平野に埋もれた明治の青春

田山花袋(たやまかたい/1872〜1930)は、漢詩文や和歌、新体詩、紀行文、小説、エッセーなど多様なジャンルの作品を書いた。太田玉茗の項でもふれたが、玉茗や国木田独歩、柳田国男らと合同で新体詩集『抒情詩』を出したのは明治30年、20代半ばのことである。
花袋は、のち文学を捨てて羽生市の建福寺の住職になった玉茗とは無二の親友である。32年にはその妹りさと結婚して義兄弟になった。羽生は利根川に面した町で、いかにも関東平野らしい広がりをみせる風景の中にある。花袋の郷里館林にも近い。そういう親しさから、花袋は東京の生活に倦むと、よく建福寺を訪れた。そして時には長期にわたって滞在した。したがって、おのずと花袋と埼玉の関わりは深く、羽生市を中心にした北埼玉の地がたびたび作品の舞台になっている。なかでもよく知られているのは『田舎教師』(明42)であろう。これは小林秀三という実在の青年をモデルにした長編小説で、おおよそのあらすじは次のとおりである。
熊谷中学(現・熊谷高校)を卒業した林清三は、詩や文学への夢を抱きつつも、家庭の貧しさゆえ進学を果たせず、三田ヶ谷村(現・羽生市)の弥勒高等尋常小学校の準教

員になる。明治34年のことである。清三の家は行田にあったので、羽生を経て弥勒まで毎日4里の道を通った。やがて「行田文学」という雑誌を友人たちと出すが、羽生の成願寺の住職でかつての新体詩人山形古城に賛同者として寄稿してもらったことが縁で、清三はその寺の本堂の一室に下宿させてもらうことになる。学校までの距離も約半分になった。寺での清三は、主僧から文壇の話を聞いたり、書物を借りて読んだりして刺激を受ける。教師生活や近くの郵便局で働く友人荻生との交流、また、友人北村の妹美穂子への片恋、文学への夢などが、行田、羽生、弥勒の自然風土に織り込まれて描かれるこの前半部は、清三にとってもっともよい時期だったと言えるだろう。
しかし、年が改まるころから、清三をとりまく状況に少しずつ変化があらわれる。友人たちは上級の学校へ進学、しだいに離散し、「行田文学」も間もなく廃刊になった。また、失恋と相変わらぬ家庭の困窮、そして、自身の現状や将来への焦燥感。これらで半ば自暴自棄になり、清三は寺へも帰らず、やがて学校の宿直室で自炊生活をするようになる。利根川に近い寒村三田ヶ谷での生活に慣れるにつれて、逆に清三の理想や夢はますます実現から遠いものになっていく。寂しさに堪えかねて、清三は中田の遊郭に通うようになるが、しだいに借金がかさみ、生活も荒む。やがてそれまでの感傷的な理想から覚醒した清三は、自分の現実を受容する気持ちになり、生活を立て直す。そして、以前にも増して教師の仕事に生きがいや喜びをもって取り組むが、それと前後して体の不調がつづくようになる。結核であったが、医師の見立て違いも重なって、清三は無理を押して仕事を続ける。
明治37年2月、日露戦争が勃発して、羽生や行田あたりでも出征兵士を見送る光景が見られるようになる。その年の夏、清三は弥勒から羽生の大通りに近い借家に移る。両親も行田から越して来て、再び家族揃って暮らすことになるが、体調は悪くなる一方であった。町は戦争一色の雰囲気になり、清三も戦果に一喜一憂しつつ、病に臥すわが身を嘆く。9月初め、遼陽を占領した祭りで町は賑わった。そして、提灯行列が万歳を唱えながら何度も通るのを聞きつつ、清三は21歳の若い命を終える。葬儀は成願寺で行われ、1年後に親友らの尽力で自然石の墓碑が建てられた。
秋の末になると、いつも赤城おろしが吹渡つて、寺の裏の森は潮(うしほ)のやうに鳴つた。その森の傍を足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕に凄じい響を立てゝ通つた。
物語はこういう印象的な描写で幕を閉じる。この『田舎教師』に出てくる地名は実際と同じである。また、主人公の林清三だけでなく、ほとんどの登場人物や店や建物にいたるまでモデルが存在する。成願寺は羽生の駅前にある建福寺だし、主僧の山形古城はもちろん太田玉茗である。作者の花袋も原杏花という名で登場する。校長や同僚の関さんをはじめ、加藤、荻生、石川、北川らの友人、さらに美穂子、田原ひで子、お種さんらもすべてモデルの人物がいた。雑誌「行田文学」は、当時の「鴛鴦文学」のことである。これらのことは、この作品が親しまれてきた最大の理由になっている。
しかし、小説における虚構と現実の区別は重要である。
私は青年……明治三十四五年から七八年代の日本の青年を調べて書いて見ようと思つた。そして、これを日本の世界発展の光栄ある日に結びつけやうと思立つた。 (『東京の三十年』大6)
ここには花袋が『田舎教師』を書いたモチーフが語られている。「日本の世界発展の光栄ある日」というのは日露戦争に勝利したことである。花袋は明治37年に、勤めていた博文館の私設写真班として半年間大陸に赴いた。「戦場での凄じい砲声、修羅の巷、残忍な死骸、そういうものを見て来た」(「同前」)花袋は、その人生観や文学観が変わり、当初の作風から大きく転換する。自然主義作家花袋を誕生させたのは、モーパッサンのリアリズムと、この戦場体験であった。帰国した花袋が建福寺を訪れて、小林秀三の死と、彼の日記が玉茗のもとに保管されていることを知ったのは、館林での従軍講演の折である。薄倖の運命をかこちつつ、病で夢と理想を挫折させ国威昂揚の時代に死んでいった青年の日記。それは、その時の花袋の心境と創作のモチーフからして恰好の資料であった。数年間あたためられて、『田舎教師』は一気に書き下ろされた。したがって、客観的なモデル小説でありながら、主人公に対する作者の主観の移入が濃く感じられる作品になっている。

