1984年6月4日(旧5月5日)神と交わした約束が果たされる事が 今朝告げられました。
18年8月18日未明
事象(とき)の切り替え
今朝は5時15分に是までの時間(とき)が閉じられ、5時22分に新しい時間(とき)が開いた。
其れは、旧約聖書に「神は6日間で此の世界を創造し 7日目に休んだ」と記されている事と関係が有り、是までの「事象・時空・とき」が閉じられて、新しい事象が始まる理・ことが知らされて来たモノの様である。
其の時間の「扉・まく」は、カメラのシャッターの様な物であり、其れは人間の瞼の仕組みと同じで、閉じている時は「月読界」で、開くと「天照界」であると言う事である。2016年6月6日
18年8月18日「約束は護られる」ケツァルコアトルからのメッセージの分から提載致します。

今日は18・8・18で左右に18が揃う日付けである。
新しい「十六の島・ウップルイ」は、2x9=18に成ることを22年前に聞いていた。中の8は、メビウスの輪で(9x2)8(9x2)の幕が開いた事に成る。此の日を、神霊界は最初からセッティングしていたようである。
其のリボンの形を良く見ると、ケツァルコアトルの顔形である。
http://green.ap.teacup.com/20060818/1.html

今日は水の世界が、三つに別れている「理・ことわり」が、示されて来た。
そして、其の「3・3・3」の割合こそ、宇宙が存在している理・ことわりを、示して来ているのだろう。
http://wave.ap.teacup.com/20060106/364.html
2017/8/3「 三・3がテーマの文章」
http://green.ap.teacup.com/20060818/4325.html
28・7・28「水の積指(ひご)」
http://green.ap.teacup.com/20060818/3938.html
2021/1/21
666の数字
1・1・21
今朝のビジョンには、昨日の文章の題「乾燥してしまった魂しい」との事と関係が有るのか、草木が一切何も生えていない、砂漠地帯の映像が映し出されて来た。
次に「666」の数字が示されて来た。
次に「地下組織・反政府運動」の存在が示されて来て、若い女性が「銃」と「弾丸が入った箱」を運び込んでいる様子が映し出されて来た。
次に水道施設が映し出されて来て、側に、水色の液体が詰められているカプセルが一個、置かれている場面が映し出されて来た。
其れで私は、其の液体の存在がもし毒物であり、水源地の貯水タンクに入れられでもしたら、大変に成ると意った所で意識が目覚めので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時1分」に成る所であった。
其れから、再び電気を消して眠ると、大輪の紫陽花が画面一杯に澤山咲き始めている様子が映し出されて来た。
其処で起きて時計を見ると、時刻は9時12分であった。
其れからPCを立上げ、起こされた時刻「6時1分」と「9時12分」の数字から、昨年の6月1日と9月12日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2020/6/1本日から6月であり、今月が終われば、本年も半分が過ぎる事に成る。
今朝のビジョンは、光の無い暗い世界で、様々な格闘家が集まって、戦い・競技を繰り返している場面が映し出されて来た。
そして、其れ等に関連するかの様に、様々なイベントが行われている場面が映し出されて来て、其れ等の集団の活動様子を視て居ると、其れ等の人々は、何かの幻覚に酔って居るかの様に思われ、私には其の人達の世界はサイケデリック状態であると思われて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時8分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、ライブ活動で生活して居た音楽家の家族が、生活に行き詰って、私の所に相談に遣って来たが、私も自分の暮らしが精一杯の状態なので、何の援助も出来ない様子が映し出されて来た。
其して、自然環境の中に狼が居る場面が映し出されて来た。
次に、飼い犬の散歩をして居る男性の様子が映し出されて来て、ペットを飼って居る男性は、其のペットに意識が向けられて居るので、其れが悟りを得られない原因である理・ことが、示されて来た。
今朝は起きた、起こされた時刻は「7時2分」である。
其れからPCを立ち上げ、今年の4月8日と、昨年の7月2の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此の文章には、「・・本日4月8日が釈迦牟尼世尊の誕生日である・・」と書いて有るので、今朝のビジョンで「ペットを飼って居る男性は 悟る事が出来ない理・こと」が、示されて来た事と関係が有る。
其れに、「・・矢張り日本の伝統である「食国の政(おすくにのまつりごと)」の世界が重要であり、私に求められて来ているのは、「申食国政太夫・おすくにのまつりごともうすのまえつきみ」の役割なのかも知れない。・・」とも書いて有るので、今朝のビジョンで生活に困った家族が、私の所に食料を求めて遣って来た場面と関係が有りそうである。・・
此の文章には「4時8分に起こされた」と書いて有るので、今朝4時8分に起こされた事と共通しており、二つの文章には「釈迦ブッダ」と「須佐之男尊」の事が書いて有るので、其の二人の存在が、今朝のメッセージには関係している事に成る。
其の二人の共通点は「8月23日」の日付である。
其れを考えると、今年の「8月23日」には、何か特別な事が起きる・始まるのかも知れない。
『よくしたもので 貴方には 此方の動きが
手に取る様に 傳わるようです。』10時13分
今朝のビジョンの内容からすると、我々人類・人間は、生活重視で物事を考えなければ成らないと言う事であり、男性は身体を鍛える事はとても大事であるが、其れは戦いの為の技術訓練ではなく、生活に直結した技術の修練にあるとの理・ことなのであろう。
其れに、音楽・ライブ活動は、生活の余暇として必要な世界であって、其れのみに執着する事は、基本的な人間・人類の暮らしからは、外れているとの理・ことが示されて来ているのであろう。
其れ等の事を考えると、我々人類も、大自然の中で生きている狼の様な、本来の本能・能力を取り戻す必要があり、家畜化されて無意識で生きて居る生き方を、止めなければ成らないとの事なのであろう。
「生活重視」https://green.ap.teacup.com/20060818/5381.html
