ネオ・ロマンチシズムの高みへ

きびしい残暑をやわらげるような雨が降る日、さいたま市浦和区にある「秋谷豊詩鴗館」を訪ねた。場所は北浦和駅東口から5分ほどの閑静な住宅街である。秋谷豊が長年住んだ自宅であるが、外観がいかにも文学的な雰囲気のたたずまいになっている。道路に面した壁に横書きで「秋谷豊詩鴗館」と書かれた看板がかけられ、案内板のほか、壁のレンガには「地球文庫」設立を記念して作られたレリーフがはめ込まれている。また、
ぼくが高い山に憧れるのは
この平野に生まれ育ったせいだ
秋谷 豊
と彫られた石のモニュメントも据えられている。

これは小野寺優元の製作(平5)になるもので、詩集『ランプの遠近』中の作品、「武蔵野」の冒頭の2行を刻んだものである。
中は書斎をそのまま保存し、秋谷自身の詩集や著作、「地球」の全バックナンバーなどのほか、幅広い現代詩関係の書物や資料、写真など、膨大な点数がきれいに展示されている。どれも貴重なものばかりだが、展示してあるのはまだ一部にすぎないとのことである。
詩人秋谷豊(あきやゆたか/1919〜2008)は、文字どおり埼玉を代表する現代詩人である。大正11年に鴻巣市で生まれ、10代の後半から自覚的に詩を書き始めた。堀辰雄や立原道造など「四季」派の影響のもと、当初は文芸誌「若草」などに投稿していたが、昭和13年、15歳のとき詩誌「千草」をガリ版刷りで創刊する。この雑誌は18年に「地球」と改め、敗戦まで続けられた。敗戦直後の21年には、詩の復興の熱気がまだ渾然とした中、早速詩誌「純粋詩」を福田律郎らと創刊している。この雑誌にはのちの戦後詩人の世代がたくさん集まった。翌22年にはふたたび「地球」も出したが、秋谷の病のため2号で終わる。この年、戦時中に書いた「四季」派の影響が濃厚な作品をまとめて第1詩集『遍歴の手紙』を出した。そして23年には都内から浦和に居を移し、25年に三度「地球」を創刊、主宰する。いわゆるこの第3次の「地球」は、戦後詩史でよくとり上げら

れるもので、秋谷が亡くなった翌年の平成21年(148号・秋谷豊追悼号)まで続いた。「地球」は戦後もっとも長く続いた詩誌となったが、ひとつの詩誌が約60年継続したことは驚くべきことであろう。
「地球」創刊当初、秋谷豊はネオ・ロマンチシズムを掲げ、戦後の抒情詩を主導する役割を果たした。秋谷の言葉を借りると「……戦後的な課題を負った新しい抒情詩の開拓をめざした」(『抒情詩の彼方』あとがき)のであるが、ある意味でそれは戦後初期における秋谷豊の位置の苦しさにもつながっていたように思われる。ひと言で言うなら、敗戦を契機に、詩的感性を「自然」に依拠させた「四季」派的な詩世界は否定され、戦争で喪われた自己の生の回復を第一義とする詩へと、時代全体がうねりのように転換していたからである。かつて吉本隆明はユリイカ版『現代詩全集』全6巻(昭34〜35)の解説で、秋谷豊や生野幸吉の詩を「戦前の現代詩との直通路」をもっている詩といい、「戦後的な共通意識でとらえれば、日本的な心情の土台をなしている自然的な秩序にたいするたたかいを、根源的な心情の世界によって行おうとしているところに、これらの詩人たちの独特の場所がある」(『戦後詩史論』所収)と評した。すべて引用する余裕はないが、秋谷の抒情詩を戦後15年の時点で詩史的に位置づけた感のある吉本のこの論の指摘を、秋谷は受け入れる趣旨のことをなんどか書いている。そして、戦争体験による傷を深く内包しながら、時代をみつめ自身の生を問答することで新しい抒情詩の道を模索したように思われる。昭和28年、31歳のとき、第2詩集『葦の閲歴』を刊行した。
灰のような薄い月が傾いている
くろい梢にと
傷ついた小鳥が来て とまる
午睡からさめた重い瞼に
凭れたまま (「昼の月」第1連)
