2017/2/18

ディックブルーナ  

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ユトレヒト、朝の早い時間、いつも通っていたカフェにて。

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2017/2/14

セカイシノテツガク  

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この本の始まりにある設問は、あるいはメインのそれは、どうしてイスラーム教で資本主義は発達しなかったのか、である。設問は非常に魅力的である。
ヨーロッパの中世にあたる時代、ギリシア・ローマの知的遺産を守ったのはイスラーム世界だった。そのイスラーム世界がなぜヨーロッパに取って代わられてしまったのか?それは歴史的に大きな問題である。

その疑問に対する答えが提示されるのかと。だが、結論を先に言うと本書では、読み終わっても、その解答は与えられない。解答らしきものは271ページ以降にあるが、それは設問に対し明確には答えたものではない。そして答えを与えられないまま、記述の方向はイスラーム圏を離れキリスト教文明の歴史へと考察は戻っていく、近世へと。


この本は『〈世界史〉の哲学』という連載の部分でしかない。その連載の初めにある全体を通した大きな設問は、なぜ西欧キリスト圏で、他の東洋やイスラーム圏ではなく、資本主義が開花し発展したかということであった、と(考えている)。
筆者は、シリーズをキリストの「殺害」から解き始めている。そこから始まって描かれているのは多くの歴史書にある王たちの物語ではなく、宗教の〈世界史〉、それも主に三つの一神教、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教に関する歴史なのである。

この本を読むときそれぞれの各巻の最後に答えを期待してはいけないのかもしれない。筆者も記しているように、このシリーズはキリスト殺しの犯人を捜すミステリーである。それもまだ犯人が確定しない、本来ミステリーの骨格は作者による犯人の確保から始まるとすれば、未だ犯人の決まっていないあるいは決めそこなっている習作のようなストーリーのその途中にあると考えれば、というのも筆者がまだ犯人を決めかねているかのような印象を行間から受けるからなのだが、それゆえ各巻の終わりが歯切れの悪い終わり方をするのは当然なのかもしれない。なぜならミステリーはいまだ完結してないのだから。


ふと連想する。
アメリカ大統領が就任宣誓の時に掌が置かれるのは聖書の上である。私たちから見るとよくは理解できないこの行為にこそ資本主義の、そのもたらした近代の本質があるのかもしれないと。

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2017/2/4

かんがえるということ  

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収録された鼎談の中で大澤真幸は、山本理顕の、アレントを引用的に使った、現代の住宅はプライバシーのためだけのものだという意見に、アレントの議論は魅力的だけれど「現在のわれわれのケースに当てはまるかどうか」と疑問を呈している。大澤は「保育や介護といった家族にかかわる問題」も今では政治的な問題だから住宅はもうプライベートな空間ではないと。その後も、大澤は否定的にアレントについて述べていく。フーコーの生政治にあるような政治と生命の重なったあり方、それが現代であると、アレントはそれに否定的だということで批判している。それに対し山本は、アレントは「近代国家の政治的役割」として人間の生命が含まれたことが究極的にナチズムを生み出したと、それを批判しているのだと、直截な語り方ではないが反論してる。

建築のもつ政治的な問題は、そのはじまりから避けようがない関係性の中にあった。ましてや、近代は住宅を住宅問題とした、いや、近代そのものが住宅問題を引き起こす原動力だったのだから、近代建築はさらに政治的な問題であるしかなくなかった。だから現在、建築を考えるということは、非政治的ではありえなく、政治的でしかありえない。

大澤は鼎談の最後の方で、自分が問題にしているのはローカルな人々の関係とネットワーク世界を「どのように結びつけるのか」ということで、70年代は社会とはせいぜい国民国家だったけれど今はそれがグローバルなものになっているのに、アレントの公共空間はローカルなままでしかないと再び否定している。
その後、山本がアレントの『ビヘイビア』について語ることでやんわりと反論しているのだが、最後まで二人の会話は明確な交点を描くことなく終了する。

このすれ違いを読んでいて思い出したのは、なぜアレントが64年のギュンター・ガウスとのインタビューの最初であなたは哲学者ですよね、と尋ねられた時に、私は哲学にさよなら、永遠にさよならしたのだと語ったのかということである。インタビューの中で彼女の逃避行の経験が彼女を政治理論へと向かわせたのだと。

建築という思考を語りつつも、ものをつくるという物質世界、その生々しいどろどろしたものの中にある山本がその中で考えざるをえないことと、言葉だけの世界にある者との間の違い。(この表現が適切であるかわからないが)アレントとハイデッガーの間の隔離に似たものをその鼎談の内容に感じざるをえなかった。

