2017/9/19

もくざいきょうしゅつ  

Environmentalists question Tokyo’s Olympic timber sustainability practices

Japan urged to stop using deforestation-linked wood for Kengo Kuma's Olympic stadium

『 TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。
スペシャルウィークの2017年6月17日(土)は「リスナー国民投票 東京オリンピック・パラリンピック、今からでも返上するべき?」というテーマでお送りしました。
 2度目となる「リスナー国民投票」。今回は2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」をめぐり、「今からでも返上すべき」と考えるのか、それとも「このまま開催すべき」と考えるのか、リスナーのみなさんに投票で意思表明していただきました。

 常々「東京オリンピック」には反対を表明しているパーソナリティの番組…とはいえ、最終的に2000票を超える投票が集まる中、実に8割を超えるリスナーが「返上」への支持を表明するという結果となりました。また、年代が高くなるほど「返上」の割合が高まっていくという傾向も見えました。…』(TBSラジオ6月17日)

『2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会が選手村の交流施設「ビレッジプラザ」で使用する屋根や柱などの木材を全国の地方自治体から公募する方針を示したことが、インターネット上で批判されている。「五輪は搾取のための錦の御旗(みはた)ではない」などと無償で提供を受けることが否定的にとらえられたが、組織委は「全国各地の自治体から『無償でも』と申し出があった。双方に利益があるのだが」と思わぬ反応に困惑している。
 ビレッジプラザは各国・地域選手団が共用する選手用の飲食店や銀行などが並ぶ約6000平方メートルのスペースで、約2000立方メートルの木材が必要となる。国際オリンピック委員会(IOC)に提出した立候補ファイルでは「日本の文化を感じてもらうため、プラザの設計は日本の伝統的な建築様式を取り入れ、木材を使用する」とのコンセプトを掲げていた。このため、全国の自治体から提供の申し出があったという。
 そこで組織委は大会後に木材を各地に戻し、学校などで大会の遺産(レガシー)として活用してもらうことにした。組織委によると、カラマツ、スギなど各地の特産木材が集まれば、大会コンセプトの一つである「多様性と調和」を示すことにもなると判断した。
 大会後に会場の資材を再利用する取り組みは過去の五輪・パラリンピックでもあったが、今回のように設計段階で再利用先まで決めるのは史上初。事前に決めることで、各地での再利用がスムーズに運ぶメリットがある。
 組織委は24日の理事会でこの案を了承して、25日に公募要項を発表した。9月中旬に自治体からの応募を受け、10月上旬に決める予定。約45自治体の参加を想定しており、多数の応募があった場合は抽選で決める方針だ。

 …今回は「金属の次は木材供出か」と反発が強い。いずれも盛り上がりを全国に広げることを目的とした事業とはいえ、今後は大会に向けた無償提供は慎重な対応が求められそうだ。 』(毎日新聞7月25日)

