2009/2/21
改定から バイブル
Kさんに学ぶ
改定のしわ寄せについて、ちょっと代わった視点から書いてみたい。
介護サービスほっと有限会社は訪問介護と居宅介護支援事業の二つの事業を展開している。今回はヘルパーについての話だ。
ここのところ訪問介護のほうに、これまで声がかかったことがないケアマネさんからのヘルパー依頼が立て続けに来ている。ヘルパーにとってはうれしい悲鳴だ。
なぜ今まで声もかかったことがないケアマネさんからサービス依頼が来るのか?
非常に単純だ。今回の改訂の中にある「特定事業所集中減算」を回避するためだ。声をかけてくれるケアマネさんの殆どが自事業所の併設事業所に訪問介護がある。とすればこれまではサービスを併設事業所に割り振っていたものが、特定事業所集中減算を回避するために、新しい事業所へ仕事を振っているということになる。
だとすれば、これまでケアマネジャーは事業所の選択において併設事業所優先でマネジメントを展開してきたのか、と疑われてしまう危険性がある。確かに併設事業所を利用するメリットは数多くある。でもその殆どが利用者主体のメリットというよりもケアマネ主体のメリットといっても過言ではない。確かに私自身も併設事業所にヘルパー以来をするし、それが楽であるという実感も持っている。
でも、それだけではない。併設事業所のヘルパーの力量を知り、利用者のニーズ充足のためには併設事業所を利用することが必要であるという判断の上で併設事業所に仕事の依頼をしている。何せ併設事業所のヘルパーは生活機能向上ということについて、理屈では理解場難しくても実践においては当たり前のことと理解して実践できている。だからこのような視点でこのような展開を、という依頼をしてもすぐに行動に結びつけることができて、結果も出してくれる。特に私がよく使う手段として、利用者や家族の指導というものがあるが、それについても本当に手際よく指導してくれて利用者自身や家族の介護能力を向上してくれる。だから併設事業所へサービスを依頼することがどうしても多くなる。
ただ、併設事業所のヘルパーはこのような仕事をする事が当たり前だと思っているが、このようなサービスを依頼されることが殆どないので担当ケアマネじゃサンにそれを求めることがしばしばある。それによってほっとのヘルパーは「細かい・うるさい」と思われている節があるようだ。これに対してはいつも「ごちゃごちゃ言われても筋を通せ。ヘルパーとして、事業所として間違ったことをしているわけでも言っているわけでもない。改めなければいけないのはケアマネのほうが」と発破をかけている。
話しが本筋から離れてきたが、特定事業所集中減算を回避するため今まで使ったことのない事業所を選択するようになるというのはある面では冒険である。事業所にしてみれば「試されている」という感覚に近くなる。ここでしっかりとした結果を出すことが「実績」になり、その後のサービス以来へと結び付けていくことにつながっていく。しかし結果を出さないこともまた「実績」となり、その後への影響力が大きくなる。
このことをヘルパーのトップ以降一人ひとりのヘルパーが自覚してサービス提供に励んでいる。これはきっと良い結果をもたらしてくれることと願ってやまない。
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改定のしわ寄せについて、ちょっと代わった視点から書いてみたい。
介護サービスほっと有限会社は訪問介護と居宅介護支援事業の二つの事業を展開している。今回はヘルパーについての話だ。
ここのところ訪問介護のほうに、これまで声がかかったことがないケアマネさんからのヘルパー依頼が立て続けに来ている。ヘルパーにとってはうれしい悲鳴だ。
なぜ今まで声もかかったことがないケアマネさんからサービス依頼が来るのか?
非常に単純だ。今回の改訂の中にある「特定事業所集中減算」を回避するためだ。声をかけてくれるケアマネさんの殆どが自事業所の併設事業所に訪問介護がある。とすればこれまではサービスを併設事業所に割り振っていたものが、特定事業所集中減算を回避するために、新しい事業所へ仕事を振っているということになる。
だとすれば、これまでケアマネジャーは事業所の選択において併設事業所優先でマネジメントを展開してきたのか、と疑われてしまう危険性がある。確かに併設事業所を利用するメリットは数多くある。でもその殆どが利用者主体のメリットというよりもケアマネ主体のメリットといっても過言ではない。確かに私自身も併設事業所にヘルパー以来をするし、それが楽であるという実感も持っている。
でも、それだけではない。併設事業所のヘルパーの力量を知り、利用者のニーズ充足のためには併設事業所を利用することが必要であるという判断の上で併設事業所に仕事の依頼をしている。何せ併設事業所のヘルパーは生活機能向上ということについて、理屈では理解場難しくても実践においては当たり前のことと理解して実践できている。だからこのような視点でこのような展開を、という依頼をしてもすぐに行動に結びつけることができて、結果も出してくれる。特に私がよく使う手段として、利用者や家族の指導というものがあるが、それについても本当に手際よく指導してくれて利用者自身や家族の介護能力を向上してくれる。だから併設事業所へサービスを依頼することがどうしても多くなる。
ただ、併設事業所のヘルパーはこのような仕事をする事が当たり前だと思っているが、このようなサービスを依頼されることが殆どないので担当ケアマネじゃサンにそれを求めることがしばしばある。それによってほっとのヘルパーは「細かい・うるさい」と思われている節があるようだ。これに対してはいつも「ごちゃごちゃ言われても筋を通せ。ヘルパーとして、事業所として間違ったことをしているわけでも言っているわけでもない。改めなければいけないのはケアマネのほうが」と発破をかけている。
話しが本筋から離れてきたが、特定事業所集中減算を回避するため今まで使ったことのない事業所を選択するようになるというのはある面では冒険である。事業所にしてみれば「試されている」という感覚に近くなる。ここでしっかりとした結果を出すことが「実績」になり、その後のサービス以来へと結び付けていくことにつながっていく。しかし結果を出さないこともまた「実績」となり、その後への影響力が大きくなる。
このことをヘルパーのトップ以降一人ひとりのヘルパーが自覚してサービス提供に励んでいる。これはきっと良い結果をもたらしてくれることと願ってやまない。
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2009/2/21
介護の仕事 バイブル
Kさんに学ぶ
先週から今週にかけて介護予防に関する研修のお手伝いをしている。
割く年度末からずっと介護予防にかかわる研修に関与しているが、研修をするたびに感じることがある。
介護って要介護高齢者の生活を矯正するためにあるのか?
ということだ。
例えば趣味に熱中して食事を摂らずにいる事がある。趣味に熱中して夜遅くまで起きている事がある。
このような状況は問題だ、三食はきちんととらなくてはいけない・生活のリズムはきちんとしなくてはいけない。
本当にそうなのか?利用者は、介護を必要としている「特殊」な人なので、我々の生活とは異なり、四角四面に、きちんとしたルールに則った生活を、毎日毎日いつでもどんな時でも行わなければならないものだろうか。
こういう問いかけをすると十人が十人、そんなことはない、と返答をする。しかし実際の発想やプラン作りの中ではこのようなことを平気で発想しプラン作りをする。
このような発想に基づくプラン、このような発想に基づく介護を受けている要介護高齢者は本当にかわいそうだ。いくつになっても他人に管理され、自分が長年築き上げてきた生活を、生活のスタイルを、介護が必要になったという理由だけで矯正されなくてはいけなくなる。
ケアマネジャーも介護サービスを提供する人も、自分自身がこのような生活をしなければいけないという状況を甘んじて受けることができるかを真剣に考えてみなくてはいけない。
その上で反省をし、そのような発想と実践をしないようにしていかなくてはならない。
かのバイステックは「非審判的態度」ということを述べた。自分自身や一般常識で利用者を判断してはならないということだが、これを全く忘れている現状を何とかしなければならない。
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先週から今週にかけて介護予防に関する研修のお手伝いをしている。
割く年度末からずっと介護予防にかかわる研修に関与しているが、研修をするたびに感じることがある。
介護って要介護高齢者の生活を矯正するためにあるのか?
