ソビエトとその後ろにいるロックによる日本軍破壊のためにさまざまな謀略が繰り返された。いまのイスラエルの右派と似て、軍事に頼る単純な頭のやつは、刺激して暴発させるのがもっとも有効である。(フセインのクウェート侵略を見よ)
当時の日本軍の強さは尋常じゃなかった。これを消耗させるために好戦派を刺激するわけだ。日中大戦争にしてシナ人の血で日本の体力をすりつぶす。へとへとになって、指導者が(天皇のこと)正気を失ったところで、誘って真珠湾をさせる。
それをチェイニーがやっていると田中氏のいけん。
<引用開始>
このような状況下で、アメリカはイランと戦争するだろうか。おそらくチェ
イニーは「アメリカがイランと戦うから、イスラエルはヒズボラと戦ってくれ」とイスラエル側に提案し、その策略が進んでいると推測される。イスラエルは今週、もしくはその後の今年末までのいずれかのタイミングで、ヒズボラと戦争に入るかもしれないが、その場合でもアメリカはろくにイランと戦わず、イスラエルに対してはしごを外す策略を行うのではないか。チェイニーの目的はイスラエルを潰し、米英イスラエル中心の体制を崩して世界を多極化することだとしたら、そのようなシナリオが考えられる。
<引用終わり>
盧溝橋事件は共産党が発砲して始まった、とojisanは考えている。
日本軍は偶発防止のために銃の弾薬が配布されず、指揮官の管理下に置かれていたと当時の、日本軍兵士が語っている。
その前に共産党は張学良をそそのかし日本と和解したがった、蒋介石を閉じ込めて、クーデターを起こしている(西安事件、1936年12月)
誘いに乗ってしまったわけだ。
参考資料:こういう項目のwikipediaは世論操作の主戦場だ。だから面白い。どこまでほんとでどこからうそかわかるわけないので、その後の展開をみて大きく考える癖をつけましょう。重箱の隅に誘い込むのも世論操作の技術の一つ。
盧溝橋事件
<引用開始>
事件の経緯
7月7日
* 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵
第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。
* 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
7月8日
<現地の動き>
* 3時25分:
竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けた、と見られている。
* 4時00分:日中合同調査団が、北京を出発した。メンバーは、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平忠輔補佐官、他に通訳二名・一個分隊の護衛兵、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員、他1名。5時00分前後、うち桜井中佐、寺平補佐官らは宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始した。
* 4時20分:一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて再度の銃撃を報告。これを聞いた連隊長は戦闘開始を許可。大隊長はこれを受けて歩兵砲の砲撃を命令。しかし、連隊長の戦闘許可を知らない森田中佐の命令によって、砲撃はいったん中止された。
* 5時30分:第8中隊が国府軍部隊に向けて前進を開始。これに対し国府軍は激しい射撃を開始し、日本側もそれに応射。ついに全面衝突となった。
* 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、15時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移。北平及び盧溝橋城内で、停戦に向けた交渉が行なわれる。
<中央の動き>
* 早朝、事
件の第一報を知らせる電報が陸軍中央に到着。以降中央では、これを機に中国に「一撃」を加えて事態の解決を図ろうとする拡大派、対ソ軍備を優先しようとする不拡大派のせめぎあいが続く。
* 18時42分:参謀本部より支那派遣軍司令官宛、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と、不拡大を指示する総長電が発せられる。これは、参謀本部の実質的な責任者であった、石原莞爾少将のリードによるものであった。
<引用終わり>
参考資料2:盧溝橋の布陣