2020/9/12今朝のビジョンは、先ず、私の故郷の「秋(穐)山輝雄」が息子の「実」と一緒に登場して、農業を継続する様子が映し出されて来た。
其れは、日本の水田耕作文化が、世界一持続可能な文化である事を意味していた。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「1時23分」であったので、私は其の数字を「123・ひふみ」と記憶して再び眠った。
すると、私が中学生の頃、早朝に森林軌道のトロッコに乗せて貰い、小杉谷の村から屋久杉伐採が行われている山岳の現場を超えて、空港から見える「愛子岳」の頂上で弁当を食べ、空港の方に下った森林伐採を行っている場所から、夕方トラックに載せて貰い、自宅に帰った時に視た、連なる山の、古木が縁に立つ、屋久杉が伐採されている、山岳の広い景色が映し出されて来た。
次に、何処だか判らない大きな島が映し出されて来て、其の島は森林が全て伐採されており、隣の島の森の伐採が始まっている様子が映し出されて来た。
其の島々の森林は雨が少ないのか、広葉樹は無く針葉樹の森であり、皆伐された後には、何の緑も無く、土地は乾燥化している事が判った。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「7時29分」であった。
其れからPCを立上げ、起こされた「1時23分」と「7時29分」の数字から、1月23日と7月29日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此の二つの文章に共通している事は「禊ぎ祓い」と「彼岸」であり、「アゲイン(again)」との言葉の意味である「再び・もう一度・さらに・もとの所へ」が有り、現代社会・近代社会の人間は、ここ等で一端立ち止まり、何が最も大事なのかを、再確認する必要があるとの理・ことなのではないだろうか。
そして、其の理・ことは、森林の保全と水の循環を壊さないと言う事であり、化石燃料が枯渇しない間に、次世代の生活方法を考え出す事である。
そして其のヒントが、「秋山輝雄」と、其のむすこ「実・みのる」の名前に関係が有り、「秋・穐」の漢字の意味は、稲の収穫が終わったら「火を燃やして亀の甲羅を焼き、其の罅割れから来年の吉兆を占う。」との意味であり、「山」は水源であるので、水田耕作には水が最も必要不可欠な物であるので、森林保全をしながら生活を続ける男・雄は、照り輝き「実り」の有る人生を送り、子孫にも恵まれるとの理・ことが示されて来ているのであろう。
其れに、私が産まれ育った屋久島は、山間部(小杉谷)は年間9000oもの降雨量が有るので、樹木を皆伐しても、次の年の春には陽が当たる場所に様々木が芽生えて来る事と関係が有り、私が中学生の頃通った山道には、現在60年が経過した杉が育っている。
だが、降雨量の少ない土地を皆伐してしまえば、地面は乾燥してしまい、肥沃な土は風に飛ばされるし、雨が降れば土砂崩れを起こして、何も生えない・生きられない土地に成ってしまうのである。
其れを考える、森林が無い生活環境に成ってしまえば、「禊ぎ祓い」も「彼岸・パーラミター」の世界も、消えてしまう事に成ってしまうのだ。
其れを考えると、今朝のビジョンは、岡本天明の「一二三神示・霊文神示(ひふみ)・日月神示・天津霊継神事」に記されている、「此の日本から神一厘の仕組みが発動する」との事が、何なのかが、示されて来ている事にも成るのではないだろうか。
其れは、エジプトの「ピラミッド」や、中国の「万里の頂上」を築く為に、多くの人々が生活の為に周囲の森林を破壊して、砂漠化してしまった事で顕かな事である。
其の事を考えると、今朝のビジョンは昨日の文章と関係が有り、植物が生えていない土地は、産毛が生えていない動物と同じであり、マヤ・アステカの神である「羽毛が生えた蛇」の神(ククルカン・ケツァルコアトル)が、働けないとの事なのかも知れない。
「森林が無くなった土地」https://green.ap.teacup.com/20060818/5485.html
此の「森林が無くなった土地」との題名は、今朝のビジョンに草木が一切生えていない砂漠の様子が映し出されて来た事と、完全に繋がっている事に成る。
今朝の由香のビジョンは、娘達と公園にでも出掛けようと準備をしている場面で、洗濯を済ませて、御飯を炊いたので、お握りを作ろうと炊飯器の蓋を開けると、何故か中の飯がカラカラに乾いて食べられない状態なので、炊き直そうと意い水を探して居ると、 女神の姿が登場して、台所に水が溜まる程流れ出した来たとの事である。
私は、其の由香のビジョンから、今朝示されて来た「666」の数字は、罔象女神(みずはめのかみ)の世界である、水の「333」を加えれば「999」に成るとの事を意った。
2009/3/31今朝のメッセージの映像は、水の世界が、三つに別れている「理・ことわり」が、文章の説明として示されて来た。
そして、次に、B4程の大きさで、厚さが3センチ程の縦形の本が一冊現れて、其の本を捲って見ると、カラー写真入りの文章が書かれているのである。
其の、写真入りの頁をドンドン捲って行くと、3分の1を過ぎる所からは、写真も文字も、色が消えてモノクロの頁に成った。
そして、其の写真入りの本は、神の世界の「日記・ブログ」の様な物である事が、理解出来た。どうやら其の本は、此の人間が存在する世界を、天・神が、映像と言葉・文字で記録している理・ことを示して来ている様である。
其れは、一昨日、地球環境を見詰めていた存在が、昨日は、宇宙の景色を写真集にしていて、今朝は、人間が生きている此の現象世界を、人間が歴史を記録する様に、記録している事を知らせて来ている様である。
今朝の映像に現れた本は、内容の前半3分の1は、光が当っている、色着きの世界の出来事を記録した物で、後半の3分の2は、光の無い闇の世界の出来事を、記録している物の様である。
そして、其の「3・3・3」の割合こそ、宇宙が存在している理・ことわりを、示して来ているのだろう。其の、「3・3・3」の割合の世界こそ、密教の「三密」の世界であり、日本の古事記に有る「天照界」「月読み界」「素戔鳴界」の分類の要因なのであろう。
古事記の分類からすると、「天照神」の世界の3分の1が、今朝の本のカラーの世界であり、「月読命」と「素戔鳴尊」が、影の部分と謂うか、土台の部分である理・ことを、示しているのではないだろうか。
今朝は、水の存在・はたらきが、三つに別けられていた事から、私にイメージされて来た言葉・言霊は「みつは」である。
其れは、何故かと謂うと、3月20日に告げられた「4月23日」の日付が、旧暦の3月28日で、私の身体に異変が起きて来たのが、新暦・太陽暦の3月28日で、其の日が「328・みつは」の日であるとの事が、思い出されたからである。