ということだ。
例えば趣味に熱中して食事を摂らずにいる事がある。趣味に熱中して夜遅くまで起きている事がある。
このような状況は問題だ、三食はきちんととらなくてはいけない・生活のリズムはきちんとしなくてはいけない。
本当にそうなのか?利用者は、介護を必要としている「特殊」な人なので、我々の生活とは異なり、四角四面に、きちんとしたルールに則った生活を、毎日毎日いつでもどんな時でも行わなければならないものだろうか。
こういう問いかけをすると十人が十人、そんなことはない、と返答をする。しかし実際の発想やプラン作りの中ではこのようなことを平気で発想しプラン作りをする。
このような発想に基づくプラン、このような発想に基づく介護を受けている要介護高齢者は本当にかわいそうだ。いくつになっても他人に管理され、自分が長年築き上げてきた生活を、生活のスタイルを、介護が必要になったという理由だけで矯正されなくてはいけなくなる。
ケアマネジャーも介護サービスを提供する人も、自分自身がこのような生活をしなければいけないという状況を甘んじて受けることができるかを真剣に考えてみなくてはいけない。
その上で反省をし、そのような発想と実践をしないようにしていかなくてはならない。
かのバイステックは「非審判的態度」ということを述べた。自分自身や一般常識で利用者を判断してはならないということだが、これを全く忘れている現状を何とかしなければならない。
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2009/2/21
危機回避 バイブル
Kさんとお勉強
動けないはずの利用者さんがヘルパーが訪問したときには屋外にある洗濯機を廻し、朝食の準備をしていた。
「○○さん、動けないんじゃないの?」
「うんにゃ、トイレに行ったり洗濯したりご飯の支度ぐらいは何とかできるさ。」
「だってケアマネさんは『動けないのでご飯作りして欲しい』っていわれたからご飯作りにきたんだよ」
「うん、ケアマネさんが『ヘルパーさんに来てもらって3食作ってもらいますから』って行っていたけど、そのときにはそんな必要はないって言ったんだけどね」
「ふ〜ん、そうなんだ。で、体調はどうなの?大丈夫なの?」
「痛いことは痛いし、無理はできないけど、ご飯なんかは今までどおり大丈夫、一人で何とかできるよ。」
「じゃあ、ヘルパーに来てもらわなくても大丈夫なのかな?」
「ただ買物ができないから、今までどおり買物はしてもらいたいけどね。」
「でも、ケアマネさんはしばらくは3回入れって言っていて、ヘルパーもそうするようにしてきたよ。今までどおりだとすると、3回も違うヘルパーが入れ替わりたちかわりでくるとたいへんかな?」
「こういっちゃ悪いけど、あんまり人が沢山出入りすると息が詰まるようだわ。我侭言って悪いけど本音はそうだよ。」
こんなやり取りが減るパートの間であったと言う。
この利用者さん、急速に持病が悪化し、動けなくなったため、ここ2〜3日食事も大変な様子だと言うことで、ケアマネが危機介入したわけだ。
ここで危機介入について考えてみたい。
まず何がどのような危機なのか。
今回の事例では体調の悪化によって動くことがままならず、食事も事欠くような状況になっていること。この状況が継続することによって健康状態の悪化が予測されると言う状況が危機である。
そこに利用者さんは独居で、インフォーマルなサポートも薄い環境にあるため、容易に食事に事欠く状況の改善は困難なこと。
ではこの利用者さんは食事が作れないのかと言うとそうではない。痛みがありながらもトイレにも行かれているし屋外の洗濯機までの移動はでき、洗濯はできている。ただご飯を作る間立っていることが困難になっている。けっして食べられないわけではなく作れないと言うわけでもないのだ。長時間掛けて作れないと言うことだ。
となると対応としては食事作りを代行するのではなく、利用者さん自身ができるような工夫をする事がポイントになってくるわけだ。例えばおにぎりを用意する、出来合いのお惣菜を活用するなどの方法でも可能になってくるわけだ。
更に今回利用者さんが「ご飯作れないからヘルパーさんに来てもらって作って欲しい」と希望したわけではないことに注目する必要がある。誰がヘルパーによる調理を発案したのかと言えばケアマネだということになる。
ケアマネは危機的状況に接し、食事作りをする事を優先した。利用者さんのできることや利用者さんの気持ちよりも「食事を確保すること」を優先したわけだ。
それによって利用者さんは「息が詰まる」という感想を抱いている。
危機介入の場合、表面的な状況にのみ着目するのではなく、何がどのような危機を招いていて、現時点で何を優先的に対応していく必要があるのかを導き出すことが一番大切になる。
この事例では食事を自分では満足に作れないと言うことが継続されるのかということ=生命の危機の可能性を分析することが必要になる。
この事例では実はその危険性はなかったわけだ。そのため不必要な支援になってしまったことになる。
この事例では体調の悪化により独り暮らしの生活に危機が訪れた。でもその中で利用者さんに何ができるか、何に困っているのかを分析すれば痛みのある動作をすることなく食を確保できる方策は何かを考えることが求められたわけだ。
そして具体的な支援は、どうすれば痛みのある動作をせずに食事を食べられるようにするのかのアイディアを出し、利用者さんと検討する。例として市販のおにぎりを用意するとか、お惣菜の活用とかも具体策の例になってくる。
危機介入の際、ケアマネは焦ってはいけない。こういう場合ほど冷静に、何がどうなって、何をする必要があるのかを的確に分析することと、対応の優先順位を間違えないようにすることが求められているとともに、医療への結びつけを考えていくことに留意する必要がある。
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動けないはずの利用者さんがヘルパーが訪問したときには屋外にある洗濯機を廻し、朝食の準備をしていた。
「○○さん、動けないんじゃないの?」
「うんにゃ、トイレに行ったり洗濯したりご飯の支度ぐらいは何とかできるさ。」
「だってケアマネさんは『動けないのでご飯作りして欲しい』っていわれたからご飯作りにきたんだよ」
「うん、ケアマネさんが『ヘルパーさんに来てもらって3食作ってもらいますから』って行っていたけど、そのときにはそんな必要はないって言ったんだけどね」
「ふ〜ん、そうなんだ。で、体調はどうなの?大丈夫なの?」
「痛いことは痛いし、無理はできないけど、ご飯なんかは今までどおり大丈夫、一人で何とかできるよ。」
「じゃあ、ヘルパーに来てもらわなくても大丈夫なのかな?」
「ただ買物ができないから、今までどおり買物はしてもらいたいけどね。」
「でも、ケアマネさんはしばらくは3回入れって言っていて、ヘルパーもそうするようにしてきたよ。今までどおりだとすると、3回も違うヘルパーが入れ替わりたちかわりでくるとたいへんかな?」
「こういっちゃ悪いけど、あんまり人が沢山出入りすると息が詰まるようだわ。我侭言って悪いけど本音はそうだよ。」
こんなやり取りが減るパートの間であったと言う。
この利用者さん、急速に持病が悪化し、動けなくなったため、ここ2〜3日食事も大変な様子だと言うことで、ケアマネが危機介入したわけだ。
ここで危機介入について考えてみたい。
まず何がどのような危機なのか。
今回の事例では体調の悪化によって動くことがままならず、食事も事欠くような状況になっていること。この状況が継続することによって健康状態の悪化が予測されると言う状況が危機である。
そこに利用者さんは独居で、インフォーマルなサポートも薄い環境にあるため、容易に食事に事欠く状況の改善は困難なこと。
ではこの利用者さんは食事が作れないのかと言うとそうではない。痛みがありながらもトイレにも行かれているし屋外の洗濯機までの移動はでき、洗濯はできている。ただご飯を作る間立っていることが困難になっている。けっして食べられないわけではなく作れないと言うわけでもないのだ。長時間掛けて作れないと言うことだ。
となると対応としては食事作りを代行するのではなく、利用者さん自身ができるような工夫をする事がポイントになってくるわけだ。例えばおにぎりを用意する、出来合いのお惣菜を活用するなどの方法でも可能になってくるわけだ。
更に今回利用者さんが「ご飯作れないからヘルパーさんに来てもらって作って欲しい」と希望したわけではないことに注目する必要がある。誰がヘルパーによる調理を発案したのかと言えばケアマネだということになる。
ケアマネは危機的状況に接し、食事作りをする事を優先した。利用者さんのできることや利用者さんの気持ちよりも「食事を確保すること」を優先したわけだ。
それによって利用者さんは「息が詰まる」という感想を抱いている。
危機介入の場合、表面的な状況にのみ着目するのではなく、何がどのような危機を招いていて、現時点で何を優先的に対応していく必要があるのかを導き出すことが一番大切になる。
この事例では食事を自分では満足に作れないと言うことが継続されるのかということ=生命の危機の可能性を分析することが必要になる。
この事例では実はその危険性はなかったわけだ。そのため不必要な支援になってしまったことになる。
この事例では体調の悪化により独り暮らしの生活に危機が訪れた。でもその中で利用者さんに何ができるか、何に困っているのかを分析すれば痛みのある動作をすることなく食を確保できる方策は何かを考えることが求められたわけだ。
そして具体的な支援は、どうすれば痛みのある動作をせずに食事を食べられるようにするのかのアイディアを出し、利用者さんと検討する。例として市販のおにぎりを用意するとか、お惣菜の活用とかも具体策の例になってくる。
危機介入の際、ケアマネは焦ってはいけない。こういう場合ほど冷静に、何がどうなって、何をする必要があるのかを的確に分析することと、対応の優先順位を間違えないようにすることが求められているとともに、医療への結びつけを考えていくことに留意する必要がある。
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2009/2/21
サービスの質
Kさんとお勉強
例えば次の選択肢のうちのどれが「質の悪いサービス」になるだろう。
選択肢1
利用者さんが大変だからヘルパーが代わりに仕事するので、利用者さんはヘルパーが来たときくらいゆっくりして、というサービス。
選択肢2
いくつになっても自分のできることは自分で行うように頑張って。できないことはヘルパーが手伝うので、自分のできることは時分でして、というサービス。
選択肢3
利用者さんは独居で下肢筋力も低下してきているからヘルパーと一緒に散歩して家の周りの景色を見たり気分転換したりする、というサービス。
厳密に言えば利用者の状況、置かれている環境などの諸条件を明確にしないと良い・悪いの判断はできないものだし、そもそも「良い・悪い」が誰にとってどのように「よい・悪い」者なのかを明確にしないと答えは出せない。
選択肢1では日常で誠意パイ頑張っている利用者さんにとってみればこのヘルパーのサービスは「良いサービス」になるだろう。しかし家族や第三者的な立場ではそのサービスを提供してしまうことで利用者さんの持っている力を活用しないために「悪いサービス」だと判断される。
選択肢2では選択肢1とは逆に保有している力を活用するという視点では「良いサービス」だろうが、利用者さんの立場では「鞭打たれて」という感覚になる。
選択肢3では法令的には不適切なサービスになる野江「悪いサービス」になるだろうが、利用者さんにとっては有意義な「良いサービス」になる。
つまりある一部分だけを切り取ってそれの良し悪しを判断することはたいした意味を持たないということになる。
では「良いサービス」とはいったいどのようなものなのだろうか。
1つ目の条件として介護保険の給付において、という条件が必要になる。
2つ目の条件として自立支援の視点において、という条件が必要になる。
この条件をつけた中での「良いサービス」とはこんなものになるのではないかと思う。
1:法令を守っていること。
2:利用者や家族の可能性を活用するものであること。
3:臨機応変に、柔軟に利用者や家族の「そのとき」の状況に応じて適切に状況に順応できる支援であること。
これらを全て充たしていることが「良いサービス」ということになるのではないかと思う。
ただ、これらの条件は別に「良いサービス」の条件ではなく「サービス」の条件だということも考えておかなければいけないことだ。つまりこれらの条件は「普通のサービス」の条件で、ここに更にいくつかの条件を「上乗せ」したものが「本来の良いサービス」ということになると考える。でも実際にはそこまで求めるのは難しいのと、普通のレベルを充たしているケースがさほど多くはない実情の中で、あえて「良いサービス」とした。
