2017/11/20

さいしゅうせん  

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J2最終戦、惜敗。なかなかJ1は遠い。

今日の新聞に佐藤卓己が書いているが、「社会学者ノルベルト・エリアスによれば、スポーツとは、感情の制御が求められる近代社会で、感情表出のはけ口として創出された文明化の装置である」と。「こうして制御された暴力は、野蛮ではなく文明の象徴となる」
続けて佐藤は、「五輪を政治イベントとして批判することは容易」だが『「疑似戦争」としての五輪が持つ意義を確認することは必要』だと説く。

でもどうなのだろう?これまでのオリンピックは開催中の休戦を訴えてきたが必ずしもそうはならず、逆に前大戦においてはその前にオリンピックが返上され、戦争へと直進した。

今の世界の文明化の度合いから考えて、悲観的に語れば、その「疑似戦争」というものが戦争の代わりのはけ口となるより、戦争への助走となる危険性もありうるのではないだろうか。

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2017/11/15

ブリッグマン  

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寡聞にしてブリッグマンに関してまとまった本は、91年にフィンランド建築協会から出された大判の、しかし白黒写真で、トゥルクという地ゆえかフィンランド語とスウェーデン語、英語が併記されたものしか知らなかった。

今回の本は小振りだが、久しぶりにまとまったブリッグマンに関する、それも建物・図面もカラー写真という、しっかりした構成のものである。

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2017/11/14

ふうけいとはなにか  

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一度、清水真木の『新・風景論』を読んでみようとした。『感情とは何か』を読んだときになにか新しい視点から世界を見直すような感じがして、書名を発見したとき期待した。
その時は、よくわからないというのが正直な感想だった。読むことは出来ても意味を捉えられないでいた。読むことが理解することに必ずしも直結しない。いや読んでも理解できないことのほうが多いのかもしれない。

思い出したのは、某国営放送の72時間というドキュメンタリー番組?の中に登場した会計士の人がなぜ英会話を習っているかと問われて、能力じゃないところで評価されるのが嫌だ的な発言をしていたのを思い出した。たぶんこういうことだ。会計士としての能力は十二分にあるのに海外進出で英語が出来ないばかりに低く評価されるのが我慢ならないということだろう。そこで彼は英会話能力をアビリティと表現していたと記憶しているがそこでは英会話はアビリティではなく単なるスキルでしかないのではと思う。逆のケース。ある会社の営業担当が英語が出来るだけで役職に就いているが、自社の製品がどういうものか分かっていないのでスルーして相手側に言われたクレームをそのまま製造部門に言ってくるのだと。へたくそな翻訳機ぐらいの役割でしかない。そこでは単なるスキルが能力と評価されている。今後、小学生までも英語教育が浸食していけば、こうした自分で思考することがないがスキルとしての英語が出来る人が過大に評価される時代、幼少期からの言語的な植民地化が進んでいくことになるだろう。大英帝国下のインドのように。明治の時代に外国語を漢字に必死に翻訳して国語を守った先人たちの知恵は失われ、さらに思考性のない人間がこの国を牛耳ることになるだろう。

話しを元に戻そう。よく読むということはその文章を噛み砕くことでしかない。思考するということだ。ただ音をなぞるだけでは意味はこちらに向かってはこない。咀嚼されなければ自分自身の言葉にはならない。当たり前だが。もちろん前提としてその文章に論理が内在することが必須であるが。相手の思考が深ければ自分も深く、相手の思考が広ければ自分も広く思考しなければ相手の考えていることは見えてこない。


清水は風景とは何かと自問し、それを「地平だったもの」だとする。そして理解できないのはそれを最後まで読んでもその「地平だったもの」が具現性を持って自分の中に現れなかったことによる。抽象的な思考を支える具象的な形が見えなかったのだ。

