ふるさとの炉辺のつどいから

打木村治(うちきむらじ/1904〜1990)は武蔵野の面影が残る埼玉の自然や風土をこよなく愛し、作品にもよく描いた作家である。昭和3年に早稲田大学を出て大蔵省の税務官吏となるが、作家志望の気持を抑えがたく、わずか5年で依願退職している。そして、退職した昭和8年に同人誌「作家群」を創刊主宰して文筆活動を始めた。プロレタリア文学が解体し、政治性や階級意識から人間を中心に据えた農民文学が隆盛となる時代である。その気運の中で、打木は社会的に虐げられている農民や女を主人公にした作品を書いた。「般若」(昭10)、『部落史』 (砂子屋書房・昭13・芥川賞候補)、『支流を集めて』(昭14年・新潮社)、『光をつくる人々』『自然の祭』『春の門』『狐火と歩哨』『酪農』などである。これら打木村治の戦前の作品を読むのは現在では困難になっているが、昭和62年にまつやま書房から刊行された『打木村治作品集』には、「喉佛」「小坪物語」「支流を集めて」の三作が収録されている。そのうちの「支流を集めて」は埼玉に関連した短編で、信州から列車で豊岡町(当時)にあった丸山製糸工場に女工として運ばれてくる女たちの様子が描かれている。
戦後の打木村治は所沢市と飯能市に住み、一転して児童文学作品をたくさん書いた。単行本を列挙すると、『魔女としじゅうから』『生きている山脈』『希望のこみち』『夢のまのこと』(昭32年・第6回小学館文学賞受賞)、『みだれる季節』『天の園』『花のトンネル』(掌編の児童文学作品100篇)、『大地の園』『二宮金次郎』などである。
これらのうち、『生きている山脈』(上下)は、打木村治自身が19歳のときに山梨の昇仙峡から入山して、奥秩父連山を三峰まで縦走した体験をもとにして書かれた冒険小説風の作品である。山中で行方不明になった農芸科学者である叔父の清泉三郎を捜しに、主人公の少年進太郎と親戚の少女ハルナが奥秩父に入るが、人を寄せつけぬ深山の秘境に迷い込み、奇想天外の出来事に遭遇しながら様々な困難を乗り越えていく様を描いている。
また、昭和47年に全6巻を同時刊行した『天の園』(実業之日本社)と、同じく全4巻の書き下ろし作品である『大地の園』(昭53・偕成社)は、自伝的な児童文学の大作で、文字どおり打木村治のライフワークとなった。『天の園』は芸術選奨文部大臣賞とサンケイ児童出版文化賞を受賞し、『大地の園』は日本児童文芸家協会賞を受賞した。2作品ともその後偕成社文庫としてあらたに出版され、ロングセラーをつづけている。
打木村治は明治37年に大阪で生まれたが、逓信省の官吏だった父が脳出血で倒れたため、三歳の時から一家は母の実家のある比企郡唐子村(現東松山市下唐子)で過ごした。『大地の園』は、比企丘陵の谷間を都幾川が流れる自然豊かな唐子村を舞台に、作者と重なる主人公河北保の小学校時代の6年間を、2400枚で描いた大河小説である。全六冊には「雲の学校」「雲のよび声」「雲の祭り」 「雲の町」「雲の階段」「雲の恩」と、「雲」で統一された副題が付され、1学年で1部という構成をとっている。相当する時代は明治末から大正の初め頃であるが、埼玉弁を駆使した会話体のテンポと、登場人物たちの魅力や読みやすい文体で飽きさせない。また農民文学作家としての打木村治の視点や小説手法が、この作品に生命を与えているといえる。村を襲った伝染病ジフテリアや、明治天皇の崩御、都幾川の氾濫など、作品に大きな起伏をもたらす社会的な出来事を折り込みつつ、繰り返す四季のゆったりとした時間と、家族や本家の人々、友人、さまざまな大人たちとの関わりの中で成長していく少年保の世界が生き生きと描かれる。とりわけ母親のかつらはもう一方の主人公と言ってよいほどの比重で描かれており、保と母かつらの関係が物語の軸になっている。また、同級生の少女ふゆ子の存在も大きい。この少女のモデルとなった女性と老人になってから再会する場面を、打木は「落日」(「文芸埼玉」創刊号、昭43)と「落日の賦」(「文芸はんのう」第2号、昭57)という私小説風の短編で2度描いている。
年がかわって春になった。村は、サクラと菜の花でかざられ、都幾川のむこうの高本山と坂東山は、山ザクラでちりばめられた。もうすこしすると、たんぼ一面が、レンゲの花で、目がかすむようになるのだ。
(第1部・祈り)