『東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会が、選手村の交流施設を作るための木材を、無償で提供する自治体を全国から公募し、大会後は東京オリンピックのレガシー(遺産)として活用してもらう計画を発表した。約2000立方メートルの木材が必要とされる。
 だがインターネット上では批判にさらされている。「五輪は搾取のための錦の御旗ではない」などと無償で提供させることに反発が相次いだのだ。
一方で組織委は「全国各地の自治体から『無償でも』と申し出があったから企画した」と思わぬ反応に困惑しているとか。
 この騒動、改めて要旨に目を通したが、いくつか誤解があるように思う。
 まず無償提供とはいうものの、山主や伐採搬出等を担当する林業家に無償を要求しているのではない。おそらくだが、自治体が木材を買い上げて組織委に提供するのだろう。つまり山主が損をするのではなく、大会に関係ない自治体が大会のために税金を投入するわけだ。もう少し具体的に言えば、組織委もしくは東京都が支払うべき金を各地の自治体につけ回すということだ。
 だから自治体の住民が納得するかどうかが鍵である。もっとも、五輪用だからと山主から安上がりに買い上げることがなければよいが。
 もちろん、無償で木材を受け取る方からすればコスト削減できるからバンザイだろう。
 しかし施工を請け負う工務店などからすると、あんまり歓迎されないに違いない。樹種も産地もバラバラ、しかも各地でプレカットを施された木材で一つの建築物を建てるのは結構苦労すると思えるからだ。同じ樹種でも、産地が違えば強度などがバラつくし、プレカット工場が違うと同じ寸法でも微妙な差が出るものだから。工事現場で泣かされる人が出なければよいが……。
 また木材はタダで手に入る程度の材料、という誤った認識が広がってはたまらない。何十年という歳月と世話をする人々、そして伐採搬出する苦労の末に手に入れられるものであり、それに対価がいらないと思われては禍根を残す。
 もう一つ誤解されそうなのは、これは組織委の「(無償)買い上げ」ではなく「借り上げ」であること。大会終了後に提供自治体に返されるからだ。それを使うことで環境負荷を低減し、持続可能性の実現を目指す大会のレガシーにしてほしい、という。これは、レガシーという呪文によって、後片付け費用を発生させないというマジックである。
実際、要旨には「レガシー」が無駄に連発されている。「大会後に解体された木材を各自治体の公共施設などでレガシーとして活用していただきます」ばかりだ。
 だが、レガシーという言葉を使うなら、もっと根本的なレガシーを破壊していることに気づくべきである。
 それは、オリンピック・パラリンピック施設に使うのは、森林認証を受けた木材に限るとするものだ。北京大会から強まり、ロンドン大会で100%達成し、リオ大会でも受け継いだこのレガシー、東京大会であっさり反故にしてしまった。その点に関しては、私は幾度も記してきた。
今回の「無償提供の木材」も、とくに認証材だけという縛りはないようである。
「森林認証制度(FSC、PEFC、SGEC)を満足する木材である場合には、提供木材を納入する際に、その適合を確認できる文書等を提出するとともに、提供木材にその適合を確認できる表示が付されていること」とあるが、認証を取っていなくても違法でなければないようだ。
 さらには「森林認証を取得予定」で、まだ取得していなくても応募することは可能とある。森林認証を取得しているが「製材工場が認証制度未取得である」場合も、 森林認証制度を有する森林に由来することが確認できれば応募は可能なんだそうである。
認証制度の基本姿勢を無視しているというか、理解していないんじゃないか。
 いっそのこと、木材に「認証材」か「無認証」かを記載して、世界中の選手たちの目にさらし、これでもよいか判断してもらってはどうか。
 ちなみに木材には自治体名を明記できるというが、果たして産地の宣伝効果があるのかどうか、かなり疑問だ。税金投入して無償提供したのに、その木材の産地がとくに評判を上げることもなく、住民間は税金投入の正否でぎくしゃくし、返された木材も使い道が定まらなくてお蔵入りして忘れられてしまう……そんな負のレガシーになりませんように。』(田中淳夫7月27日)

『2016年リオデジャネイロ五輪と20年東京五輪招致の不正疑惑をめぐり、両招致委員会から当時の国際オリンピック委員会(IOC)の関係者に多額の金銭が渡った可能性があると、ブラジル検察が結論付けた。ガーディアン紙が9月13日に報じた。
 ガーディアンは、同紙が入手した書類に、当時の国際オリンピック委員で国際陸連会長だったラミン・ディアク氏を父に持つパパマッサタ・ディアク氏が、五輪の開催地がリオや東京に決まった数日後、フランスの宝石店で多額の支払いをしたなどと記されていたと報じた。
 フランス当局の捜査を元に書類をまとめたブラジル当局は、両招致委員会からディアク氏の息子パパマッサタ氏に金銭が渡り、「票の買収とIOCに影響力を持っていたラミン氏からの支援を得る意図があった」と結論付けたという。
 東京五輪については、コンサルタント契約を結んでいたシンガポールの「ブラック・タイディングズ(BT)」社経由で、約8万5000ユーロ(約1100万円)がパパマッサタ氏側に渡っていたとされる。
 ガーディアンは2016年、ブラック社の口座に東京招致委から多額の送金があったと報じたが、東京側は不正を否定。東京地検が今年2月、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を任意で事情聴取をしている。
リオ五輪の買収疑惑をめぐっては、ブラジル連邦警察の捜査が進んでいる。
 地元警察が9月5日、同国の五輪委員会とヌズマン会長宅を家宅捜索し、ヌズマン氏は命令に応じて出頭した。
 時事ドットコムによると、リオが五輪開催地に決まった2009年のIOC総会の直前に、ブラジルの実業家からフランク・フレデリクス委員(ナミビア)に間接的に約30万ドル(約3300万円)が渡った疑惑が浮上しており、ヌズマン氏には仲介役を担った疑いが持たれている。
 一方IOCは9月8日、リオ五輪招致における買収工作の疑いでフランス当局が捜査していることについて、バッハ会長名で「証拠が明らかになれば、適切な処罰を下す」との声明を発表。「IOCは高潔性を重んじており、今回の件について真剣に受け止め、関心を持っている。1年以上前からフランス検察の調べに応じ、IOCの倫理委員会でも調べている」とつづった。』(HUFFPOST9月15日)