『田舎教師』ゆかりの場所は多い。建福寺には、主人公清三が一時住んだ旧本堂が保存されている。また、親友たちの尽力で建てられた小林秀三の墓碑のほか、すぐ近くには小杉放庵筆により昭和9年に「田舎教師」と見事な字で彫られた碑がある。境内のたたずまいは今もひっそりとしていて、当時が偲ばれる。
主人公が住んだ羽生の家はすでにないが、足を弥勒へ延ばすと、果てしなく続く平野と利根川の悠々たる流れは、訪れる者をそのまま作品の世界へ誘い込む。県道羽生外野

栗橋線と東北自動車道が立体交差している地点を、県道に沿って東へ行くとすぐに小学校跡がある。「清三の教へる室の窓からは、羽生から大越に通ふ街道が見えた」と描かれているように、県道に面した場所である。跡地はコンビニエンス・ストアになっているが、「弥勒高等小学校址」の碑がある。碑には
絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやうな
まことなる生活を送れ
運命に従ふ者を勇者といふ

という清三の日記の一節が彫られている。建立は29年。また、この地点はY字路になっており、その一角に松の木を背景にして「田舎教師の像」が建っている。小学校跡の碑に向いて、鳥打帽子に羽織袴、下駄履きといういでたちのブロンズ像である。建立されたのは52年。
さらにY字路を左に少し行くと円照寺があり、境内に「お種さんの資料館」が設けられている。中には当時の生活用具類、「お種さん」の資料、『田舎教師』に関するパネル写真、資料、年表などが展示されている。
県道を羽生方向へ少し戻り、八幡神社の所を右へ行くと利根川に出る。整備された堤防の上に立つと視界が展けて、利根川と関東平野の雄大さがあらためて実感される。堤防の道を上流へ少し行くと、左下方のサイクリングコースの傍らに、56年に建立された高さ2メートル近い碑がある。この一帯は、「……松原からは利根川の広い流れが絵を展げたやうに美しく見渡された」と描かれている松原の跡で、清三がよく生徒を連れて来て遊んだ所である。碑には主人公清三が作った

松原遠く日は暮れて
利根のながれのゆるやかに
ながめ淋しき村里の
此処に一年かりの庵
はかなき恋も世も捨てゝ
願ひもなくて唯一人
さびしく歌ふわがうたを
あはれと聞かんすべもがな
という新体詩が刻まれている。
清三が中学時代に住んだ行田もゆかりの場所は多い。作中の「行田印刷所」「柳の

湯」「料理屋」のモデルになった所は現在も残っている。「昔の城址」の忍城は再建され、「沼」もきれいに整備されて、一帯は広大な水上公園になっている。また、公園通りの東側の奥の林には、大きな文学碑がある。37年の建立で、碑文は弥勒の小学校跡の碑と同じである。
※関連地……羽生市、熊谷市、行田市 (1998.09)

12