時おり「利用者さんがかわいそうだから」ということから支援が出発しているケースを見かける。こういうケースでは選択肢1のような支援になる可能性が高いという傾向がある。このようなケースでは「その時」にはたしかに利用者さんにとっては有益な支援になっている。が、長期的な視点で観れば、その積み重ねによって利用者さんの「やる気」や「実際の能力」を「介護報酬をもらった上で援助者が奪い去っていき、更に長期間の仕事を確保するための支援」になっているということになってしまう危険性がある。
かわいそう⇒かわいそうでなくする⇒支援で代行するという発想ではなく、かわいそうでなくするために利用者自身ができることとできないことを区分けしよう、できることは自分でしてもらい、できないことのうちできるようになる可能性のある部分にはそのようになるような支援を提供し、不可能な部分は補っていく。このような発想と思考と実践が必要となっている。
そしてこれこそがアセスメントというものになる。
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例えば次の選択肢のうちのどれが「質の悪いサービス」になるだろう。
選択肢1
利用者さんが大変だからヘルパーが代わりに仕事するので、利用者さんはヘルパーが来たときくらいゆっくりして、というサービス。
選択肢2
いくつになっても自分のできることは自分で行うように頑張って。できないことはヘルパーが手伝うので、自分のできることは時分でして、というサービス。
選択肢3
利用者さんは独居で下肢筋力も低下してきているからヘルパーと一緒に散歩して家の周りの景色を見たり気分転換したりする、というサービス。
厳密に言えば利用者の状況、置かれている環境などの諸条件を明確にしないと良い・悪いの判断はできないものだし、そもそも「良い・悪い」が誰にとってどのように「よい・悪い」者なのかを明確にしないと答えは出せない。
選択肢1では日常で誠意パイ頑張っている利用者さんにとってみればこのヘルパーのサービスは「良いサービス」になるだろう。しかし家族や第三者的な立場ではそのサービスを提供してしまうことで利用者さんの持っている力を活用しないために「悪いサービス」だと判断される。
選択肢2では選択肢1とは逆に保有している力を活用するという視点では「良いサービス」だろうが、利用者さんの立場では「鞭打たれて」という感覚になる。
選択肢3では法令的には不適切なサービスになる野江「悪いサービス」になるだろうが、利用者さんにとっては有意義な「良いサービス」になる。
つまりある一部分だけを切り取ってそれの良し悪しを判断することはたいした意味を持たないということになる。
では「良いサービス」とはいったいどのようなものなのだろうか。
1つ目の条件として介護保険の給付において、という条件が必要になる。
2つ目の条件として自立支援の視点において、という条件が必要になる。
この条件をつけた中での「良いサービス」とはこんなものになるのではないかと思う。
1:法令を守っていること。
2:利用者や家族の可能性を活用するものであること。
3:臨機応変に、柔軟に利用者や家族の「そのとき」の状況に応じて適切に状況に順応できる支援であること。
これらを全て充たしていることが「良いサービス」ということになるのではないかと思う。
ただ、これらの条件は別に「良いサービス」の条件ではなく「サービス」の条件だということも考えておかなければいけないことだ。つまりこれらの条件は「普通のサービス」の条件で、ここに更にいくつかの条件を「上乗せ」したものが「本来の良いサービス」ということになると考える。でも実際にはそこまで求めるのは難しいのと、普通のレベルを充たしているケースがさほど多くはない実情の中で、あえて「良いサービス」とした。
時おり「利用者さんがかわいそうだから」ということから支援が出発しているケースを見かける。こういうケースでは選択肢1のような支援になる可能性が高いという傾向がある。このようなケースでは「その時」にはたしかに利用者さんにとっては有益な支援になっている。が、長期的な視点で観れば、その積み重ねによって利用者さんの「やる気」や「実際の能力」を「介護報酬をもらった上で援助者が奪い去っていき、更に長期間の仕事を確保するための支援」になっているということになってしまう危険性がある。
かわいそう⇒かわいそうでなくする⇒支援で代行するという発想ではなく、かわいそうでなくするために利用者自身ができることとできないことを区分けしよう、できることは自分でしてもらい、できないことのうちできるようになる可能性のある部分にはそのようになるような支援を提供し、不可能な部分は補っていく。このような発想と思考と実践が必要となっている。
そしてこれこそがアセスメントというものになる。
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2009/2/21
サービスの根拠 同居家族 バイブル
Kさんとお勉強
訪問介護サービスについて、ニチイやコムスンの問題も含めて、給付適正化の流れの中でメインターゲットにされている。それだけ不適切な状況が多いということなのか、そこが「とりやすい」ということなのか「保険者の姿勢・保険者職員の姿勢」の中でも触れたし「コムスン事件の影響」の中でも触れたように、給付適正化の流れは今後ますます加速されていくことだろう。これは「適正化」という本来の流れの中で展開されていくのであればなんら問題はないと考えている。
しかし現状においては、適正化する方ではなく、適正化を求められる方=ケアマネジャーが、いたずらに戦々恐々として、本来必要である生活援助や長時間サービスをどんどんと変更しているという。
ちょっと待った!その支援が必要なんでしょう。必要だからケアプランに位置づけているんでしょう。だったらその必要性を正々堂々と主張すれば言いだけではないのか?そう問いかけてみたい。
そんな話をしていたら、必要性を明確にすることができていないのではないかという話になった。それがなければ生活が、望む暮らしの実現が不可能や困難になるというところまでの解析をしていないのではないか。だから生活援助を身体生活や身体介護に「付け替え」手いるのではないかと言う。
これはおかしい。これはアセスメント不足そのものだ。適正化については県内のいくつかの市町村の事業の手伝いをしたときにも伝えてきているが、必要性があるのか。あるのであればその必要性を示して欲しい。示した上で算定可能な状況にあるのかをみんなで協議すればいい。その結果必要だし算定してもいいとなったら堂々と算定すればいいだけのことだ。
しかしケアプラン作成プロセスの中を見てもなかなか必要性が明らかではない。説明を求めると至極最もな状況を話してくれる。それをなぜアセスメントした結果として残しておかないのかと尋ねると、アセスメントってそこまでする必要があるのかと逆に質問される。
これは同居親族がいる場合の生活援助の算定についての基本的ルールを理解していないということなのだろう。確認すると基本的には算定しないということは理解している。算定できる条件も理解していて、独居や家族がいても疾病や障害によって必要な支援が提供できない場合や、個別の必要性がある場合には算定できるということは理解できている。しかしその具体的な方法については理解出来ていないということだ。
具体的な方法は「個別の必要性」を明確にアセスメントから導き出し、その状況を保険者に提示して事前に確認。そこで了解を得ること。これが先に述べた「みんなで協議する」ということの具体化の1つだ。
すなわちこれは同居家族がいる場合の生活援助を算定するための根拠を明確にするということに他ならない。
さてもう一方の長時間サービスについてもやはりその支援が「訪問介護」で持って充足することの根拠と、「その時間の支援を必要とする根拠」の二つの根拠を明確にすることが必要不可欠になる。
例えば認知症があって徘徊や日の危険などの周辺症状が著しくあり常時目が離せない状況にある。そのクライアントをどうしても家族が出かけなくてはいけない用事がある。このようなときに支援を求められた。
このときその支援の方法としては様々なことが考えられる。例えば通所系サービスを利用する。日帰りショートステイをはじめとしてショートステイを利用する。保険給付外の一般施策やインフォーマルサポートを利用する。親戚などに支援を依頼する。これらの方法論の全てが利用不可能であるということ、すなわち訪問介護以外に支援の方法がないということを立証する必要がある。つまりケアマネはこれらの支援策について情報を提示し、その可否の確認をする事がアセスメントになるわけだ。
これによって訪問介護以外には支援できないことを証明した後、今度は「時間」の根拠を明確にする。例えば家族が午前9時に出かけ午後5時に帰宅するのでこの間の支援を行う。ただしこの間であっても実際に重度の周辺症状がありその見守りを含めた身体介護を実際にしている時間の合計時間のみを算定する、というように根拠を明確にする必要がある。
この二点を明確にした上で保険者と協議をする。OKが出れば正々堂々と支援を提供し、算定をする。
これを行わずに何とかしようとすればそれはNGになる。NGになることで事業所にも利用者にも迷惑がかかることになる。このようなことにならないためにも「根拠」を明確にするアセスメントが不可欠になる。
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訪問介護サービスについて、ニチイやコムスンの問題も含めて、給付適正化の流れの中でメインターゲットにされている。それだけ不適切な状況が多いということなのか、そこが「とりやすい」ということなのか「保険者の姿勢・保険者職員の姿勢」の中でも触れたし「コムスン事件の影響」の中でも触れたように、給付適正化の流れは今後ますます加速されていくことだろう。これは「適正化」という本来の流れの中で展開されていくのであればなんら問題はないと考えている。
しかし現状においては、適正化する方ではなく、適正化を求められる方=ケアマネジャーが、いたずらに戦々恐々として、本来必要である生活援助や長時間サービスをどんどんと変更しているという。
ちょっと待った!その支援が必要なんでしょう。必要だからケアプランに位置づけているんでしょう。だったらその必要性を正々堂々と主張すれば言いだけではないのか?そう問いかけてみたい。
そんな話をしていたら、必要性を明確にすることができていないのではないかという話になった。それがなければ生活が、望む暮らしの実現が不可能や困難になるというところまでの解析をしていないのではないか。だから生活援助を身体生活や身体介護に「付け替え」手いるのではないかと言う。
これはおかしい。これはアセスメント不足そのものだ。適正化については県内のいくつかの市町村の事業の手伝いをしたときにも伝えてきているが、必要性があるのか。あるのであればその必要性を示して欲しい。示した上で算定可能な状況にあるのかをみんなで協議すればいい。その結果必要だし算定してもいいとなったら堂々と算定すればいいだけのことだ。
しかしケアプラン作成プロセスの中を見てもなかなか必要性が明らかではない。説明を求めると至極最もな状況を話してくれる。それをなぜアセスメントした結果として残しておかないのかと尋ねると、アセスメントってそこまでする必要があるのかと逆に質問される。
これは同居親族がいる場合の生活援助の算定についての基本的ルールを理解していないということなのだろう。確認すると基本的には算定しないということは理解している。算定できる条件も理解していて、独居や家族がいても疾病や障害によって必要な支援が提供できない場合や、個別の必要性がある場合には算定できるということは理解できている。しかしその具体的な方法については理解出来ていないということだ。
具体的な方法は「個別の必要性」を明確にアセスメントから導き出し、その状況を保険者に提示して事前に確認。そこで了解を得ること。これが先に述べた「みんなで協議する」ということの具体化の1つだ。
すなわちこれは同居家族がいる場合の生活援助を算定するための根拠を明確にするということに他ならない。
さてもう一方の長時間サービスについてもやはりその支援が「訪問介護」で持って充足することの根拠と、「その時間の支援を必要とする根拠」の二つの根拠を明確にすることが必要不可欠になる。
例えば認知症があって徘徊や日の危険などの周辺症状が著しくあり常時目が離せない状況にある。そのクライアントをどうしても家族が出かけなくてはいけない用事がある。このようなときに支援を求められた。
このときその支援の方法としては様々なことが考えられる。例えば通所系サービスを利用する。日帰りショートステイをはじめとしてショートステイを利用する。保険給付外の一般施策やインフォーマルサポートを利用する。親戚などに支援を依頼する。これらの方法論の全てが利用不可能であるということ、すなわち訪問介護以外に支援の方法がないということを立証する必要がある。つまりケアマネはこれらの支援策について情報を提示し、その可否の確認をする事がアセスメントになるわけだ。