『「日本的風景」という固定した類型なるものがフィクションであり、日本的な「原風景」などない』、そう最初のほうで清水は断言している。たぶんこれがこの本の副次的な主題であり、それが全体を通底している。そう考えるといわゆる「風景」というものは存在しないということになる。ゲニウス・ロキなどという言葉を誤用してそれを環境決定論的な考えで理解したように思い、それ以上進まないのは思考停止ということになる。

『小布施町において進められてきた「松並み修景事業」の対象は、町が設立した美術館である北斎館と和菓子屋店の小布施堂本店を中心とする狭い範囲…町域全体の一パーセントにすぎません。』、この指摘は自分がよく訪れていいと思って歩いた範囲がいかに狭かったかということを、逆にそこから少し逸脱すると無意識に戻ってしまっていた行動の本質を抉り抜いている。先入観で埋め込まれたものがそれ以外を見ることを拒絶していたのだ。つくられた歴史、テーマパークとして成功している幻影。ディズニーランドのゲートが見えない形でそこにある。
そして1パーセントはオキュパイドニューヨークを連想させないか。もしかしたら、そこに新自由主義の臭いがしないだろうか。もしそうだとすれば、誰がその観光による利益を独占しているのか?その町は行政は誰にとってのものなのか?

もともとなかった歴史的文脈をまちに持ち込んでかってそうであったものを再現したかのように語る。事実は歴史のスパンから見れば短い現代に古色を塗ってさも過去から存在したかのようにみせる。長浜の黒壁などその典型的だ。ディズニーランドがいさぎよくフェイクであることから始まるのに対しこれらのまちづくりはつくられた歴史を騙る、それだけの違いだ。これに対し少なくとも柳川や小樽運河はそこに歴史があって継続と断絶の上に現在がある。


第3章で清水はラスキンについて、「絶景の美学の敵対者として…姿を現す」と記している。一般に近代批判、中世回帰論者として認識されているラスキンがいかにも中世的な絶景の美学となぜ「調和しない」のか?
ラスキンが否定してるのは博物館に陳列されるような標本的建築であって、古きからあって今に繋がる連続性を持つものは肯定している、と。『痛んだ構造物を修繕し、古いなりに使用可能なものとするのではなく、現代の社会生活の文脈から切り離し、いわば「文化財」として保存することが修復の目標であるなら、それは修復ではなく破壊にすぎない』のだと。

清水は風景とは人工物でも作品でもなく、都市の風景とか確かに人工物が要素としてあるが全体としては「眺める者の意向とは無関係に、とどまることなく変化」しているものなのだと。

「それは、私たちの意のままにならない変化であり、意のままにならない変化を含むことによって初めて、風景は、本当の意味における風景になるのです。風景を前にするとき、私たちは、本質的に新しいもの、意識の他者に出会うことになるはずです。」

観光用の絵葉書にある風景はここでは『絶景の美学』と表現されている。最初のほうで記した、いわゆる風景、とはこれである。それはわざわざ出かけて経験する必要がない死んでいる風景であって、それは本当の風景ではないのだと。

最後の章「地平だったもの」で清水は、風景とは何か、というこの本の最初の問いについて語っている。

正確には、本書を読んでもらうべきだが、ひどくかいつまんで言えば、地平とは、ライプニッツが『微小表象』と名づけたものに前世紀の哲学者たちが与えた術語であると。そして、風景を経験するということは地平が地平だったものに変化すること。ここでいう変化とは、当たり前の意識されない自分の周りに現在するものが向こうから襲ってきて現出し「何らかの驚きを与える」ことなのだ、と。


読み直してみて、わからないが少しは減少したように思う。そしてなぜ私たちは紅葉狩りに出かけ、なぜわざわざ混んでいる美術館に絵画を観に行き、なぜ建築を見に行きたいのか、少しわかったようにも。