この鼎談を読むことで、なぜアレントが "but my opinion I am not(philosopher)" と語ったのかよく理解できた気がする。


社会的な調査の裏付けのない社会学は、解釈学か哲学に近い存在でしかないのかもしれない。

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2017/2/1

あくのぼんようさ  

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『入門』を入手したのが24日。27日に難民の受け入れを禁止する大統領令。そしてその蛮行に対抗するためサリー・イエーツ司法省長官代行により『同省の弁護士に対し、移民や難民に関するトランプ大統領の大統領令を擁護する弁論を行わないよう指示』が出された。

 彼女がその理由として述べたのは、
『「私の責務は、司法省の立場が法的に擁護できるだけでなくきちんとした情報に基づいたものだと保証することにある。その情報とは、全ての事実を検討後、当該の法に関する最善の判断を経て得られるものである」…「法廷における我々の立場は、常に公正を追求し、正しい側に立つという当機関の厳粛な責務と常に一致しなければならない」…「現時点では今回の大統領令がそうした責務と一致しているとは確信できない。この大統領令が合法だとも確信できない」』(CNN.co.jp1月31日)
という至極当たり前のことであった。もし司法省がアメリカ憲法に反するような行政命令を擁護したとしたらそれはナチスよりもひどい状態だということになってしまっただろう。ナチスはドイツ人らしく形式的には法的なフレームを大切にしていた。それゆえナチス政権下の官僚たちは自分たちの行為を擁護するときに自分たちは歯車でしかなかったと言えたのである。

 『入門』には、アイヒマンの「第三の抗弁への批判」について、この『「自分がやらなくても、ほかの誰かがやっただろう」という言い訳』について『「…なぜ歯車になったのですか、なぜ歯車でありつづけたのですか」』という問いから逃げ出すことはできないと記してある。

 愚かなディクテイターは司法長官代行の発言に憤怒して betrayer という汚い言葉を使って長官代理を解任した。でもそれは彼女にとって『「良心の危機」』を避けうれる最善のことだったのかもしれない。ディクテイターは感情によって行動することで自分に反旗を翻したひとりの女性の良心を救ったのである。

 この一連の正義の行いを見ていて、どこかの国の法制局長官の卑屈な言動を思い出した人も多かったのではないだろうか。醜い行為というものは顔に歪みとして現われるものだ、そうあの当時思っていた、それを思い出す。『その組織に所属しつづけ、みずからの使命を全力をもって遂行しようと努めていたからには、たんに自分が組織の歯車であると主張することによっては、罪を逃れることはできない』のである。

 『ロイター通信によると、国務省が設けた外交政策への意見表明制度を使って、大統領令への抗議メモに署名した現職の職員は、31日までに約900人に達した。既に同省首脳へ提出されたという。』(時事通信2月1日)
アメリカの民主的制度はいまだ健全であると思いたい(思わせる)記事である。
そして『大統領報道官は30日の記者会見で、こうした動きを「(職員らは)命令に従うか、さもなければ辞めることもできる」』(同上)と、その発言こそ明白な脅迫でしかない。まるでゲッペルスのように。ゲッペルスは飼い主に対して恭順だった。


 『入門』はまるで今のこの事態を予想していたかのように、『今そこにある危機』とリンクしている。だから読むごとに世界で起こっている事象が想起される。それこそが、アレントがこれだけ今紹介される理由であろう。

彼女自身が51年に市民権を得るまで長い間無国籍者に近い存在だったこと、いつでもアメリカから追放されるのではないかという不安と一緒だったのではないだろうか。そのあり方こそが彼女の著作活動に色濃く反映して私たちを惹きつけるのではないだろうか。

こうも考えることが出来る。私たちは大戦後の長い歴史でいまだどのように民主的な制度を強化すべきかという問いについて答えを見出していないのだ、あるいは長くそれを思考してこなかったせいでその劣化を招いてしまったのではないかと。


『…危険なのは…、そもそも判断することをすべて拒否するという傾向が広がっていることです。…判断することで他者とかかわることができないか、かかわる意志がない場合には、真の躓きの石が生まれます。この躓きの石は、人間の力ではとりのぞくことはできません。人間が作りだしたものでも、人間が理解できる動機によって生まれたものではないからです。そこに恐怖があります。そして同時にそこに悪の凡庸さがあるのです。』(『責任と判断』)

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2017/1/30

プロテスト  





The Power of the Airport Protest


なぜ韓国で寒空の中、百万を優に超える人々がデモをしたのか?なぜ数十万の人々がワシントンで、そしてそれ以上の人々が世界でディクテーターの登場に抗議したのか?なぜ空港に人々が集まってそこで行われつつある非道な行為を糾弾するのか?

それは 21st century protest is still about bodies, not tweets だからだ。


" Physical bodies in space cannot be denied the way online phenomena still can, and the intent of a person with a sign that says “I am afraid for my family” cannot be obfuscated by spin. Decent people, or even just cautiously rational people, were everywhere. That fact has been recorded incontrovertibly by the photographs that will one day be printed in our history textbooks."
The Women’s March proves that 21st century protest is still about bodies, not tweets

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