これによって訪問介護以外には支援できないことを証明した後、今度は「時間」の根拠を明確にする。例えば家族が午前9時に出かけ午後5時に帰宅するのでこの間の支援を行う。ただしこの間であっても実際に重度の周辺症状がありその見守りを含めた身体介護を実際にしている時間の合計時間のみを算定する、というように根拠を明確にする必要がある。
この二点を明確にした上で保険者と協議をする。OKが出れば正々堂々と支援を提供し、算定をする。
これを行わずに何とかしようとすればそれはNGになる。NGになることで事業所にも利用者にも迷惑がかかることになる。このようなことにならないためにも「根拠」を明確にするアセスメントが不可欠になる。
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2009/2/21
ヘルパーと2人3脚 バイブル
Kさんとお勉強
家族のケアとセルパーのケアを比較してみる。
家族は利用者さんのことをよく知っている。ヘルパーは当初は知らない。
家族はケアのことをあまり知らない。ヘルパーはよく知っている。
家族は利用者さんにとってどのように接したらよいかを経験から学び構築している。ヘルパーは専門的見地に基づきどうしたらよいかを考える。
私は訪問介護を計画に位置づける時にはかなり神経を使う。基本的にはヘルパーが代行する必要がある場合以外には家族と一緒に介護をするように働きかけをしていく。
具体的には家族には可能な限りヘルパーと一緒に介護に参加するようにしてもらい、ヘルパーに対しては家族の持っている様々な・そして詳細な情報や日頃の工夫を伝達してもらい、ヘルパーには家族の行っている介護方法の無理や無駄を見つけ、より負担の少なくて効率的な介護の方法を伝えてもらいそれを伝授してもらったり、接し方や超えがけも含めた介護の仕方を覚えてもらうようにする。
これは家族とヘルパーとの間でで、相互の特定を伝達し共有化し、合同で一つのケアを組み立ててていくということだ。これをしていくことで互いに様々な工夫をしてさらに良いケアの提供が可能になり、そこからまた…という良循環が産み出されてくることに繋がっていく。そのための「二人三脚」であり、二人三脚で走るための相互の信頼関係なのだ。
併設のヘルパーはそこが実に巧だ。家族との信頼関係の構築が上手だ。それは必要としていることを的確に見つけ、提供することができるからだ。そのための観察力と洞察力が優れているからだ。だからヘルパーと家族と協力して利用者さんにとってより良い(ベターな)ケアを作り上げていくことが短時間で可能になる。
これが併設のヘルパーの強みだし、これを活用する必要のあるケースにはなくてはならない資源だ。だからこそ普段はあまり無駄遣いをしないようにしないようにしている。とはいうもののなぜかしら利用者さんのニーズが似通ってくるのか自分がそのように働きかけていくのか、他事業所に触れるようなケースが少ないのが頭が痛いところではあるが…。
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家族のケアとセルパーのケアを比較してみる。
家族は利用者さんのことをよく知っている。ヘルパーは当初は知らない。
家族はケアのことをあまり知らない。ヘルパーはよく知っている。
家族は利用者さんにとってどのように接したらよいかを経験から学び構築している。ヘルパーは専門的見地に基づきどうしたらよいかを考える。
私は訪問介護を計画に位置づける時にはかなり神経を使う。基本的にはヘルパーが代行する必要がある場合以外には家族と一緒に介護をするように働きかけをしていく。
具体的には家族には可能な限りヘルパーと一緒に介護に参加するようにしてもらい、ヘルパーに対しては家族の持っている様々な・そして詳細な情報や日頃の工夫を伝達してもらい、ヘルパーには家族の行っている介護方法の無理や無駄を見つけ、より負担の少なくて効率的な介護の方法を伝えてもらいそれを伝授してもらったり、接し方や超えがけも含めた介護の仕方を覚えてもらうようにする。
これは家族とヘルパーとの間でで、相互の特定を伝達し共有化し、合同で一つのケアを組み立ててていくということだ。これをしていくことで互いに様々な工夫をしてさらに良いケアの提供が可能になり、そこからまた…という良循環が産み出されてくることに繋がっていく。そのための「二人三脚」であり、二人三脚で走るための相互の信頼関係なのだ。
併設のヘルパーはそこが実に巧だ。家族との信頼関係の構築が上手だ。それは必要としていることを的確に見つけ、提供することができるからだ。そのための観察力と洞察力が優れているからだ。だからヘルパーと家族と協力して利用者さんにとってより良い(ベターな)ケアを作り上げていくことが短時間で可能になる。
これが併設のヘルパーの強みだし、これを活用する必要のあるケースにはなくてはならない資源だ。だからこそ普段はあまり無駄遣いをしないようにしないようにしている。とはいうもののなぜかしら利用者さんのニーズが似通ってくるのか自分がそのように働きかけていくのか、他事業所に触れるようなケースが少ないのが頭が痛いところではあるが…。
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2009/2/21
生活支援
Kさんでお勉強
状況の詳細は金曜日のスレッドを確認して欲しい。
どうしてこのような混乱に陥るのか。それは利用者の一部分である心身状態や身体構造がその利用者のすべてであると思い込むからだ。そしてその心身状態や身体構造が良くなれば生活がよりよいものになるという誤った見識に支配されているからだ。
この発想はICIDHの発想のうち、最も弱点とされている発想だ。身体的な機能がいくら向上できたとしてもそれが利用者の望む暮らしに全く機能しないことはこれまでいくらでも証明されてきている。それがあったからこそICFの発想が産み出されてきたのだから。
そしてこの発想の最大の問題は利用者をパーツでしか見ていない・考えていないということだ。生活をしている主体的な存在であり、生活には様々な要素があって成り立っているということを全く理解出来ていないため、単に手や足の動きさえ良くなればみんな上手くいくと思い込んでいることだ。
例えば身体的には麻痺があり、麻痺側の機能は著しく低下している。しかし利用者はその状況の中で長い時間を使って、自分の体の動く範囲内で自分で動けるような「工夫」をしてきて現在の動作へと結びついている。この中には専門職が見ればおかしなことや不合理なことや不適切なことも多々あるだろう。しかしその動きは利用者が自ら工夫して作り上げたものだ。それを全否定し、不都合や不合理な動きを適切な動きに修正する。そしてその動きをすぐに生活の場の中で取り入れようとする。そうしていけば当然に利用者は混乱をする。この混乱は単に身体的な、あるいは動作的な混乱にとどまらず生活全体の混乱へと結びつく。今まで何とか自分でトイレまで移動できていたのに、変にサービスを使いリハビリを受けたがために自分がどうしてよいのかわからずに移動できなくなることはよくみられることだ。
このようなとき必要なことは、支援が上手くいっていないということに気がついて「元に戻す」ことだ。しかしそのためには生活全体が見えていないと、生活機能が支援をする事で混乱して活かしているということに気がつかないとできないことだ。
往々にしてこのような発想をする支援者は少なくない。この危険性に気がついている支援者は主流派ではないようだ。ということは支援者の不適切な判断と対応のために生活機能を低下させられている利用者も少なくないということだ。
おまけにこの間違った対応を修繕する機会でもあるサービス担当者会議を開催しないのでいつまでたっても支援することが生活機能低下をもたらしているという悪循環を断ち切ることができないでいる。
生活を支援していく上で絶対にしてはならないことは、利用者をパーツでしか見ないということだ。生活をしていく上で今何が課題になるのかを見出すときに身体機能などの「一つの部分」で全てを捉えようとすることだ。
これを実際に援助場面の中で活用していくことができなければ、その支援に意味は全くない。介護保険の保険料の無駄遣い以外の何ものでもない。
我々援助者は生活機能が向上し、その結果としての望む暮らしの実現、すなわち「自律支援」のために存在している。これがわからない・これが実践できない・これを実践するつもりがない支援者は、どうぞ遠慮なくこの世界から速やかに退場して欲しい。このような存在は百害あって一理なしに他ならないからだ。
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状況の詳細は金曜日のスレッドを確認して欲しい。
どうしてこのような混乱に陥るのか。それは利用者の一部分である心身状態や身体構造がその利用者のすべてであると思い込むからだ。そしてその心身状態や身体構造が良くなれば生活がよりよいものになるという誤った見識に支配されているからだ。
この発想はICIDHの発想のうち、最も弱点とされている発想だ。身体的な機能がいくら向上できたとしてもそれが利用者の望む暮らしに全く機能しないことはこれまでいくらでも証明されてきている。それがあったからこそICFの発想が産み出されてきたのだから。
そしてこの発想の最大の問題は利用者をパーツでしか見ていない・考えていないということだ。生活をしている主体的な存在であり、生活には様々な要素があって成り立っているということを全く理解出来ていないため、単に手や足の動きさえ良くなればみんな上手くいくと思い込んでいることだ。
例えば身体的には麻痺があり、麻痺側の機能は著しく低下している。しかし利用者はその状況の中で長い時間を使って、自分の体の動く範囲内で自分で動けるような「工夫」をしてきて現在の動作へと結びついている。この中には専門職が見ればおかしなことや不合理なことや不適切なことも多々あるだろう。しかしその動きは利用者が自ら工夫して作り上げたものだ。それを全否定し、不都合や不合理な動きを適切な動きに修正する。そしてその動きをすぐに生活の場の中で取り入れようとする。そうしていけば当然に利用者は混乱をする。この混乱は単に身体的な、あるいは動作的な混乱にとどまらず生活全体の混乱へと結びつく。今まで何とか自分でトイレまで移動できていたのに、変にサービスを使いリハビリを受けたがために自分がどうしてよいのかわからずに移動できなくなることはよくみられることだ。
このようなとき必要なことは、支援が上手くいっていないということに気がついて「元に戻す」ことだ。しかしそのためには生活全体が見えていないと、生活機能が支援をする事で混乱して活かしているということに気がつかないとできないことだ。
往々にしてこのような発想をする支援者は少なくない。この危険性に気がついている支援者は主流派ではないようだ。ということは支援者の不適切な判断と対応のために生活機能を低下させられている利用者も少なくないということだ。
おまけにこの間違った対応を修繕する機会でもあるサービス担当者会議を開催しないのでいつまでたっても支援することが生活機能低下をもたらしているという悪循環を断ち切ることができないでいる。
生活を支援していく上で絶対にしてはならないことは、利用者をパーツでしか見ないということだ。生活をしていく上で今何が課題になるのかを見出すときに身体機能などの「一つの部分」で全てを捉えようとすることだ。
これを実際に援助場面の中で活用していくことができなければ、その支援に意味は全くない。介護保険の保険料の無駄遣い以外の何ものでもない。
我々援助者は生活機能が向上し、その結果としての望む暮らしの実現、すなわち「自律支援」のために存在している。これがわからない・これが実践できない・これを実践するつもりがない支援者は、どうぞ遠慮なくこの世界から速やかに退場して欲しい。このような存在は百害あって一理なしに他ならないからだ。
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2009/2/21
生活支援
Kさんでお勉強
状況の詳細は金曜日のスレッドを確認して欲しい。
どうしてこのような混乱に陥るのか。それは利用者の一部分である心身状態や身体構造がその利用者のすべてであると思い込むからだ。そしてその心身状態や身体構造が良くなれば生活がよりよいものになるという誤った見識に支配されているからだ。
この発想はICIDHの発想のうち、最も弱点とされている発想だ。身体的な機能がいくら向上できたとしてもそれが利用者の望む暮らしに全く機能しないことはこれまでいくらでも証明されてきている。それがあったからこそICFの発想が産み出されてきたのだから。
