両神の山並に抱かれて

秩父盆地から国道299号線沿いに西へ向かうと小鹿野町に入る。この小鹿野町から南へ、谷間の県道をさらに4キロほど行くと両神村である。荒川の支流にあたる薄川と小森川の谷に沿って集落が続き、山の切れ目や高台からは、ほぼ群馬県との境に位置する鋸歯状の両神山(1724メートル)が時々姿を見せる。いかにも奥秩父というにふさわしい景観である。人口はピーク時(昭25)には5千人を越したが、現在は3千人余り。人口の減少傾向とは反対に、キャンプ場のほか、埼玉県山西省友好記念館や国民宿舎ができ、シーズンには観光客で賑わう。
大谷藤子(おおたにふじこ/1901〜1977)はこの両神村出身の小説家である。両神小学

校の前の通りから小森川に架かる大平戸橋を渡って右に折れるとすぐ藤子の生家である。そして農道を挟んで生家の正面の一角に藤子の文学碑がある。藤子の7回忌にあたる昭和58年11月に、「日暦」の渋川驍や、書誌研究家の原山喜亥らの協力のもとに、両神村によって建てられたものだ。根府川石に「山村の女達」(昭14)の一節が明朝体で刻まれている。
日の出が迫ったらしく、そここゝの蜘蛛の巣が急に美しい線を描き、宿った露がきらめきだした。ほんの気づかないほどの間ではあるけれど、あたりがぱっと蒼白く冴え、陰影が東の山の根にたちこめて、その陰影のこもった山は、奥深い、はかり知れないような大いさを見せた。
大谷藤子のかなりの作品は郷里の両神村を舞台にしている。その意味で、大谷藤子は奥秩父の山村と人間模様を描きつづけた作家といえる。起伏に富んだこの村を歩いてみると、その作品の木々や風、山や谷、川や畑や杉林などの描写が隅々まで納得できる印象がある。碑文の「東の山の根」や、「日の出が迫ったらしく」というのも、西は谷に面し、東側がすぐ杉山に遮られている生家の付近の地形から受ける印象そのままなの

である。この生家のあたりの様子は、晩年の短編「歳月」(昭50)では「道の片側は崖になっていて蔓草が生い繁り、紫いろの小さな花をのぞかせている。その下のほうで、白い飛沫をあげて谷川が流れていた。片側は山で、その山裾を削りとったように細い道がついているのである」と描かれる。場所を特定していない場合の方が多いが、前述した