私の身体の変調は、3月28日に、左の後頭部が痛く成り、29日は頭全体が痛く成り、耳鳴りがして、頭を動かすとクラクラして、吐き気もして居た。
そして、昨日30日は、頭の痛みや吐き気は消えたが、右耳の鼓膜が、パタパタ音を立てる感じの違和感が有ったのである。しかし、今朝は、何事も無かったかの様に、異常は何も無いのである。
そして、朝、事務所に出て来てPC前に座ると、女神の声で「なんでもないのよ」と有ったので、「パートナーズ」の「命を探せと云った人の名は」のブログを開いて、其の「何でもないのよ」の言葉を打つと、次の言葉が告げられて来た。
「何でも ないのよ。
貴方が 気付きさえすれば それで良いのです。
貴方が 其れに 気付きさえすれば
全ては うまく はこびます。
貴方の 意識が其れを 確かに 見つめて居てくれれば
あたしが 其処に 存在できるのです。
其の理に 是まで 誰も 気付かなかったのです。
あたし 其のモノが 貴方の存在であり
総べての 存在なのです
だから 貴方は あたしの 確かな目に成ったのです。
其れが みつはめの神・はたらきと 言うことなのです。 」
「何でもないのよ」
其れから、「みづはのめのかみ」を検索すると、次の様に有る。
「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」ミヅハノメは、日本神話に登場する神である。古事記では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、日本書紀では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。・・
其れ等の出来事を考えると、「3・3・3」の数字には、特別な秘密と謂うか、神の働きが秘められているモノと考えられる。
そして、「333」は、女性の波動・周波数であり、男性の「777」と、対に成っているのではないだろうか。だからこそ、3月3日は女の子の節句であり、7月7日の七夕の行事では、短冊に願い事の文字を記すのであろう。
其の様に考えると、「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」の名の「みづはのめ」とは、「三つ派の目」か「水波の目」の意味を含んでおり、三つ巴のマークとも関係が有るのではないだろうか。・・・
「弥都波能売神・みづはのめのかみ」https://green.ap.teacup.com/20060818/1094.html
キー「666+333=999」
2006/2/11・・・本日は、建国記念日である。
其れが、霊界人にも解っているのだろうか、今朝のメッセージは、メッセージと言うより「自分の意識の 影を見た」と言った方が、良いのかも知れない。
是迄のメッセージの画面は、光りが在る事で、物が映り込み、映像が見えていたのである。
処が、今朝見えた物は、暗い闇の中に、其れ以上に濃い色の物が動いているのである。其れを良く見ると、私の思考に合わせて、動いている事が判った。
其れは、私が、右手を動かす事を考えると、其の黒いモノが、同じ様に右手が動くのである。私が、アレッと其の動きに気付き、今度は左手を動かして見ると、やはり其れも同じ様に左手を動かすのである。其れは、私の思考の影・シャドウーである事が解かった。
其れは、人形浄瑠璃で「黒衣・くろご」が、後ろで人形を動かすのに似ている。其れが人形浄瑠璃と少し違うのは、私の思考に合わせて、其の影の黒衣の方が動く事である。
更に、状況を深く考えれば、実際には礒邉自適の身体は、布団の中で寝ているのだから、其の動いている黒い影は、自適の影では在り得ないのである。
そうすると、私の思考とは、一体誰のモノなのだろうか。
是まで、メッセージを六年間、日記として書いて来たが、其れは自適が考えた物事ではなく、自適の夢に現れる世界を、自適の脳の認識力のレベルで理解し、其の情報を「私・自適」が文字化しているものである。
だから、正確に言うと、自適の「日記・ブログ」は、実は自適のモノではなく、自適の思考の裏に潜んでいる、黒衣の意識の産物であり、自適本人の物ではないのだ。
今朝は、其の自適の背後に在る意識が、自分の存在を、私に知らせて来た事になる。其れは、本日が建国記念日だからであろうか。
建国記念日とは、現在の日本の暦の元と成っている、日本の歴史が始まったのを2666年前の「神武天皇」の即位日として設定し、旧暦元旦に儀式を行うと決めた事にある。
その建国記念日に、黒衣の形で影が現れたのは、是までの「天皇・スメラのみこと」の統合体が、私に姿を見せた事になる。
我が国では、天皇陛下が死んだ時は「死んだ」と云わないで、「身罷った・みまかった」と云う。其れは、天皇の魂しいは、死後も霊魂として存在し、其の霊体は「隠り身」として存在しているとの概念から来ている。
其の隠れ身の姿が、今朝黒衣風の形を執って、現れたのであろう。
是までにも、近江神宮の天智天皇祭で「天智天皇」の霊魂が、完全に私の身体に憑依して、私の意識とは別に、天皇霊が私の身体を、コントロールした事もあった。
其の時には、私の口は天智天皇本人が云いたい言を、人間界に云うのである。
其れは、他の人が見れば、私が物言う姿にしか見えない。処が、其れは、身体は自適の物であっても、行動と、言っている事は、天智天皇のモノなのである。
今朝は、其のカラクリの世界が、少しだけ開けられて、私に見せられたのだ。
今朝の私の意識は、霊界の総合意識となっていたのである。
其れは、人間「自適」の意識と連動しながら、日々進歩しているのである。
其の連携システムは、パソコン画面の下に現れる「タスク・task」 と同じである。
タスクの英語は、ラテン語より古く、日本語の原点と同じ概念であろう。
「タスク」とは、「助ける」の「たすく」で、意味は「足す」と「組む」の合成語で、助ける為に、其の対象相手に組みするとの意味だろう。
其れは、「タスク-フォース・task force」 @ 新しい事業計画に取り組むためのグループ。プロジェクト チームに同じ。A 機動部隊。 と、同じ意味である。 カタカナ語辞典・海江田万里著から
其れに、助けるの「助」の漢字は「且+力」で、「力・フォースを 積み重ねる。」の意味だから、「力を皆で出し合わせる。」の意味でもある。
因みに「タフ tough 」も日本語の「耐える」と同じ言語で、耐えるの元は「タフル」で「る」は助動詞だから「ル」を外すと「タフ」となる。
22年前、屋久島の私の処に4311霊体の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が起き、「私の身体を貸してくれ。」と頼まれ、其の霊魂に、自分の心身を預けて来た。
