落葉して輝く裸木のように

大木実(おおきみのる/1913〜1996)は昭和14年(26歳)に第1詩集『場末の子』を出して以来、平成8年4月、82歳で亡くなるまでに約20冊の詩集を出した。また、児童向けに詩や音楽の鑑賞本を数冊著している。
生前最後の詩集『駅の夕日』が思潮社から出たのは平成6年。この詩集の題にもなっている作品「駅の夕日」の駅は、JR高崎線の北本駅のことで、つぎのような作である。
北本を通過したとき
大きな樹をみたことが
眼に残っています
……I さんからの手紙の一節
そのけやきの大樹は西口広場に
まっすぐに高くそびえ
小さな木造の駅舎は
瀟洒な橋上駅に変わった
駅の出入はもとは東口だけで
跨線橋が東西を結んでいた

通過する特急あさまの轟音に
橋の上で愕いて声をあげた
なっちゃんも早中学生になった
プラットホームの階段をあがり
改札を出ると西口正面に
晴れた日は遠く富士が見える
沈む夕日が美しい
コスモスの花が咲きはじめた9月中旬のある日、詩人が住んでいた鴻巣市と、北本市の周辺を歩いてみた。北本駅の駅舎の景観や西口広場、そして、広場の中にある1本の欅の大樹などの印象は、詩に描かれているとおりである。「跨線橋」から眺める西の空には、雲のため富士山こそ見えなかったが、外秩父連山が秋空の下におだやかに横たわっていた。
毎日決まって散歩に出る
好きな線路沿いの道を駅へ向い
駅からまた同じ道をゆっくりと
わが家へ帰ってくる小一時間
時刻は決まっていないが
午後おそく日の暮れまえ
晴れた日は陽の落ちるころ
雨の日はこうもり傘を傾けて (「夕方の散歩」前半部二連)
これは『駅の夕日』よりひとつ前の詩集、『柴の折戸』(平3)に収められているソネットの作品である。大木実は昭和21年に復員して、戦後はずっと埼玉で暮らした。本