そしてこの発想の最大の問題は利用者をパーツでしか見ていない・考えていないということだ。生活をしている主体的な存在であり、生活には様々な要素があって成り立っているということを全く理解出来ていないため、単に手や足の動きさえ良くなればみんな上手くいくと思い込んでいることだ。
例えば身体的には麻痺があり、麻痺側の機能は著しく低下している。しかし利用者はその状況の中で長い時間を使って、自分の体の動く範囲内で自分で動けるような「工夫」をしてきて現在の動作へと結びついている。この中には専門職が見ればおかしなことや不合理なことや不適切なことも多々あるだろう。しかしその動きは利用者が自ら工夫して作り上げたものだ。それを全否定し、不都合や不合理な動きを適切な動きに修正する。そしてその動きをすぐに生活の場の中で取り入れようとする。そうしていけば当然に利用者は混乱をする。この混乱は単に身体的な、あるいは動作的な混乱にとどまらず生活全体の混乱へと結びつく。今まで何とか自分でトイレまで移動できていたのに、変にサービスを使いリハビリを受けたがために自分がどうしてよいのかわからずに移動できなくなることはよくみられることだ。
このようなとき必要なことは、支援が上手くいっていないということに気がついて「元に戻す」ことだ。しかしそのためには生活全体が見えていないと、生活機能が支援をする事で混乱して活かしているということに気がつかないとできないことだ。
往々にしてこのような発想をする支援者は少なくない。この危険性に気がついている支援者は主流派ではないようだ。ということは支援者の不適切な判断と対応のために生活機能を低下させられている利用者も少なくないということだ。
おまけにこの間違った対応を修繕する機会でもあるサービス担当者会議を開催しないのでいつまでたっても支援することが生活機能低下をもたらしているという悪循環を断ち切ることができないでいる。
生活を支援していく上で絶対にしてはならないことは、利用者をパーツでしか見ないということだ。生活をしていく上で今何が課題になるのかを見出すときに身体機能などの「一つの部分」で全てを捉えようとすることだ。
これを実際に援助場面の中で活用していくことができなければ、その支援に意味は全くない。介護保険の保険料の無駄遣い以外の何ものでもない。
我々援助者は生活機能が向上し、その結果としての望む暮らしの実現、すなわち「自律支援」のために存在している。これがわからない・これが実践できない・これを実践するつもりがない支援者は、どうぞ遠慮なくこの世界から速やかに退場して欲しい。このような存在は百害あって一理なしに他ならないからだ。
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状況の詳細は金曜日のスレッドを確認して欲しい。
どうしてこのような混乱に陥るのか。それは利用者の一部分である心身状態や身体構造がその利用者のすべてであると思い込むからだ。そしてその心身状態や身体構造が良くなれば生活がよりよいものになるという誤った見識に支配されているからだ。
この発想はICIDHの発想のうち、最も弱点とされている発想だ。身体的な機能がいくら向上できたとしてもそれが利用者の望む暮らしに全く機能しないことはこれまでいくらでも証明されてきている。それがあったからこそICFの発想が産み出されてきたのだから。
そしてこの発想の最大の問題は利用者をパーツでしか見ていない・考えていないということだ。生活をしている主体的な存在であり、生活には様々な要素があって成り立っているということを全く理解出来ていないため、単に手や足の動きさえ良くなればみんな上手くいくと思い込んでいることだ。
例えば身体的には麻痺があり、麻痺側の機能は著しく低下している。しかし利用者はその状況の中で長い時間を使って、自分の体の動く範囲内で自分で動けるような「工夫」をしてきて現在の動作へと結びついている。この中には専門職が見ればおかしなことや不合理なことや不適切なことも多々あるだろう。しかしその動きは利用者が自ら工夫して作り上げたものだ。それを全否定し、不都合や不合理な動きを適切な動きに修正する。そしてその動きをすぐに生活の場の中で取り入れようとする。そうしていけば当然に利用者は混乱をする。この混乱は単に身体的な、あるいは動作的な混乱にとどまらず生活全体の混乱へと結びつく。今まで何とか自分でトイレまで移動できていたのに、変にサービスを使いリハビリを受けたがために自分がどうしてよいのかわからずに移動できなくなることはよくみられることだ。
このようなとき必要なことは、支援が上手くいっていないということに気がついて「元に戻す」ことだ。しかしそのためには生活全体が見えていないと、生活機能が支援をする事で混乱して活かしているということに気がつかないとできないことだ。
往々にしてこのような発想をする支援者は少なくない。この危険性に気がついている支援者は主流派ではないようだ。ということは支援者の不適切な判断と対応のために生活機能を低下させられている利用者も少なくないということだ。
おまけにこの間違った対応を修繕する機会でもあるサービス担当者会議を開催しないのでいつまでたっても支援することが生活機能低下をもたらしているという悪循環を断ち切ることができないでいる。
生活を支援していく上で絶対にしてはならないことは、利用者をパーツでしか見ないということだ。生活をしていく上で今何が課題になるのかを見出すときに身体機能などの「一つの部分」で全てを捉えようとすることだ。
これを実際に援助場面の中で活用していくことができなければ、その支援に意味は全くない。介護保険の保険料の無駄遣い以外の何ものでもない。
我々援助者は生活機能が向上し、その結果としての望む暮らしの実現、すなわち「自律支援」のために存在している。これがわからない・これが実践できない・これを実践するつもりがない支援者は、どうぞ遠慮なくこの世界から速やかに退場して欲しい。このような存在は百害あって一理なしに他ならないからだ。
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2009/2/21
院内介助 バイブル
Kさんでお勉強
このルールについて揉めている。要は誰が「医療機関で必要な介助が提供できないのか」を決定するのかということのようだ。
私はかつて医療機関からヘルパーをつけて受診してもらわなければ困る、と強くいわれたことがあり、このルールをたてにして訪問介護では算定できない。ヘルパーがいなければ受信できないというのであれば、医療機関の長の名前て「医療機関として必要な介助を提供することができない」旨の文書を出してくれれば、保険者と協議してヘルパーをつける、と交渉したことがある。このとき、当該医療機関の長は「そんな恥ずかしい文書出せるか、必要な介助は医療機関が提供する」という鶴の一言で解決したことがある。
このようにだれが「介助できない」とするのかで、医療機関、特に大きな医療機関の医療相談室が「どうしたらよいのか」と不安になっているという。
これはある意味でおかしな話で介護保険が始まってから「院内介助は医療機関の責務」となったわけではない。だとすれば必要な介助をしないままにしておいた、あるいはその規定や解釈を知らなかった医療機関に問題があるということになる。
もう一つは訪問介護算定のルールは医療機関が知らないということもある。知らないから「ヘルパーがついてもらえばいい」と簡単に考えられてしまう。
今回この問題が明らかになったのは居宅介護支援事業所の集団指導の結果である。集団指導の中で、訪問介護による院内での介助については原則算定不可であること、例外としての対応の話をされたことによって、「どうしたらいい」になっている。
これは医療機関とケアマネとの連携の中。主治医とケアマネとの連携の中で、協議をする過程で明らかにしていくことで解決していく必要がある。口頭でもいいわけだ。高等で「当院ではそれは無理だわ。何とかしてくれ」という一言を得て、それを記録しておくことで、医療機関では提供できないということの証にする事ができるわけだ。それを聞き出す労力はそんな手まではないだろう。
また、この問題については、どのような状況ならOKになるのかの具体的事例がほしいという声もよく聞かれてくる。例えばどこか通知に明記されているようなものはないかというように。
これは逆にないほうがいい。下手に例示されてしまえば例示以外のものがNGとなってしまうとともに、適切なケアマネジメントに基づいた結果、必要性が明らかであるということを前提にした協議が行われにくくなるだけだ。適切なケアマネジメントの結果というケアマネにとって最も重要な業務をないがしろにされるだけに過ぎない。
ここはアバウトにしておいて、必要性をきちんとアセスメントして協議するというルートを核をしておくことが必要になる。
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このルールについて揉めている。要は誰が「医療機関で必要な介助が提供できないのか」を決定するのかということのようだ。
私はかつて医療機関からヘルパーをつけて受診してもらわなければ困る、と強くいわれたことがあり、このルールをたてにして訪問介護では算定できない。ヘルパーがいなければ受信できないというのであれば、医療機関の長の名前て「医療機関として必要な介助を提供することができない」旨の文書を出してくれれば、保険者と協議してヘルパーをつける、と交渉したことがある。このとき、当該医療機関の長は「そんな恥ずかしい文書出せるか、必要な介助は医療機関が提供する」という鶴の一言で解決したことがある。
このようにだれが「介助できない」とするのかで、医療機関、特に大きな医療機関の医療相談室が「どうしたらよいのか」と不安になっているという。
これはある意味でおかしな話で介護保険が始まってから「院内介助は医療機関の責務」となったわけではない。だとすれば必要な介助をしないままにしておいた、あるいはその規定や解釈を知らなかった医療機関に問題があるということになる。
もう一つは訪問介護算定のルールは医療機関が知らないということもある。知らないから「ヘルパーがついてもらえばいい」と簡単に考えられてしまう。
今回この問題が明らかになったのは居宅介護支援事業所の集団指導の結果である。集団指導の中で、訪問介護による院内での介助については原則算定不可であること、例外としての対応の話をされたことによって、「どうしたらいい」になっている。
これは医療機関とケアマネとの連携の中。主治医とケアマネとの連携の中で、協議をする過程で明らかにしていくことで解決していく必要がある。口頭でもいいわけだ。高等で「当院ではそれは無理だわ。何とかしてくれ」という一言を得て、それを記録しておくことで、医療機関では提供できないということの証にする事ができるわけだ。それを聞き出す労力はそんな手まではないだろう。
また、この問題については、どのような状況ならOKになるのかの具体的事例がほしいという声もよく聞かれてくる。例えばどこか通知に明記されているようなものはないかというように。
これは逆にないほうがいい。下手に例示されてしまえば例示以外のものがNGとなってしまうとともに、適切なケアマネジメントに基づいた結果、必要性が明らかであるということを前提にした協議が行われにくくなるだけだ。適切なケアマネジメントの結果というケアマネにとって最も重要な業務をないがしろにされるだけに過ぎない。
ここはアバウトにしておいて、必要性をきちんとアセスメントして協議するというルートを核をしておくことが必要になる。
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2009/2/21
援助者 バイブル
Kさんでお勉強
この利用者さんをこれまで中心となって支援してきた関係者は「大変なケース」といい、これまでにも様々な問題があったケースだという。
しかしわが社のヘルパーたちはそう評価はしていない。多少係り方に癖があるので、係り方を気をつけていけば今の状態なら何等問題はないだろうと評価している。
確かにまだ実際に係り始めて今日で3日目だ。これまでの経過がわからないから今週中の利用者の状況が「良い状態」なのか「通常の状態」なのか「悪い状態」なのかの判断は全く付かない。それを考慮しても「大きな問題はない」という評価をしている。
でもこれまでの関係者は「問題が沢山あるケース」と評価している。
例えば、デイケアから自宅へ送迎していった時、利用者さんが「ここは俺の家じゃない」といった。仕方ないので近所をちょっと廻ってきたら「さよなら」と言って家に入った。家を認識で着ていない。
例えば、デイケアの迎えに来たときにも「今日は行かない」という対応をする。「今日は行く皮下?」と尋ねる。見当識に障害がある。
なんか間違っていないか?