秋谷豊は日大予科を中退、海軍省に入り、18年には南方要員として応召した。そして2回ほど南方の戦地へ赴くのを直前に免れている。死と隣り合わせの環境のもとで、秋谷はかけがえのない友人や知人の兵士を見送り、失っている。「荒地」や「列島」の詩人たちだけでなく、この時期に青年期を過ごしたすべての人間にそれぞれの戦争体験があるのは自明である。つまり抒情精神が資質の根本にあった秋谷にも、終生戦争期の傷を背負っていかねばならない体験があるのである。長編なので引用はできないが、戦争をモチーフにしている「黒」「軍靴」などは力作である。詩集のタイトル『葦の閲歴』の「葦」は、詩人自らを喩えたものであろう。詩集のあとがきで秋谷は、「ぼくはひとつの文学理念として、社会的なひろがりをもった新しいリリシズムを追求し発見してゆきたいと思う。それがどういう形であらわれてくるか。ぼくはこの『葦の履歴』を起点に、ここから飛躍することを考えている」と述べている。このあとがきの言葉は、その後の半世紀を越える秋谷の長い歩みを、たしかに指し示していたといえる。それを成さしめたのは、抒情精神の背後にある自己認識の確かさと意思の勁さであろうか。
9年後の昭和37年には『登攀』『降誕祭前夜』の2冊の詩集を刊行した。
――二十年の間
おれは黒い油の海をふかぶかと流れていつた
汚れた腕を波の上につきだし
何かを叫びながら
深い霧の中で
おれは現在も泳ぎつづけているのだ
(『降誕祭前夜』の「漂流」第3連)
この「漂流」のほか、『降誕祭前夜』の最初にならべられている「背嚢」「重たい本」「望楼」などは、依然として戦争体験が重苦しいモチーフとなって書かれている。そして、「ぼくは自分の底に流れている戦争の体験を、いまも消し去ることができないでいる」(「あとがき」)と書くのだ。
ところで、この『降誕祭前夜』の中に、「神」と出した111行に及ぶ長編詩がある。
以前のことだ
父の毒におかされた母は
麦穂のざわめく野のほうから
無言で
墓のうしろへあるいて行つた
そのときぼくは くらい昏睡からさめて
樹の間からすべりおちたのだ (第3連部分)
秋谷豊は生まれ育った鴻巣での体験のほか、母のこと、父のこと、9歳で父母を失ったこと、あるいは詩 (文学)への目覚め、鴻巣から見える秩父の山並みや、秩父往還へつながる街道の彼方へのあこがれ、心の空洞や喪失感などについて、エッセイで繰り返し語り、さらには詩作品でもたびたび表現している。「神」と題したこの作品は、戦争体験に先立つ、生存の根源にある自身の心性を凝視した渾身の作といえる。
『降誕祭前夜』と同年に刊行された『登攀』は、一転して山の詩集である。戦後詩人による本格的な山岳詩はめずらしいが、秋谷に即せばごく自然な流れといえる。幼年時代から秩父の山並みを眺めて憧れをいだいていた秋谷は、15歳のときに初めて雲取山に登っている。それ以来日本全国の山をくまなく登り、山岳詩も書きつづっていた。それらをまとめたのが『登攀』である。
戦争で死んだ山の仲間よ
今日 岩靴も重く
堰松の背にぼくは眠ってみたかった
きみはもう忘れたかね
真昼の空に燃える雲のかヾり
思いザイルをまいて
暗く徐かに沈んでゆく苦痛のチムニー
ぼくは憶えているよ (「おやすみ」第1連部分)
既刊詩集のアンソロジーと新作で編んだ5番目の詩集『冬の音楽』(昭44)以後は、タイトルからして山岳詩集のおもむきがあるものが多くなる。列挙してみると『ヒマラヤの狐』(昭48)、『辺境』(昭51)、『ランプの遠近』(昭56)、『砂漠のミイラ』(昭62)、『廃墟と山靴』(平3)、『時代の明け方』(平6)、『探検』(平9)、『日本海』(平17)。
後年、私が中央アジアやチベットや古代シルクロードに足を踏み入れるようになるのは、平野から見える未知への憧憬が、胸深くひそんでいたからである。
