2018/2/13

おみわたり  

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人は御神渡りを見に集い

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渡り鳥は狭まった水辺に憩う

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2018/2/12

だるまいち  

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タグ: 鉾持神社

2018/2/4

アンチゴーヌ  

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表情が正対して台詞を喉の奥から絞り出している。その美しい眼の先に私はない、たぶん。生きている身体が舞台の中心から少し左にずれた位置、ステージの縁から身を乗り出すようにほとばしる。眼を逸らすことなど出来ない。それだけで十分だった、観る者にとって。

法の名のもとに遺骸を野に晒す者とそれを心情に従い葬ろうとする者の対比が、変節点で、秩序を守るためと大義を騙る者とその秩序のために自分を失った権力者を嗤う者のそれへと変わる。悲劇が喜劇的終着を垣間見せた瞬間、悲劇が全体を元へ引き戻す。

その時、自分たちの中の矮小さに卑劣さに愚昧さに気付かされて、観客は動揺する。王とはなにか?群衆とはなにか?法と契約とは?

凡庸な舞台装置などいらない。書割は不要だ。ここでは演じる者と光だけがすべてを表す。

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2018/2/2

マンデラルールズ  



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2018/1/27

ほうじん  

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大澤真幸は『<世界史>の哲学 イスラーム篇』の終わりに近いところで、なぜもともと資本主義にとって有利な要素を持つイスラーム世界でなく西欧で資本主義が発達したのか、という自問に、林智信の「イスラームの倫理と反資本主義の精神」を参照しつつ、法において法人という存在の拒絶にあると仮定している。
イスラーム教は前提として神の前にすべての個人が平等であることが、神と個人が1:nの関係であることが、法人を排除していると。

読んでいく中でここ数年多々発生する企業の不祥事について考えざるをえなかった。
私たちが否応なしに組み込まれてるこの資本主義の世界で、司法の場で起こっている企業の事故責任において、責任があると思われる役員の無罪放免が連続していくのは、そこにあるのは法人というシステムに内在する資本主義の非倫理性の証明ではないのか?ということだった。

投資におけるリスク分散として始まった法人というシステムが結果としてなぜ法人の内側にある個々の生きた人間の責任を免罪しその倫理性を蚕食するのか?

会社の謝罪(とは名ばかりの?)会見の際、代表者が「会社を代表して」という前置きをする時、その代表者の意識の中に自分個人でない他者、その会社法人に位置する部分としての人間でない自分が生み出されているのが垣間見える。自分個人としてはなんら犯罪的な行為をなしておらずその偶然属した会社が犯した違法行為の便宜上の表徴である自分ではない肩書所持者である自己の表面的身体が謝罪し低頭しているのだと。
二律した内部矛盾、分離さえしている自分を謝罪のテーブルに置いている。そのアグリーな様態こそ現代の資本主義社会の行き着いた末の、いやそれが前もって予定された最後の審判の結果だと考えられないだろうか。

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