おはようございます。
中村久子は明治三十年に、畳職人の長女として誕生しました。
三歳のときに、肉が腐り骨が溶ける、突発性脱疽という難病にかかり、四歳で、両手両足をすべて失ってしまいます。
悲しみと絶望に打ちひしがれる両親。両手両足の痛みに泣き続ける幼い久子。治療でかさむ借金。
偏見と差別から逃れるように、一家は転居をくり返しますが、その過労と心労がたたり、久子が七歳のとき、父親が他界してしまいます。
やがて、生活のために母親は再婚。再婚先での久子は「恥さらし」とののしられ、薄暗い部屋で過ごす日々が続きました。
そんななかで、母親は炊事や洗濯など、身の回りのものは自分でできるよう、久子を厳しくしつけます。裁縫や書道などの手仕事も教えたのです。
久子は、口と短い腕を使い、気の遠くなるほどの時間をかけて裁縫を習得。なんと、着物を縫えるまでに、12年の歳月が過ぎていました。
その間、久子は「なぜこんな体に産んだのか」「なぜ殺してくれなかったのか」と、母を恨み続けるのです。
20歳になったとき、義理の父に半ば追い出されるように、旅芸人の一座に参加。各地の見世物小屋で、「だるま娘」として舞台に立つ日々。
ここでもまた、座員からいじめられ、客からは嘲笑を浴びる、つらい日々が続きました。
さらに、久子を悲しみが襲います。心の支えだった、故郷の母親が亡くなったのです。その後、座員と結婚し、一子をもうけるものの、すぐに先立たれます。そして、再婚した夫にも先立たれてしまうのです。
それでも、二人の子を育てるために、生きなくてはなりません。
久子は、自分が母親になって初めて、母の深い愛に気づいたのです。
両手両足がなくても、生まれてきたこと、今生きてること、すべてに感謝。そんな気持ちに包まれたのです。
「私を救ったのは、ほかでもない、手足のない私の体。逆境こそ、感謝すべき私の師」
という境地に至るのです。
その後、久子の生い立ちが新聞に紹介されると、久子の存在は世界に知られるようになります。
来日したへレンケラー(アメリカの社会福祉事業家。1880〜1968年)も、
「私より不幸な人で、私より偉大な人」
と讃えています。
晩年は、三度目の再婚相手の夫と娘に背負われて、全国で講演活動をしました。
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
「両手両足のない身だからこそ、有難い」
そういって、社会的弱者を励まし続けました。
中村久子さんが、72歳で亡くなられ、20年がたちました。
人の命がないがしろにされている今だからこそ、その生き方を伝えたいものです。
ありがとうございます。