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2017/9/18

ぼうけんする  

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内田樹と姜尚中の本の前半は、この前聴いた内田の講演をなぞるような感じ。というより講演の方が時間軸的には後なので(本の奥付は8月24日、講演は27日だからそれよりはもっとスパンが開くはず)、逆なのだが。後半は内田が講演であまり語っていなかった部分。
第四章の数ページを読めば今なぜ日本がこんな状況に陥ってしまったのか、理解できると思う。理解できない人は、それを認めたくない差別主義者か「金の亡者」であるということだ。
久しぶりに内田の本を読んでみたが首尾一貫した思考の流れというものが最初から続いていることに感心させられる。骨格的な強さ、そのものである。
この本で残念なのはいつ対談したのかという記述がないこと。この内容において、それは大事だと思う。いつ対談したかはなにが起こっていてどうそれを語ったかに繋がる接点なのだから。

伊東豊雄の本は建築絵本である。長々しい建築家の訳のわからない理屈(理論)よりもこの本に描かれている一枚の断面図だけで概略が呑み込めてしまう。ぎふメディアコスモスも、本人の言葉による説明よりもその断面図がなにを建築家が目指していたかを如実に語ってくれる。プレゼンテーションとはこういうものだ、と教えさせられる。
本は、表装はそれほどでないけれど見返しから折り込まれたポスターになっていて。いいティスト。持った時の大きさと重さがちょうど手頃。大人が寝るとき見る絵本である。
中野本町の泥棒動線はあまりに簡略化されすぎて思わず平面を探して照らし合わせてしまった。それはさておき、これを見ていると台湾のオペラハウスはすでに中野の家から続いている思考の中にあったんだと。仙台もスラブを重層させているのがメインではなくて樹木に擬したチューブだとすればその流れの中にある。

理論は写真がひどい。写真をページ一杯の大きさにするかカラーにするか、すればまだどうにかなったように思うが。値段が安いから仕方ないだろうというのは本を作る態度でない。読み手などどうでもいいのか。
それでも対談内容の5/6あるいは5/7には興味深いものがある。残念なことに残りの1/6あるいは2/7は、ひとりの建築(家)を騙る「金の亡者」の虚言。
昔は、理屈っぽい建築(家)がすごいと思っていたが最近は感性だけの建築家(家)の方がすごいということを再認識している。理屈とはつまり建築的才能がないのを隠す手法であって本当にすごいのは理屈じゃなくて手が動くことなのだと、翻って「金の亡者」たちにとって理論とは社会的ポーズでしかないと。そんな理論はいつか化けの皮が剥がれ捨て去られてしまうけど真の感性は残り続ける。それだけのことだ。

建築のグローバリズムとは、時として欲望の皮の別名詞でしかない。

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2017/9/11

ゲンジツトウヒ  

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1980年前後して二人の作家がデビューした。ひとりは群像新人賞、ひとりはすばる文学賞で。群像に載ったデビュー作はある意味衝撃的だった。それまでの私小説主体の日本文学ではなく当時日本人が植えつけられた理想的なアメリカ的な風景が描かれていた、そこはどこでもない場所だった。
ハードボイルドワンダーランドまでは出版されるたびに喜んで読んでいた。もうひとりの作品もリボルバーぐらいまでちゃんと読んでいたように思う。当時は前者が純文学で後者がエンターティメント小説だった(それらの言葉はもう死語に近い)。ワンダーランドの後ノルウェーぐらいまで惰性的に読んでいたように思う。

それからあまり読まなかった時期がある。長いスパンをおいて、佐藤正午のエッセーを、村上春樹もIQ86とかは読んだ。

その二人が今年小説を発表した。村上は慣性的に、佐藤は偶然本棚に残っていた初版を手にすることで読むことにした。
結局、騎士団長は途中で読むのが嫌になり、探偵小説の最後を先に読んでしまうような読み方をした。なにかカバーすらも古臭く魅力がなかった。それにどうせ二年も経てば文庫になってしまう。騎士団長は陰鬱そのものだ。希望の欠片もない。デビュー作の乾いたニヒリズムが老化して、妖怪のおどおどろしさに包まれてしまったかのようだ。それは儚い期待に対する失望でしかないのだが。
月の満ち欠けはどうにか読み終えた。まだ推理小説的な構成が楽しませる。でもこれも陽光を感じるシーンはほとんどない。そこにあるのも同じような暗がりでしかない。

確かにいろいろな表現があると思う。物を書くということは。ただ時々村上が思い出したかのように発する社会的言及は彼の小説には表出しない。そのためか、そうした発言がその場かぎりのように感じてしまう。佐藤の方がまだそうしたズレはない。ある意味、佐藤は私小説を他者の眼で描いている、それは一貫している。対して村上の時々の発言にはポーズを感じてしまう。社会的な視点がもともとない作家が無理に社会的メッセージを発するのは辛い。京都で行われた彼のクローズドの講演がそれを如実に示している。国内では表に出てこない、それなのにイスラエルで卵の話しをしてみてもそれはパフォーマンスでしかない。


