大阪9区と神奈川16区の補選では、どちらも自民党の候補が勝ったようだ。特に神奈川では予想通りの展開だが、神奈川・大阪は共に小泉自民党の牙城であり、民主党にとっては厳しい地域での戦いであった。
基礎票の推移など詳細な分析は誰かに任せるとして、神奈川や大阪などの都市部は2005年の郵政選挙以前は民主党の得意とする地域であった。従来の民主党は都市型政党であり、農村部での議席拡大にいつも苦心していた。
去年は民主党の得意とする都市部で、軒並み小泉自民党に議席を奪われたことが民主党の惨敗(自民圧勝)につながったのである。
例えば小選挙区だけで見れば、2005年の総選挙で、東京では民主党が12議席から1議席に減り、神奈川では8議席から0議席に、大阪では9議席から4議席に減らした。
むろん民主党は、岡山2区などの農村部で議席を新たに確保する動きがあったものの、これは従来の熊代票が批判票として民主党に流れたためだと思われる。
そのような状況下で、最近の民主党の小沢代表は農村に対するアプローチを強めているようである。かつては従来型の自民党政治を批判して経世会を退会→自民党離党し、その後も一貫して過激な新自由主義者であった小沢一郎が、『小沢主義』(2006年、集英社)なる本の中で、「田中政治こそ民主主義の原点」などと言い出して「共生」というスローガンを掲げるようになっている。
小泉郵政選挙は一過性の間違いで、農村対策の基礎票を固めていけば都市部ではすぐに元に戻る、という戦略だったのかもしれないが、今回の選挙結果を見ると、都市部での議席の奪還もそう簡単ではないようだ。
ただ、小沢の戦略の欠陥が明らかになったという側面は確かにあるものの、全国規模で選挙をすれば、また違った結果になる可能性が高いのではないか。
それから民主党の敗因の一つとまでは言えないだろうが、民主党のテレビコマーシャルが意外なところで都市部の無党派層の反感を買ったのかもしれない。
これは、小沢一郎と犬が川辺で並んで座っており、犬が子どもの声で「政治って、何のためにあるの?」と小沢に尋ねる。それに対して小沢が、「政治は、みんなの幸せな生活を支えるためにあるんだよ。それを忘れたら、正しい政治とは言えないんだ。それが僕らの信念なんだ」と優しく犬に語りかけ、不気味に(?)ニッコリ笑ってみせる。
一見すると、のどかな映像だ。ただ、この場合、国民は小沢の犬という設定なのだろう。むろん、この設定自体に問題があるわけではない。国民を主導するのは政治家であるべきだろう。いくら民主主義とはいっても、支配者はあくまで政治家のはずであり、選挙というのは被支配者が支配者を選ぶ行為にすぎないからである。
しかし、大衆化の進んだ現代では、政治家は大衆の傀儡でよいとされるのが常であり、いつもマスコミでは世論調査の結果が金科玉条のように振り回される。そして、それに反する行為をした政治家は“国民の意思に反する”として糾弾されることになっている。次第に政治家が国民(犬)に向かって諭すという構図は容易に受け入れられるものではなくなってきているのである。
オルテガによれば、かつては指導される立場にあった凡庸で平均的な大衆たちが、自ら大衆であることをやめはじめ、世界を支配する決心を固めるようになった。
彼ら(大衆)にとってはもはや「彼ら本来の視覚も聴覚も持たぬ姿で介入してきて、彼らの「意見」を強制しない問題は、社会的な生の分野にはもはや一つも存在しないのである」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、101頁)。小泉政権下で、官邸がこまめに世論調査を行い、それに沿うように政策を決定していたことなどはこの表れだろう。
しかし、小沢は従来から、たとえ国民の意に反しても、政治家が国民のためになると信じる行動であるならば、政治家は信念をもってそれを実行するべきだ、と説いてきた(小沢一郎『語る』1996年、文芸春秋)。今はそうでもないが、以前の小沢の発言には、大衆に対する深い絶望が感じられたものである。
小泉のようなポピュリストに対立する、小沢のこのような(彼らにとっての)“反・民主主義”的な言動が国民にとって受け入れがたかった、ということだったのであれば、面白い現象なのだが、違うだろうなあ…

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