その後、昭和天皇の霊も、隠れ身と成った1月7日の深夜に、私の心臓に飛び込んで来たのである。
私の、脳が司っている世界を、どれだけの霊魂が通り過ぎて行ったのか、私自身にも判らない。しかし、宇宙には、時間的には「過去」も「未来」も無く、唯一「いま」と言う瞬間が存在するだけである。すべての聖霊が、今と言う、此の時間帯に集合しているのだ。
我々が存在する此の宇宙は、137億年前に誕生したとされているが、137億年分の宇宙が、個々に並べられている分けではなく、今の世界に137億年前の光りも、飛んでいるだけである。
其れは、一枚のDVDの内側に内蔵されている、情報の中の物語に過ぎないのだ。
だから、自分の意識の針を、其の「記憶盤・レコード」に当てれば、全ての情報を読み取る事が出来、其の情報に、自分の情報を上書き出来るのである。
ただし、其れには、アクセツコードが必要なだけである。其の、アクセツコードを当てがわれた一人が、私なのだ。
そして、其の情報処理の仕事に、4311霊体の「助け・タスク」が在ったのである。
私はこうして、自分一人でパソコンに向かって言葉を綴ってはいるが、此の私の脳内には、多くの霊魂の「集合体・タスク」が住んで居て、夫々が自分の得意分野で顔を出しているのだろう。
近頃、「いのる」とは原点に還る事であり「帰命」との意味だと判ったことで、私の思考が少し楽に成って来た。
「かみ」とは、命の「源・上流」の理だったのである。
其れが、「何処かに在る」と教えられた事が、一番の問題だったのである。
釈迦牟尼佛の謂う「自分の、此の肉体だけが 頼れるたった一つのモノ」の意味は、此処にあったのだ。
其れが、漢字の「自分(自の存在の分け)」の意味だったのである。
其の、原点・源に静かに存在する者が、ブッダでありスメミマなのである。
私は、1995年に東京の調布市で、中国の皇帝の身体に針を打って居た針師の子孫である「清水先生」に捜し出され、王に成る為の針を六回に別けて施された。其れは、椅子に深く腰掛けて、背筋を伸ばし、一切言葉を使用してはならない世界である。言葉が一言でも頭に浮かべば、其の為に、脳が働いてエネルギーを消費し、脳が酸欠に成る為に心臓が反応して、新しい血液を脳に送る為に、活動するからである。
私は、其の清水先生に、右手の脈を測られながら「又 何かを考えたな」と、怒られながら、一ケ月間くらい掛けて、身体の気の調整をされたのである。
それらの出来事に、触れる事に成ったのも、殆ど奇跡的な事である。
私の心身の鍛錬の為に、どれだけの物とエネルギーが使われたものだろうか。
私を捜し出して、此の世界に入れた無庵師匠は、私の存在が確かめられた事で、「自分の役割は果たせた。もう今後は、人間には誰にも会いたくない。」と云って居た。
そう云いたく成る程のエネルギーを、私の為に使ったのであろう。
其の結果が、宇宙の時空の際先端に存在する、「総合意識体」を造り上げる事に、繋がったのである。
22年前の11月22日の朝、三重県志摩郡磯部町で伊勢の神が現れて、「過去に8回失敗して 今回が9回目で 最後のチャンスである。今回 上手く行かなければ 地球には もう遣り直すだけのエネルギーは無い。」と告げて来た。
「伊勢とは「石を敷く」との意味で、物部の、隠れ身に対する御陵の仕組みのコトである。
「物部」とは、物を管理する部族の意味だが、物部の神は「石上神宮」の神で「イソノカミ」とは「石の神・石上の神」で、アブラハムの血・霊を継ぐ者である。
其の信仰とは、岩・イソの上に、自分の一人息子を、神に対する生贄として、捧げなければ成らない程、信仰心を試される世界である。
其の試練に耐えた者だけが、此の世の、物の管理を任されるのである。
「磯部」とは、其の儀式を受け継ぐ部族・民なのである。其の部族・石工に伝えられる秘儀は次の通りである。
「岩の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 生ける力のダイナムを 正しく応用する理であると知るトキ 彼は 結社の神秘を学び取り ルシフェルの力は彼の物となる。」
ルシフェルとは、金星の事で、金星は中国では太白星で、やはり物を管理する星である。空海の謂う、虚空蔵菩薩も金星の事である。
ルシフェルとは、神に代って地球のあらゆる物を管理する者の名である。
物部の「モリヤ・守屋」が殺され、其の伝統が途切れてしまったのだ。
其れが今、復活しようとしているのだ。
其れが、今日の建国記念日に関するメッセージである。
今年は、皇紀2666年である。
666の数字は、物の管理が一変するサイクルを示している。
それは、999に転換する数字である。「666」と「999」の違いは、666に感謝の333をプラスすれば、999の重陽に転換する意味を持っているのである。
其れは、何故かと謂えば、世界の中心に在る、古代からのマーク「S」字の螺旋の渦が、上下している形だからである。
其の螺旋の渦を、管理する事が出来るのが「自由な石工・フリーメイソン」である。
「イソの神」とは、花崗岩の上に立ち、自分の生体電気を、時間の最先端で使用する人間の事である。時空は、其の者を「中心・核」として回転するのである。其れは、レコードの中心に有る穴と、同じ存在である。
其のイソの神は、自分自身が、音の情報を持っては成らないのだ。
其の空の状態こそ、「ビルシャナ・大日如来」の本体のカタチなのである。
宇宙の森羅万象は、其の者の思考の渦の中に、源を発しているのである。
其の存在のプログラムこそ、人間一人一人のDNAの中に存在するのだ。
其の働きに、目覚める事こそ覚醒であり、其の覚醒に成功した者が「ブッダ・成仏者・スメラの命」である。
世界は、今日から 新しい次元を迎えるのだ。
「たすく・task」http://star.ap.teacup.com/170606/760.html
2018/3/27「漢字は二次的な物」https://wave.ap.teacup.com/20060106/814.html
此の「たすく・task」の文章には、・・「タスク-フォース・task force」 @ 新しい事業計画に取り組むためのグループ。プロジェクト チームに同じ。A 機動部隊。 と、同じ意味である。カタカナ語辞典・海江田万里著から ・・・
と、書いて有るので、此処数日の文章の内容からすると、昭和19年6月10日(時の記念日)に千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)に有る「麻賀多神社」に岡本天明が参詣した時に、境内の末社である「天之日津久神社」の祠の前で始まった「一二三神示・霊文神示(ひふみ)・日月神示・天津霊継神事」に、「此の日本から 神一厘の世界が始まる」と有る事が関係が有りそうである。