一行は、坂東山のてっぺんから、村をふりかえった。一望の青田は暑さでかすんで いて、部落の森も農家のワラ屋根も、熱い息をはいているようだった。そのひろいながめのまんなかを、都幾川がまがりくねって流れている。水は銀色で、石川原が白くまぶしい。 (第2部・夏雲)
秩父山脈が、みるみるむらさき色にかわっていく。夕焼けはきれいになるいっぽうだ。
何千羽のカラスがきょうも鳴き鳴き西に帰っていく。どっちを見たって、村は枯れススキの穂がふわふわしていて、カラスでなくたって、はやく家に帰りたくなる夕景色だった。 (第5部・美しい)
こういう自然描写は『天の園』のいたるところにみられ、当時の唐子村や周辺の様子がよく分かる。本家の家や保が住んでいた家は既にないが、都幾川に架かるオトウカ橋(稲荷橋)や唐子橋などは現存し、八幡山、諏訪神社(唐子神社)、さらに川原の周辺の景観は小説の雰囲気を色濃く残している。一帯には『天の園』の文学散歩案内の標識が市によって建てられている。また唐子神社の北側の入口にも、『天の園』をわかりやすく紹介した案内板が建っている。
唐子尋常小学校を卒業した主人公の保は、川越の親戚の米家から当時の川越中学に通う。続編の『大地の園』は、その中学時代の5年間を描いている。浦和中学を舞台にした佐藤紅緑『あゝ玉杯に花うけて』、熊谷中学の野球部を扱った杉森久英『黄色のバット』と並んで、打木の『大地の園』は、川越中学を舞台にした青春小説の秀作として位置づけられる作品である。この作品もひと言で言えば保の成長物語であるが、大正期の川越中学の雰囲気や川越の町の様子が詳細に描かれている。また豊岡町(丸川製糸工場)や飯能市(天覧山)、唐子なども重要な舞台になっている。
打木村治の文学碑は生前に2基建立された。ひとつは所沢市の狭山湖に近い「山口観音」にある碑である。所沢市の上山口にある西武球場前駅は、埼玉県と東京都のほぼ境界に位置している。都の水源になっている山口貯水池(狭山湖)や村山貯水池(多摩湖)などの人造湖と、それを取り巻くように連なる起伏に富んだ狭山丘陵は、季節ごとに美しい景観を見せる。周辺には西武ライオンズ球場や狭山スキー場、西武園、ユネスコ村など、大規模なレジャー施設が広がり、休日やシーズンには若者や家族連れで賑わう。その駅前の一角、球場と狭山湖の間の森の中に、弘法大師の開基と言われる山口観音がひっそりとたたずんでいる。打木は敗戦後都内から所沢市に移り、10数年住んだ。この山口観音境内の「文学碑の丘」に碑が五基並んでいるが、いちばん右側にあるのが打木村治の碑である。1、9メートルほどの根府川石に、
孤寒
を
旅ゆく
と揮毫した一節が彫られている。この碑は所沢市の地方紙「日刊民報」創刊25周年記念事業として昭和53年4月に建立されたものである。碑のほか、同じ山口観音の本堂に、
ふるさとの

炉辺のつどい
から
一人がはじまる
と書かれた自筆の額が飾られている。打木に所沢市ゆかりの作品はほとんどないが、米軍基地を背景に、せん子という多感な少女を主人公にした長編『十六歳』(昭34)の舞台が「T市」となっており、戦後初期の所沢市と想定できる。この作品は35年安保闘争の年に、当時の日活で映画化された。

また、晩年の昭和63年6月には、飯能市南の山中、天台宗天龍寺(子の権現)境内の阿字山公園に2基目の碑が建てられた。これは『打木村治作品集』(昭62)刊行を契機に、飯能青年会議所、飯能市文化協会、飯能読書グループ連絡会の三者が共催して建碑委員会を組織し、700余名から300万円の寄付を募って建てたものである。奥武蔵連山の眺めが美しい公園の一角に、
子どもの騒ぎは
雲のさわぐのに
似ている
という『天の園』の一節が刻まれている。作者の自筆色紙を拡大して刻んだオルガン型洋碑である。碑材は天地が76センチほどの白稲田御影石で、黒御影石を嵌めこんだもの。
打木村治は平成2年5月に脳梗塞で倒れ、86歳で逝去した。最後の30年近くは飯能市に居住して、第2次「作家群」を創刊し、地域の文化行事や公民館活動にも積極的に関わった。初期の「文芸埼玉」や「文芸はんのう」(創刊号〜10号)に作品やエッセイを寄稿している。他には日本児童文芸家協会顧問、「埼玉文芸賞」選考委員長、埼玉文学賞の選考委員などをつとめた。また、昭和54には勲四等瑞宝賞を受賞している。墓所は飯能市下直竹の長光寺である。
※関連地……入間市、所沢市、飯能市、東松山市、川越市
(1997.09)

1