この道よりほかに我を生かす道なし

武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ/1885〜1976)は、自然主義文学が全盛であった明治末に、ヒューマニズムに立脚した理想主義的作風で登場した。そして、志賀直哉や有島武郎ら11名で雑誌「白樺」を創刊し、文学だけではなく、西洋美術などにも関心を寄せて幅広い芸術運動を展開した。
「白樺」は月刊で発行され、大正12年の関東大震災の影響で廃刊になるまで、全160冊を出し、文学史上その活動は白樺派と称されている。武者小路実篤は、この時期に初期の代表作である『お目出たき人』や『世間知らず』『友情』などを書いてる。中でも『友情』は、今でもよく読まれているロングセラーである。昭和になってからも、『愛と死』『真理先生』『馬鹿一』『一人の男』などを書き、51年4月に90歳の天寿を全うした。
「新しき村」とは、武者小路実篤が人類の幸福と理想社会を実現するために、宮崎と埼玉に建設した、言わば共生農園である。しかし、これを1文学者の気休めの実践と考えると錯誤してしまうことになる。また、武者小路はおびただしい数の絵を描いているが、これも文学者の余技などというものではない。ペンを持たない時は絵筆を持つという生活を数十年間続け、生前に個展も度々開くほどの打ち込みようであった。その絵の奥にあるのは、自然の美や万物との調和の精神である。 文学と絵と新しき村の建設。この三つは、武者小路実篤にとっては等価で不可分のものである。武者小路が生涯にわたって追求したものを追ってみると、通常の作家という概念からは完全にはみだしており、その情熱や思想、行動力や楽天性は、日本人ばなれしているところがあることがわかる。
自伝的な長編小説『或る男』に、「彼にとつては文学をやらうと思つたのと、新しき世界を生み出したいと思つたのとは、殆ど同時である。それは彼の双生児である。/新しき村は彼の胎内には十何年ゐた」という一節がある。また、なぜそういう実践を始めたかというモチーフについては、『自分のあるいた道』で、「僕はトルストイによって自分の生活が、他人の不幸の上に継ぎ木された生活のような気がし、自分の生活が根本的にまちがっていることを教えられた。(中略)僕はトルストイによって、虚偽の生活では人間は救われないものだということを根本的に知らされ」たと述べている。この一節なども、武者小路が子爵の出であることだけを言っていると理解すると、間違ってしまうと思う。おそらくもっと普遍的な観点で語っているのである。
我等の望む世界は天寿を全ふすること、個性を生かすことである。個人としての生命を全き姿で生かすことである。一人の犠牲者も出さずにすべての人が個性を生かし切れる世界である。その為に我等は働きもし、勉強もし、協力もするのである。自分の生命を尊重する如く他人の生命を尊重し、自分の自由意志を尊重するように他人の自由意志を尊重するのである。 (「新しき村随想」昭24.4)
武者小路実篤が、かねてからのこういう自分の考えを実行に移したのは33歳のときで、大正7年のことである。場所は思いつきに近い契機で宮崎県児湯郡木城村(当時)に決め、山間の地に2、5ヘクタールの土地を購入した。このあたりの経緯については小説『土地』にも書かれている。武者小路自身も妻の房子、及び志を同じくする16名とともに入村し、共同生活を始めた。そして14年12月までの7年間をそこで生活した。当初から新しき村は、村内会員と村外会員(協力者)の2種をもうけている。離村後の武者小路は、村外会員として物心両面から村の建設、発展のために尽力する。ところが昭和13年に、この日向の村を含む部分にダムが建設されることになり、1ヘクタールが水没した。武者小路は代替の村を建設するため、翌14年に千葉と埼玉に候補地を探した。