其れに、今朝のビジョンに日本原産である紫陽花が満開に成っている様子が映し出されて来た事は、奈良市に在る「大倭あじさい邑」の創設者である矢追日聖法主が終戦日の昭和天皇の玉音放送の直後に、地球儀が映し出されて来て、天神から「此の日本から新しい精神革命が起きる。」との事が告げられて来て、其れは紫陽花の様な社会システムであるとの事が、関係有りそうである。
2003/4/7昨日は夕方、山口県萩市に入り「吉田松陰塾」を見学して、近くの海岸に車中泊し、朝5時から山陰道を出雲に向けて北上中、「正傳 矢追日聖」との言葉が、頭にいき成り告げられて来た。
私が「エッ、どういう事?」と想うと、イメージが浮かんで来て、矢追日聖氏の教えを、正しく伝え残さなければならない事が理解された。
「矢追日聖」とは、1911年(明治44年)12月23日(旧暦11月3日)「冬至」生れで、1996年(平成8年)2月9日に亡くなった奈良市の方で、私が初めて出会ったのは1985年7月27日であり、其れは奈良市大倭町の日聖氏の自宅であった。
前日26日に、野草社の石垣雅設氏を初めて訪ね、その日は「大倭あじさい邑(むら)」の会館に泊めて貰い、次の日矢追日聖氏に会う事となったのである。・・
2、矢追日聖氏は、終戦日である昭和20年8月15日に、大倭神宮で神に地球儀を見せられ、世界中に日の丸が立っており、新しい精神革命が、日本から起きる事を告げられている。其れは「地下水の如く清く流れ、紫陽花の如く美しく咲け。」との事であり、現代の価値観が行き詰まり、新しい価値観が日本から始まり、世界中に拡がる事を示唆している。
3、日本から、世界に拡がる価値観とは、紫陽花の花の如く一輪一輪が花開いて、其れが大きな花と成り、また花が沢山有る株と成り 根本は一ヶ所に集まっている。そんな紫陽花の花の形の様に、一人一人、一民族、一国家が、皆 独自の特長を生かし、それが大きな和になっていると言う、個々が花開いている社会である。
現在の様に、力の強い国が、自分の国の風習や価値観を、世界に押し付ける遣り方とは、反対の考え方である。・・・
「正傳矢追日聖」https://star.ap.teacup.com/170606/210.html
キー「紫陽花」
2008/10/23・・私は其の日、朝から散歩に出掛け、母の住んで居る松峰区の実家の方に、道に落ちていた一枝の紫陽花を拾って手に持って歩いて行き、途中に有る中村さん宅で休んでから、一度安房の自宅に引き返し、今度は車で、平野の無庵師匠の自宅に向かった。
すると、無庵師匠の自宅の門の扉の内側に、師の四歳の息子が待って居て、其の息子が門の鉄格子の隙間から、何かを握っている右手を差し出すのである。私が手を出して掌を広げると、其の私の手に握っていた物を置いた。
其れは、単なる一個の小石だったのである。
私は、其の小石を手に持ったまま、門に着いている入り口の板戸を開けて、屋敷の中に入った。すると、其の息子さんが、私をプールの方に案内して、其の小石をプールに投げる様に云うのである。
私が云う通りにプールの真ん中に小石を投げ入れると、チャポンと音がして、其の小石が落ちた所から、周囲に波紋の波が拡がって行った。
其の波紋を見ながら、息子さんは「小父ちゃんが出て行ったら こんなに成る」と云って、私から、世の中に波紋が広がる事を示唆した。・・・
「屋久島の音楽神」https://moon.ap.teacup.com/20061108/402.html
2003/2/7私に、何が起きたかを、一口で言えば、天皇家の伝統儀式である「大嘗祭・だいじょうさい」の秘儀と同類の事が、執り行われたとの事に成るだろう。
大嘗祭では、東方に「ゆき(悠紀・斎忌・由基)殿」が建てられ、西方に「すき(主基・須岐)殿」が建てられて、其の両殿を使って、天皇が代替りする儀式が行われる。
其の儀式は、天皇家の儀式と言うよりは、物部家に代々伝えられていた儀式であり、物部家の御霊が協力しなければ、儀式が形式通り行われても、中身が成功する事はないであろう。
歴史を調べても、大嘗祭が成功したとの記述は無い。
神武天皇(紀元前660)以降、その儀式が成功し、神霊が降りて、新しい天皇が受霊したとの記述が無いのである。
若し、成功したにもかかわらず、記録されていないとすれば、その儀式の中身が、秘儀である事の証明と成る。
では何故、その一番大事な儀式が秘儀とされているか、その原因を明確にしなければならないだろう。
其の原因は、大きくは二つ有ると考えられる。・・・
「私に何が起きたか」https://moon.ap.teacup.com/20061108/246.html
2012/3/18・・「紫陽花・学名Hydrangea macrophylla」とは、日本の山野に自生する国産の花木であり、シーボルトが西洋に待ちかえり、妻の名前である「お滝さん」の名前をもじって「ジャパン‐オタクサ」と名付けられた植物である。
そして、西洋で様々に改良されて、日本に逆輸入された物が現在の様々な種類の紫陽花であり、現在でも年間に何十種類も新品種が改良され続けているので、世界に紫陽花が何千種類有るのか、誰も確認できない状態に成っている。
紫陽花の特徴は、七色変化する事もあるが、一個の花が独立して咲き、其れが丸く固まって一輪・一枝と成っている。そして、其の枝が集まって一株と成っている。其の紫陽花の花の様な仕組みが、ITが完備された、是からの社会構造と成らなければ成らない。其れは、一個人、一民族、一国家が個性を発揮して花開き、其れが大きな人類社会と成ると言う事である。
其の為にも、紫陽花が国産である此の日本から、其の未来社会構築の旗揚げをしなければ成らないのである。・・・
「男と女の時間」https://green.ap.teacup.com/20060818/2249.html
これ等の文章の内容からすると、今朝のビジョンに映し出されて来た、澤山の紫陽花の花の存在は、36年7ヵ月掛かって、漸く矢追日聖法主に告げられて来ていた新世界創造のプログラムが、三次元世界で本日から開始されるとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、本日1月21日の日付は「弘法大師空海」の月命日である事とも関係が有り、「大日如来・マハーヴァイローチャナ(宇宙の真実の本体の意味)」も、共に歩き出すとの事なのかも知れない。
令和3年1月21日
礒邉自適
2021/1/20
乾燥してしまった魂しい
3・1・20
