桜川の氾濫・治水  治水
下の写真の1枚は、旧国道6号線の土浦橋たもとに立っている昭和61年8月の台風10号による浸水域を示した看板である。この台風による浸水域の看板が桜川の堤防の数ヶ所にある。もう1枚の写真は、土浦市佐野子の上備前川の桜川への合流点に設けられた水門の脇の「地域水防災対策」を説明する茨城県の看板で、上の方に、「この地域の洪水に対する安全は、上流の人々の大きな犠牲の上に成り立っています。自分達の地域だけでなく、川全体に関心を向け上流の洪水被害救済に対し、1人1人が積極的に協力しましょう。」と記されている。
文献には、桜川の氾濫について、江戸時代の天和2年(1682)、享保6年(1721)、および享保8年(1723)の記録の他に、明治以降もしばしば起きた、とある。近年では、昭和13年(1938)、昭和16年(1941)、および上記した昭和61年(1986)に大きな被害に見舞われている。天和2年の氾濫を記す古文書には、土浦城下の市街を守るため、高津村の堤を切り、矢作・飯田・佐野子・宍塚・粕毛の各村が被害を受けた、とあるという。
つくば市の上野と上境の境界で、上流の上野側からの堤防と下流の上境側からの堤防がつながっていない。なぜそうなっているのかを、土地の人に聞いても分からなかったが、稲泉連「探訪日本の川A五ヶ瀬川ー流域に残る先人の知恵/洪水を受け入れる堤防」で、それが「霞堤」であることを知った。次のように記述されている。

そん家田地区の高台からは、北川で活用されているある特殊な堤防が見える。「霞堤」と呼ばれるもので、堤防を意図的に不連続に作り、氾濫した水を導く伝統的工法だ。洪水時に川から運ばれた肥沃な土が土地を潤すという利点もあり、昔から日本各地で利用されてきた。

引用文献:日本歴史地名大系第8巻茨城県の地名、1988年、平凡社。つくば市防災会議、つくば市地域防災計画、1995年。稲泉連、中央公論、2004年12月号、p74−p77。

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桜川の環境  環境
つくば市は、「つくば市緑の基本計画」(平成17年)で、小貝川・桜川の緑を保全して骨格軸を形成し、市民の憩いの場としての「川の回廊」をつくるとしている。1950年代までは、子供たちが桜川で泳ぎ、シジミを掘って食べていたというが、現在は当時の環境にとおく及ばない。
水質に関しては、1980年代から取り組まれている霞ヶ浦の水質問題とセットで考えるべきであろう。霞ヶ浦の水質(COD)は、昭和53年、54年に10mg/lを越えたが、近年は8mg/l前後で推移している。霞ヶ浦の水質環境基準は、3mg/lである。
つくば市は、桜川の水質を禊橋、君島橋、および栄利橋の各ポイントで定期的に測定している。平成7年以降の水質(BOD)の推移を見ると、わずかずつではあるが改善傾向にある。平成18年度は3ヶ月毎に4回測定されているが、最も下流の栄利橋における水質(BOD)は、最低1.3mg/l、最高1.7mg/l、平均1.5mg/lで、環境基準の2mg/lを越えた測定月はなく、平成17年度より改善されている。
筆者は、2004年3月に河口から水源までの右岸を歩いた。その時の印象は次の通りである。
ー河川敷、堤防の内外に投棄されているゴミ、廃棄物の種類は多岐に渡る。
ー廃棄物は、集落の近く、堤防沿いに道路のあるところに多く投棄されている傾向がある。
ー竹やぶが拡大傾向にある。
ーほとんどの河畔林は荒れた状態で足を踏み入れるのが難しい。
2006年4月に再び左岸を歩いた。きちんと手の入った河畔林を2ヶ所でみたが、全体としては同じ印象だった。

引用文献:平成18年度版つくば市環境白書。霞ヶ浦問題協議会発行「来て!見て!学ぼう!霞ヶ浦、霞ヶ浦早わかりマップ」。
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桜川の自然  自然
桜川の源流鏡ヶ池は筑波山系の東北に位置し、筑波山系の西側の山裾を巡るように流れ、筑波山南東の土浦市で霞ヶ浦に流入する。桜川は、霞ヶ浦に流入する24の主要な河川の中で、その成り立ちの故もあり(歴史ページ参照)、最も豊かな自然と変化に富む景観を有している。
1978年再版発行の「茨城県の自然」から土浦市の項の桜川の部分を抜粋する。

