日本では上智大学である。
その証拠はここにある
学長は「キリスト教のヒューマニズム」ととぼけたことを言っているが、キリスト教のヒューマニズムととはキリスト教化が人間化の定義である。いまは巧妙に隠されているが、イエズス会がアジアに何をしてきたか歴史をみられたし。ちなみにベンジャミン・フルフォード氏もここ出身よ。
<引用開始>
イエズス会・東アジア4大学グローバルリーダーシップ・プログラム募集要項
(目的)
このプログラムは
イエズス会が経営母体である東アジアの4大学の学生が一同に集い、定められたテーマに則り、事前研修、合宿形式の討論、講演の聴講、フィールドワークなどを通じ、学習し、自己研鑽を積みながら、国際理解とは何かを学ぶことを目的として今回初めて開催されます。
参加大学
@上智大学、A西江(ソガン)大学-韓国-、B輔仁(フレン)大学-台湾-、
Cアテネオ・デ・マニラ大学-フィリピン-
募集人数
8名(他の3大学からも8名ずつの参加予定)
参加資格・条件
@将来、国際社会でリーダーシップを発揮し、各方面で活躍したい と考えている本学学部生。
A受身の姿勢ではなく、積極的にプログラムの運営にも参加できること。
Bプログラムでの共通言語は英語であるため、英語で討論に参加できること。(英語能力証明書の提出は不要)
テーマ:学生として社会の格差問題にどう向き合うか?
<引用終わり>
ついでに他のキリスト教系とおぼしき大学も調べてみよう。
青山学院大学はどうだろう
<引用開始>
001年9月、旧大学礼拝堂跡地に、莫大な私財を献げて初期の青山学院を支えた宣教師ジョン・ F・ガウチャーを記念するガウチャー・メモリアル・ホールが建てられました。1・2階にガウチャー記念礼拝堂を置くガウチャー・メモリアル・ホールは、その3階から13階が教育・研究施設となっています。これは「信は知の土台なり」という青山学院の教育姿勢を顕著に表現しています。決して知識偏重主義に陥らず、人間の尊厳や精神性を踏まえた深みのある教養と専門教育・研究を志向し、人類の平和に貢献する人間を育成する、そうした教育・研究の業がキリスト教信仰によって力強く支えられています。
幕末から明治にかけて、日本へのキリスト教の布教活動は盛んに行われ、新しい日本が成長していく上で大きな影響を与えた。この宣教師の中で1873年(明治6年)に布教を始めた
米国メソジスト監督教会が3つの学校を東京と横浜に建てた。この3つの学校が、明治7年創立の「女子小学校」、明治11年創立の「耕教学舎」、翌年の12年創立の「美曾神学校」であり、やがて1つに相合して青山学院が形成されることとなるである。
<引用終わり>
「米国メソジスト監督教会」とはなにか
wikipedia より
<引用開始>
ソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多い
プロテスタント教団である。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調する。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとらない。これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派は、英国や米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なる。
-----途中略------
日本では
カナダ・北米教会による宣教から青山学院、
南メソジスト監督教会による宣教から関西学院が生じた。
<引用終わり>
プロテスタントの代表的な大学が関西学院大学と青山学院大学であると知れる。ね〜チャンの好みの結婚式は教会だが、日本では学生にキリスト教徒は少ない。親近感をかもし出す効果はあるだろう。(隠蔽効果?)
かく言う私も、キリスト教系の幼稚園出身である。怖そうなば〜さんが園長さんだったのをかすかに覚えている。
ちなみに諜報の天才、佐藤優氏は同志社の神学科出身のキリスト者である。
<引用開始>wikipedia
佐藤 優(さとう まさる、1960年 - )は日本の外交官、作家。埼玉県出身。男性。
埼玉県立浦和高等学校卒業後、
同志社大学神学部に進学[1]、大学院神学研究科修了を経て、外務省に入省。1988年から1995年まで在露日本大使館三等書記官。1998年には国際情報局分析第一課主任分析官。ロシア情報収集・分析のエキスパートとして活躍。
2002年5月、背任容疑で逮捕。無罪を主張するが1審有罪判決。2審控訴棄却。現在最高裁に上告中。 1審判決後、事件の内幕や背景などをつづった『国家の罠』を出版、ベストセラーとなった。
<引用終わり>
同志社とはもちろん新島襄
<引用開始>wikipedia
密航者
天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)と言う。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。
元服後、安中藩士となるが、元治元年(1864年)21歳のとき、国禁を犯してのアメリカ合衆国への渡航を画策する。渡航に向け函館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ新島に自分の弟子になるよう勧めたが、新島のアメリカ行きの意思は変わらず、カサートキンはそれに折れ新島の密航に協力した。
元治元年6月14日(1864年7月17日)、函館から米船ベルリン号で出国する。船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」、「襄」と名乗った。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、1865年7月ボストン着。ワイルド・ローヴァー号の船主A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。
[編集] 岩倉使節団
1866年12月、
アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。1867年フィリップス・アカデミー卒業、1870年アマースト大学卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)から化学の授業を受けていた。クラーク博士にとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラーク博士は来日することとなった。当初密入国者として渡米した新島であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された
<引用終わり>
アンドーヴァー神学校とはなんじゃらほい?
<引用開始>
アンドーヴァー神学校は、ユニテリアンの隆盛に対抗して、正統派カルヴァン主義の拠点として作られたという経緯があったが、成瀬の留学時には、ロマン主義の影響などで正統主義は後退し、リベラル化が進んでいたという。これについては、あらためてアメリカの神学思想史におけるアンドーヴァー神学校の位置づけなど、検討しなおす余地があることが示された。
<引用終わり>
プロテスタントらしい。
プロテスタントは隠れユダヤ教である。利益追求現世を肯定する、巧妙に偽装されたキリスト教。マックスウエーバーを「批判的に」読まれよ。
参考資料:
キリスト教系の大学
多すぎてリストはあげない。↑を参照してください。
カトリック31 聖向会12
プロテスタント51 その他9 計103もある
ところで恐ろしい、福音派、キリスト原理主義者?は国際基督教大学(ICU)だそうだ。学生とは直接関係ないが、西欧は手下はこういう大学からつくるのかな〜。どうだろうね。