援助者の作った「枠」の中に利用者を押し込み、そこからはみ出たり入ろうとしないような状況を「問題」として認識しているのではないか。
「ここが俺の家じゃない」であったとしてもちょっと時間を置いてから「付いたよ」っていえば問題なく家に入っていく。であるならばそれは問題というのではなく、家を認識するために1度自宅へ連れて行って話をし、「違う」といったら時間を置いてもう1度話すというケアをすれば済むことでしょ。それをしないでおいて「問題」というのはまことに身勝手な発想だ。
「デイに行かない」も同じこと。手間はかかるかもしれないが「はいそうですか」って言って次の人を送迎に行ってもう一度声をかければ「待っていました」となるんだよ。自分たちの手間を省き、自分たちが敷いたレールや自分たちの作った枠に入らないから問題だとして、問題だらけの利用者だとあやまた「ラベリング」しているのではないか。
これが今日の時点でのわが社のヘルパーの見解だ。
まだ始まったばかりの支援だ。今後どうなるのかはわからない。
そもそも見解の違いが顕著なので、いつまでヘルパーがこの仕事を続けられるかもわからない。うちのヘルパーのような対応をしていればこれまでの支援者から白い目で見られて「仕事はさせられない」と評価される可能性もある。
でも支援者の姿勢とそれに基づく実践が利用者や介護者にどう映っていくか。
それも今後の課題として大いに楽しみなケースだ。
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この利用者さんをこれまで中心となって支援してきた関係者は「大変なケース」といい、これまでにも様々な問題があったケースだという。
しかしわが社のヘルパーたちはそう評価はしていない。多少係り方に癖があるので、係り方を気をつけていけば今の状態なら何等問題はないだろうと評価している。
確かにまだ実際に係り始めて今日で3日目だ。これまでの経過がわからないから今週中の利用者の状況が「良い状態」なのか「通常の状態」なのか「悪い状態」なのかの判断は全く付かない。それを考慮しても「大きな問題はない」という評価をしている。
でもこれまでの関係者は「問題が沢山あるケース」と評価している。
例えば、デイケアから自宅へ送迎していった時、利用者さんが「ここは俺の家じゃない」といった。仕方ないので近所をちょっと廻ってきたら「さよなら」と言って家に入った。家を認識で着ていない。
例えば、デイケアの迎えに来たときにも「今日は行かない」という対応をする。「今日は行く皮下?」と尋ねる。見当識に障害がある。
なんか間違っていないか?
援助者の作った「枠」の中に利用者を押し込み、そこからはみ出たり入ろうとしないような状況を「問題」として認識しているのではないか。
「ここが俺の家じゃない」であったとしてもちょっと時間を置いてから「付いたよ」っていえば問題なく家に入っていく。であるならばそれは問題というのではなく、家を認識するために1度自宅へ連れて行って話をし、「違う」といったら時間を置いてもう1度話すというケアをすれば済むことでしょ。それをしないでおいて「問題」というのはまことに身勝手な発想だ。
「デイに行かない」も同じこと。手間はかかるかもしれないが「はいそうですか」って言って次の人を送迎に行ってもう一度声をかければ「待っていました」となるんだよ。自分たちの手間を省き、自分たちが敷いたレールや自分たちの作った枠に入らないから問題だとして、問題だらけの利用者だとあやまた「ラベリング」しているのではないか。
これが今日の時点でのわが社のヘルパーの見解だ。
まだ始まったばかりの支援だ。今後どうなるのかはわからない。
そもそも見解の違いが顕著なので、いつまでヘルパーがこの仕事を続けられるかもわからない。うちのヘルパーのような対応をしていればこれまでの支援者から白い目で見られて「仕事はさせられない」と評価される可能性もある。
でも支援者の姿勢とそれに基づく実践が利用者や介護者にどう映っていくか。
それも今後の課題として大いに楽しみなケースだ。
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2009/2/21
誰にとって バイブル
Kさんでお勉強
ケアマネジャーがケアマネジメントを展開していくがなかなか順調に展開しなくて様々な障害にぶつかる。
そんな例の代表的なものが「利用者さんがなかなか思ったように動かない」というものがある。例としては「引きこもっているので通所サービスの利用へ向けて引きこもりを解消したいけど、利用者がそれをうんと言わない」というようなケースだ。
この発想の裏にあるのは「引きこもりは悪」で「通所を利用し、多くの人との交流を楽しむこと=善」という価値観だ。
ではこの価値観は誰が判断する?
この価値観には全ての人が当てはまる?
この価値観から逸脱している人は問題のある人?
私自身「こうあるべき」ということをあまり考えない。むしろ考えてはいけないと思っているし、考えないように常に注意している。そうしないとその方向に引きずり込まれていくからだ。
嫌なものは嫌でいい。無理して好きにならなくてもかまわない。
無理して・我慢して嫌いなことを好きになろうと努力をして体調が悪くなるくらいなら嫌いなままでいてくれたほうがいい。
このことを理解してもらう時、よく引き合いに出すのが食べ物の好き嫌いだ。
「あなたには食べられない食物がありますか。それも、この世の中にその嫌いなものしか食べるものがなくなったと仮定した時、それを食べて生き残るよりも食べすに餓死してもかまわないと思うくらい荷駄一嫌いなものがありますか?」
この質問に対して「YES」と答える人は理解が得やすい。
この質問に対して「NO」と答える人にはなかなか理解がされにくい。
そんな傾向が見て取れる。
嫌いなものはこの例え話くらいに嫌いなのだ。それがたとえどんなに栄養価が高い食べ物であっても、嫌いなものは嫌いだし、それを食べなければいけないということは誰にも強制することができないことだ。
えてしてケアマネジメントの中ではこの考え方を矯正しようとする動きが見られる。
こうしたほうが健康的になれる。こうすれば自立に向けていかれる。
でもそうすることで自律的な生活ができなくなるというマイナスがあっても、だ。
一般常識という衣を一度脱ぎ去ってみてはどうだろう。
一人ひとりの利用者さんに向き合って、本当にどうしていきたいのかを突き詰め、それを叶えるための手段を考えてみる。そうすると、例えば「通所サービスで何をするのか」という発想から、「何を叶えるために通所サービスの持つどの機能をどのように使うのか」という発想に転換できると思う。
これがあることによって事業所やサービス選択の根拠が明確化されてくる。
それこそ適正化の際には立派な根拠の説明ができるということにも繋がっていく。
「こうしたほうがいい」は、誰にとっての「こうしたほうが言い」なのか。
よ〜く考えて見る必要があることだと思っている。
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ケアマネジャーがケアマネジメントを展開していくがなかなか順調に展開しなくて様々な障害にぶつかる。
そんな例の代表的なものが「利用者さんがなかなか思ったように動かない」というものがある。例としては「引きこもっているので通所サービスの利用へ向けて引きこもりを解消したいけど、利用者がそれをうんと言わない」というようなケースだ。
この発想の裏にあるのは「引きこもりは悪」で「通所を利用し、多くの人との交流を楽しむこと=善」という価値観だ。
ではこの価値観は誰が判断する?
この価値観には全ての人が当てはまる?
この価値観から逸脱している人は問題のある人?
