レオパレス21ではセンター、アテネの日本代表チームではレフトを守っていた佐藤由希さんが、2004年度をもって引退されました。
由希さんの写真を私が撮ったものの中から古い順に並べて掲載してみました。
まずは、2001年4月-02年3月です。
まだデジカメがうまく使いこなせなかった2001年。
2月に行われたアテネに向けての選考会では、あまりにたくさんの選手が
いたので、私はまだ佐藤選手の存在をよくわかっていませんでした。
私が初めて由希さんを撮影したのが、2001年4月15日の天城合宿。
申しわけありませんが、このころはまだ、由希さんだとわかっていて撮影
しているわけではありませんでした。私がソフトボールを取材し始めたの
は1999年12月から。シドニーが終わり、「よしっ4年間、とにかく全日本を
アテネまでとことん追うぞ」と決めて、2月の選考合宿から取材を開始した
のです。この4月の天城では、まだ選手とは話もできませんでした。
天城ドームの窓の外は一面の桜。いよいよアテネに向けてのスタートと
いう、選手のみなさんの気迫を感じた合宿でもありました。
下の写真は、2001年6月15日の天城です。カナダカップに30数名が参加する
ことになって、赤と白の2チームが編成されることになりました。
「佐藤由希選手は背番号15なんだなと」とこのとき認識。
プロフィールで、「1999年に静岡の藤枝順心高校を卒業して、大徳に入社。この年には世界ジュニアの日本代表の一員として、大会に出場し優勝
している」ということを知りました。。
由希さんたちはハワイカップを経て、2001年7月にカナダカップに参戦。
日本代表の2チームのうち、由希さんは白チーム。写真は日本同士の対決と
なった試合の開始直前。このときは赤組が勝ちました。
カナダカップが終了し、帰国するために空港行きのバスに乗るところ。
このときの由希さんの同期は、写真の鈴木由香さんと、先に帰国した佐藤理恵さん。
当時の印象は「色が白くて、足が早くて、おとなしい感じの選手」でした。
2001年秋に所属チームの大徳が、廃部になることが決定。
由希さんには個別にオファーがきていたが、チームが解散し、藤原監督が勇退されるのであれば、自分もソフトボールを辞めると決意。
だが、大徳廃部の報道を知ったレオパレス21が、チームごと引き受けることに急遽決定。
由希さんも現役続行が決まりましたが、エントリーの時期などの関係で、チームは2部に降格。新生チームは2部からのスタートとなりました。
2002年1月の台湾合宿に、ナショナルチームの一員として参加。この年は台北に移動した後半に雨がよく降った覚えがあります。
台湾合宿は練習後のトレーニングもハードでした。由希さんはとにかく色が白く、
ちょっと不思議な雰囲気があって、おとなしいのですが、実はタフという
感じでしたね。写真の通り、必死にトレーニングに励んでいました。
このころはまだ由希さんと、あまり話をしたことがありませんでした。
もう1枚台湾合宿。雨が降ると、グラウンド近くの体育館で松葉体操。写真はベンチプレス。よく焼けている岩渕選手と並ぶと、まるでオセロのようでした?!
2002年3月上旬の沖縄合宿。炎天下の練習にも関わらず、由希選手は高山選手と競うようにして美白肌。走って、走って、ひたすら走る。
黙々とプレーしているという感じでした。
2002年3月下旬の天城合宿。センターを守る由希さんの背後にいるのは、
完全武装の宇津木監督。花粉がものすごくて、花粉症の監督や選手はたいへんでしたね。
この合宿で、初めて由希選手と歩きながら話しをしました。
いつもお肌の手入れに抜かりがないですねというと、由希選手は「でも今回はもう途中から練習がきつくて、日焼け止めを塗る気力がなくなっちゃいました。余裕ないです、とても…」という答えが返ってきました。
大徳時代は、私の家の近くに住んでいたので「あのイトーヨーカドー○○店で、実はすれちがっていたかもしれないですね」とかなんとか。そんなたわいもない話をした覚えがあります。
全日本1年目の由希さんの印象は、だいたいこんな感じでした。
私もまだ取材を始めたばかりで、この年はあまり一人一人とじっくり
お話をする機会がなかったのでした。
(つづく)
由希さんへのメッセージがあれば、コメント欄にどうぞ。

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