飯能の清流に息づく詩人

詩人蔵原伸二郎(くらはらしんじろう/1899〜1965)は、戦後の20年間を埼玉で過ごした。戦火を避けて疎開していた青梅から吾野村(当時)に移り住んだのは昭和20年である。以後、飯能市内(2ヶ所)、豊岡町扇町屋(当時)と転居して、28年には再び飯能市に戻っている。奥武蔵の豊かな自然と人々の温かさに、蔵原伸二郎の心は安らいだようである。その終の住処となった家は、名栗川を見下ろせる河原町に現存している。戦後の

すべての作品を、飯能とその周辺で著した蔵原は、埼玉ゆかりの詩人と言うに十分であろう。
蔵原伸二郎(熊本県生れ)は昭和40年3月に65歳で逝去したが、その1ヶ月前に、生前最後の詩集『岩魚』(詩誌「陽炎」発行所」39年刊)で読売文学賞を受賞している。戦時中におびただしい数の戦争詩を書いた蔵原伸二郎にとって、戦後の20年はそれが思想的な負債となったごとく悲運であったが、最期にその独自の詩境が認められたことになる。
詩集『岩魚』は30篇余りの作品で構成されている。中でも「狐」を主題にした冒頭の6つの詩篇と、詩集のタイトルと同じ「岩魚」と題された作品はよく知られており、評価も高い。たとえば詩集巻頭の「めぎつね」は、つぎのような作だ。
野狐の背中に
雪がふると
狐は青いかげになるのだ
吹雪の夜を
山から一直線に
走ってくる その影
凍る村々の垣根をめぐり
みかん色した人々の夢のまわりを廻って
青いかげは いつの間にか
鶏小屋の前に坐っている
二月の夜あけ前
とき色にひかる雪あかりの中を
山に帰ってゆく雌狐
狐は みごもっている
村里近い山に棲息し、雪の夜に「青いかげ」になって自在に走る狐のイメージは、たぶん敗残の思想を肯定も否定もできず、戦後という時代そのものから隠棲するように生きてきた詩人の感覚の寓喩として表現されている。
飯能市の天覧山(195メートル)への登り口と、飯能戦争の舞台にもなった名刹能仁寺の東参道が合流している地点に、高さ3メートル近い大きな詩碑がある。桜の木の枝に包まれるようにそびえているその碑には、
野狐の背中に雪がふると狐は青い影に
なる 山から一直線に走って来る
その影

と、「めぎつね」の冒頭部分が刻まれている。
しかし、厳密には詩作品と詩句が違うので異稿である。この詩碑は、蔵原伸二郎が死去した翌年の昭和41年に、当時の能仁寺住職萩野昌巳が会長を務めていた飯能市観光協会によって建立された。戦後間もなく蔵原伸二郎に師事し、当時詩碑の建立にも関わった詩人町田多加次(飯能市在住、詩誌「高麗峠」代表同人)は、『飯能の文学碑』(平成7年)中の蔵原伸二郎の項で、この作品と碑文に異同が生じた経緯を解説している。それによると、碑文を詩人の直筆でということで、たまたま「出版記念会の関係で東雲亭に贈られていた書幅を二倍に拡大」して使用したものであり、「あくまでも蔵原が気軽にしたためたもので、必ずしも原本に忠実」ではない結果になったと述べている。
ところで、初期の蔵原は『猫のゐる風景』『目白師』などの小説集を出し、小説家として活躍していた。一方大正12年に出た萩原朔太郎の詩集『青猫』に深く感動して、大正13年ごろに多くの詩作品を書いている。翌一四年には「猫。青猫。萩原朔太郎。」という評論も書いた。これは『青猫』の本質を詩的な文章で見事に論じたもので、当の朔太郎から、「初版『青猫』は多くの世評に登つたけれども、著者としての私が満足し、よく詩集のエスプリを言ひ当てたと思つた批評は、当時読んだ限りに於て、蔵原伸二郎君の文だけだつた。よつてこの定本では、同君に旧稿を乞うて巻尾に附した。」(『定本青猫』自序)と評価された。
このころ書いた詩作品を、ほぼ10年後の昭和9年に、保田與重郎に請われて雑誌「コギト」に発表し、昭和14年に第1詩集『東洋の満月』としてまとめた。萩原朔太郎の 『青猫』の影響を色濃くうけつつも、この詩集は後の蔵原の、東洋的ナショナリズムを主調音にした戦争詩と、西洋の物質文明を拒絶して原始アジアの風景に沈潜してい

った晩年の詩の双方の要素をすでに内包している。大正末期に書かれたにもかかわらず、日華事変が始まってナショナリズムが昂揚していく時代の雰囲気によくマッチしているのである。この詩集の刊行後、蔵原は、ほとんど抵抗感や異和感なしに戦争詩を書き始めたと思われる。その数も多く、『戦闘機』(昭和18)、『天日のこら』(奥付は『天日の子ら』) (昭和19)、『旗』(昭和19)と、3冊の戦争詩集を著している。そのうちの『戦闘機』で昭和19年、第3回日本詩人賞を受賞した。
戦後の蔵原の著作には、詩文集『暦日の鬼』、『日本文学の話』、『現代詩の解説と味わひ方』、『詩人の歩いた道』、詩集『乾いた道』、詩論集『東洋の詩魂』、詩集『岩魚』がある。そして死後には、『定本岩魚』『蔵原伸二郎選集』『蔵原伸二郎小説全集』などが刊行されている。
実生活の面における蔵原伸二郎と飯能の関わりをみてみると、蔵原は戦後、市の文化財保護委員会副会長の役職を務めた。周辺の小中学校の校歌の作詞も10校以上に及んでいる。また、昭和26年までは飯能文化協会の総合誌「飯能文化」の顧問を務めた。全県的には昭和30年に発足した「埼玉詩人クラブ」の顧問であった。さらに、昭和25年に創刊された同人誌「雑草」から詩誌「陽炎」、そして現在の詩誌「高麗峠」まで、連綿と続く飯能文学とも言うべき文学的雰囲気の精神的支柱として、地域の文化人や若い世代に大きな影響を与えている。前述の町田多加次もその薫陶を受けたひとりである。自宅を「詩誌『陽炎』発行所」となし、そこから生前の『岩魚』、没後の『定本岩魚』を刊行した。そして、現在もなお蔵原の文学の顕彰に努めている。
最後に、詩集や単行本には未収録だが、埼玉にふさわしい牧歌的な詩作品を紹介しておきたい。
八高線風景
あてもなく八高線に乗った
高麗川、毛呂、越生、明覚……
むせかえる若葉の山あいをぬって
古風な汽車が走っている
思いがけない山ふところに
水田があり、青空が映っている
あんなところに、たった一軒
傾いた農家があった
むらさきつつじの咲いている
石垣の上に立って
小さな女の子が手をふっている
汽車は荒川を渡って寄居についた
どやどやと、日だまりの匂いを
まきちらして
高校の女生徒がいっぱい
のりこんできた
むさしおとめの目はみんな
ぴかぴかひかっている (「弘済」昭和38)
※関連地……飯能市、入間市、日高市、毛呂山町、越生町、
都幾川村 (1996.07)

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