私自身「こうあるべき」ということをあまり考えない。むしろ考えてはいけないと思っているし、考えないように常に注意している。そうしないとその方向に引きずり込まれていくからだ。
嫌なものは嫌でいい。無理して好きにならなくてもかまわない。
無理して・我慢して嫌いなことを好きになろうと努力をして体調が悪くなるくらいなら嫌いなままでいてくれたほうがいい。
このことを理解してもらう時、よく引き合いに出すのが食べ物の好き嫌いだ。
「あなたには食べられない食物がありますか。それも、この世の中にその嫌いなものしか食べるものがなくなったと仮定した時、それを食べて生き残るよりも食べすに餓死してもかまわないと思うくらい荷駄一嫌いなものがありますか?」
この質問に対して「YES」と答える人は理解が得やすい。
この質問に対して「NO」と答える人にはなかなか理解がされにくい。
そんな傾向が見て取れる。
嫌いなものはこの例え話くらいに嫌いなのだ。それがたとえどんなに栄養価が高い食べ物であっても、嫌いなものは嫌いだし、それを食べなければいけないということは誰にも強制することができないことだ。
えてしてケアマネジメントの中ではこの考え方を矯正しようとする動きが見られる。
こうしたほうが健康的になれる。こうすれば自立に向けていかれる。
でもそうすることで自律的な生活ができなくなるというマイナスがあっても、だ。
一般常識という衣を一度脱ぎ去ってみてはどうだろう。
一人ひとりの利用者さんに向き合って、本当にどうしていきたいのかを突き詰め、それを叶えるための手段を考えてみる。そうすると、例えば「通所サービスで何をするのか」という発想から、「何を叶えるために通所サービスの持つどの機能をどのように使うのか」という発想に転換できると思う。
これがあることによって事業所やサービス選択の根拠が明確化されてくる。
それこそ適正化の際には立派な根拠の説明ができるということにも繋がっていく。
「こうしたほうがいい」は、誰にとっての「こうしたほうが言い」なのか。
よ〜く考えて見る必要があることだと思っている。
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2009/2/21
基本的なルール バイブル
Kさんでお勉強
人である以上全てを完璧に理解しているなんてことはありえない。
知らないことやわからないことがあっても当然だ。
だからこそわからないことや知らないことがあれば「調べる」という行動にでるのだ。知らない・わからないままでは困るから。何とかしようと思うわけだ。
例えば「目標の設定と期間と評価」の関係について、目標達成のために設定した期間が満了した。この際には「新規」としての扱いになるのか?という質問がとあるBBSに寄せられていた。
これはもう話にならない。基本的な手順や展開が全く理解出来ていない。この手のことは運営基準を確認するまでもなくケアマネの実務研修の中でも必ず触れられている事柄だ。それをBBSで確認しないと理解できない、つまり自分で書物を紐解いて答えを見つけない・見つけられないということにあきれるし、第一聞かなきゃわからんものでもなく、常識的な問題だろう。
そのほかにも「予防の月額報酬サービス種別の回数」についてもそう。未だに認定結果による回数制限を平気で許している(間違えた理解の下で回数制限をする事業所も問題だがそれを鵜呑みにしているケアマネや包括も同罪だ)状況が蔓延している状況があり、それによって介護保険制度そのものが機能していない状況を生み出し育んでいると文句をつけるが、それに加担していることに全く気がつかないという状況になっている。
少なくてもケアマネは基本的なルールは理解しよう。
基本的なルールくらいは理解しよう。
そして基本的なルールに則った対応をしよう。
これができなければケアマネジャーの評価は上がるはずがない。
評価が上がらなければますますケアマネジメントの質は低下するだけだ。
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人である以上全てを完璧に理解しているなんてことはありえない。
知らないことやわからないことがあっても当然だ。
だからこそわからないことや知らないことがあれば「調べる」という行動にでるのだ。知らない・わからないままでは困るから。何とかしようと思うわけだ。
例えば「目標の設定と期間と評価」の関係について、目標達成のために設定した期間が満了した。この際には「新規」としての扱いになるのか?という質問がとあるBBSに寄せられていた。
これはもう話にならない。基本的な手順や展開が全く理解出来ていない。この手のことは運営基準を確認するまでもなくケアマネの実務研修の中でも必ず触れられている事柄だ。それをBBSで確認しないと理解できない、つまり自分で書物を紐解いて答えを見つけない・見つけられないということにあきれるし、第一聞かなきゃわからんものでもなく、常識的な問題だろう。
そのほかにも「予防の月額報酬サービス種別の回数」についてもそう。未だに認定結果による回数制限を平気で許している(間違えた理解の下で回数制限をする事業所も問題だがそれを鵜呑みにしているケアマネや包括も同罪だ)状況が蔓延している状況があり、それによって介護保険制度そのものが機能していない状況を生み出し育んでいると文句をつけるが、それに加担していることに全く気がつかないという状況になっている。
少なくてもケアマネは基本的なルールは理解しよう。
基本的なルールくらいは理解しよう。
そして基本的なルールに則った対応をしよう。
これができなければケアマネジャーの評価は上がるはずがない。
評価が上がらなければますますケアマネジメントの質は低下するだけだ。
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2009/2/21
考える力 バイブル
Kさんでお勉強
BBSでは「初心者なので…」、「不勉強なもので…」と「断り書き」をつけて質問されるケースが少なくない。そしてその質問に対して「答えを見つける方法」を提示するとほぼ必ずといっていいくらいに「不親切だ」というスレッドが寄せられる。
本当に不親切なのか? 答えを教えることが親切になるのか?
確かに質問者は「答えを知りたい」のだろう。答えを教えてもらえば便利だ。
でも便利であるということは決してよいものではない。必ずそれに伴うマイナスの要素があるということだ。
例えば文明は人類にとって暮らしを便利にしてきた。特に化石燃料の使用は人類の暮らしを比較にならないほど便利にしてきた。我々は今日その恩恵にあずかって日々暮している。しかしその代わりに「地球温暖化」というマイナス要素を排出してしまっていて今日では温暖化防止策が急務になり、温暖化の抜本的な解消のためには現在享受している文明を放棄しなければいけなくなっている。
このように便利さを得るためには一方で不利益も同時にもたらされていることニッ湯しなければいけない。
ではこれを質問に置き換えて考えてみよう。
答えを教えてもらうという「便利」さを得ることで「考える」ことや「答えを導き出すルート」を理解する機会を失うことになる。したがって質問の応用やどこにどんな情報があるのかを知る機会を失うことになり、「次の機会」にまた質問をしなければいけなくなる。結局質問をした人自身が学びをする機会とそこかエア得られる知識を失うというデメリットがあるということになる。
このことは人材育成という観点から見るとかなりのマイナスになる。知らないことは聞いて教えてもらえばいいという人材になり、教えてくれる人がいなくなったら、そしてその人自身が教える立場になったら、教わることができないため、何をどうしてよいのかわからないという状況を作り出していくことにしかならないからだ。常に誰かを頼らなければ仕事ができなくなるからだ。
しかし質問をする場合であっても自分自身の考えをまとめ、「自分はこう考えたのだけど、この考えの妥当性を教えてくれ」という質問をするとまるっきり違う結果がもたらされる。まず自分自身の考えをまとめるためには自分がそう判断したという根拠が自分の中に作り出される。その根拠を明確にするためには知識や情報が必要で、それを得るという行動をする。その上で根拠と判断の妥当性の評価を求めるということになる。これは質問事項以外の様々な事柄に応用が聞く質問になり、結果として答えを導き出す方法を理解することになり、人材育成の視点では効果的な方法になる。
また、「これを調べろ」という回答は「この手の情報はここにあるのだから、これからはまずここを自分で確認してみなさい」という意図をこめた回答になる。これも答えを導き出す方法を示唆してくれている回答になる。こうすることで知識は増え、疑問解決のための引き出しが増えていくことにもなり、個人の資質の向上に寄与していくことになる。
このように考えると「本当の親切」とは単に答えを教えることではないということになる。
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BBSでは「初心者なので…」、「不勉強なもので…」と「断り書き」をつけて質問されるケースが少なくない。そしてその質問に対して「答えを見つける方法」を提示するとほぼ必ずといっていいくらいに「不親切だ」というスレッドが寄せられる。
本当に不親切なのか? 答えを教えることが親切になるのか?