どうして日本では漱石以降に漱石のような物書きが現れないんだろう。なんでこうも多くの作家が、もちろんそうでない作家もいるが、格好だけの社会的発言とそれと全く合致しない内向きな小説を書くような者になっていってしまうのか。

そんな愚作、百年したらすべて忘れ去られてしまうだろう。

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2017/9/10

ガンモバーガー  

紫蘇と海苔と鰹節、迷ってお勧めは?に対して今日は海苔が出ているとのことでそれを選択。昨日は紫蘇だったとのこと。気候によって売れ筋が変わるというのは、人間が自然に生かされた存在であるということの表れなのだろう。

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ここでは、ご飯は挟まれる方。ガンモがバン(bun)の役割。

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海苔ソース。

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海苔をトッピング。

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香りがいい。ガンモの食感も。イベント限定とのこと。


ご無沙汰だったクラフトフェアだけど久しぶりに行ってみると、食が楽しい。松本のクラフトフェアに出店されていた大阪のグラノーラ屋さんもあって相変わらず美味だった。

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2017/9/2

イワナミコウザ  

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加藤典洋、内田樹がそれぞれ講演しそれから対談。全体で3時間半という長めな構成。

加藤の講演から始まる。
宮崎駿とか吉本隆明とかのエピソードあるいは引用的な話しから始まったのだが途中でついていけなくて記憶が飛んでいる。話しがとぎれとぎれで、どこへ向かおうとしているのか時々わからない。切れ切れの断片が接続詞を失って繋ぎとめられない状態。睡魔、講演者本人が大学の講義で一番眠たい時間だと。博学ゆえにヴィトゲンシュタインとかトクヴィルとか登場するのだがそれが今日の話しとどう関係するというのか、そこがよく見えない。
江戸末期から明治への移行期に、攘夷という一階の上に尊王が載っていた。その攘夷論者たちが開国派に集団転向することで明治維新が成功した。そして今の憲法9条の問題。今は戦争は嫌だという上に立憲が載っている。このまま行って戦争に巻き込まれないためには幕末期に転換したように立憲という理念を変態するしかないと。

ここまで書き起こしてみて思ったのだが、この比較は整合してないのではないだろうか。幕末は一階の攘夷が開国になったのに、なぜ今回は二階部分の理念が「変態」しなければならないのか?もし幕末期が一階の「転向」で乗り越えたなら現在において「戦争は嫌だ」から転向しなくてはならなくなる。

対して内田の講演は明瞭だ。彼の著作を多く読んできたこともあるかもしれない。わかりやすいことがいいことかは別にして。
まず右肩上がりの歴史的進化論を否定する。そんなのはこの百年のことでしかないと。領域国民国家は解体し「帝国化」していく。アメリカでさえ没落して地域帝国になっていく。「世界は幾つかの地域帝国に分割されて」いくと。
もう一つのテーマ「中世化」について。水野和夫などを引き合いに出しつつ、世界人口の減少局面が訪れ経済成長が望めなくなる。そして定常化した社会が登場する、それが中世化だと。オリンピックやリニア、万博、カジノなどという成功する訳もないそうした馬鹿なことはやめなくてはいけない。
中世化すると「小さな行政単位の中で相互扶助的なネットワークをつくり、人々は生きていく。そこでは相互の信頼関係が重要になります。貨幣を短時間で多く集める能力よりも、人間としての信頼や評価、友情がより価値を持つ」時代になるだろうと。(信濃毎日新聞8月29日より部分的に引用)

その後加藤と内田の対談。新聞にはこの部分は記載されていない。ここがこの日のメインだったと思うのだが。
内田は加藤の一階と二階の不整合、直接的には自衛隊に象徴される、はアメリカの属国としてみれば矛盾がないと始める。その矛盾を奇貨として国家主権を回復することを通じて市民が成熟するではと語り始める。
加藤は明治政府は幕府の不平等条約をどうかしたいというコンセンサスがあった。それなのに1945年以降の日本では主権の回復がなされていない、主権がないことが重い荷物として意識されていない。内田はそれに答えて、それは隠蔽され、可視化されてこなかったからだと。(加藤)韓国の従軍慰安婦も当時の韓国政府が沈黙していた、日本の原爆被爆者も国民がプレッシャーを与えないから。それに比べフィリピンはアメリカの植民地だったのに主権を回復している。(内田)フィリピン・韓国は国民主権。この国は国民が主権者じゃないから政府が謝罪しないととなる。(加藤)日本人の怒り方は怒っているになっていない。1866年と繋がっていない。歴史が分断されている。身体的感覚が欠けているのだ。


なにか必死に愛情を求めて尾を振る犬の姿が思い浮かぶ。

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