
そして、日本の拘置所で「戦犯」として香港に移送される決定を待ちながら、次の文章が出てくる。
「確かに赤紙だけは存在した。あの紙片一枚で皇軍の兵士となった。赤紙は一体誰が出したのか。陸軍大臣あるいは連隊区司令部だろう。そして名目だけは皇軍兵士になったが、天皇自身は、駆り集められた兵隊を己の赤子などとは思ってもいなかったはずだ。陸軍大臣は次々と変わり、司令官とて猫の目のように入れ替わった。そうなると、兵隊を駆りたてた張本人は、いつの間にか姿をくらましたも同然だ。集められた烏合(うごう)の衆は、皇軍兵士とおだてられ、兵を預かる責任など、初めからもち合わせていない将官に動かされ、大陸と南方で無駄死にを強いられたのではなかったか。
特攻隊ですら、誰かが作戦に全責任を負っていたなら、誰ひとり思いつかず、口にしなかったに違いない。責任を取らなくていいので、軍上層部が誰からともなく言い出し、旗振りをしたのだ。旗を振るときの掛け声は、例の決まり文句、皇国のため、つまり皇と国のためだった。
ところがその皇も国も、民とはおよそ無関係だった。従って、掛け声に踊らされた行為は、すべてひとり相撲でしかなかったと言える。ひとり相撲で敵弾に倒れ、あるいは人を殺し、餓死し、傷ついたのだ。
国も天皇も軍部も俺たちを見捨てた。・・正確には、その三者とも初めからこちらを無視していた。無視していた者が見捨てるなど、ありえない」と。
訳の分からない不気味な国家の姿がこの小説から見えてくる。そして、権力者は庶民を自由気ままに利用し、捨て去り、一切の責任をとらない。
『逃亡』を読み終えて、義父を思い出した。同時に、妻の気持ちを今更ながら感じ取れた。
『逃亡』をすでに読んでいた妻にこの内容について語ったとき、はじめて義父の戦争時代の写真を妻は持ちだしてきた。まさに憲兵隊員の厳しい姿や朝鮮での私服の姿がここにあった。『逃亡』に出てくる威圧と懐柔と騙しの「憲兵」である。この写真だけを以前に見せてもらっていたら、ただただ違和感を覚えていただろう。単純に私の両親と比較して非難をしていただろう。勿論、妻はそれをすでに察知していたことは明瞭である。
権力の手先として利用された義父は、妻の戦後の成長期にも日の丸をみると直立不動の姿になっていたという。権力は庶民に習慣化させてきたものである。しかし、外地での行動を家族に漏らさず仕舞であった。昔を語れない人となっていた。終戦前に本土に帰還していたため、「戦犯」として追われることはなかったが、心の中に仕舞い込んだ悲惨で残酷なあの時代があったのだと予測がつく。
あらためて、国家権力の意味や権力に支配されない自由さを次世代に伝える責任を感じる。
戦争を語り継ぐ人たちとの
関係性は大事である。戦争では、目先の加害者が国家の被害者になっている。その事実を知ったとき、年寄りの戦争体験者のはなしを聞く機会が一層大事になっている。

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