ようにその大半は大平戸と呼ばれた生家付近の集落や両神村を舞台にした作品である。そして、登場するほとんどがこの地で生まれ、育ち、そして死んでいく人たちである。作者は閉ざされた山村の風土や家の因習という大状況のなかで、強欲であったり、だらしなかったりする男たちに結果的に翻弄される様々な女たちを登場させて、その生きざまを冷めた筆致で描いていく。 「村の夜鷹」のお巻、「山村の女達」の老婆せい、もよ、杉林を守る寡婦おたみ、「須崎屋」のさだ、「妻の戒名」のまつ、「刺草」の祖母など、いずれも印象深い。これらの人物たちは、「たゞ噂だけが喧しく流れ、溪向うまで流れ、誰知らぬものもなくなる。三里も奥の両神山の麓で人家が杜絶えると、やっと黙ることさえあった。」(「山村の女達」)とやや誇張されている噂の伝播と、作者の想像力と不特定のモデルなどからつくりあげられている。したがって、妻、母、祖母、姑などとして登場する人物たちはいずれも類型的で典型的である。山村の狭い人間関係の中で精一杯生きる様々な女たちの、言わば悲劇的な生を、藤子は倦むことなく描きつづける。これらの作品は、小説のもつカタルシスからは遠い。
大谷藤子は明治34年に4人姉妹の末っ子として生まれた。小学校時代から作文が得意だった。村の小学校を卒業したあとは都内の三田高女にすすむ。その後東洋大学文科の聴講生になるが、結婚のため一年足らずでやめている。昭和2年、23歳で川越出身の海軍大尉井上義雄と結婚、広島県呉市に住んだ。しかし、五年間で結婚生活を解消、以後独身を通した。この習作の時期は「創作月刊」「文芸尖端」などに拠った。昭和7、8年ごろに再び上京、数箇所を転居したあと下北沢に落ち着き、文筆活動に入る。そして、現在残されている作品の殆どをここで書いた。昭和8年に高見順、渋川驍らと同人誌「日暦」の創刊に参加、同誌に「伯父の家」を発表したのが機縁になり「文学界」にも「信次の身の上」を発表。さらに昭和9年、「改造」の懸賞小説に応募した「半生」が当選して文壇での地歩を固める。11年には武田麟太郎らの「人民文庫」にも参加している。このころに「須崎屋」「山村の女たち」などの初期の代表作が書かれた。また市井物や少女小説も書いている。戦争末期には都幾川村の母の実家へ疎開した。寡作であるが、戦後も渋味のある作風を展開した。「谷間の店」(昭21)、「地の苔」(昭22)、「刺草」(昭23)、「妻の戒名」(昭26)など、いずれも好短編である。また、ある殺人事件とその裁判の顛末を材にした「最後の客」(昭38)、「再会」(昭44)、「流雲」(昭45)は、作者が初めて身近の人物をモデルにした三部作である。「釣瓶の音」(昭28)と「再会」で、2度にわたり女流文学賞を受賞した。さらに『青い果実』(昭34)、『断崖』(昭35)などの長編もある。現在手軽に読めるものとしては『大谷藤子作品集』(まつやま書房・昭60)がある。
昭和52年11月に75歳で大谷藤子は亡くなったが、その死の直後に最後の短編集 『風の声』が新潮社から出た。表題作のほか6つの作品が収録されているこの短編集の注目すべき特色は、これまでと違ってすべての作品の主人公が「私」になっていることである。書かれた時期は47年から51年。多少の脚色はあるにせよ、これらはかなり私小説に近い作品で、主人公の「私」と作者藤子がほぼオーバーラップしている。それは、山村に生きる女たちの生をみつめることに、藤子がようやく倦んだかのような印象を与える。文体も奥秩父の方言を基調とした話体から、1人称を基調にした深みのある文体に変化している。中でも「郷愁」(昭47)は佳品で、晩年の大谷藤子の心境が等身大で描かれている作品と言えよう。
この作品は、東京で独り暮らしをしている老いた「私」が、10年ぶりに生まれた村へ帰って来るという場面で始まる。久しぶりに踏む故郷の土の感触や自然には変わりがないが、時々よろける足許に、「私」は「自分が老婆になって帰ってきたという思いに」あらためて愕然とする。紙数がないので作品のあらすじからは逸れるが、両神村の風土や自然が、この作家にとってどれほど本質的なものであったかがうかがえる部分を引いてみたい。
私は東京で独り暮しなので、死んだら生家の墓地の父母のそばへ葬ってもらう心づもりだった。そのことに些かの疑念を抱いたことがなく、それは帰るべきところへ帰るような安心感だった。
私が久しぶりで見たとき、村は昔と変りがないと思われたが、いまではそれが一種の幻覚だったような気がしてきた。人々は蒸発してしまったのである。しかし、父や母が坂道を歩いて行く姿や、村の人たちが 畑へ出ていた姿などは私の眼の底にあって、それは消えようとはしない。
私は老人の後姿を見送りながら、その姿が見えなくなるまで立ちつくしていた。なんだかんだと理くつをこねながら年をとってきた自分が、空虚なものに思われた。古木が枯れるのを待っているような老人の自然な姿が、私に一種の感銘をあたえたのだった。
自身の老いと、言わば村そのものの老いからもたらされる大きな喪失感。そして「昔ながらに村の人たちが賑やかに暮している風景」への帰巣の思い。このふたつが物語の全編に主調音として波打っている。この作品を初めとして、短編集『風の声』全体に共通する喪失感は、晩年の藤子をとらえてやまない切実なモチーフであった。それはそのまま故郷の村へ寄せる大谷藤子の思いの深さに照応している。

秋のやや強い陽射しが照りつける午後、藤子の生家を継いでいる甥の元久氏に、すぐ近くにある藤子の墓所と両神山が見える場所へ案内してもらった。藤子の心にいつも屹立していた両神山は、頂に雲を置いて西の空に薄く霞んでいた。
※関連地……小鹿野町、両神村、川越市、都幾川村 (1996.11)

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