水生植物は上流の方で少なく、下流の方で多いが、その種類は大部分が霞ヶ浦と共通である。魚類は霞ヶ浦と共通のものがあり、そうでないものもある。マブナ、ゲンゴロウブナ(ヘラブナ)、タナゴ、ヒガイ、オイカワ(ヤマベ)、ニゴイ(サイ)などであるが、最近は水の汚濁などの影響で一般に減少しており、奇形魚や斑点や、潰瘍などがある異常なものがつれることも少なくないという。
水生植物:マコモ、ヒメガマ、ヒシ、トチカガミ、ササバモ、センニンモ、クロモ、ホザキノフサモ、ガガブタ、コウホネ、ハゴロモモ
現在見られなくなった水生植物:アサザ、オニバス、イバラモ
河川敷や水辺の植物:ウキヤガラ、キショウブ、ミズアオイ、アギナシ、キツネノボタン、イヌゴマ、グンバイナズナ、ハルザキヤマガラシ、タコノアシ
堤防の上や斜面には実にさまざまな植物が生育しており、ちょっと観察しただけですぐに50-60種類にはなる。

久松健二氏は、桜川に生息する魚類として次の種類をあげる;アユ、アメリカナマズ、ウグイ、ウナギ、オイカワ、オオクチバス、カマツカ、カムルチー、キンブナ、ギンブナ、カワムツ、クルメサヨリ、ゲンゴロウブナ、コイ、シマドジョウ、スゴモロコ、ゼニタナゴ、ソウギョ、タイリクバラタナゴ、タモロコ、ドジョウ、ナマズ、ニゴイ、ヌマチチブ、ヌマムツ、ハス、ビワヒガイ、ブルーギル、ボラ、マタナゴ、マルタ、モツゴ、ヨシノボリ、ワカサギ、メダカ、ワカタカ、ギバチ。および、魚類以外の水生生物として次の種類をあげる;イシガメ、クサガメ、スッポン、アカガエル、アマガエル、ウシガエル、シュレーゲルアマガエル、ヒキガエル。

引用文献:山崎睦男、野原幸之助、後藤直和、五木田悦郎、茨城県の自然ー市町村別・動植物と風土ー、1978年再版、曉印書館。久松健二、筆者宛私信、2009/12/7、2009/12/16、2009/12/17、2010/4/16。
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桜川の歴史  歴史
桜川は、平安時代より歌枕として知られ歌学書に載る。桜川市磯部付近は室町時代、世阿弥の著した謡曲「桜川」の舞台となった所である。
太古の桜川の流れについて、永山正は著書「ふるさと探訪」で東木竜七の研究を次のように引用している。

東京大学東木竜七氏はその著「関東微高地地形学研究」の中でつぎのように説明している。「この浸蝕谷は桜川によるものでなく、鬼怒川の浸蝕により形成されたもので、鬼怒川はちょうど今の明野町の東石田付近から流入し、桜川を支流として迎え入れ両方の台地を浸蝕しながら霞ヶ浦に注いでいた。」そういわれてみると、上大島(つくば市)付近からも、旧鬼怒川の河床と思われる台地の切れ目を望見でき、そこには、大川という小流が桜川の支流として流れている。いわゆる鬼怒川の名残川である。「鬼怒川が流路を西に移したあと支流だった桜川が、そのあとを平野を蛇行しながら流れている」というのである。

鬼怒川の流路が西に移ったのは、2万5千年から3万年前である。

桜川の流路については、土浦城ができた室町時代後期に城を洪水の被害から守るため旧新治村(現土浦市)坂田から土浦市下高津まで堀が掘られ現在の流路になったとする古文書がある。古来、桜川の氾濫はしばしば起きたが、近年では、昭和13年、および昭和61年に大きな被害に見舞われた。氾濫を防ぐため、堤防が築かれ、より直線的な川筋へと変えられてきた。

引用文献:日本歴史地名大系第8巻茨城県の地名、1988、平凡社。茨城県大百科、1981、茨城新聞社。永山正、ふるさと探訪、1994、筑波書林。つくば市防災会議、つくば市地域防災計画、1995。環境マイスタープログラム講義、つくば市/筑波大学、2006・2007。