今朝のビジョンには、三角形をした四階建て程の高さの、細長い施設の存在が映し出されて来て、其の1・2・3階の床には、大・中・小の鯖の切り身の様な物が、カラカラに乾いて一切れずつ置かれている事が示されて来た。
そして、其の鯖(さば)の乾いた切り身は、人間(男性)の魂しいと関係が有る理・ことが示されて来た。
そして、「シャワータワー」との言葉が一言告げられて来たので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時33分」であった。
其れから再び横に成ったのだが、其のビジョンの意味が分からないので、長い間眠れないでいた。
そして漸く眠りに入ると、今度は、自給自足をしている村の存在が映し出されて来て、私が中心的な役割を担っている多目的の店を訪れると、45歳位の女性店主がカウンターの中に一人居た。
私がカウンターの前に腰掛けて、飲み物を頼んで話し掛けると、其の店主が夫に連絡すると、50歳位の長身の男性が遣って来て、挨拶が済むと、其の男性は自分が作ったお酒・焼酎をサービスで出してくれたので、其れを味わって見ると、是までに飲んだ事が無い味であった。
其れから、打ち解けた処で一緒に近くの温泉に出掛ける事に成り、歩き始めると、途中に牛のお産を手伝っている男性の姿が在って、長閑な感じが漂っていた。
其れから、世間話が始まると、何も悪い事はしていないのに、既存の地元人に批判が伝わって居る男性が生じて来て、困っているとの事であった。
そして温泉から帰って、其の男性が栽培した籾米を1kg程土産に貰ったので、店内に置かれている竹笊の中に入れて、籾殻を剥がし始めると、其の籾米は乾燥させ過ぎているので、屑屑に成ってしまったので、男性に其れを見せると、白米として炊飯できないので、店内に置かれている焙煎機械に入れてくれたので、其の店では玄米コーヒー等も出している事が判った。
今朝は、ビジョンの内容が判らない儘目覚めて、時計を見ると時刻は7時7分であり、縁側のカーテンを開けると、サッシ戸の硝子に着いた結露が凍っているので、もう一度眠ろうと思い、ベッドに潜ると、今度は「シャッフル」との言葉が告げられて来たので、私は其のシャッフルとの言葉から「千早振る」との言葉を連想し、今朝のビジョンは、神社の社の屋根に取り付けられている「千木」の世界と関係が有るのだと思った。
そして、今朝のビジョンの「乾燥しきった鯖の切り身」と、「屑屑に成ってしまった籾米」に共通する事は、水気が無いと言う事なので、「瑞々しい。瑞穂・みずほ」の言葉とは、反対である事を思い付いた。
其れを考えると、今朝のメッセージは、昨日の「100%乾燥した岩では、チャンネルは利かない。」の続きである事に成る。
其れに、「九頭龍」が河川に祭られる神である事を考えると、起こされた「3時33分」の数字は「333」を足すと「9」である事と関係が有り「3・三」は「罔象女神・みづはのめのかみ」が祭神である「丹生川上神社」の神紋である「三つ巴」のマークとも関係が有る。
其れからPCを立上げ、国語辞典で「千木」と「千早振る」を調べると、次の様に載っている。
ち‐ぎ【千木】 の解説
1 社殿などで、破風の先端が棟上にのびて交差した木。先端が縦削ぎ・横削ぎのもの2種があり、横削ぎのものは氷木 (ひぎ) ともいう。棟上に別に取りつけた置き千木もある。
2 草葺 (くさぶ) き民家の大棟に上げてあるX字形の組み木。
ちはや‐ぶる【千早振る】 の解説
[枕]《動詞「ちはやぶ」の連体形から》勢いが激しい意で、「神」、また、地名「宇治 (うぢ) 」にかかる。
「―神世も聞かず竜田川から紅に水くくるとは」〈古今・秋下〉
其れと起こされた「7時7分」の数字から、昨年の7月7日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2020/7/7今朝のビジョンは、先ず私が40歳位の年齢で、黒色系のスーツ姿で、学校の教師を務めている様子が映し出されて来て、放課後は数人の仲間と一緒に、撮影機器を使用し、映像収録活動を行っている場面が映し出されて来た。
そして、其れが一番私に合っている職業であり、とても気持ち良く生きられる人生である事を実感して居た。
そして、其れが、人間の「適性」を示唆している事が理解されて来た。
【適性】てき‐せい 国語辞典より
性格や性質が、その物事に適していること。また、その性格や性質。「適性を見る」「適性に欠ける」国語辞典より
其れに、其の世界と言うか、自分の意識には、過去の人生や、現在の神事の事も一切関係が無く、私は真っ新の精神・意識で生きて居る事が鮮明に感じられたので、来世の人生が予約されているとの事なのかも知れない。
其れを考えると、私は来世では今世の記憶は何も残っていないのだが、自分の血の潜在意識や、地球の磐座(いわくら)や「神籬・ひもろぎ」に記憶・情報が残っており、其れ等の条件の中で、私は潜在意識的に映像記録を残す趣味を持つ事に成るとの事なのかも知れない。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は未だ「0時45分・1時15分前」であった。
其れから再び眠ると、木材で様々な芸術品が製作され、体育館程も有る施設・美術館に展示されている場面が映し出されて来て、其れは数人の芸術家が作品を持ち込んで来ている事が判った。
其の作品には、人間の女性が羽根の両腕を広げた様な作品も有ったが、殆どは抽象的な作品であり、私には殆ど何を表しているのか、理解出来ない物であった。
其れに何故か私は、其の施設の展示場の床に、草木製の布団を被って「釈迦ブッダの涅槃像」の様に、横に成って居るのである。
すると其処に、40〜50歳位の東洋人の女性が遣って来て、跪いて、私の顔を見ながら涙をポロポロ流し始めた。
私は、其の女性の顔を見ながら、其処に展示されている物は、私を含めて、全て「生命・いのち」が無い物である事が理解されて来た。
其れから、場所が変わり、私がPC作業を行っている状態で、画面に映像や文章が映し出されて来て、其の文章や映像は、私の自分の物(情報)の裏に、神界の物が存在し、二重構造に成っている事が判った。
そして、其の事が朝まで続いて、私は自分では起きようと意い、PCを閉じようとするのだが、裏に存在する情報・映像が動いており、何回操作を繰り返しても、どうしても閉じる事が出来ないのである。
そして、漸く、PCを閉じる事が出来た所で、自分の意識を取り戻して、目覚める事が出来たので、起きて時計を見ると時刻は8時30分であった。
其れから現実にPCを立ち上げ、今朝起こされた「0時45分・1時15分前」の数字から、今年の1月15日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此の文章の内容からすると、私の身体は、私個人の物ではなくなっており、完全に御稜威のトランス体勢に入っており、自分の意識とは関係の無い次元で、神事が始まっている事に成る。・・