これは『ぼくのアジア探検誌』に収められた「唐土の運命」の一節である。同書の「雪岳山」では、初登山から40年間で国内外の801峰に登頂したと書いている。平成元年の時点のことだが、その数に驚かされる。国内の山々からいつしか西アジアの高峰群、さらには大陸の奥地への探検と、その行動半径はかぎりなく広がっていった。それら登山と探検の旅からたくさんの詩が生み出され、秋谷豊の詩世界を独自の境地へと押し上げた。しかもそれらはたんに山岳詩や探検の詩にとどまらない。秋谷のなかでは秩父の山とヒマラヤや天山山脈は何の区別もなく、空間的に自然につながっているように見受けられる。また、西域のシルクロードやタクラマカン砂漠を歩んでいても、現在から古代へ、あるいは古代から現在へとその想念は自在にかけめぐり、つながっているのである。想念が時空を自在に行き来するこの感覚は、秋谷の詩にふくらみのある魅力をもたらしているように思える。また、辺境の地の高峰や果てしなく西へつづく道への憧憬は、幼少期の心の空洞や喪失感を埋めたいという深層のモチーフと切実につながっていることを、詩や文章で示唆している。つまり、秋谷豊にとっては、登山や探検と詩を書くことは、自己の生の根源を確認するための不可分の行為なのだ。
そのほか、秋谷は持ち前の実行力や組織化する力で、「地球」の規模を拡大してゆく。新人も精力的に育て、「地球」はいつしか最大規模の詩人の集団、組織になった。詩が短歌や俳句のように集団化、大規模化してゆくことに疑問を呈して「地球」を去った同人もいるが、新川和江や石原武らはずっと歩みを共にし、秋谷を支えた。秋谷はさらに現代詩のグローバル化にも取り組んだ。昭和55年、東京で初めて詩の国際会議といえる「国際詩人会議」を主催し、15カ国から68名、日本から約400名の詩人の参加をみた。これは「地球」の創刊30周年の記念事業として行ったものである。海外の現代詩人たちと国境を越えて交流する事業は発展をつづけた。秋谷は日本側の実質的なリーダーとして「アジア詩人会議」「世界詩人会議」も成功させた。こうしてみると、なみならぬ行動力と継続への意思は、秋谷豊の大きな資質であることがあらためて分かる。
秋谷は生涯で13冊の単行詩集を出した。それ以外にはアンソロジーで土曜美術社の日本現代詩文庫3『秋谷豊詩集』(昭57、新編は平1)がある。また、生前の刊行予定が没後になってしまったが、膨大な『秋谷豊詩集成』(北溟社)が平成21年に刊行された。こ

れは13冊の詩集からのアンソロジーである。650頁に及ぶ大冊で、秋谷の詩の軌跡がみてとれる。巻末には、日本文学風土学会会員の石井徹による詳細な年譜が付されていて役立つ。
秋谷には、埼玉の各地を直接間接に主題にした詩作品が多い。具体的に挙げてみると、
「絹の道」「幼年時代」「故園」「武蔵野」「三峰部落」「浦和」「馬上の少年」「秩父困民党」「鴻巣」「ムラサキの衣」「高麗」……(以上『辺境』より)
「絹の道」「鴻巣」「高麗」「街道」「冬野」「遠い文字」「武蔵の武士」「武蔵野」「秩父の山塊」……(以上『ランプの遠近』より。最初の3編は『辺境』と重複)
「遠い道」「浪漫主義」…… (以上『砂漠のミイラ』より)
「両神山」「暗い川」「海戦」「冬の夕焼け」「武甲山」……(以上『廃墟と山靴』より)
「暮春憂愁」「夏野遠くあり」……(以上『時代の明け方』より)
「冬の川」「秋の予感」「武蔵野」……(以上『探検』より)
「武蔵野の地理」「羽生」「平野に新しい地平が見える」「世紀の遠望」……(以上『日本海』より)
さらに詩集ではないが、「白い花」が『残照の武蔵野』(昭56)に、「甲武信岳」が『わが山と旅』(平4)に収録されている。これら埼玉を題材にした作品をまとめれば、ゆうに1冊の詩集になる分量である。