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桜川の地理  地理
茨城県桜川市山口(旧岩瀬町山口)の鏡ヶ池を水源とし、上流は国道50号線、JR水戸線を横断し、水郷筑波国定公園に属する加波山、足尾山、筑波山の西側山麓を南流する。つくば市君島付近から東南に向きを変えて河口まで幅広い沖積低地を流れ、茨城県土浦市で国道6号線、JR常磐線を横断し、霞ヶ浦に注ぐ。
全長:63キロメートル
流域面積:345平方キロメートル
1級河川
川筋の市町村:桜川市(平成17年10月、岩瀬町、大和村、真壁町が合併し桜川市となった)、筑西市(明野町は、平成17年3月、下館市、関城町、協和町と合併し筑西市となった)、つくば市、土浦市(新治村、土浦市は、平成18年2月、合併した)
引用文献:茨城県大百科事典、茨城新聞社、1981
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2017/8/15

折々の便り  便り
8月に入ってもはっきりしない天候が続いている。涼しくて過ごしやすいのは良いが、農作物への影響が気がかりである。桃の産地から今年は遅れているとの話もあった。また、自然の異変で気になっているのはツタの繁茂である。至る所から芽を出してつるを伸ばし、勢力を拡大している。
二枚の写真は8月4日に撮った同じ桑の木の葉である。一枚は葉に群がる毛虫、一枚は食われた後である。何の毛虫かは分からない。サザンカでよく見るチャドクガとは異なるように思う。
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2017/7/31

折々の便り  便り
7月19日に梅雨明けが発表されたが、7月24日以降は梅雨が戻ったような天候が続いた。しかし、今日(7月31日)は夏日である。7月24日、田んぼの稲穂が大きくなっているのに気が付いた。7月28日、初めて赤トンボを見た。7月29日、久しぶりにカワセミを見た。今年はホタルが非常に少なかった。数年前からアブラゼミよりミンミンゼミの鳴き声が圧倒的に大きい。以前は逆だった。
一枚目の写真は7月26日10:50に撮った。当地の降雨がそれほどでもなかったので、高い水位に驚いた。前日から夜にかけ上流で大雨だったのである。二枚目は翌7月27日11:15であるが、平常水位になっていた。2枚の写真の水位差は2mくらいである。それでも、前回のブログで書いた7月5日の増水の最高水位よりは数十cm低い。
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2017/7/15

折々の便り  便り
梅雨明けの発表はまだであるが、当地は真夏の暑い日が続いている。記録的な大雨で大きな被害があった北九州の方々には心からお見舞いを申し上げる。7月5日、散歩に出ると前夜の雨で桜川が増水し、灌漑用水取水路に多くの魚が入り込んでいた。見ていると水面近くを飛んでいた虫を突然水中から現れた魚が捕らえた。さらに上流に行くと霞提の下の田んぼが冠水していて2人の男性が迷い込んだ魚を捕まえていた。大きなポリバケツにコイ、フナ、アメリカナマズなどが一杯入っていた。
一枚目の写真はジャコウアゲハ(メス)である(7月4日撮影)。二枚目は7月12日に撮ったが、堤防下の排水路の水の表面が紅くなっていた。原因は未確認である。
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2017/6/30

折々の便り  便り
6月後半は梅雨らしい雨勝ちの日が続いている。散歩途上の麦畑は雨勝ちになる前の6月15日に刈り取られた。天候は鬱陶しいが、鳥たちの活動は活発である。前々回、前回と橋について書いたが、今回は橋の名前に関連する地名について書く。「栄利橋」は初めて橋が架けられた大正初期の右岸の「栄村」、左岸の「斗利出村」に由来するが、「栄」の名前は、つくば市栄、として残されている。この地域は「栄村土器屋」であったが、桜村ができた時、「桜村栄」になった。「斗利出」は新治村ができた時に地名としては消滅したが、土浦市高岡沖にある「斗利出小学校」の名前として残されている。
一枚目の写真は田んぼと筑波山である(6月17日撮影)。二枚目はオカトラノオの群生である(6月19日撮影)。
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2017/6/15

折々の便り  便り
6月7日に、梅雨入りしたとみられる、と発表されたが、梅雨らしくない天候が続いている。前回の5月31日に橋について書いたが、今回も続けたい。「桜川村史」(昭和58年)によると、栄利橋、および桜橋の最初の橋が架けられたのはいつ頃であるか明らかでないが、おそらく大正初期造られたものであろう、という。「栄利橋」の名前は、当時、左岸が斗利出村、右岸が栄村であったことにより、有料で片道1銭だった。さくら大橋は三つの橋で最後に架けられ一番立派であるが、ここには渡し船があり、昭和初期まで利用されていた。現在も、右岸の乗り場と思われる場所に石柱の道標が立ち、左岸の道筋に山神神社がある。
一枚目の写真は現在の栄利橋である(6月5日撮影)。二枚目は、菜の花とモンシロチョウである(6月14日撮影)。
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