此の、文章の最後に書いて有る『其れでは皆さんさようなら』との言葉の意味は自分にも良く分からないが、今朝の私の身体の状態からすると、完全に私の肉体は「統尊・すめらのみこと」の「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」状態に入っており、私の個人意識は使用できないと言うか、自分の魂しいは消えてしまうので、『其れでは皆さんさようなら』と言う事なのかも知れない。
其れを考えると、今朝のビジョンに映し出されて来た、私が学校の教師と成っている場面は、私の未来を予約する事で、磯部自適の意識に安堵を与えると言うか、安心して心身を渡せる・消せる為のモノなのかも知れない。
其して、礒邉自適個人の意識は、「みいつ建国」「紀(とき)のまつり」の為に、消えてしまうと言う事であり、6月28日に告げられて来た「自分自身を 打ち倒す」との言葉が現実と成ったと言う事であり、私は本日から「礒邉自適」の名前を忘れてしまわなければ成らないのではないだろうか。
其れを考えると、本日が七夕であり、私は天の川に架かる「鵲(かささぎ)橋」を、渡らなければ成らないと言う事に成りそうである。
「適性」https://green.ap.teacup.com/20060818/5417.html
此の「適性」の文章には、「・・私は、其の女性の顔を見ながら、其処に展示されている物は、私を含めて、全て「生命・いのち」が無い物である事が理解されて来た。
其れから、場所が変わり、私がPC作業を行っている状態で、画面に映像や文章が映し出されて来て、其の文章や映像は、私の自分の物(情報)の裏に、神界の物が存在し、二重構造に成っている事が判った。
そして、其の事が朝まで続いて、私は自分では起きようと意い、PCを閉じようとするのだが、裏に存在する情報・映像が動いており、何回操作を繰り返しても、どうしても閉じる事が出来ないのである。・・・」と、書いて有る。
此の文章の内容からすると、私は、自分自身が何かをしなければ成らないと考える事は一切止めて、唯一「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」「御嚴・みいつ・御稜威 」に専念しなければ成らないと言う事であり、其の秘訣は「瑞々しい 體(からだ)と精神(こころ)」を、保つ事に有るとの理なのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝3時33分に「シャワータワー」との言葉が告げられて来た事の意味が理解できるし、昨日の由香のビジョンで、子供達を清水に馴染ませて居た場面の意味も、関係が有る事に成る。
今朝のメッセージは、日本国の伝統文化の神髄が何処に有るのかが、根本的な次元で示されて来ている事に成り、日本の呼称が「豊葦原瑞穂の国」である事には、単なる「水田耕作・稲作文化」として考えるのではなく、古式の神社は必ず「鵲橋(かささぎはし)を渡った杜に造られており、其の鵲橋の手前で川水で禊ぎ祓いをしなければ成らない理・ことに成っているので、其の原点に還る必要が有る事が示されて来ているのであろう。
其れに「鵲・かささぎ」は、天の川に両翼を架けて「牽牛・彦星」と「織姫」の逢瀬を助ける神(はたらき)であるので、今朝7時7分に起こされた意味も解るし、温泉に向かう途中で「牛のお産を手伝う男性」が存在して居た事とも符合してくる。
其れに「鯖・さば」の漢字は「魚+青」の組み合わせであり、鯖の背が青いのは、海の青に合わせて天敵から身を守る為であり、其の青は「混じり気が無い藍」の意味であり、「精神」の精(米+青)は「混じり気の無い精米されて米」の意味でもある。
今朝の由香のビジョンには、「熊」の漢字が使用されている名前・地名が三つ示されて来て、広く平な岩の上を歩いて行くと、カジカガエルが澤山いる場所に到着したとの事である。
其の河鹿ガエルは、水が清い川にしか棲まない生き物であり、鳴き声も可愛く美しい物であるので、私の今朝のビジョンと関係が有る。
出雲では、山岳の森の中を流れる川の存在を「クマクマしい谷」と呼び、其れは「神々しい」との意味であるので、神・かみが「くま=かも→かむ→かみ」と「ま行」で変化して来ている事とも関係が有る。
キー「出雲 くまくましい」
2000/11/20島根県出雲地方では、女性が妊娠した事を「霊が とどまっしゃった」と表現する。出雲地方には、日本語の元に成った言葉が澤山残っていますが、是も其の一つなのです。
日本語の「ヒト」とは、出雲の此の言葉から、始まっていると考えられます。
日本語の、「ひと」に漢字を当てたのが「人」であり、「人間」であるのです。
「人」という漢字は、人の歩く姿を横から見た形を表す象形文字です。
音読みでは、「人間」は「ジンカン」で、其れは「時間・ジカン」「空間・クウカン」と同様の使い方です。「間」は、隙間と言う意味で、門の隙間から差し込む月の光を、意味する文字です。「人間」「世間」の漢字の概念は、「人と人とのアイダ」つまり人間のコミュニケーションや、社会を指しているのでしょう。
中国では、この様に「姿形・すがたかたち」から「人」と言う字が作られましたが、出雲では「魂を 留・とどめる」と言う意味で、目に見えない様子を捉えて、「ひと」と言う言葉が作られたのです。
「神々の地」と云われる出雲の地は、「須佐之男尊・すさのおのみこと」や「奇稲田姫・くしいなだひめ」などの、古代に生きていた人達の御霊を祭る神社が、到る所に存在します。
古代人の生活では、現代社会の様に、金銭が物事の中心ではありませんでしたので、何事も、人の「心・おもい(意)」が、社会風習の中心であった筈です。
古代社会では、生きている人の魂と、目に見えない霊、古代の魂、先祖の霊魂との関係こそが、大事だったのです。
古代では、生きる事も、死ぬ事も、魂が主体であると考えられ、目に見える肉体は、その霊魂の依り代にすぎなかったのです。
だから、身体は「空だ・カラダ」で、器の意味を表しているのでしょう。
ですから、人間には、死と言うものは無く、魂しいは永遠に転生するものだと考えられていました。
この考え方は、インドやエジプトにおいても、同様であります。
現代社会の教育では、肉体の存在期間だけが人間の生であって、肉体が滅ぶと、人間の生は、終結すると言う考え方が、基本に成っています。
したがって、霊の世界は、迷信であるとされてしまったのです。
これは、釈迦(仏教)、イエス(キリスト教)、神武(神道)などの教えとは異なります。