わからない、が時間と場所が移ろうことで変化していったのか。ふと、思考にも地平が、地平だったものが存在するのかもしれない、と。

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2017/11/12

トルコ  





まだオスマントルコがあった1915年。アルミニア人虐殺を生き延びたひとりの男が生き別れた娘たちを探しに旅に出る。主人公ナザレットが住んでいた町はトルコ南東部のマルディン、そこから強制労働、逃げて強制キャンプ、シリア、そしてキューバ、最後はカナダ国境に近いアメリカのノースダコタへ。

映画の後半はほとんど冗長でしかない。


もうひとつは現代のトルコ、カッパドキア。そこにあるのは格差社会。エルドアンの独裁政権はここに描かれている底辺の人々、その絶望から生まれることを予見させる。主人公たちの慈善などそうした絶対的多数の貧困に対してほとんど意味がない。そうした現実を前にして、知識や倫理があるゆえに、富裕な家族の心は膿んでいく。
主人公の経営するホテルに日本人が客として登場するが、彼はただの観光客でしかない、滑稽なほど。観光とは所詮そういうものなのだ。ただ珍しい風景を眺めるための楽しみでしかない。

主人公の若い妻ニハルが困窮するイスマエルに慈善の金を差し出した時、そしてその大金をイスマエルが火にくべた時、私たちは私たちも二ハルと同じ偽善を施そうとしたことを実感する。

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2017/11/8

サルダニックステートメント  

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大本営的な発表によれば、

『日米両政府は、今月6日の[A]首相と[T]大統領の首脳会談に合わせて、エネルギー分野での協力を強化する覚書を締結する方針だ。
 日米が連携し、アジアやアフリカなど新興国向けに米国産天然ガスや日本の発電所設備などの輸出拡大を目指すことが柱となる。日本は官民共同で、液化天然ガス(LNG)を輸入する新興国などを対象にした1兆円規模の支援を活用する方向だ。

 貿易赤字の削減を掲げる[T]米政権にとっては、天然ガスの一つである「シェールガス」の輸出先の開拓で日本の協力を得られる。』(読売新聞11月3日)

とある。

ナオミ・クラインの2014年の本には、将来国務長官になる男の笑える行為が記されている。

fracking opponents could only laugh when, in February 2014, it emerged that none other than Exxon CEO Rex Tillerson had quietly joined a lawsuit opposing fracking-related activities near his $5 million Texas home, claiming it would lower property values.

対して出たのが辛辣な声明。

"We are thrilled to have the CEO of a major international oil gas corporation join our quickly multiplying ranks."

私欲だけ、恥も外聞もないとはこのことか。
思い出したのは、ある建築史家がそれまで住民運動に興味すらなかったのに自分の家の近くに立つマンションの反対運動ににわかに参加したこと。

『ドイツのボンで開かれている第23回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP23)で7日、シリアが「パリ協定」を批准すると表明した。これで同協定を批准しない国は世界で米国だけになった。
… 
温暖化ガス排出削減や各国の取り組み強化を盛り込んだパリ協定には、2015年の時点で約200カ国が署名。残る少数の国のうち、中米ニカラグアは10月下旬に署名の意向を伝えていた。
 一方、米国は[T]大統領が今年6月に協定離脱を宣言。「再交渉に着手して、もっといい取引ができるかどうか見極める。それができれば素晴らしいし、できなくても結構だ」と述べていた。
 12月にはフランス・パリで気候変動サミットが予定されているが、フランス大統領府は7日、「当面の間」トランプ大統領を招待しない方針を明らかにした。招待状はまず気候変動問題に熱心に取り組んでいる国に発送し、その後、米政府の代表者に対象を広げるとしている。
 米政権は再交渉を通じて同協定が「米国民にとって有利」な内容にならない限り、協定から離脱する意向。米代表団はCOP23開幕初日の6日、この方針に変わりはないことを確認した。
…』(CNN.co.jp11月8日)

取引、有利…この地球が壊れても百ドル札をその脂ぎった手に握りしめていたいらしい。


1兆円、この国の人々が必死になって働いてつくった共有の財産が、フラッキングを助長させるために献上され、延いてはパリ協定に弓引くことになるのだ。

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