確かに質問者は「答えを知りたい」のだろう。答えを教えてもらえば便利だ。
でも便利であるということは決してよいものではない。必ずそれに伴うマイナスの要素があるということだ。
例えば文明は人類にとって暮らしを便利にしてきた。特に化石燃料の使用は人類の暮らしを比較にならないほど便利にしてきた。我々は今日その恩恵にあずかって日々暮している。しかしその代わりに「地球温暖化」というマイナス要素を排出してしまっていて今日では温暖化防止策が急務になり、温暖化の抜本的な解消のためには現在享受している文明を放棄しなければいけなくなっている。
このように便利さを得るためには一方で不利益も同時にもたらされていることニッ湯しなければいけない。
ではこれを質問に置き換えて考えてみよう。
答えを教えてもらうという「便利」さを得ることで「考える」ことや「答えを導き出すルート」を理解する機会を失うことになる。したがって質問の応用やどこにどんな情報があるのかを知る機会を失うことになり、「次の機会」にまた質問をしなければいけなくなる。結局質問をした人自身が学びをする機会とそこかエア得られる知識を失うというデメリットがあるということになる。
このことは人材育成という観点から見るとかなりのマイナスになる。知らないことは聞いて教えてもらえばいいという人材になり、教えてくれる人がいなくなったら、そしてその人自身が教える立場になったら、教わることができないため、何をどうしてよいのかわからないという状況を作り出していくことにしかならないからだ。常に誰かを頼らなければ仕事ができなくなるからだ。
しかし質問をする場合であっても自分自身の考えをまとめ、「自分はこう考えたのだけど、この考えの妥当性を教えてくれ」という質問をするとまるっきり違う結果がもたらされる。まず自分自身の考えをまとめるためには自分がそう判断したという根拠が自分の中に作り出される。その根拠を明確にするためには知識や情報が必要で、それを得るという行動をする。その上で根拠と判断の妥当性の評価を求めるということになる。これは質問事項以外の様々な事柄に応用が聞く質問になり、結果として答えを導き出す方法を理解することになり、人材育成の視点では効果的な方法になる。
また、「これを調べろ」という回答は「この手の情報はここにあるのだから、これからはまずここを自分で確認してみなさい」という意図をこめた回答になる。これも答えを導き出す方法を示唆してくれている回答になる。こうすることで知識は増え、疑問解決のための引き出しが増えていくことにもなり、個人の資質の向上に寄与していくことになる。
このように考えると「本当の親切」とは単に答えを教えることではないということになる。
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2009/2/21
記録 バイブル
Kさんでお勉強
ここのところ「記録」についての質問をよく受ける。
曰く「どう書けばいいか」
曰く「どのような様式がよいか」
曰く「読みやすくわかりやすい書き方は」
これらの質問の裏にあるのは、自分の行っている記録に対して疑心暗鬼になっているということだ。そしてもっと「楽」に「有益」な記録の方法はないかと手探りしているということだ。
「ケアマネジャーと記録」 という私が記録についてどのように考えているのかをまとめたものにも書いたのだが、記録を書くときには「何のために記録するのか」をまず理解しておかないといけない。
記録の目的に応じた記入の仕方があり、記入方法に応じた表現(書き方)がある。そして何よりも大切なことは「記録する情報を持っている」ということ。
自分自身の記録に疑心暗鬼になっているということは、記録そのものの「表現」に対して疑心暗鬼になっているのではなく、記録された内容が意味のあるものなのかに対して疑心暗鬼になっているということだ。これは記録された「情報」が「意味のある情報」になっているのかという疑心暗鬼であり、それはとりもなおさず自分自身が展開してきたケアマネジメントに対する疑心暗鬼でもあるということになる。
そしてもう一つ忘れてはならないことは「記録は後で使うもの」という視点だ。
「書いてさえあればいい」ものではなく「後で何らかの意図を持って書かれた内容を使う」ために書くということだ。だから使うときに使いやすく書けばいい。そしてそれは誰が使うのかといえば、一番使うのは書いた人自信であるということ。続いては実地指導やケアプランの適正化事業の際に「検証」する人が使うことも想定される。
となると、「どのような使い方」をするのかを考えた上で、使うときに「わかりやすく」「求められている必要な情報」がわかるようになっていればいい。
よくある勘違いで、記録はまるで小説のように美しい日本語を用い、流暢に流れるように表現しなければいけないと思っているケアマネがいる。ケアマネは小説家ではないので情報がわかればいい。それこそ箇条書きでも何でも「伝わればいい」のだ。それを文章で表現しようとしてわけわからなくするくらいなら箇条書きで並べておくほうがナンボも伝わりやすいものになる。
難しく考えすぎているのかもしれない。
表面上の「キレイ」さや「優雅」さを求めているのかもしれない。
でもそんなものは意味がない。正しく書き手の意図が伝わり、「そのとき」に何が怒って、何を考えて、何を行って、その結果がどうなって、その結果をどう活用したのかが伝わればどう表現しても問題がない。
***********************************************************************
このことは記録だけのことではない。
物事や行うべきことが「何をするために行うのか」というもっとも基本的なところまで考えて、それを理解した上で行動を起こすことが自分自身の行動や活動に自信を与えてくれることになる。
それこそ様々な事柄の定義から一度真剣に考えてみることは大切なことだと思っている。
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ここのところ「記録」についての質問をよく受ける。
曰く「どう書けばいいか」
曰く「どのような様式がよいか」
曰く「読みやすくわかりやすい書き方は」
これらの質問の裏にあるのは、自分の行っている記録に対して疑心暗鬼になっているということだ。そしてもっと「楽」に「有益」な記録の方法はないかと手探りしているということだ。
「ケアマネジャーと記録」 という私が記録についてどのように考えているのかをまとめたものにも書いたのだが、記録を書くときには「何のために記録するのか」をまず理解しておかないといけない。
記録の目的に応じた記入の仕方があり、記入方法に応じた表現(書き方)がある。そして何よりも大切なことは「記録する情報を持っている」ということ。
自分自身の記録に疑心暗鬼になっているということは、記録そのものの「表現」に対して疑心暗鬼になっているのではなく、記録された内容が意味のあるものなのかに対して疑心暗鬼になっているということだ。これは記録された「情報」が「意味のある情報」になっているのかという疑心暗鬼であり、それはとりもなおさず自分自身が展開してきたケアマネジメントに対する疑心暗鬼でもあるということになる。
そしてもう一つ忘れてはならないことは「記録は後で使うもの」という視点だ。
「書いてさえあればいい」ものではなく「後で何らかの意図を持って書かれた内容を使う」ために書くということだ。だから使うときに使いやすく書けばいい。そしてそれは誰が使うのかといえば、一番使うのは書いた人自信であるということ。続いては実地指導やケアプランの適正化事業の際に「検証」する人が使うことも想定される。
となると、「どのような使い方」をするのかを考えた上で、使うときに「わかりやすく」「求められている必要な情報」がわかるようになっていればいい。
よくある勘違いで、記録はまるで小説のように美しい日本語を用い、流暢に流れるように表現しなければいけないと思っているケアマネがいる。ケアマネは小説家ではないので情報がわかればいい。それこそ箇条書きでも何でも「伝わればいい」のだ。それを文章で表現しようとしてわけわからなくするくらいなら箇条書きで並べておくほうがナンボも伝わりやすいものになる。
難しく考えすぎているのかもしれない。
表面上の「キレイ」さや「優雅」さを求めているのかもしれない。
でもそんなものは意味がない。正しく書き手の意図が伝わり、「そのとき」に何が怒って、何を考えて、何を行って、その結果がどうなって、その結果をどう活用したのかが伝わればどう表現しても問題がない。
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このことは記録だけのことではない。
物事や行うべきことが「何をするために行うのか」というもっとも基本的なところまで考えて、それを理解した上で行動を起こすことが自分自身の行動や活動に自信を与えてくれることになる。
それこそ様々な事柄の定義から一度真剣に考えてみることは大切なことだと思っている。
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2009/2/21
学ぶ意欲 バイブル
「人は必要があるから学ぶ。必要があるから学ぶ意欲が生み出される」
至極当たり前のことだ。
必要性がなかったならばいくら「学べ」といわれてもその気にはなるまい。
今回の職員研修は通所介護というサービスに従事した経験のあるスタッフもいれば経験の全くないスタッフもいる。
でも共通しているのは「通所介護というサービスの根本から考え、システムを作り、動かしていく」という経験をしたことがないということ。
そのためスタッフは、自分たちが通所介護サービスを提供するために理解し・動かなければいけないけど、それをどうしたらよいかわからないので、教えて欲しいと熱望していた。そのため研修会は毎回いろいろな質問が飛び交い、「そうだったの?」とか「え〜〜!」という声も飛び交っていた。
なにせ「知らない」とこへ持ってきて「しなければならない」のだから「できるようになる」ための意欲は並大抵ではない。そこへ持ってきておいらが「ルール違反のペナルティーはかなり思いし、ルールは厳格に提供される」って言うもんだからそれはそれは真剣にどうして行けばよいかを吸収しようと一生懸命だった。
そこには必要性があり、それを吸収し、実践できなければ自分たちの雇用と生活がぶっ飛んでしまうのだから真剣そのものであり、学ぶ意欲に満ち満ちていた。
話を変えてみる。
こういう研修会がある一方で、更新時研修のように、「これを受けておけば・受けてさえおけば、更新の際に免除される」という気持ちでの研修が存在している。義務規定だから出席していればいいという感覚だ。
この感覚では収穫できるものは何もないだろう。
そもそも、研修会に参加するだけで収穫や土産が手に入ると思うこと自体が間違っている。研修会で提供することができるのは「ヒント」でしかない。
そのヒントは「使ってみたらどう?」という程度のヒントだ。
このヒントを使ってみて、自分にとって有益なものかは、自分自身が試してみて初めて判断できるものだ。そのためには「使い物になるか」を考えながら研修に参加すること=主体的に参加することがあってはじめて研修が有益なものになるということだ。
「やらされている」うちは効果は得られない。
これが今回の研修を通じて改めて認識したことだ。
今後ケアマネを取巻く研修は多岐にわたっていくことだろう。
それらの多くは Off the Job Trainingだ。通常の業務から離れた研修体系になるだろう。
その研修に参加する時間と労力を無駄にするかしないかは、研修に参加する個々人の気持ちの持ち方一つで決まるということだ。
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至極当たり前のことだ。
必要性がなかったならばいくら「学べ」といわれてもその気にはなるまい。
今回の職員研修は通所介護というサービスに従事した経験のあるスタッフもいれば経験の全くないスタッフもいる。
でも共通しているのは「通所介護というサービスの根本から考え、システムを作り、動かしていく」という経験をしたことがないということ。
そのためスタッフは、自分たちが通所介護サービスを提供するために理解し・動かなければいけないけど、それをどうしたらよいかわからないので、教えて欲しいと熱望していた。そのため研修会は毎回いろいろな質問が飛び交い、「そうだったの?」とか「え〜〜!」という声も飛び交っていた。
なにせ「知らない」とこへ持ってきて「しなければならない」のだから「できるようになる」ための意欲は並大抵ではない。そこへ持ってきておいらが「ルール違反のペナルティーはかなり思いし、ルールは厳格に提供される」って言うもんだからそれはそれは真剣にどうして行けばよいかを吸収しようと一生懸命だった。
そこには必要性があり、それを吸収し、実践できなければ自分たちの雇用と生活がぶっ飛んでしまうのだから真剣そのものであり、学ぶ意欲に満ち満ちていた。
話を変えてみる。
こういう研修会がある一方で、更新時研修のように、「これを受けておけば・受けてさえおけば、更新の際に免除される」という気持ちでの研修が存在している。義務規定だから出席していればいいという感覚だ。
この感覚では収穫できるものは何もないだろう。
そもそも、研修会に参加するだけで収穫や土産が手に入ると思うこと自体が間違っている。研修会で提供することができるのは「ヒント」でしかない。
そのヒントは「使ってみたらどう?」という程度のヒントだ。
このヒントを使ってみて、自分にとって有益なものかは、自分自身が試してみて初めて判断できるものだ。そのためには「使い物になるか」を考えながら研修に参加すること=主体的に参加することがあってはじめて研修が有益なものになるということだ。
「やらされている」うちは効果は得られない。
これが今回の研修を通じて改めて認識したことだ。
今後ケアマネを取巻く研修は多岐にわたっていくことだろう。
それらの多くは Off the Job Trainingだ。通常の業務から離れた研修体系になるだろう。
その研修に参加する時間と労力を無駄にするかしないかは、研修に参加する個々人の気持ちの持ち方一つで決まるということだ。
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