数多い作品の中から、ここでは長年住んだ浦和をテーマにした秀作「浦和」(『辺境』所収)を全編引いておきたい。
浦和
ぼくがこの都市に住んだのは
戦争が終ってまもなくのころ
飢餓の中で詩を書き 生計を立てた
ここの住人の多くは小鳥たち
寂しい街の中でその小鳥だけが人間的であった
タンポポの荒地を登って丘の高みにでると
ずっとはるかに
小さな入り江のような麦の穂のひろがりが見え
ぼくはその晩春の地理に
太古の幻影を感じたものだった
天明六年一月の中山道の絵図には
この丘と丘の間を流れる一本の川が描かれている
月の宮の森 やき米坂もすべて微風のなかだ
いなりとあるのは稲荷社
ここに二七の市が立ったのは三百七十年前のこと
ぼくは夕日とともに下りてきた
谷間のバザールのある村を思う
地面いっぱいに並んだ麦 織物 山羊の肉 ランプ…
チベット女の黒いうすいろの髪 菜種油のにおい
あの霧と氷の中から帰ってきて
夜半 ぼくは詩を書く
この都市で―網にかかった小鳥のように
秋谷豊には詩だけでなく、散文でも幼少期を過ごした鴻巣や埼玉各地についてふれたものが多く、ほとんどの単行本に見ることができる。再録が多いのと、エッセイと詩の両方で編んだ詩文集の性格をもつのが多いのも特色であるが、挙げてみると『ホステル仲間』(昭43)、『文学の旅』(昭45)、『さらば美しい村よ』(昭48)、『岩と雪の歌』(昭49)、『旅の自叙伝』(昭51)、『抒情詩の彼方』(昭51)、『文学山歩』(昭54)、『ぼくのアジア探検誌』(平1)、『わが山と旅』、『現代詩史の地平線』(平17)など。(『現代詩史の地平線』は、秋谷の詩論の集大成としても重要である)
さいごに、これら以外に、埼玉関連を内容としていて大きな意味をもつ著作にふれておきたい。まず秋谷が編集した『埼玉の文学』(さきたま出版会)である。これは昭和54年に出たもので、秋谷を含めて8人が執筆、地域やテーマを分担して、埼玉の文学者や作品を広く紹介している。巻末には「埼玉文学史略年表」と「県内文芸誌・同人誌一覧」を付す。
つぎに『残照の武蔵野』。これは東京の一部も含まれているが、埼玉の山や自然、風物が中心に扱われている。詩情あふれる秋谷のエッセイと、行田哲夫の美しい写真とのコラボレーションで構成された本である。秋谷のエッセイの目次を記すと、「幼年時代」「古代からの通信」「まぼろしの花」「わが故郷に帰れる日」「高みへのあこがれ」「ほろびの美しさ」の6章構成。本全体はハイキングや散歩の手引き書の性格をもちつつ、秋谷自身の体験や視点にこだわった文章で読ませる。
もうひとつは『詩で歩く武蔵野』(平10)である。35人の詩人の、武蔵野の風土色がよくうかがえる作45篇を集め、そのすべてに秋谷豊が解説を加えたアンソロジーである。国木田独歩「山林に自由存す」から吉野弘「石仏」まで、地理上の範囲は東京も含み、埼玉のほぼ全域をカバーした作品集になっている。文学散歩の手引書としても恰好の1冊といえる。
以上の3冊は、埼玉の「文学散歩」という観点から大きな意義のある仕事である。
秋谷豊のおもな受賞歴は、世界芸術アカデミーから文学博士の称号(昭56)、埼玉文化功労賞(昭59)、埼玉文化賞(昭60)、日本詩人クラブ賞(昭63)、文部大臣賞(昭63)、日本舞踊批評家協会賞(平5)、丸山薫賞(平7)、世界桂冠詩人賞(平12)、ギリシア作家協会賞を授与(平12)など。
また、日本現代詩人会議会長、埼玉詩人会会長、世界詩人会議日本大会会長などのほか、埼玉文芸賞選考委員、埼玉文学賞選考委員、朝日新聞埼玉版「埼玉文化」欄の詩の選者などを長くつとめた。
※関連地……浦和市、鴻巣市、その他多数
※写真提供「秋谷豊詩鴗館」 (2010.09)

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