『さよならCOLOR』
竹中直人 (監督)
竹中直人 (主演男優)
原田知世 (主演女優)
段田安則 (男優)
中島唱子 (女優)
水田芙美子 (女優)
雅子 (女優)
2004年制作
★★★★★

竹中直人による監督第5作。彼が監督・脚本・主演の3役をこなした、男の片想い映画の最高峰。これぞ、童貞妄想芸術の極致。女の人にとっては、単に気持ち悪いだけの映画かもしれない。僕にとっては、切なくて観ていられない、そんな映画だった。比喩的に言えば、片想いのために即身仏となる男の話。
僕の悟ったところでは(笑)、男の片想いの本質は、その一方向性、自己完結性、自己満足性にある。片想いにコミュニケーションは不要だ。3年間1度も言葉を交わしたことのないあのコをずっと想い続ける。彼女の笑顔を遠くから見ることができれば、それで満足。それが片想い。極端なことを言えば、相手が実在の人物じゃなくっても、人間でなくったっていいのだ。アイドルタレントへの愛、美少女フィギュアへの愛、神様への愛、美のイデアへの愛、みな根っこは同じ。想い続けることそれ自体が課題。それが片想い。

片想いの報酬となるものは何か? もしそれが現実的なコミュニケーションによってもたらされるものならば、片想いとは本質的に辛いものだ。コミュニケーションが存在しないというところに、片想いの本質があるのだから。だから、現実の世界に報酬を求めるなら、その想いはいずれついえるだろう。片想いの持続可能性の成否は、報酬を片想いそのものの中に求めることができるかどうかにかかっている。その恋の自己完結性を高めることに喜びを見出すことができるなら、片想いそのものが片想いの原動力となる。そして、それが真の自己満足をもたらすものならば、片想いは永久機関の如く永遠に運動を続ける。永遠に続く独り相撲。
こうして片想いは、ますます現実のコミュニケーションを必要としないものになっていく。片想いを全うしようとすれば、それはますます片想い化していかざるを得ないのである。いずれ、片想いしていることそのものが、人生の目的にまで高められる。この映画の主人公の男のように。

主人公の男性が望むのは、28年間想い続けた女性と現実の生活を伴にすることではない。ただ、彼女をそっと見つめ続けていたいだけだ。その彼女の生命が危機に瀕し、彼は、己の片想いのために命をかけることになる。彼は全身全霊をかけて彼女の命を救い、見つめ続ける対象としての彼女をこの世に残そうとする。それができるのであれば、全てを失っても悔いはない。たとえ、自分自身の生命が犠牲になったとしてもだ。
物語の終盤、彼女は彼にコミュニケーションを求める。そのことによって、彼の片想いは終焉を迎える。現実のコミュニケーションが始まれば、片想いは自己維持的な原動力を失ってしまう。そうすれば、彼の人生の目的が失われてしまう。物語も必然的に終わる。独り相撲は1人でとるもの。そして、この映画は独り相撲を描いた映画なのだ。

この映画が秀逸なのは、片想い男の妄想の世界を見事に描き切ったということだけでなく、映画そのものが妄想のように感じられるところではないだろうか。この映画そのものが自己満足の産物。そういう意味で、究極の片想い映画。
海鳴りだけが聞こえてくる、闇夜に沈む病院の屋上で、「白鳥の湖」を独り踊る竹中直人が実に見事。段田安則演じるスタイリストの戯画化された薄っぺらさだとか、エンコー女子高生がリルケの詩「愛することは、長い夜に灯された、美しい一条のランプの光だ」を諳んじたり、最後の最後に原田知世演じる憧れのマドンナに「好きよ」と言わせてみたり、何もかも妄想の世界。ミュージシャンのカメオ出演が後を絶たない変な映画でもあり、映画に最初に登場するのはスチャダラパー、高校の同窓会で司会を務めるのは何故か忌野清志郎、中島みゆきなんて子宮ガンの権威だ。このあたりのお遊びは妄想映画ならでは、か。エンディング曲の途中でどこからか聞こえてくる清志郎の歌声に涙。
冒頭にも書いたが、この映画、女性は楽しめないのではないかと思う。端的に言って、男性のこういう片想いって気持ち悪いのではないだろうか。こんなのストーカー映画じゃないか、と(ストーカーは自己完結していないし、現実世界に報酬を求めるから、僕にとっては全く別物)。申し訳ないが、片想いの自由は日本国憲法によって保障されている。片想いするのも、片想い映画を撮るのも、この映画を絶賛するのも、自由。
全ての男の片想いに、幸、あれ。
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『さよならCOLOR』公式サイト
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Kota's Movie Review
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Terai, S. Web Page

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