結果的には東武鉄道や当時の毛呂山町長らの尽力で、毛呂山町葛貫にある現在地に決定し、約1ヘクタールの雑木林の丘陵を購入した。この村は日向の新しき村に対して、「東の村」と称した。東武越生線の武州長瀬駅、東毛呂駅、及び八高線の毛呂駅のいずれからも行くことができる。なお、宮崎の新しき村も現存している。
今日、此処へ来て、かういふ仕事を始めるやうになりたいとは、去年から、或ひはもつと以前から心の中では考へてゐた事だつた。(中略)そして、その日が、とうとうやつて来たのだ。かうして皆と一緒にこゝへ来て、働いたり喋つたり出来ることは夢のやうな気持もする。
(「東の村の仕事始めの日に」昭14・12)
東の村も今年は今までになく作物もよく出来たらしく思つてゐます。勿論理想は遠すぎますが、いくら遠くともその方に向つて事実、一歩一歩近づきつゝあることは希望の道を歩いてゐることで愉快です。
(「無題」昭24・8)
東の村へ来る。来る度に喜びを新にする。牛が立派になつてサクのなかを歩いてゐるのに先づ感心し、作業所の骨ぐみが出来、そのてつぺんに村の旗がなびいてゐるのも感じがある。鶏もふえてゐるのもうれしい。麦も元気がいゝ。それ以上に若い人達が元気で賑やかなのを喜んだ。 (「三月二十一日」昭26・4)
武者小路は、新しき村の経過や目的、理想について、ほとんど無限と言ってよいほど

繰り返し述べている。建設当初から白樺派の盟友有島武郎や、アナキストの大杉栄からは疑問が提起され、社会主義運動家たちからの批判もあった。また、それ以後も無理解や誤解は続いたと言える。しかし、武者小路実篤の強い意志と楽天性はケタ外れのものがあり、村建設から逝去するまでの57年間、た

だのいちどもその信念が揺らいだことはなかった。
昭和43年は50周年の年で、様々な行事が各地で催されたが、いずれも盛況であった。武者小路は「新しき村五十年の祭日に」という182行に及ぶ長編詩を、式典で泣きながら朗読した。前年の42年からは、『或る男』の続編とも言うべき自伝小説『一人の男』の連載も開始している。東の村に関しては、この作品に詳述されている。その死後、遺骨は二人目の夫人安子と共に、埼玉の新しき村の納骨堂に納められた。また、村内には2基の文学碑が建立されている。
武者小路実篤が没して20年を経たが、村は経済的にも安定し、その理想社会を建設する意志は現在も脈々と受け継がれている。昭和23年にはすでに財団法人になっていたが(日向の村は38年)、毛呂山町の村は現在登記済みの10ヘクタールの土地と約10ヘクタールの借地、合わせて20ヘクタールで維持されている。また、経済的にも昭和33年からは養鶏(採卵)の導入により悲願だった自活を達成している。そのほか、水稲、梅を主とした果樹、茶、椎茸、野菜、陶器などを作っており、村内で一般にも常時販売してい

る。村の総収入は最盛期には3億円を越えた。55年には60周年記念事業として、総工費5千万円で「武者小路実篤記念・新しき村美術館」が完成した。当時一般からの寄付と県の補助のほか、毛呂山町からも5百万円の寄付があった。美術館には武者小路の絵画作品を中心に、書や文献資料などが展示されている。63

年には70周年を記念して、講演会やシンポジウム、特別展など様々な催しがもたれた。毛呂山町福祉会館でも「新しき村七〇周年記念特別講演」が300名を集めて開かれた。
武者小路から「渡辺貫二君がいてくれた事は実によかった」(「新しき村五十五周年に際して」)、「新しき村の新時代をつくったと言ってもいい渡辺貫二」(『一人の男』)と信頼された渡辺貫二は、昭和3年に村外会員となり、戦後間もない21年に埼玉の村に入村した。以来、村の建設に尽力し、現在は理事(元理事長)をつとめ、49年目になる月刊雑誌「新しき村」の発行人でもある。村の様子や情報はすべて公開するという姿勢で臨んでおり、「新しき村の七十年」や「武者小路実篤九十年」のほか、各種の貴重な冊子も随時刊行している。開村以来の村内会員の延べ人数は400人余りに達している。現在は毛呂山に30人余(最盛期は60人余)、日向には4人が生活している。村外会員は全国に約700人。
1文学者の理念によってロシア革命直後に始められた理想郷の建設が、小規模ながら80年続き、ソ連崩壊後の今日も存続していることは、やはり少なからぬ意味があるであろう。
※関連地……毛呂山町 (1997.3)

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