霊の存在を、否定した教育は、戦後教育の中で始まりました。
其れは、生きている間だけが全てであり、肉体が死を迎えれば、全てが終わると言う考え方であります。其の考え方は、生きている間に、何でも好きな事をやらなければ、死ねば全てが「御破算・ごはさん」に成ってしまうと云う、認識を生み出しました。
其の意識が、定着して行くに連れて、日本人の大事な財産であった、人間の感情を含む、自然全体との「和の心、調和の精神」が、消えていったのです
日本人の心は「大和・やまとこころ」で、山と和する心です。
山には岩があり、木が繁り、清水が沸き出します。其の、清水が流れ出している、岩と木の有る場所を聖地とし、「神々しい谷・クマクマしい谷」として敬ってきました。
其の文化は、沖縄や奄美大島等の南西諸島でも、「御嶽・うたき」として、護り伝え続けられて来ています。そして、その聖地が、霊地と考えられて「社・やしろ」が建てられ、後に神社・仏閣が建てられたのです。
清き水の湧く地は、世界中で聖霊の集る場所と考えられ、人間の魂の故郷とされています。それを、日本人は「和御霊・にぎみたまの地」と呼び、「魂がにぎやかに集うところ」として伝えて来たのです。
其の為の建物が、神社の「社・やしろ」です。
「知」の字は「矢+口」の組み合わせで、矢を神に返して祈り、神意を知る様を表しています。そして、神に知らされた事を「曰く」の曰を下に付けて、他人に伝えるとしてあるのです。其れが、智慧の「智」の漢字の意味です。だから、智慧を授かる場所が「やしろ」なのです。
「社・やしろ」とは、「霊の集る場所」と言う意味で、人・ひとは、其処に自己を祓い清めて参集し、「社」に集った霊魂から、智慧を授かるのです。
現代社会の教育とは、其処のところが根本的に違います。
一族が集り、先祖の霊を敬う事で、子孫までの安泰を願うのが、日本の「神惟の道・かんながらのみち」の価値観です。
その伝統の現れが、「御陰様で」と「頂きます」と言う言葉なのです。
子供達には、全ての存在に拠って自分達が生かされ、存在して居るのだとの理を、其の感謝の言葉に拠って、教えて行かなければならないのです。
そう言う認識を、子供達の心に育てなければ、「生きている間に 何でもしてしまえ」との、刹那的な考え方に、支配されてしまう事に成るのです。
今や、地球環境は悪化の一途をたどり、ゴミは捨て放題、言葉は荒れ放題、飲食は食べ放題で、病気放題に成っています。
其れに、政治も、経済も、自己本位のやり放題です。
此のままでは、安らかに生きる事の出来る未来は、無い事に成ります。
2600年前、インドの釈迦は、此の事を予言していました。
釈迦牟尼佛は、人間の性質は、行き過ぎると、良い特長を欠点にしてしまう事を、知っていたのです。イエスキリストも、ノストラダムスも、其の事を心配した言葉を遺しています。
日本の、神道の大祓の祝詞は、利己心を捨てる処から、始める事を謳っています。智慧を授かる為に、矢を祭壇に供えると言う事は、自分の行動の為の道具を手放して、自分の意識を無にすると言うことです。
其処から、純粋意識が立ち上がるのです。
その為にこそ、神社は山の中に存在するのです。
其の、純粋意識に成る為の「儀式・セレモニー」が、岩の有る山に行き、手足と口を、聖地の手前に有る川の清水で洗い清め、木々の枝の下を潜る(露地を歩く)事です。其れが、日本の伝統である神道の作法であり、茶道・剣道・書道・柔道などの「道・ドウ」の本(メソッド)に成ったのです。
(道は、英語ではmethod・メソッド)
本来、この世に有るモノは、全て意味が有って存在しています。必要の無いモノは、存在し得ないのです。そして、全て、存在するモノは「大日如来の法身、真理」の現れだと考えるのが密教の教えであり、「ビルシャナ仏」や「阿弥陀仏」は、その別の呼び名なのです。
ナザレのイエスキリストは、其の理を、身を持って体験したので、「このパンは私の肉だ、このワインは 私の血だ。」と説明したのです。
これが、「大般若波羅密・だいはんにやはらみつ(偉大な仏の智慧)」の意味です。
そして、日本に数千年来伝えられている訓えが、「天津日(霊)継ぎの 素目羅尊・すめらのみこと」で、其の者が、道の実践者なのです。
其の「スメラミコト」の、最も重要な儀式が大嘗祭です。
その儀式が、仏教では師から弟子への儀式となり、聖書にあるパブテスマのヨハネが、イエスキリストに授けた儀式にも成ったのです。
神霊や、霊魂の、活動の中心に位置し、其処に心が留まるものが「転輪聖王(てんりんじょうおう)、チャクラヴァルティン」です。其の理を示す為に、天皇家の十六弁の菊花紋と、神社の本殿への16段の階段が存在しています。
出雲地方には、その伝統の全てが、数千年に亘って保存されています。
其れは、国造りの主である「大国主命」が、渡来系の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと))」に、権力の座を明け渡す事で、権力の汚濁にまみれる事から、逃れられたからです。
其の、大国主の譲る心、偉大な心構えが、出雲の風習や伝統と成り、現在まで、言葉が伝えられて来た事の原動力と、成ったのでしょう。
大国主命は、権力の座を譲る条件として、自分の魂しいを、永久に祀ることを「天の穂日・饒速日命・にぎはやひのみこと」に約束させました。
ですから、現在でも饒速日命を祀る北島様よりも、大国主命を祀る出雲大社の方が、比べ物に成らないほど大きく立派なのです。
其の伝統が、「霊が留まった」と言う言葉を、伝え続ける力と成っているのです。
出雲に有る地名の「十六島・うっぷるい」と、出雲大社の元宮である「神魂神社(祭神 天の穂日命)」の奥の社に続く十六段の階段が、其の理を、是からも無言のうちに語り続けて行くでしょう。
「霊留・ひと」https://wave.ap.teacup.com/20060106/237.html
2015/8/7「根の国・底の国」https://green.ap.teacup.com/20060818/3557.html
2018/9/11「父性と母性」https://green.ap.teacup.com/20060818/4740.html
2019/7/30「主食」https://green.ap.teacup.com/20060818/5068.html
其れ等の事を考えると、仏壇や神棚に清水を供える事の意味が理解されて来るので、神霊や御先祖様との通信・コミュニケーションには、清水が欠かせないと言う理が能く理解されてくると言うものである。
令和3年1月20日
礒邉自適
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