庄市に約半年、その後大宮市に移って約30年、そして、晩年は鴻巣市に住んだ。住まいのあった鴻巣市小松は、北本市に隣接している。この作品の舞台も、小松から線路沿いに北本駅西口に出る長い直線の小道であろうことは、歩いてみてすぐに実感できた。この道を毎日散歩した詩人の風貌や足取りまでが髣髴する作品である。わずかな時間に高崎線の上下の列車が何度も通る。冒頭で引いた作品「駅の夕日」に、「通過する特急あさまの轟音」とあるが、長野新幹線に10月から取って代わられることになったその「特急あさま」も、風を生んで轟音とともに走り抜けていく。
大木実は大正2年に東京の本所(現・墨田区)で生れた。柳島尋常小学校を出た後、電気工夫をしていた父の意に従い神田の電気学校(現・東京電気大学)に入学したが、身が入らず中途で退学。その後、店員、事務員、工員、海軍の兵役などを転々とする。詩は16歳の頃、室生犀星の『愛の詩集』に感動して書きはじめた。所属したのは「牧神」「冬の日」などの同人誌。その後、尾崎一雄の知遇を得て砂子屋書房に勤務することになり、同社から昭和14年に第1詩集『場末の子』を出した。翌15年には丸山薫に師事して 「四季」(第2次)に作品を投稿、丸山の推薦で17年から「四季」の同人となる。三好達治、丸山薫、堀辰雄が編集していた「四季」は、昭和10年代に清楚で知的な抒情を確立して大きな役割を果たした詩誌である。
日暮らしの勤めに疲れ
帰っていくわたしを待つものは母ではなかった
ひとつの室(へや)であり
暗くなれば点るあかりであった
わたしにも
ひとつの明りがあたえられ
ゆうぞらに端座する屋根がわたしを迎えてくれた
(「屋根」第1連)
大木実の詩は、「四季」の詩風とやや趣を異にしている。初期から晩年まで、比喩表現をほとんど用いずに、日常や生活の場面で沈殿してくる思いを飾らない生の言葉で書いた。人生をみつめるその詩性はかなしいまでに純粋で、どの詩篇もペーソスにみちている。第1詩集のあと、大木は敗戦までに『屋根』(昭16)、『故郷』(昭18)、『遠雷』(昭18)と精力的に詩作をつづけた。『初雪』(昭21)は19年に刊行する予定で用意していたものを、空襲で製本所が焼けたため戦後に出したものである。『故郷』には 『大木実全詩集』(昭59・潮流社)や『大木実詩集』(平1・思潮社)には収められていない若干の戦争詩も収録されている。大木は16年に結婚、同年末に海軍に機関兵曹として応召した。これら大木の戦前の詩集に、尾崎一雄や丸山薫のほか、三好達治と高村光太郎が一文を寄せている。三好達治は「『屋根』評」において「気を衒はず素朴で実直なかういふ詩風が近頃追々わが詩壇から影をひそめようとしてゐる折から、まことに十年相見ない知己にめぐり会つたほどの感懐を覚えた」と述べ、高村光太郎は、「『故郷』序」で「今の世にこれほど素直な、ありのままな詩を見るのは珍しい。しかもそれが正しい技術によってゆるみなき表現を持ち、おのずから人間生活の深い実相と感動とを人にさとらしめる。書いているところはほんの身辺の日常事であるが、それが不思議に瑣末の感を起させず、凡俗の気をきれいに絶っている」と称賛している。
大木実がベトナムのサイゴンから復員したのは21年の4月で、33歳であった。戦中と敗戦直後の作品は『夢の跡』(昭22・臼井書房)にまとめられている。復員した大木は、児童物の出版社に勤めていたが、二三年から大宮市役所に勤務し、以後27年間を地方公務員として過ごした。大木実はこの大宮時代の前半を、貧乏と病で辛い時期だったと回想している。戦後の作品はすべて埼玉で書かれたので、具体的な地名や場所がモチーフになっている作品も多い。とりわけ荒川の流れと大宮駅を中心とした高崎線沿線の風景は、大木実の根底にある漂泊への思いを象徴しているかのようである。具体的に作品を記してみると、詩集『路地の井戸』中の「貨車」が大宮駅、『天の川』の「陸橋」2篇が大宮での生活、『月夜の町』の「十年」も大宮時代の生活、「詩人の家」が名栗川と蔵原伸二郎、『冬の支度』中の「木曜日」が大宮市、そして「菖蒲という町」「騎西という町」、『蝉』の「五番線」が大宮駅、『夜半の声』の「川越線のプラットホーム」が大宮駅、『柴の折戸』の「荒川の鉄橋」「荒川の夕映え」、 『駅の夕日』の「春の日」が荒川の風景と丸山薫を扱っている。
昭和42年に丸山薫、田中冬二、神保光太郎らによって「四季」(第4次)が復刊されたが、大木は同人として参加した。また、58年からは八木憲爾の「文学館」に編集同人として参加し、詩作を続けた。57年に第25回埼玉文化賞を受賞したほか、平成4年に『柴の折戸』で第10回現代詩人賞を受賞。また、「埼玉文芸賞」の選考委員を長く務めた。遺稿詩集に『年暮れる』(平8・潮流社)がある。
最後に、『夕べのからす』から大宮をモチーフにした作品「通過」を引いておきたい。
列車は停まる
六番線上りホーム
高崎発上野行き
多くのひとが降り多くのひとが乗る
……僕には通過駅 大宮
列車の窓から視る
ひとの群れ 町の賑わい
この町に妻と子と住み
この町で僕は二十七年働いた
愉快なおもいでが浮かばないのは
僕の気持が 生活が
愉快でなかったということか
青年と老年のあいだに在る 中間の
通過の意味しか持たなかったということか
この駅に この町に
残してきた二十七年の歳月
味気なかった 僕の長い中年期
……発車のベルが鳴る 僕を載せ
※本文中で引用した詩作品の「……」部分は、原典では傍線である。
※関連地……北本市、鴻巣市、本庄市、大宮市、飯能市 (1997.11)

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